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第Ⅲ章

相対論でぶっちぎれ

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ラブラドールは山の手にある小高い丘の上に建っていた。この町の最高級のホテル。その最上階のスイート。何で小夜子が、そのホテルを指定したのか。何で、何のために。
既に指定された部屋のドアはヒデキの目の前にあった。
ヒデキは一息、フゥッと息を吐きだしてからノックをしようとした。
その瞬間ドアが開いた。
「お待ちしておりました。」
小夜子だった。
まだあどけなさが残る顔。まっさらの白い浴衣。嘘のように美しい。そしてその美しさは嘘じゃない。
小夜子はくるりと背を向けると、そのまま窓際のテーブルへと歩き、そのまま片方のソファに腰を下ろした。
「お座りください。私もまだ何からお話して良いのか分からないのですけど、でもこうやってお話しする限り、私も心を決めてきました。今からお話しすることは組長の娘としての言葉です。そして私自身の希望でもあります。」
そう言って真っすぐにヒデキを見つめた。
ヒデキは、その言葉を聞き終えると、ゆっくりと部屋を見回しながら窓際へと進んだ。何となく真正面に座ると落ち着けそうもない気がして、ソファのひじ掛けに斜めに腰を下ろして、小夜子を見た。
一体、小夜子が何を話し出すと言うのか。ヒデキは兎に角、ただ事ではない事態に巻き込まれたことだけを感じていた。
小夜子は横にある黒いバッグから鉄の塊を重そうに取り出した。丁寧に机の上に置く。それはスミス&ウェッソン、ガバメントタイプだった。
「貴方はこれである人物を殺しに行きます。そして今夜、あなたは私を抱かなければなりません。」
意を決したように立ち上がると、小夜子は浴衣を脱ぎ捨てた。
透き通るような肌。眩しいくらい白く無垢な裸体がヒデキを圧倒する。
こんな時どうすればいいのかをヒデキは知らなかった。いや、知っている奴などいないに違いない。いたとしたら、ヒデキは即座に尊敬していたはずだ。勿論、ぶちのめした後に。
小夜子はヒデキにオンナの眼差しを投げかけると、背を向けてゆっくりとキングサイズのベッドに入っていった。シーツを胸まで被ると、長い髪を枕にしまって眼を閉じた。
つかの間、ヒデキは裸体がシーツに吸い込まれるのを忌まわしく思った。脳裏に焼き付けるには短すぎる時間だったからだ。
小夜子は呟くように言った。
「一番大切なことを成し遂げる男の人のためには、生娘が必要なんだそうです。それが組の一番大事なことをする時の習わしなんだそうです。
父は言いました。ヒデキさんを男にして来いと。
私も出来るならそうしたいと思いました。世間では廃れた習わしだとも父は言いました。でも私は美しい習わしだと思いました。とても大切なことのように思えました。
そんなことを十七の私に言ってくれる父のことを誇らしく思えました。私はその誇りを背負ってここにいます。どうか分かってください。」
小夜子はそこまで言うと、ヒデキをまっすぐに見つめた。
ヒデキはゆっくりとその視線を外すと、スーツの内ポケットから、吸いさしのモンテクリストを取り出した。
ヤクザがヤクザだった頃の習わし。それを受け継ごうとする古風な十七の娘。この娘もまた、ものすごい拘りをもっている。何がこの娘をそこまでさせるのか。
火を点ける。
小夜子が視線を逸らしたのがわかる。父親の葉巻。子供にはなかなか馴染めない匂いだ。
ヒデキは立ち上がり、机の上のスミス&ウェッソンを取り上げた。重さを確かめ、ベルトに押し込む。そしてベッドの端に腰かけながら、振り返って小夜子を見つめた。
「嫌いなんですね、これが。」
咥えていたモンテクリストを口から外した。
「えぇ、匂いが強すぎて。父が吸っていても、何でこんなもの大人は吸うのかなって、いつも思っていたの。」
「それはね。小夜子さん。」
ヒデキは、暫し間を置いた。
小夜子の眼に好奇が浮かぶ。
ヒデキはおもむろに火を消して、小夜子にモンテクリストをよく見せた。
「食べると美味しいからなんですよ。」
もう然とモンテクリストを食べ始めた。美味いか、不味いか、そんなことはどうでもよかった。バリバリとモンテクリストを口に押し込んだ。理由は自分でも分からなかった。
小夜子の顔を見た。
「えぐげぇ、ま、まず、、、」
あまりの不味さに思わず吐き出すヒデキ。
その途端、小夜子がクスっと笑った。十七の笑顔。卑怯なまでに完璧に可愛い笑顔。
半分だけ勃起していた自分を隠すように、ヒデキも笑った。
