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第3話「青春」
しおりを挟む――― 20●●年 03月23日 PM04時42分 ―――
「お邪魔しまーす」
夕方、ほとんどの生徒が帰り、静まり返っている教室に幸は恐る恐る入ろうとする。
小さい声で挨拶をしながら室内を見渡すと、目当ての親しい上級生の姿にほっとした。
「さっちゃん、いらっしゃい」
「何恐縮してるの、他に誰もいないんだから普通に入ってくればいいのに」
「いやー、そうわかっていても、やっぱり上級生の教室は緊張しちゃいますよ」
安心したのか幸の声が大きくなり、いつもの元気な彼女の雰囲気が戻る。
待っていた詩とカノンは意外な後輩の一面に微笑ましくなった。
〇 〇 〇
時間は少し遡り、卒業式当日。
詩たちの通う高校の卒業式は午後から始まるため、在校生は午前中を式の準備と通常通りの授業をして過ごし、卒 業生は午後から登校する形式となっている。
小学校、中学校、高校1年生の頃は、知らない3年生を見送るだけの行事でしかなかったが、親しい先輩たちが卒業証書を受け取る背中を眺めていると、詩は自然と涙が零れた。
一生会えなくなる訳ではない。
それでも大切な人たちが、傍に居て当たり前だと思っていた人たちが離れて行ってしまうのは泣いてしまうぐらい悲しいのだと初めて知った。
もしかしたら、自分やカノンの両親も自分たちを施設に置いていく時は同じぐらい悲しんでくれたのかな・・・・・・と答えのない想像した。
式が終わると自由時間が設けられていて、卒業生、在校生、先生の全員が解放された校庭の一部で別れの挨拶を送り合い、記念撮影などをしていた。
最近、好きな人や友達にプロミスリングを送るのが流行っているせいか、在校生が卒業生の利き手の手首にそれを結ぶ光景が多かった。
詩も習って萌恵、亮、最後に正明にも送ろうとしたが、正明の前には想像していなかった数の女子がたくさん並んでおり、既に送られたプロミスリングの数が手首に収まりきらなくなって両の二の腕にまで巻かれている有様になっていた。
「モテる男は違うな正明よ。ところで、そんなお前を敵視している奴らに何か言いたい事はあるか?」
「僕も戸惑っているぐらいだから、あからさまに睨むのは遠慮して欲しい」
プロミスリングの数は想いの数。
卒業生の間ではもらったリングの数によるマウントの取り合いが密かに発生しているようで、亮に茶化された正明は苦笑していた。
「いってぇ!? なにすんだ萌恵!」
「べーつーにー?」
そういう亮も意外ともらっていたので、嫉妬した萌恵に脛を蹴られていた。
「・・・・・・」
自由時間は有限。
残り時間と正明待ちの女子の数に気負わされた詩は気づかれないように離れようと後ずさりして、誰かにぶつかってしまう。
「すいません」
「なにしてんの、ほら、行きなよ」
周囲の混雑もあって顔も声もわからなかったが、その人は背中を押した。
押されて人混みから出てきた詩に正明が気づき、彼は目の前に並んでいる少女たちに断りを入れてから、たった1人の後輩が持っていたリングを自ら受け取っていた。
〇 〇 〇
「それで? 詩はちゃんとリングを先輩たちに渡せたの?」
「うん」
カノンに聞かれ、恥ずかしがりながらも詩は頷いた。
「そっか、なら良かった」
カノンは初々しい反応に、順調な卒業式を過ごしているのを感じて安心している様だった。
「陰ながら見守ってましたけど、びっくりした事に兄の方から詩ちゃん先輩にプロミスリングをもらいに行ってたんですよ!」
「へー、良い度胸してるねあいつ」
幸の報告に、カノンはほんのわずかに正明への好感度が上がった。
上りはしたが嫌いなのは変わらず、嫌いな奴なりには見直した程度の感想だった。
「そうだったの!? もうさっちゃん、居るなら居るって言ってくれたっていいでしょ! すごく心細かったんだから!」
「気持ちは分かりますけど、今回は詩ちゃん先輩1人で行くべきだと思ったんです。告白する時は他に誰もいないんですよ?」
「それは、そうだけど・・・・・・」
