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第5話「邪神」
しおりを挟む――― 20●●年 03月23日 ――時――分 ―――
「しまった、詩ちゃん!」
「え?」
正明の声に振り返った詩は、眼前に迫る脅威に思考が止まる。
血だまりのような赤い眼の全身に黒い靄を纏う狼が、矢のような凄まじい速度と山なりの軌道で飛んできたからだ。
人間の血肉で汚した鋭利な歯を備えたアギトが、喉元を食い千切ろうとしていた。
正明は追い付けず、硬直した詩は指先すらも動かせない。
特別な訓練も、運動も得意としていない一般人の少女には、どうすればいいのかもわからなかった。
身体は何もできない。
その代わりに、死を意識した一瞬に脳裏に浮かんだのは頼れる家族の顔だった。
(助けて、カノン!)
心の中で願ったその時、胸元から発せられた強烈な閃光に思わず目を瞑る。
大事に身に着けていた懐中時計の裏側、刻まれた幾何学模様の溝が光を放っていた。
次の瞬間、地震と勘違いする強い衝撃と硬い何かを砕く音に学校全体が揺れた。
「ウタ、怪我はない?」
しばらくしても訪れない痛みと聞き慣れた声に目を開ければ、彼女の背中があった。
「カノン、なの?」
「そうだよ、私以外の誰に見える?」
呆けているとカノンに優しく抱きしめられ、目の当たりにした恐怖と救われた安心感に涙が零れた。
「もう大丈夫だよ、安心して、ウタは私が護るから」
「うん、うん!」
髪の毛を撫でられる心地の良さはまだ児童保護施設に居た頃、病気がちで寝込んでいた時に、子守唄を歌いながら寝かしつけてくれたあの頃と変わらない温もりだった。
すすり泣く詩が落ち着くまで、カノンは撫でるのを止めなかった。
「え?」
しかし、冷静になった時に視界の隅に映り込んでしまった信じられない光景に呼吸を忘れてしまう。
カノンの足元。
彼女が踏みつけているコンクリートの床にはぽっかりと砕かれた穴が開いており、穴に首から先を埋めるように、頭部を失った肢体を不気味に痙攣させる黒い狼の死骸が転がっていた。
頭部は、無残にも原形を失うほど潰れていると考えられた。
「なに、これ? もしかしてカノンがやった、の・・・・・・?」
あまりにも常識との乖離が酷い現実に、頭の中が真っ白になりながら、恐る恐るカノンの顔を見上げる。
カノンが現れるまで、こんな穴はなかった。
黒い狼がこんな無残な死に方をしている理由が、他に思い当たらなかった。
この状況を作ったのがカノンなのではないか、という疑心が詩に芽生えていた。
でも、カノンなら、大好きなお姉ちゃんならそれを否定してくれるはず。
そんな微かな可能性を望んだ行動だったが、あまりの裏切りが詩の喉を引き攣らせた。
「なんなの、その目」
「あーあ、またこの目を見ちゃったの? 駄目だよウタ、定着する前にこの眼を見ちゃうと折角弄った記憶が元に戻っちゃうんだから・・・・・・」
「ひっ!」
詩と見つめ合う、これまで見たこともない不敵な笑みを浮かべるカノンの瞳には、くっきりと鏡写しになった時計盤が映り込んでいた。
まるで同じ顔をした別人を相手しているような、違和感と錯覚が生理的な嫌悪感を誘った。
瞳の時計盤の秒針が、凄まじい速度で逆回転を始める。
「これは全部悪い夢なんだよウタ、だから忘れよう? 怖かったでしょ? そんな記憶を持ったまま生きていくのは嫌でしょ? だからそんな現実は私がいくらでも塗り替えてあげるからね?」
更には幻覚か、銀色の体毛に覆われた獣らしき耳と尻尾が、背中には翼幕も肉のないやせ細った骨だけで形成される歪んだ翼がカノンに生えて見えた。
(違う、違う違う! この人は私の知ってるカノンじゃない!?)