モンテクリストを口に突っ込んだ理由が、それで分かった。十七の娘と、二十五の男。普通なら他愛のないセックスだろう。しかし、今のヒデキにはそうする訳には行かなかった。
筋を通す。拘りを拘りつくす。そのためには状況を把握しなければならない。
「抱くも抱かないも、男の下半身なんて思想がないんでね。そんなこと何時だってできますよ。殺る前だろうが、殺った後だろうが。」
ヒデキはモンテクリストでぐちゃぐちゃな口周りを拭きながら言った。
「でも、一つだけ俺は知っておかなければなりません。貴方を抱く上でもね。」
小夜子が真顔に戻った。ヒデキは言った。
「俺は死ぬんですか?」
小夜子は一瞬ためらったかのように見えたが、すぐに必死に首を振った。その目は哀願のようにも見え、決意のようにも見えた。
「なら安心だ。今でなくても何時でも抱けますね。」
そう言うヒデキの眼差しから、小夜子は逃げようとはしなかった。
ヒデキはそれを確かめると、言葉を続けた。
「教えてください。何でこうなっちまったのかを。」
小夜子はゆっくり頷くと、頭を整理するように話し始めた。

ヒデキは困惑していた。
「なんで俺になっちまったのかな。」
フゥっとため息をつくと、ヒデキはチョークを取り上げた。丹念にキューに塗りつける。
何故ヒデキになったのか。それはやはり感想文だった。感想文の一等賞、それは噂通り小夜子だったのだ。
しかし、噂は微妙に違っていた。いや、噂自体が美味過ぎたといえるだろう。長女と次女の政略結婚、それに伴う関一家との抗争。そのための表向きの窓口。それは筋書き通りだと小夜子は言った。
顔に似合わない台詞。冷徹な現実。
ヒデキは落ち着いてサーブをした。逆回転を付けた押し気味の球。ヒデキの四つ玉も上達していた。四つ玉は努力した分だけ報われる。手玉は手前の赤玉に当たって、長クッション、短クッション、と緩やかに軌跡を描きながら、向こうの白玉にかすかに触れた。
「ヒトーツ。」
四つ玉は当たると数える。数えられれば突き続けることができる。ヒデキは小夜子の言葉を思い出していた。
「このまま組を続けていくことは出来なくなったらしいの。この街も昔とはずいぶん変わってしまったわ。十七の私でもはっきりとわかるぐらい。
そしてついに大きな利権が動く道路建設の話が持ち上がった。その利権を何処が取るかで全てが変わってしまうのですって。私には分からないけど、うちも関も、鳴滝も渡辺も、そのために決着を付けなくてはいけなくなった。」
それほど大きくない地方都市の道路建設。その道一本で、古い街が廃れ、新しい街が栄える。否応なしに、新しい時代がやってくる。誰が次に栄えるのか。誰しも廃れる側にだけは回りたくはない。
ヒデキは落ち着いて二打目を構えた。二打目からは長クッション沿いに寄せていく。それが定石だ。闘いの定石。
小夜子の言葉が、再びヒデキの耳に入ってきた。
「でも、その決着の付け方をどうするのかが問題になったの。いくら政略結婚とはいえ、利権が絡んでいる以上、鳴滝も渡辺もいざとなればどうなるかは分からない。それよりも何よりも、この小さな街で暴力団同士が派手にやりあうようになったら、その利権の話も消えてしまうかもしれないんですって。」
その通りだ、とヒデキも思った。派手にやりあうようなことになったら、それこそ自分の手で自分の首を締めあげるようなものだ。しかし、決着はつけねばならない。だとしたら定石は一つしかない。
一発の銃声、それだけでケリをつける。
九つまでヒデキは数えていた。これからが勝負だ。後には引けない勝負。ヒデキは大きくストロークを引くと、キューを思い切り突き出した。目まぐるしく球が動く。
「結局、誰かがやらなきゃいけないってことだろ。」
頭では分かっていても、身体が着いていかないこと。今回だけは強がりでは通用しない。
四つ玉は大きく散らばって、力なく止まった。やはり身体が着いていかない。まるでヒデキが小夜子を抱けなかったように。
ヒデキは小夜子を抱かなかった。いや、抱けなかった。それはヒデキも分かっていた。ビビったのか、とヒデキは考えた。確かに怖い。そんな大仕事がこなせるものなのか。
しかし、ヒデキは即座にそんな思いを否定した。いずれにせよ、大勝負は賭けなければならない。ヤクザじゃなくとも、賭けに出なければならない時はある。たまたまヤクザだったからこそ、切った張ったになったまでのことだ。その上生きて帰れれば、小夜子が待っている。こんなチャンスは二度と来ない。十分なハイリターンのための、十分なハイリスク。
ヒデキはブリッジを固めると、ゆっくりと素振りをした。何かもう一つ納得できさえすれば、後は何も必要はない。もう一つ狂わせてくれるものがあればいい。そんな気がする。それには何があればいいのか?