詩は涙目で不満を訴えるが、笑顔で諭す幸の言い分は正しかった。
幸は詩の親友であり、ずっと、実の兄と親友が結ばれる事を望んでいた1人だった。
正明と詩の相性は悪くない、そんな女としての直感もあれば、大好きな詩が正明の恋人として家族の一員になってくれるのを密かに憧れてもいたからだ。
これまでは、反対派だったカノンの目と詩自身が正明への好意を必死に隠そうとしてきたのもあり、内心で応援はしつつも中立の立場で見守ってきた。
転機が来たのはつい先日だ。
卒業生から後輩に贈る『感謝の会』の話題が上がった時、詩が正明に2人きりになる時間が欲しいと言い、これは片思いに決着をつける時だと察知した幸は詩の恋の手助けをすると言い出した。
卒業式が終わり、感謝の会は17時からの予定なのであと20分もない。
今こうして、詩とカノン、幸が他に誰もない教室に集まったのは、詩の告白を成功させるための、本番前の最後の作戦会議を開くためだった。
「ほんと、いちいち可愛いなこの人・・・・・・」
「え?」
「いえ、なんでもないです。ただの独り言なので気にしないでください」
幸は独り言として出てしまった本心を真顔ではぐらかす。
いつか聞いた話では詩の身長は152cm、幸は156cm。後輩である幸よりも詩は一部を除いて小柄であり、童顔なのも手伝って制服を着ていても上級生には見えない見た目をしている。
大人しそうな性格と幼い顔立ちは可愛らしいの一言に尽き、それだけでも男女限らず庇護欲をそそられるというのに、その胸は大きく形よく実り、ある意味理想的な少女像を体現していた。
先輩後輩の関係があるにしても、そんな魅力的な少女が拗ねた子どもみたいに頬を膨らませ、潤んだ瞳で上目遣いで見つめてくればいかに同性といえどその可愛さに胸がキュンと締め付けられ、本心が漏れても仕方ないと幸は思った。
「そういえば、カノンちゃん先輩は自由時間の時、校庭にいました? 見かけなかったですけど」
「ちょっと元部長から急な頼まれごとされてね、私はパスしてた」
「頼まれごと?」
「感謝の会は天文部の部室で、先輩たちが主催する予定だったでしょ? でもね、今日になって急に部室の使用申請が却下されたんだよ。校則で卒業生は式が終わった直後から部外者扱いになるらしくて、部室を貸す事はできないんだって。だから、名義上は在校生で天文部部長の私が主催して部室を借りるっていう体裁の書類を作るのに職員室まで行ってた訳」
「そんな大事な事を当日になって言ってきたんですか!? 下手したらできなかったじゃないですか!」
「まあ、なんとかなったんだから良いでしょ」
食いつく幸をカノンは受け流す。
「そもそも、部室を私用で生徒が借りるのが珍しい話だから先生たちも申請方法が曖昧だったみたいだしね、我らが聖子ちゃんでもミスぐらいするよ」
「せいこちゃん?」
「琴吹聖子先生、今は私たち2年生の現国の担当をしてるから、さっちゃんは面識ないかもね」
「良い先生だよ? 私と詩の事も理解してくれてるし、有能な人だから幸子も相談事があったら聖子ちゃんにしてみなよ」
「わかりました、覚えておきます」
「まっ、自由時間に私がいなかったのはそれもあるんだけど、ああいう人が集まる場所って苦手だから逃げたのもあるかな」
「わかる、私も苦手。息苦しいし、気を使っちゃうんだよね」
「・・・・・・」
共通の苦手意識を再確認する詩とカノン。
横から観察する幸は、意味を察した。
色白で小柄の詩と色黒で長身のカノン。
この2人、正反対の見た目で血が繋がっていないはずなのに胸だけは共通して大きい。
幸が見下ろす己の胸は、目の前の4つの山よりもとても慎ましやかだった。
「時々思うんですけど、詩ちゃん先輩とカノンちゃん先輩って実は血が繋がってるんじゃないかって」
「どこが?」
「どうしたのさっちゃん、急に元気がなくなったみたいだけど大丈夫?」
「目が死んでるね」
「ダイジョーブデスヨ、ハハッ」
幸の笑い声は、とても乾いていたという。
「さてと、作戦会議はここら辺にしてそろそろ行きますか」
「ただ喋ってるだけでしたけどね」