物心がついた頃から一緒だった、あの優しくて頼れるカノンとは似て非なる存在だと直感が告げていた。
「いや、離してっ! 助けてせんぱ、んん!?」
背筋に走った悪寒に正明に助けを求めようとしたが、口を手で塞がれてしまう。
そして、カノンの瞳に映る時計盤が詩の瞳にも投影された時には、骨の翼により詩は包まれ、意識は漆黒に塗りつぶされ、遠のいていく。
「そんなに怖がらないで。ウタは何も知らなくていい、理不尽で酷い過去は思い出さなくていい。それがウタためだってあの時に私はそう決めたんだ。何を失っても貴方の平和を乱す奴は、私が全部消し去るんだって」
囁きかけるカノンは、微かな悲しみと覚悟の感情を声に滲ませていた。
その言葉を最後に、詩の記憶は途切れ、別の過去の映像に上書きされる。
短い気絶から覚醒した詩は、命の危機に駆けつけたカノンが助けてくれたという、都合の良い記憶のみが残された状態にされてしまう事になる。
● ● ●
「所奈美さん、君は一体・・・・・・」
正明は、かろうじてその言葉を捻りだした。
畏怖と惑い、それに対する警戒心。
いくつもの感情に押し寄せられ、理性のバランスを崩された間抜けな顔をしている正明を振り返ったカノンが声も出さず嘲笑っていた、ように見えた。
半眼で睨んでくる彼女の瞳には、時計盤らしき物が映り込んでいた。
(見間違いじゃない! なんだあの眼は、それに今の一瞬で何が起きたんだ!?)
目の前で連続して起きた信じがたい現実を、なんとか想像を膨らませて理解しようとする。
まず間違いなく、詩は誰にも救えず、黒い狼に殺されていたはずだった。
さっきまでこの場には、正明と詩、黒い狼しかいないはずだった。
奇跡は前触れもなく起きた。詩の懐中時計が光ったかと思えば、誰もいなかったはずの黒い狼の頭上に突如カノンが現れ、詩に牙が届くよりも前に頭を足で押さえ込み、そのまま床をも砕く凄まじい力で踏み潰した。
夢でも見ているのだろうか?
そう己の記憶を疑ってしまうほどに、ありえない現象が連発していた。
瞬間移動とも見まがう奇跡。
常人離れした脚力。
普通の人体反応ではありえない、瞳の変化。
何よりも、家族のためとはいえ、命を奪った罪の意識を露ほどにも感じていない態度が、不敵な笑みが、正明の中でカノンの評価を要注意人物に塗り変えていた。
加えて、おかしいのはカノンだけではなかった。
これほどの超常の、非日常の現象が巻き起こっているのに、なぜ詩は疑問に思う素振りすらしないのか。見ていなかったでは片づけられない現象の連発に対して反応があまりにも静かだった。
(いや、否定から入るな! 現実を避けるな! どんなありえないと思える事実も必ず理由がある!)
正明が賢明な頭脳で導き出した答えは、カノンが人間ではない可能性だった。
常人なら思いつかない発想に辿り着いたのは、彼がホモサピエンスでも、他の動植物でもない、未だ人間の理解が行き届かない生命体の存在を知っているからだった。
建国以来、日本政治に深く関わり、国家機密を扱う坂斉一族の子孫だからこそ知り得る知識によって、その兆しを見出していた。
「正明、何があった!」
「詩ちゃん、カノン、無事!?」
亮と萌恵、幸も騒ぎに駆けつけてきた。
先導してきたのは亮だ。得物を納めている竹刀袋を握っていた。
正明は、仲間たちの無事を確認できたが気を緩めなかった。
状況に追いついてきた頭の中を整理し、意識のスイッチを切り替える。
代々、日本という国の存続と秩序の守護を使命としてきた坂斉一族の血筋には、特殊な能力を持つ者が現れる。
希少な能力であるため、それを国益に繋げるため、坂斉の血筋には厚い待遇と様々な制約が政府から掛けられ、能力を持って生まれた子どもには幼少期から厳格な教育が施される。
彼も、その資格を有していた。
1人の学生という、坂斉正明という人格を自己催眠により眠らせ、必要最低限の記憶を継承させた、あらゆる緊急事態に迅速に対応するために思考回路を先鋭化し、最適化させた別人格を呼び覚ます。
瑠璃色だった瞳が、赤い輝きを灯す。
「うお! なんだこれ!?」