物音に振り返ると、女が入ってきた。四つ玉しかないビリヤード場に一人で来る女。驚くほどではないにしろ、よく見る光景というものでもないだろう。女はさほどためらう様子もなく、ヒデキからやや離れた台に向かった。ここらでは見かけない顔だと思ったが、一人で来るぐらいだ、ビリヤードには自信があるのだろう。ただ、自信があるのはビリヤードだけではないようだった。
その女は、一言でいうなら、マドンナとジャネットとブリトニーを三で割った女、いや、マライヤも足して四で割ってもいい。つまり、一言では足りない女だった。
趣味というのは厄介だ。シャーロット・ランプリングの眼は窪み過ぎてはいないか。池上季実子の眼は離れすぎていないか。ジャネット・ジャクソンの尻はデカすぎはしないか。非常に深遠な美の実存。
その女もヒデキにとっての実存を余すことなく持っていた。個性的などという陳腐な形容詞では通用しない女の美の実存。
「ヤリタイ。」
と、ヒデキは思った。思うと勃起する。健康な証拠だ。
と、その瞬間、ヒデキの身体に例の迷いが到来した。
「小夜子。」
ふざけるな。と、ヒデキは思った。ヒデキにとっては、遠い組長の娘。一度だけ言葉を交わしただけの十七の小娘。ご褒美か何か知らないが、そんなものを信じるほどバカじゃない。
女はジャケットを脱ぐと、頭を軽く振って髪をまとめた。ブラウスの胸元は、飽くまで上品に膨らみを誇張している。キューを取り、チョークを塗る。キューの先から微かに零れ落ちるチョークの滓が、何故かスローモーションのようにはっきりと眼に見える。キューを水平に構え、ブリッジを定め、ゆっくりとキューを引く。台に直交する腰のラインが浮き上がり、タイトなスカートにスリットが擦り上がる。そこから見えるストッキングのラインにも狂いはない。
あの夜の小夜子も、こんな腰のラインをしていたのだろうか?