「そんな事ないよ、こうしてさっちゃんとカノンがいつもどおり喋ってくれるから凄く落ち着いていられるんだと思う。きっと、私1人だったら今頃告白する緊張で泣いてたかもしれない」
「そんな大袈裟な」
「ううん、きっとそう。私、弱虫だから」
首を横に振る詩は、胸の前で懐中時計を震える両手で握りしめる。
そんな詩の両手に優しく手を添えたのは、幸だった。
幸は、本当に詩の言い方は大袈裟だなと思っていた。
恋は誰だってする。
逆に失恋も誰だってする。
どれだけ好きな想いがあっても、始まるのも一瞬、終わるのも一瞬、それが恋愛というもの。
幸はまだ恋愛対象だと想える異性には出会っていないが、なんとなくそういうものだろうというのは知っていた。
友達や雑誌の受け売りを信じ込んでいるだけな部分もある、中学生の頃にそこまで親しくもない男子に告白されて、なんとなく付き合った経験はあるが結局あまり好きになれずに別れた。
だから、恋愛感情なんて、告白するだけなんてそこまで重たく考える必要はないと思っていた。
でも、だからこそ。
どこか冷めている自分とは違い、目の前で真剣に恋と向き合っている、ただ好きという想いを伝えるために一生懸命になっている少女に憧れを抱いているのも確かだった。
「詩ちゃん先輩、リラックスリラックス! まずは感謝の会を楽しみましょう? その時が来たら私もフォローしますから」
「大丈夫ですよ、必ず詩ちゃん先輩の気持ちは兄に届きますから。妹の私が言うんです、間違いありません!」
幸の声援に、強張っていた詩の表情も身体も解れる。
完全に不安がなくなってはいないが、あるとないでは大きな違いがあった。
「うん、ありがとう。さっちゃんは優しいね、どうしてそんなに私に優しくしてくれるの?」
「それは」
何気ない質問だった。
それが幸にとっては言動の核心を突く言葉だと詩は知らず、知る機会は二度と来なかった。
「詩ちゃん先輩が大好きだからです! 親友じゃないですか、私たち」
「そうだね、ありがとうさっちゃん」
親友である幸の励ましに嬉しくなる詩。
2人の仲睦まじい姿を眺めるカノンは、微笑ましくなる。
幸という友達に、天文部という仲間に巡り会えた詩は以前よりもずっと明るくなったと思う。
天文部の仲間と出会うまで、詩は人見知りが強く、あまり友達も作れない性格だった。
改善されていったのは、間違いなく天文部という居場所ができたからだ。
それは、家族に近い立場である自分には到底できない事で、この出会いに感謝してもしきれない偶然でもあった。
正明は個人的に嫌いだが、もう告白の手前まで来た今となっては彼にしか詩を幸せにはできず、託すしかないとまで思っていた。それでも、もし詩を悲しませるような事をした暁には、遠慮なく股を蹴り砕くとも。
「ん?」
その時だ。
カノンだけが異臭に気づき、臭いの根源がある方角を振り返った。
教室の窓から望める、渡り廊下で繋がった反対側の校舎。
異臭はナマモノが腐ったような、不吉な血生臭さが混ざっていたような気もした。
しかし、視覚では確認ができず、臭いも遠く、ぼやけてはっきりとしなかった。
「まさか、ね」
「どうしたの、カノン?」
カノンは一抹の不安が脳裏に過ったが、無視をした。
「なんでもないよ、じゃあそろそろ行こうか」
そんな教室から出ていく少女たちを、反対側の校舎の屋上から見下ろす子どもの姿があった。
フードを深く被り、足首まで隠すオーバーサイズの薄汚れた黄色いコートで全身を覆っていた。
顎の輪郭と肩の細さから中学生程度の少女のようだが素足であり、全身から腐敗臭を漂わせているせいで虹色の羽蟲が頭上を飛び回っていた。
見た目からして、学校の関係者としても普通の少女としても不審点が多かった。
夕日が地平に近づくにつれ、地上は濃い夕焼けに焼かれ、空は夜の闇に侵食されていた。
肌寒い風が一瞬だけ強く吹き、少女のフードを剥がす。
白い肌、肩に掛かる長さの青い髪には十字架を模した髪飾りを付けていた。
その眼は、人間ではない何かである事実をまざまざと暴露していた。
眼球があるはずの部分にあってはならない空洞の穴があり、その穴を埋めるように頭上を飛び回る蟲と同じ、大量の虹色の羽蟲が敷き詰められ、蠢いていた。