「い、犬? 頭どうなってるの? なんか動いてるけど生きてるの?」
「死んでると思います、体が痙攣を起こしてるだけみたいです」
気味悪がる萌恵に反して、幸は動揺をしておらず、真剣に死骸を観察していた。
「気を付けて幸子、そいつ詩を襲う凶暴な奴だから」
「嘘!? 詩ちゃん大丈夫だったの!?」
「はい、カノンが助けてくれましたから」
「靄?」
幸が狼から立ち込めている黒い靄が気になり、胸ポケットからペンを取り出して先端で触れようとする。
その前に狼の全身が同色の塵となって崩れ始め、骨すらも眼に見えないほどの塵と化していき、最後にはただ砕けている床だけがそこに残った。
「塵になって、消えた?」
「どうなってるの、これ」
詩と萌恵だけが、ありえない現象に困惑していた。
「兄さん」
「正明、もしかしてこいつは」
「2人が想像したとおりだ、間違いない。あれは、世界戦争の時代以前より各国がその存在を隠しながら戦ってきた敵性星外生命体、【邪神】だ」
神妙な顔で近づいてきた幸と亮に正明が断言すると、幸は不安を露わにし、亮は口笛を鳴らして得物を持つ手を武者震いさせる。
坂斉の血筋である正明と幸は当然として、家族ぐるみで親交の深い亮も、意味する存在を理解していた。
人間の歴史は、脅威との戦いでもある。
獰猛な獣。人間同士。あるいは目に見えないウィルス。加えて、ある時代から地球由来の生物とは異なる種類の生命体が認知され始めた。
遥か昔、宇宙創成と同時期に誕生し、宇宙の果てからこの地球にやって来た者たち。
奴らの多くは、人間と同等以上の知能と、獣や兵器をも凌駕する強靭な体と特異な能力を持ち、不死とも見紛う再生力と無限の寿命を誇っている。
何より厄介なのが生物として圧倒的な力を保持しながら、己よりも劣ると思われる他生物の命をいとも簡単に暴力で奪い、時に拷問に等しい行為で弄び、時に謀略で破滅へと導く、悪魔の如し残虐な本性を備えている事だ。
ごく一部の、奴らの正体を知る人々は、いつしかその存在を【邪神】と名付けた。
黒い狼の死体が、何も残らず塵となって消滅した【霧散現象】は邪神の特性と酷似していた。
亮は邪神を知らないはずの一般人である詩やカノン、萌恵に聞こえないように、声を抑えながら正明に問う。
「火災報知器が鳴ったちょっと後に濃い血の匂いが下の階からした、職員室辺りだ。近くでも匂う、誰かやられたのか?」
気づけば、火災報知器の警報が途切れていた。
亮は訓練により、血の匂いや気配といった目に見えない刺激に対する感覚が敏感だった。
彼が言うのならば、職員室に居た教師たちは・・・・・・大人に頼るのは、できそうにないと正明は悟った。
「説明はする、ところで亮」
「なんだ」
「君は、所奈美さんに対して何も疑問を持っていないのか?」
「所奈美? いや、あいつには何も?」
「そうか」
「所奈美がさっきの犬みたいな邪神と関係してるのか?」
「いや、関係ない。今のは忘れてくれ」
「おう」
正明は黒い狼とカノンに同じ気配を感じ取り、年齢にそぐわない冷静さで適切な状況判断を下す。
瞳がより赤く輝き、一族固有の能力を覚醒させた彼の脳は、常人を遥かに上回る処理速度であらゆる計算を熟し、真実を見抜こうと洞察と模索を続ける。
覗き込んだ亮の瞳には、カノンほどはっきりとしていないが彼女と同じ時計盤が映し出されていた。
注意深く観察すると、他の詩、萌恵、幸にも、共通の瞳の変化が確認された。
(なんらかの洗脳魔術か? にしては性格や態度に変化はない、嘘や演技をしている素振りもない、記憶操作の類か・・・・・・だとすれば)
現実には、目に見える事実と見えない事実がある。
真実とはその光と影、陰と陽の属性を照らし合わせ、精査した先にある。
正明は、現在の状況を生み出した因果を繋げる、相反する属性の2つの事実をこれまで身に着けてきた知識、経験を総動員して導き出し、ある仮説を立てる。
その仮説を信じ、今はまだカノンを無視した。
「階段の踊り場に1人、琴吹先生が僕たちに身を挺して危険を知らせてくれた」
非情に見えたかもしれない。それほどまでに正明は聖子の死を冷静に告げた。