やがて女は、何も言わずキューを突き出した。それもゆっくりと。
「コツン。」
『ウグ。』
ヒデキの声にならない声が、キューと玉のぶつかる音に交差した。まるで股間を突き抜かれたかのように、ヒデキの股間も内股にすぼむ。
女は気が付かない。
ヒデキは分かっていた。
『今は勃起すべき時ではない。』
そうだ、勃起する前に行くべき場所があるのだ。
ヒデキはやや腰を引き身体を前倒しながら、何事もなかったかのようにゆっくりと店を出た。ただ、女の玉を突く音が、耳にこびりついて離れなかった。

気が付くと、そこはハンタロウのマンションだった。何故ここに来たのか、分からないままにヒデキはインタフォンを鳴らした。
太い声が返ってくる。
「ヒデキか?」
ハンタロウはまるで待っていたかのような口調だった。
「はい。」
「入れよ。」
本ばかりが乱雑に散らかる広い居間に、ハンタロウは着流しで座った。外ではダブル、内では着流し。本と着流しは妙に似合うヴィジュアルだ。ただし、モンテクリストは見当たらなかった。
「座れよ、ヒデキ。」
「失礼します。」
「いつ来るかと思って待っていたよ。」
ハンタロウは読みかけの本をしまいながら話し出した。
「嵌められたかと思ったか。」
「はい。正直言って上手く嵌められたと思っています。それも悪い嵌められ方じゃない。」
ハンタロウは笑いながらヒデキに向き直った。
「お前ならわかると思っていたよ。確かに上手く嵌めた。若い連中はその気になっている。つまらない義務感などいらない。デジタルな分析とアナログな勢い。そのための政略結婚とバカげたセレモニー。
俺のやり方だよ。」
ヒデキは分かっていた。やはり思い描いていた通りだった。しかし、何かが違う。そうした理屈だけでは割り切れない何かが動き始めている。それは何なのか?そうまでさせるものとは一体何なのか?だからこうしてハンタロウに会いに来たのだ。
「そんな俺でも分からないことは起こる。突然変異って奴さ。こいつはなかなか曲者でね。相対性理論には出てこないんだよ。
飲むか、ヒデキ。」

ハンタロウに促されるがまま、ヒデキは隣のキッチンにワインを取りに行った。
「ヒデキ君、久しぶり。」
「お久しぶりっす。」
そこには、春江がスリップ一枚の格好でマスクメロンを切っていた。
「ワイン飲むんでしょ。」
「はい。」
「なら、生ハムメロンよね。」
春江は、一口大にカットしたメロンに、器用に薄手のハムを巻きつけていた。
その姿も仕草も、ヤクザの情婦というのが如何にも似合っていた。家では下着でも、外で見る時はいつも和服だ。気風(きっぷ)が良い、そんな形容詞が古臭く聞こえない。
春江は手際よく、生ハムとスティックサラダをお盆にのせ、リビングに向かう。すれ違いざま、軽く挨拶しようとするヒデキ。眼が合うと春江がヒデキの股間を握った。
「元気そうね。良かったわ。」
ウィンクすると、春江はキッチンを後にした。
この女には敵わない。
首を振りながら右手で金玉の位置を直し、ヒデキは探していたワインとグラスを手に取った。

ハンタロウがヒデキの分もグラスに注いでくれた。
シャトー・ラフィット・ロートシルト。バカ高い赤のワイン。ロートシルトとは、英語のロスチャイルドだと、教えてくれたのもハンタロウだった。ロスチャイルド家の小高い丘のブドウ園。
ハンタロウは、生ハムメロンを口に頬張ると話し出した。
「ヒデキ、最初は俺が殺るつもりだった。それが仕上げだと思っていた。それさえ済めば、後は勢いだ。俺がやるべきことは、殺る以上にその勢いを作り出すことだと思っていた。」
ハンタロウがラフィットを呷った。美味そうだった。確かにラフィットは美味い。そしてハンタロウのやり方も上手い。
促されるまま、ヒデキもグラスに口を付けた。そして、
「最初は?」
ヒデキは問いかけた。
「あぁ、最初はだ。それならすべて計算通りのはずだった。ところが意外なところで計算が狂った。いや、計算しきれなった。」
ハンタロウは再びラフィットをもう一口呷って呟いた。
「小夜子だよ。」
小夜子、意外な名詞。そして予想通りの名詞。
「あの娘が言ったんだよ、お前に殺って欲しいってな。結ばれる男を信じたい、そのためにはなくてはならない儀式なんだそうだ。」
なくてはならない儀式。そこまで確信させる何か。
「もし、お前が死んだら、私も死ぬって言ってたよ。何がそこまでさせるのか、俺にはわからねぇよ。分かるような気もするが、今の俺には分かっても仕方のないことさ。」
わからない、とヒデキも思った。しかし、それ以上に分からないのは、それに従おうとする自分が分からないのだ。あの娘の何がそうさせるのか?あの娘はヒデキにとって一体何なのか?