人間とは到底思えない特徴の黄色コートの少女は、フードを剥がした風に鬱陶しそうな表情を覗かせたが、別の方向を見下ろした先で、学校の裏口に用意された簡易的な喫煙スペースで煙草を吸っている上下ジャージ姿の大柄の男性の姿を見つけ、口の端を持ち上げた悪意のある笑みを浮かべた。
まるで、これから起こる狂乱の宴の始まりに、相応しい贄を見つけた悪魔のような笑みを。
● 〇 〇
「えー、コホン。皆コップ持ってる? お菓子の袋も開けた?」
天文部OB、元部長である萌恵が手にジュースの入ったコップを持って部室を見渡す。
この部室で同じ時間を過ごした仲間たちは、それぞれの飲み物を注いだコップを持って彼女の次の言葉を待っていた。
同じ卒業生の、この天文部を一緒に創部した正明と亮。
天文部らしい活動をしなくなった不甲斐ない先輩だらけの部活に入って、跡を継いでくれた後輩である、詩、カノン、幸。
彼ら彼女らの視線を受け止めて、萌恵は3年間という、過ぎてしまえばあっという間だった印象的な時間の記憶が蘇り、こみ上げてくる感情に言葉を詰まらせそうになったが我慢して笑顔を保った。
「うん、準備万端だね! たった2時間だけですが、それでは我々天文部OB主催、在校生たちへの感謝の会を始めたいと思います!」
「よっ! 待ってました!」
萌恵が始まりの合図を送り、亮が合いの手を入れて雰囲気を作れば他のメンバーは惜しみなく拍手をする。
少し前に卒業式があった余韻はなくなっており、祝い事のように華やかに飾り付けられた部室には、この時を楽しもうとする活気があった。
中央のテーブルには飲み物とお菓子がこれでもかと用意されており、それを挟んで並ぶソファーに、それぞれ卒業生と在校生が分かれて座っていた。
なぜか緊張な面持ちの詩だけは右端にいる正明の斜めに、ソファーとは別に用意された椅子に座らされていた。
これは合コンにおいてのベストな位置取りであり、下世話な他意が感じられた。
「湿っぽい雰囲気は引退する時にもうしちゃったから、今日はひたすら食べて飲んでお喋りして楽しもうね!」
「それだと、いつもの部活と変わりませんよね?」
「いやいや違うよカノン、今日こそは自分が重度のシスコンであると認めてもらうからね? そしたら、もう心残り無く卒業するから!」
「またその話ですか、シスコンじゃありませんけど? 普通です、私のウタに対する言動は全部、ごく普通の姉妹のコミュニケーションです」
「カノンちゃん先輩、もう意地を張るのはやめませんか?」
「黙って幸子」
カノンは早速逃がさないぞと席を移動してきた萌恵と幸に挟まれていた。
亮も会話に入り、場の雰囲気を盛り上げようとしていた。
正明は萌恵や亮ほど喋らないが、仲間たちが楽しそうにしている様子を見守っているだけで満足していた。
それぞれのやり方で、卒業生は悔いの残らないように、在校生たちは先に行く先輩たちの門出を祝い、送り出すために短い時を楽しんでいた。
「・・・・・・」
しかし、それなりに時間が経っても、詩は緊張に負けて黙り込み、飲み物も、目の前のお菓子にも手を付けていなかった。
緊張が伝わり、仲間たちが詩を会話に混ぜたり気を使ったものの硬さは解けず、正明もどうしたものかと詩の顔色を伺っている様子だった。
(なにしてるんだろう、私・・・・・・!)
黙り続ける詩は、内心で焦り続けた末に泣きそうになっていた。
どれだけ時間を掛けても顔は熱を持ち続け、まともに正明と目を合わせられず、上手い言葉も浮かばず、思考が纏まらなくなっていた。
五月蠅く鼓動音を打ち鳴らす心臓が、このどうしようもない現状を、黙っているしかない駄目な自分を責めて追い立てているように思えて仕方なかった。
黙ったままだと絶対に正明に変な風に思われてしまう。
なんでも良いから喋らないと、告白なんてできる雰囲気じゃなくなってしまう。
この時のために、カノンも幸も応援をしてくれたのに。
今日、この時だけが正明に告白をするための、募らせ続けてきた想いを伝える最後の機会のはずなのに。
(だから、頑張らないといけないのに!)