「そう、か」
沈痛の相になる亮は去年、萌恵と一緒のクラスであり、聖子が担任であり、親しかった。
常に礼儀正しく真面目、でも頭が固い訳でも近寄りがたくもない、喋り出せばユニークな性格で、教え子に慕われる人柄の良い女性だった。
幼馴染の萌恵への恋心を応援してくれた人でもあった、心が痛まない訳がなかった。
血だまりでうつ伏せに倒れて、聖子は息絶えていた。
彼女を仰向けにし、ハンカチで顔から血を拭い、瞼を下させ、手を胸の下で重ねておく。
「貴方の死は無駄にはしません、どうか安らかにお眠りください」
死者の魂が天に召されるよう祈る。生者が死者のために出来る事は、それぐらいだった。
聖子を葬った黒い狼は姿を消していた。仲間が殺されたのを悟り、逃げたと思われた。
「琴吹先生? そんな、なんでどうして先生が・・・・・・」
悲鳴を堪えながら、萌恵は亡骸の名を呼んでいた。
亮は、泣き出した彼女に胸を貸すぐらいしかできなかった。
死を目の当たりにし、悲しみと動揺と恐怖が全員に伝播していた。
だとしても、そんな感情に浸っている暇はない。すぐにでも行動を起こさなければ、取り返しが付かない致命的な事態になるのが正明には容易に予想できていたからだ。
古今東西で起きた邪神の手によると思われる超常的、怪奇的な事件の事例。その膨大な情報を彼は全て暗記していたからできた予想だった。
邪神の存在を知らない一般人には不必要と断じた情報以外の、知り得る情報のみを詩たちに説明し、行動するよう諭した。
「どうして、私の正体をバラさないの?」
カノンが隙を見て、自然な流れで正明に近づき、耳打ちしてきた。
相変わらず、彼女の瞳には逆回転する時計盤が映り込んでいた。
「わざわざ答え合わせをしてくれるとは、有り難いな」
相手の予想通りの行動に、正明は予定通りのテンプレートを使用する。
「そう言うが、既に他の皆にはなんらかの術を施しているんだろう? でなければ、君が突然部室から消えて僕と詩ちゃんの目の前に現れたのも、床を抉り、黒い狼を踏み潰すといった超人じみた行為をした事も他の皆に疑問を持たれないはずがない。洗脳ではなく、記憶の改竄もしくは催眠の術を君は持っているんだろう? 予め言っておこう、僕にその手は通用しない」
正明の、利き手に巻いたテーピングに書き込まれている文字が鈍い光を放っていた。
その文字は、魔力が込められた複雑怪奇な古代文字だ。
人間の魔術師の手により対邪神用に開発された術具で、科学の力だけでは解明しきれていない摩訶不思議な能力を秘めている。
これを身に着けているだけでも、魔術から身を護る事ができる。
「どおりで、目を合わせたと思ったのに手応えがなかった訳だ」
苦虫を食い潰したような顔でカノンは舌打ちをする。
正明の洗脳を諦めたのか、瞳から時計盤が消えた。
「初めて会った時から気に食わないと思ってたけど、あんたやっぱり、【私たちみたいな存在】を知ってたんだね。さっきの様子だと鮫義先輩と幸子も知ってる口? あんたたち何者?」
カノンの問いは、あえて伏せていた彼女への疑念、人間ではない可能性の肯定でもあり、黒い狼と同様の邪神の類だと告白してきた様なモノだった。
「君の予想通りだとしたら、どうなんだい?」
正明は、下手な嘘は使わなかった。
相手はこれまで所奈美カノンという普通の人間としての皮を被り、自分たちを騙し、信用を得てきた邪神だ、不自然さはすぐに勘づかれてしまう。
邪神と一括りにされている生命体たちには、数多の種族が存在し、奇々怪々な姿や能力を保有している。
謎は多いが、確認されている個体にはあらゆる物体に擬態できる能力を持つ邪神までもがいる。
カノンの人間の姿は偽物である可能性が大きく、邪神を相手に目に見える情報だけで心理戦を挑むのは危険すぎるのもあった。
(なら、できるだけ情報を絞り出すまでだ)
他の仲間はカノンの正体を知らない、わからない。
恐らく、術中に嵌っている間は彼女がどれほど人間業から離れた非常識な行動を起こそうとも疑問を持たない、そういう状態になるように記憶を弄られてしまっていると考えられた。