ハンタロウがいきなりヒデキに向き直った。
「兎にも角にもだ、ヒデキ、お前にこんなヤバい橋を渡らせることになったのも、全て俺のせいだ。俺はお前に何と言って良いかわからねぇ。」
ハンタロウが手をついて頭を下げる。
「何を言っているんですか、オジキ。俺はあんたを信じています。だから何も言うことはない。今もそう思っています。だから殺って来ます。オジキは組にとっては大切な人なんだ。だから俺がやる。それは分かってます。」
ヒデキは力強く言い返した。ただ、言葉が自然に続いてしまう。
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ビビっていると思われるかもしれませんが、もう一つ納得出来ない気がするんですよ。狂っちまってもいいって思えるためには。
何でこんな訳の分からねぇ気分になっちまうんでしょうかね。」
ヒデキもラフィットを口に運んだ。美味い。その美味いと思う想いと同じように、素直になってしまいたいのだ。素直に狂ってしまいたいのだ。
「バカ野郎、泣かせるようなことを言うんじゃねぇよ。俺はよぉ、今、相対性理論にでもなっちまったような気分だよ。」
ハンタロウが涙を拭った。その瞬間、何かが弾けた。ピントが合った。
相対性理論、アインシュタイン。納得するための最後のミッシングピース。狂ってしまうための最後の呪文。アインシュタイン、そして相対性理論。
「ヒデキ、済まねぇ。俺は心を鬼にして相対性理論になるしかねぇんだ。だからお前はよぉ、光になってくれ。頼む、ヒデキ。この通りだ。」
ハンタロウは土下座で頭を床に擦り付けた。
「何を言っているんですか、オジキ。いきなりそんなこと言われたって、俺は何が何やら。」
と言いながら、何故かヒデキは納得できる気がした。
ハンタロウはおもむろに携帯用天体望遠鏡を二つ持ってきた。いつでもどこでも天体観測が出来る優れモノだ。
「何で二つ?」
そんな質問に答えることなく、ハンタロウは一つをヒデキに手渡してきた。
「オイ、ヒデキ、あの空を見てみろ。」
ヒデキは望遠鏡をかざすと、夜空を覗いた。そこには夏の夜空にひときわ輝くベガの姿が見えた。
「ヒデキ、あの一番輝いている星がベガだ。いいか、ヒデキ、あのベガは二十五光年離れている。二十五年だぞ。丁度お前が生まれた年だ。つまり、俺とお前が今見ているあの星は、お前が丁度生まれた時の姿って訳だ。」
ヒデキと同じ年の光。
「おっと、二十五年前だなんて軽く聞き流しちゃぁいけねぇよ。二十五年といやぁ、世紀で言えば四半世紀よ。時代の区切りよ。」
時代の区切り、ヒデキは自分もそれなりの年齢なのだと、改めて思った。
「つまり、俺とお前が今見ているあの星の光はよ、お前が生まれてこの方、二十五年てぇもの休みもせずに俺らの眼ぇめがけて突っ走って来てくれたんだ。ありがてぇことじゃねぇか。」
ヒデキは訳の分からないままベガを見つめていた。しかし、何かある、この光には何かある。
「いいか、ヒデキ。あの光を考えてみろ。この四半世紀てぇもの、何も食わず何も飲まず、誰と喋ることもなく、暗黒の真空空間をたった一人でやってきた。
お前がおぎゃぁって生まれた時からだぜ。つまり、お前の全部を見ながら、こいつは走り続けてきたって訳さ。」
ハンタロウは、遠い夜空に向かって叫び始めた。
「何でだよ。何でお前はこんな俺たちのためにそこまでしてくれるんだよ。お前を見ていると俺まで切なくなっちまうじゃねぇかよ。」
ヒデキは感じた。ハンタロウが泣いている。あの光のために泣いている。あの光の孤独に泣いている。ハンタロウの言葉は続いた。
「悲しい時もあったろうよ。辛い時もあったろうよ。でもな、ヒデキ。あの光りぁーなー、お前が生まれてこの方、それこそ真っ直ぐにお前の眼ぇ向かって突っ走って来てくれたんだぞ。これほど尽くしてくれる奴ぁいるか、ヒデキ。そんな奴は今までいたかヒデキ。」
知らず知らずのうちに涙がでていた。見上げるベガの光が哀愁を帯びている。今のヒデキには確かにそれが見える。