その気負いが、詩が緊張に飲まれてしまった一因だった。
「ぐっは!?」
「え!?」
突然に正明が横腹を押さえて悶絶し、テーブルに膝をぶつけていた。
詩には見えない絶妙な位置から、亮が正明の脇腹に肘を打ち込んでいた。
「大丈夫ですか? 正明先輩」
「大丈夫、ちょっとびっくりしただけだよ詩ちゃん」
ズレた眼鏡を直して犯人を睨む正明だったが、亮は知らんぷりをしていた。
追い打ちをかけるように正明のスマートフォンにメッセージの受信を知らせる音が連続して鳴り、覗いてみると相手は目の前にいる幸とカノンからだった。
『本当は詩ちゃん先輩の気持ちわかってるんでしょ? 兄さん以外に誰がリードできるの! ヘタレ! 頑張ってよ!』
実の妹からのヘタレ呼ばわりは、兄としての威厳に傷を負わせた。
『おい、私のウタを困らせるなよクソ野郎。男なんだからリードしろよ●すぞ、世界一可愛いからって変な目で見ても●すけどな》
カノンからは、脅迫にも等しい文章と睨み付けも追加されていた。
踏んだり蹴ったりだったが、気になる少女の目の前なだけに反撃ができず我慢するしかなかった。
なぜなら彼自身も詩に恋心に等しい想いを寄せている自覚があり、今日の大事な話の内容も大体予想できていたからでもあったからだ。
だがそれは、単なる思い込みという可能性もゼロではなく、もし盛大な勘違いをしていた場合、精神的なダメージは計り知れないというのも簡単に予測できた。
わざわざ他人に言われなくとも、詩が黙り込んでしまうほどの緊張に襲われているのはわかっていたし、どうにかしてあげたい気持ちはもちろんあった。
でも詩の緊張が伝播したのか、正明も実は緊張し続けていて、どう手を差し伸べるべきなのだろうかと迷っていたところでもあった。
「ねえ、ちょっとしたゲームでもする? 最下位になった人は罰ゲームで、そうだなー、好きな異性のタイプでも公表してもらおうかなー?」
「え!? あ、う」
好きな異性という単語に詩が過剰反応して変な声を上げてしまい、恥ずかしさからかますます俯いてしまった。
「あ、詩ちゃんは乗り気じゃないなら無理しなくて良いからね! で? ねえ、正明君はどう? やる? やる気あるの?」
「ははは、どうしようかな。ゲームは良いけど、罰ゲームはちょっとどうかと思うな」
正明は、ぎこちない返事しかできなかった。
なぜ、このタイミングでそんな話題を振って来るのかとも思ったし、楽しそうに話しかけてきた萌恵の目が微塵も笑っていなかったからだ。
(なんとかしろ、いや、逃げるなって事だろうな。詩ちゃんが勇気を持って機会を作った、なら次は僕が動くべきなんだろう、彼女の気持ちに応えるためにも)
正明は、意を決して話しかける。
「詩ちゃん、もしかして炭酸系は苦手かい? さっきから飲んでないみたいだけど」
「そうですね、そんなに」
「じゃあ変えよう、飲みたくないものを無理に飲む必要はないよ。口はつけてないよね? なら飲んでないのは僕が貰おうかな、何がいい?」
「えと、じゃあ緑茶で。でも、自分で入れますから」
「いや、今日はさせられない」
正明は詩の手を遮ると、緑茶の入ったペットボトルを取り、新しいコップに注ぐ。
「今日の感謝の会は、僕ら卒業生から在校生へこれまでの感謝を伝えるための機会だ。だから、今までありがとう」
「・・・・・・、ありがとうございます」
正明の感謝の言葉が、緊張に呑まれていた詩に嬉しさと笑顔を与える。
いつもどおりの会話ができた事が正明も嬉しかった。
そうだ、最初からこうすれば良かったんだ。
なんで、こんな簡単な事を思いつかなかったのだろうと今更に思った。
これでは、幸にヘタレと言われても仕方ないとも。
「思い返せば、僕からお茶を注ぐのは初めてかもしれないね。いつも世話になっているばかりのダメな先輩だったよ」
「そんな、ただ私は好きでやっていただけなので」
詩が天文部に入部して2年が過ぎようとしていた、もうすぐ3年目になる。
そもそも、詩が飲み物を用意するようになったのは、天文部なのに天文部らしい事をしないゆるい活動内容に時間を持て余して、せめてもの気配りとして始めたのがきっかけだった。