そんな状況で、正明だけが彼女を邪神だと、敵だと糾弾した所で余計な動揺を広げるだけだ。
目的もわからない。ならば、あくまでも周囲にはこれまでどおり人間同士としての所奈美カノンと坂斉正明の関係を装いながら、警戒を解かず、現状の打破を優先していくべきだ。
「別に? ただ、あんたのその赤く変色した目、普通の人間じゃないでしょ? 雰囲気でわかるんだよね、人間のくせに変な能力を持った奴らって、魔術師って言うんだっけ? 嫌に性格の癖が強い奴が多いみたいだからさ」
「僕ら以外の【組織】の人間と接触した事があるのか?」
「あぁ、あいつらの仲間なんだ。へー? そうだね、まあ、全員漏れなく大人しく帰ってもらったけどね?」
カノンは勝ち誇ったような、不敵な笑みをしていた。
先進国を中心に、123もの国家は、政府公認の機密執行機関として共通の対邪神専門組織を有しており、日本も例に漏れず、独自に戦力を保有している。
その組織のエージェントは、各地に散らばって活動しており、日々、国民の生活に溶け込みながらいつ危害を齎すかもしれない邪神の情報収集と脅威の対処に尽力している。
正明は、坂斉の家を継ぐ者としての経験を積むために。幸と亮は、将来に組織のエージェントとなる育成対象者として特殊な訓練を施されてはいるが、まだ正式には認められていない非正規構成員だった。
故に、本物の邪神との遭遇、接触したのは今回が初めてであり、精工に人間社会に溶け込んでいたカノンの正体に気づけなかったのは、これも原因だった。
(これまでに所奈美さんと接触したエージェントはどうなったんだ? いやそれよりも、優先すべき事項に対処するべきだ)
「確認しておこう。所奈美さん、つまり君も、さきほどの黒い狼と同じ邪神の仲間で間違いないのか?」
「何それ、あんたもしかして中二病なの?」
「違うのかい?」
「あんな汚い狼と一緒にされたくないけど、同じような生き物って意味では当たってると思う。ただの勘だけど。私も私以外のその邪神ってのに遭遇したのはこれ(・・)まで(・・)1度(・・)しかなかった(・・・・・・)から(・・)・・・・・・でもまさか、急に学校に現れて詩の命を狙ってくるなんてね。おかげで、こうしてあんたにだけは正体がバレちゃったんだけど」
(どういうつもりだ?)
演技なのかもしれないが嘘をついているとは思えない口ぶりに、正明は、カノンの腑に落ちない言動に不信感が増加した
原因は大きく2つ。
1つ。これまで隠していたはずの邪神である正体を、あまりにもあっさりと暴露している点。
2つ。暴露した上で、同類であるはずの邪神に関する認識が薄い点だ。
邪神の知られている特性として、動物的な生態系を形成している事が挙げられる。
人間と同等、それ以上の知能を持ちながらも社会的な共存活動は行わず、動物のように弱肉強食の純粋な力によるヒエラルキーのピラミッドに従う奴らは、基本的に強者に従順で、群れで行動し、種族が違えば敵と判断し、力による支配、抹殺しようとする傾向がある。
なのに、まるでカノンの元から1人だったような言い草は、群れを作らず単体で行動するのは珍しい事例だと言えた。カノン自体がイレギュラーな存在なのかもしれないとも考えられた。
未だ、邪神の全体像は謎に満ちている。
(とすれば、なんらかの目的があり、そのために独立して行動していると読むべきか)
そう仮説すると、必然と思い当たる要素が浮かんだ。
強い執着を見せる、詩の存在だった。
人間であればただのシスコンで済んだが、邪神ともなればあの異様な執着は別の意味を孕んでくると思われた。
とはいえ、ここまで考えてもカノンの言動の真意を探るには根拠が不足していた。どんな思惑があるかはわからないが、どの道、彼女が所奈美カノンとして詩の傍にいる限り、彼女を人質に取られているとも同義であり、他の仲間たちも時計盤の瞳による支配下にあるとすれば下手な刺激はしないのが得策だった。
確定事項があるとすれば、現時点において、彼女は人間にとって敵でも味方でもない位置にいると信じられる事だけだった。
「そんな怖い顔しなくてもいいんじゃない? 露骨過ぎると逆に胡散臭いよ?」