「何でかわかるか、ヒデキ。あいつがたった一人で突っ走ってきた理由がよ。」
ヒデキは望遠鏡を握ったまま叫んでいた。
「何故だ。何のためにたった一人でお前はやってきたんだ。一体何のために。一体誰がお前にそんなむごい仕打ちを与えたんだ。むご過ぎる、むご過ぎるじゃねぇかよ。」
ハンタロウが、涙をこらえ、嗚咽をかみしめるようにして声を絞り出した。。
「相対性理論だよ。」
ヒデキは叫んだ。
「そーたいせーりろーん!。」
ヒデキは立ち上がると、あらん限りの声を振り絞った。
「出てこい。手前には何の権利があってこんなむごいことを、あんな可愛い光にやらせやがったんだ。出て来い、この野郎。」
そこらじゅうに向かって望遠鏡を振り回した。そして叫んだ。叫んで叫んで、叫びまくった。
「ヌガ、フグ、ガワッ。」
一体どこに居やがるんだ。そんなむごいことをやらせる奴が。そいつは気狂いだ。ヤクザなんか眼じゃないくらい、冷酷で非情な気狂いだ。
「怒りたいだけ怒れ、ヒデキ。それでもあの光は毎秒三十万キロメートルの速さで突っ走るぞ。突っ走って、突っ走って、突っ走りまくるぞ。」
「ウォー‐‐‐、ヒ・カ・リーーーー。」
ヒデキはもう耐えられなくなって、望遠鏡を股間に押し付けた。出来れば己の陰茎の硬さで、その望遠鏡をへし折ってみたかった。己の睾丸の重さで圧し潰してみたかった。
ハンタロウが慰めるように言葉を続けた。
「俺も何度も思ったよ、あいつもちったぁ休ませてやってもいいんじゃねぇかって。
でも許してくれないんだよ、相対性理論がよ。いつだって、どこだって、毎秒三十万キロメートルで突っ走れって、相対性理論が言うんだよ。
それが相対性理論なんだよ。それが光なんだよ。」
ヒデキはその時分かった。相対性理論なのだ。小夜子がヒデキの相対性理論なのだ。その理論通りに、一直線に突き進むのだ。
ハンタロウはいきなり、股間に押し付けているヒデキの望遠鏡を、再び天空のベガに向けさせた。
「見ろ、ヒデキ。お前は見届けなきゃならねぇんだ。幾多の歳月を乗り越えてお前の眼に入った、あの可愛い光の行く末を。
今のお前に、それが見えるか。」
ヒデキは必死になって望遠鏡に映る天空を見据えた。そこに映えるベガと満天の星。
しかし、目を凝らすともう一つ何かが見えてくるように思える気がする。たった今、ヒデキの眼から反射した光が、再び何処へともなく再び毎秒三十万キロメートルで突っ走っていく姿が。今のヒデキには確かに見える。
「あの光はなぁ、またどこかの有機体知性生物の眼に入るのかもしれない。いや、無機質な四次元ミンコフスキー時空をただただ突き進んでいくだけかもしれない。いや、どこかのブラックホールに吸い込まれて消えちまうかもしれねぇ。いや、吸い込まれそうで吸い込まれず、永遠にその周囲を回り続ける、ホーキングの言う、見えるブラックホールになるのかもしれない。でも奴はな、そんな自分に納得するしかねぇんだよ。」
ヒデキは手に取るように、あの光のやるせなさがわかった。毎秒三十万キロメートルが教えてくれたのだ。相対性理論なのだ。それが奴を永遠に突っ走り続けさせるのだ。
狂わされるままに、永遠の旅を続ける光。ヒデキは初めてそこに存在する狂気を理解した。理屈では割り切れないほどの理屈がそこにはあるのだ。光は狂気を自覚している。そしてその狂気の先にあるはずの、甘美なロマンも知り尽くしているのだ。
ヒデキは立ち上がると、勃起した陰茎で光の方角を指した。
『俺はあの光なのだ。小夜子、待っていろよ。俺はお前の相対性理論の中で、見事に突っ走ってやる。毎秒三十万キロメートルでぶっちぎってやる。上手く反射して戻ってこれるのかどうか、楽しみに待っていろよ。
俺はその時、光のスピードでお前の子宮を貫いてやる。』
ついにヒデキの中の狂気が、物凄い勢いで加速を始めたのだった。
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