そうすると、褒められ、感謝され、会話の足掛かりとなり、一気に先輩たちとの心の距離が縮んだ気がして続けるようになった。
ちょっとした気配りが、繋がりを作った。
繋がった先輩たちは誰もが優しくて良い人で、仲良くなった頃には、この部室が、大好きな人たちが集まる場所に変わっていった。
天文部こそが、自分が自分らしく居られる大切な居場所だと思えるようになった。
詩にとって飲み物を用意するのは苦でも何でもない、当たり前の事となっていた。
「いや、それが大事なんだよ」
正明はあえて否定する。
「当たり前を当たり前として続けていくのは、その努力はきっと何よりも難しいんだ。何よりも」
「正明先輩?」
そう呟く彼の瑠璃色の瞳は、和気藹々と過ごす仲間たちを眺めていた。
同時に、現実ではない何かの想像を重ね合わせているようでもあった。
実の兄妹でありながら幸と苗字が違う理由、両親の離婚に通じるものがあるのではと、詩はニュアンスから感じ取っていた。
「ふっ」
正明は笑いだす。
「どうかしました?」
「いや、すまない。3年間何をしていたかなーって考えたら思い出し笑いをしてしまって、本当に創部しておいてなんだけど、天文部とは名ばかりのお茶を飲んでお喋りをするだけの部活だったよ」
「それが、私たちの天文部だと思います」
「ありがとう。でもね、実は最初だけは天文部らしく真面目に活動してたんだよ、これでもね」
正明は、過去を振り返り、懐かみながら思い出話を詩に聞かせた。
自ら創部に関わっていたからには、思い入れは一層強いのだと感じられた。
詩はそんな正明の思い出話を、一語一句聞き逃さないように夢中になっていた。
何回も聞いた事のある話もあったが、好きな人が楽しそうに話す顔が、楽しい一時を共有しているという瞬間の連続が、何よりも嬉しく、幸せな時間だった。
当人たちは気づかなかったが、詩と正明はさっきまでとは打って変わって、ひたすら2人だけで楽しそうにお喋りをしていた。
「なんだかんだ色々大変な時もあったけど、充実した高校生活だった。僕にとってここは、世界で唯一落ち着ける場所だったかもしれない。そうだ、それもこれも君が居てくれたから、君と出会えたからなんだよ詩ちゃん」
「私ですか?」
意図が掴めず、キョトンとする詩を正明は真っすぐ見つめる。
「本当はね、天文部の創部に誘われた時、ただ話に乗っただけで本心ではそこまでやる気はなかったんだ」
正明は、話さなくてもいい事までつい喋ってしまっていた。
卒業した解放感もあるが、好きな人の前だけはどうしても正直になってしまう自分が居る。
詩ならどんな話も聞いて受け止めてくれる、そんな勝手な期待をしていた。
「僕は、あまり自分の家が好きじゃなくてね。その日も嫌な事があって、そんな時に斎藤さんと亮が天文部を作らないかって誘ってきたんだ。溜まった鬱憤やストレスを少しでも忘れられるなら、気晴らしをする逃げ場になれば、とか不純な気持ちで協力したんだ。でも、それがいつの間にか気の良い友達がいて、可愛い後輩が出来たこの部室が、僕の中ではなくてはならない居場所になっていたんだ」
正明と幸の生まれた坂斉家は代々政治家として続く名家で、血族である子どもは生を受けた時から国のために尽くす事が運命づけられていた。
父親である坂斉幸喜が国会議員となったように、親に習い子も、次代の国運の中心人物になるために物心付いた歳から厳しい英才教育を受けさせられていた。
教育は厳格に、徹底的に行われていた。
生活の時間配分から交友関係に至るまで管理され、個人のプライベートを無視した計画が組まれていた。
朝に起きれば、計画ノルマをこなすだけの機械になる日々。自由はなく、家に居ても学校に居ても、運命や使命の重圧は彼を疲弊させていた。
現在は、幸喜がこれまでの考えを改めて正明への束縛も緩和されたが、それ以前は行き過ぎた方針のせいで長男は愛想を尽かして家を去り、母は身体も精神も病み、妹を連れて離婚するまで至ってしまった。
国のために生きる事が、家族を破壊してまで成し遂げるほど大切なのか?