「普段の君ほどじゃないさ」
「あっそ、でも安心しなよ、私はウタの味方だから。ウタが望めば私はなんだってする、私を従わせる事ができるのはウタだけ、ウタと私の平穏を乱す奴は殺す、例え、恋人であるあんたでもね」
思い通りにしなければ、殺気を込めた言葉通りに実力行使をする、それだけの力がある、という警告だった。
その末路は、頭部を潰された狼よりも悲惨なのかもしれない。
そうなりたくない正明は、交渉を持ちかける事にした。
「なるほど、なら利害は一致しているみたいだな」
「へえ、どんなよ」
「この危機的状況を脱出し、皆を安全な場所まで誘導したい。君の正体は口外しないと約束する、組織のエージェントにも無害な内は接触しないよう口利きをしよう、だから、それまで協力しよう」
「ふーん、あんたにそんな権利があるか知らないけど、一応乗ってあげる。ただし、その気持ち悪いテーピングをした手で私を触るなよ」
「善処する」
「どうしたの、カノン?」
「ううん、なんでもないよウタ。ちょっと喋ってただけ」
詩に対して優しい姉を演じる彼女は、少し前まで人間として認識していた所奈美カノンという少女となんら変わらないように見えた。
正明は、古代文字の書かれたテーピングを左手にも巻き、先頭に立って皆を引き連れ、慎重に移動するように促す。
いつまた黒い狼が襲ってくるかも知れない、数もあれだけとは限らない。
聖子が言い残した、黄色い子どもの正体も気になった。
下手をすればその子どもは、黒い狼を眷属として従えている、もっと強力な邪神である可能性もあった。
もう、この学校に安全な場所はどこにもないのかもしれない。
そう気づくのに時間はあまり掛からなかった。
● ● ●
最前に正明、最後尾に亮が並び、戦闘能力のない女子を挟んだ列を作り、まずは学校を抜け出す事を目的として動く事にした。
階段を降りた1階の廊下は左に行けば職員室があり、右に行けば正面玄関に出られる。
「ここで待っててくれ、職員室の様子を見てくる」
正明は、皆の護衛を亮に任せ、希望は薄いがまだ生存者がいるかもしれないと単身で職員室に向かった。
「なんだ、これは」
職員室の扉は破壊されており、室内から溢れ出したかのような大量のヘドロが廊下まではみ出ていた。
ヘドロにしては臭いがなく乗ってもビクともしない程に石のように固まっていた。未知の物質だろうか。
恐る恐る覗いた室内は、生々しい血脂の臭いが充満する、凄惨な殺人現場と化していた。
13名の教職員が死に絶え、固まったヘドロに埋もれていた。
どの死体も欠損が激しく、獣の爪や牙で急所を破壊された形跡があり、肉を奪われ、内臓を毟り取られ、骨までもが露出している有様だった。
「なんて残酷な!」
地獄絵図だった。
これが、邪神の所業。
奴らは、人間を、己よりも劣ると思われる生物の命を淡々と奪う悪意の塊だ。
もし、この惨事が昼間、卒業式に出席するため集まった生徒や保護者が居る時間帯に起きていれば、被害と混乱は今の比ではなかった。
慎重に室内を見て回り、生存者の有無を確認しながら、ほとんど情報のない現状を知るための痕跡を探る。
火災報知器が発動した直後に濃い血の匂いがしたという亮の証言、死体の欠損痕の真新しさからして、この職員室が黒い狼共の最初の出現場所である仮説が有力だった。
だとしても、謎は多い。
このヘドロのような物質はどこから出現したのか? 黒い狼と何か関係があるのか?
「もし、あの火災報知機を鳴らしたのが琴吹先生だったとしたら」
正明は、一旦廊下に出ると職員室近くの火災報知器のスイッチカバーが破壊されてるのを確認する。
携帯か何か、固い物の角でカバーの上からスイッチを押したのだろう。
理由は、2階に居た自分たちに危機を知らせるため。
そうだとして。
鳴ったタイミングと聖子がやってきた時間と距離からして、正明たちが会敵したたった5匹の黒い狼が当時職員室にいたこれだけの人数の教師を屠り、食べてから彼女を追跡するのは難しいのではと考えられた。
黒い狼は、もっと数が居たと見るべきか。だとすれば、残りの多数はどこに消えた?
まだ学校に潜んでいるのか、それとも外に、街に向かったのか。
(だとしても、僕たちにはどうしようもない、か)
割り切るしかなかった。
職員室に戻ると、とある机の上、私物からして聖子の席だと考えられたそこには、見たこともない、綺麗な虹色の羽蟲が数匹飛び回っていた。
「どうでしたか?」
仲間の元に戻ると、詩が不安そうに胸の前で懐中時計を握りしめていた。
先生たちの無事を祈っているのか、だとすれば、願いは叶えられない。
「残念だが、もう僕ら以外は誰も」
明言は避けたが、意味を察した詩は必死に嗚咽を我慢しながら、涙を止められずにいた。
「どうしてこんな事に、なんで!」
理不尽に膝から崩れそうになった詩を、正明は抱きしめる。
泣くな、とは言えなかった。
正明は詩と萌恵に、無知と偽って情報を流しているのだから。
一般人である彼女らに邪神の存在を暴露しないのは、余計な混乱を与えたくない理由もあれば、政府や組織が奴らの存在が一般人に認知されるのを恐れ、箝口令を敷いているからだ。
そんな戦争をしないと謳う、平和を取り繕う国で生きてきた少女に、この世界には化け物が居るという真実を急に理解をしろと言うほうが惨い話だった。
「大丈夫だ、君は必ず僕たちが護ってみせる。だから、今だけは我慢して欲しい」
正明は、嘘でも強がりでもない、根拠のある希望を言い聞かせた。
恐らく、こちらから連絡をしなくとも、組織は既に動いているとわかっているからだ。
神出鬼没の邪神に対抗するため、組織は包囲網を常時国中に張り巡らしている。
邪神からすれば人間は取るに足らない畜生程度の認識だとしても、人間という生物は、一方的に駆逐され、弄ばれるだけでは終わらない。
圧倒的な脅威に対抗するため、人類は戦うための術を会得しており、組織には、そんな邪神の討伐、駆逐を使命としたエージェントたちがいる。
彼らが救助に来てくれるのを待つのが、確実かつ最善の選択だった。
(ここにいる仲間を、愛しい君をなんとしてでも護って見せる、僕の命に代えてでも!)
正明は、そう心に誓った。
正面玄関までは、何も起こらずたどり着いた。
隠れ潜んでいるかもしれない黒い狼に警戒しながら、下駄箱で靴に履き替え、急がず、迅速に学校の外に出る。
見える範囲の外の景色は、静かな夜そのものだった。
気温が低く寒いが、夜空の星々が輝きを地上に届けていた。
校舎を出ただけだが、血生臭い場所を抜け出せただけでも気が楽になった。
気がした、だけだった。
「ほう、運良く生き残っただけでなく脱出までしてくるとは、それなりに知恵のある畜生でも紛れ込んでいたか?」
「誰だ!」
少女のような、子どもの声だった。
どこから聞こえると姿を探すが、前後左右を見渡しても他に誰もいない。
「正明先輩、あれ」
詩が指を差していたのは、夜空だった。
皮肉にも雲一つない、空気の澄んだ満月の夜。
だから、余計に空中の人型は目立った。
全員がその姿を見上げ、あまりの衝撃に絶句していた。
当たり前のように空中で立っているのは、中学生ぐらいの少女だった。
その素顔だけ見るなら、青の髪をポニーテールに縛った可愛らしい人間の少女のようだった。
華奢な体躯をすっぽり覆い隠すフード付きの黄色のコートを着ており、全身から腐敗臭を漂わせ、開いた口から靄のように群がる虹色の羽蟲を吐き出し、眼球のあるべき場所にすらも数えきれない蟲が詰まっていなければ、の話だが。
黄色コートの少女の全容を理解してしまった瞬間、正明は、生まれて初めて本能の絶叫を聞いた。
「うっ、ふ、うげっ!」
突如にして這い上がっていた吐き気が我慢できず、足元に吐しゃ物をまき散らし、膝を折ってしまった。
正明だけでなく、亮や萌恵、カノン、幸も宙に立つ存在に跪くように屈し、立ち上がろうとしても強烈な頭痛と泥酔しているかのような感覚に襲われ、黄色コートの少女を見上げる事すらもできなくなっていた。
仮初の姿がどれだけ無害さを演出していようと、これまで殺し、奪ってきた命の数だけ染みついた殺気が、悪意に歪み切った歯をさらけ出す狂気じみた笑みが、一瞬で全身から体温を奪い去って悪寒で四肢の感覚を奪い、鳥肌を総立ちにさせていた。
これらの現象の正体は生物としての圧倒的な存在感と威圧感であり、不用意な行動をすれば、許可なく言葉すらも発すれば、いとも簡単に殺されてしまうイメージが強引に脳に刻まれたせいだった。
(あれが、琴吹先生の言っていた黄色い子どもか!? という事は、こいつが今回の事件を引き起こした元凶の邪神なのか!)
正明は、直ぐに理解した。
頭上に佇むのは死の権化。
死そのものの邪な神なのだと。
「急にどうしたんですか! しっかりしてください!」
「っ!?」
「ほう、これは流石の私も驚いたぞ!」
正明たちが地に縛り付けられている中、詩だけが何が起こっているのかわからない様子で困惑していた。
彼女だけは、黄色コートの少女の威圧が効いていなかった。
「おい、そこの雌」
「め、雌? わた、し?」
黄色コートの少女は詩に興味を示し、地上に降り立ち、鷹揚な態度で歩きながら近寄って来る。
「逃げるんだ詩ちゃん! そいつは危険だ!」
「え!? で、でも!」
詩は、行動が遅れた。
現れた、存在に気づいてしまった宙に浮いていた謎の子ども。
その子どもを見上げた瞬間に、自分以外の仲間が突然に倒れてしまった理由が彼女にはわからず、状況が飲み込めていなかったからだ。
黄色コートの少女の異様な雰囲気を、人間とはかけ離れた何かであると無意識には察してはいるが、正体が邪神という名の脅威であると知らなければ逃げるという選択肢がすぐには浮かんでこないのもあった。
黄色コートの少女は、詩の前で止まると眼を見つめ、不敵に笑った。
「なに?」
「そう怖がるな、他の低能どもは知らんがわたしは意味もなく人間を殺す事はしない。意味があれば躊躇もしないがな。お前は興味深い人間だ、少し試してやろう」
詩は後ずさりをしたが、黄色コートの少女はそれに追い付く速度で足を進め、彼女のこめかみに伸ばした人差し指を当てる。
「■■■■」
言葉を呟く。だが、詩には解読ができなかった。
日本語でも英語でもない、僅かな聞き覚えすらない言語で構築された単語が、実は魔術を行使するための呪文とはわからず、詩は訪れた頭の中に霧が掛かるような感覚に抗う暇もなく意識を失ってしまう。
「ウタ!」
「詩ちゃん、しっかりするんだ!」
カノンの悲鳴に近い叫びと正明の呼びかけにも、詩は反応しなかった。
黄色コートの少女は、周囲の雑音など気にも留めない風に、無抵抗になった彼女を見下ろしながら顎に手を添えて考え事をしているようだった。
「・・・・・・」
そして、何かを探すように正明、亮、幸、カノンを順番に見定め、カノンを見つめたまま納得したかのように、クイズの正解を導き出して喜ぶ子どものように笑った。
「なるほど、この雌の眷属はお前か。どおりで魔力も持っていないのにわたしを前にしても平気な顔ができていた訳だ」
「ウタに何をした!」
「吠えるなよ、褒めているんだ。わたしの殺気に当てられて正気を保つどころか、動ける羊がいる事が嬉しいんだ。150年前だったか、不遜にも神たるわたしに牙を向けた無礼者の魔術師が何人もいたが、どいつもこいつも殺気を当てただけで狂乱して自殺してしまいこの程度かと落胆したものだった・・・・・・だが、まだ完全に見捨てるには惜しいようだ」
黄色コートの少女は再び宙に浮きあがり、小さい掌を、正明たちを覆うように広げる。
「それはそれとして、だ。わざわざわたしの前にその醜い面を並べた事の褒美をくれてやろう。有難く思え上等な羊ども、振り出しに戻してやる」
すると、彼らの足元の地面がぬかるんだ沼のように液状化し、なにもできずに地の底に沈んで行ってしまった。
「遊び道具が減ってはつまらないからな。余興は、まだ始まったばかりだ」
そう言い残し、不気味な笑い声と共に黄色コートの少女の全身が無数の虹色の羽蟲へと分解され、満月の夜空へと飛び去って行った。
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