そんな苦痛と苦悩に抗う高校生活を送っていた矢先に正明が出会ったのが、いつも優しい笑顔でお茶を出して喋りかけてくれる、小さくて可愛らしい後輩の少女だった。
その少女に次第に惹かれていった事で、機械のように生きていた色褪せた日々が鮮やかに色づいていったのを感じた。
流石に、そんな家のプライベートな事情まで話すのは躊躇われたし、恋心をこんな所で察せられても困るので言わなかったが、代わりに今は感謝を伝えようと言葉を紡ぐ。
「ありがとう、詩ちゃん。君が居てくれて本当に良かったよ」
「あ・・・・・・」
詩は好きな人がそこまで自分の事を見ていてくれた、感謝をしてくれていたとわかった時、我慢し難い感情の波が起きた。
両手で持つコップの水面に、水滴が落ちて波紋が広がる。
「どうしたの詩ちゃん?」
「あー! 兄さんが詩ちゃん先輩を泣かしたー!」
「はっ!? 違う! 違うよね詩ちゃん!?」
1度流れ出した涙は止まらない。
どうしようもないぐらい、詩にとっては嬉しい事だったからだ。
「はい、全部、私が悪くて・・・・・・」
「はああああああああ!? ウタを泣かせた挙句、謝らせてそれで済むと思ってんのかテメエ! ぶっ●す!」
正明は何も悪くないと言いたかった詩の言葉は、返ってカノンを怒らせてしまう。
怒りのままにカノンが足でテーブルを踏みつけると、不穏な破壊音が聞こえた。
「ぎゃー! 備品にヒビがー!? ちょっとカノン落ち着いてっていうかどんな足なの!?」
「カノンちゃん先輩、落ち着いてくださいー!」
飛び掛かりそうな勢いのカノンを、萌恵と幸が頑張って止めていた。
「正明よぉ、さすがに女子を泣かせるのは無しだろ」
「冤罪だ・・・・・・詩ちゃん、とりあえず涙を拭いてくれ」
「ありがとう、ございます。やっぱり正明先輩は、優しいですね」
怒号と悲鳴に騒がしくなる部室で頭を抱える正明だったが、詩にはちゃんとハンカチを渡した。
それから落ち着いたのは時刻が6時を回る少し前。
動き出したのは正明の方からだった。
「そろそろかな、詩ちゃん先に行ってるね。渡り廊下で待ってるよ」
「あ、はい」
そっと詩の肩を触れて、正明は部室を出て行った。
そういえば、2人きりで話をするための時間や場所も考えてもいなかったのに今更に気づいた。
しばらく時間を置いて詩も立ち上がり、ドアノブを回して少し扉を開けたところで振り返った。
「どうしたの詩ちゃん、早く行ってあげなよ」
「正明が風邪引いちまうぞ?」
「ここまで来たんですから、あと一押しですよ詩ちゃん先輩!」
カノン以外の全員が詩を後押しする。
でも、詩が待っていたのは、そっぽを向いているたった1人の言葉だった。
「ウタ」
「なに?」
「がんばれ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
正明と詩が抜け、4人だけになった幸たちは足音が遠ざかったのを聞き届けて。
「ようやく、くっつくのかあいつらは」
ぼそり、と亮が口を開いた。
「この前、久しぶりに部室に顔を出した時、何もアクションがなかったらどうするんだこいつらってヒヤヒヤしたぜ」
「わかるー! 誰がどう見ても2人とも両想いだってわかるぐらいだったんだもん、きっと、お似合いのカップルになるよ。でも意外だった、まさか超奥手の詩ちゃんから大胆なお誘いをするなんて」
「私は、詩ちゃん先輩から告白するんじゃないかなって思ってました」
萌恵が亮の意見に肯定したが、幸は異なる見解をしていた。
「マジか」
「なんで?」
「詩ちゃん先輩は、実は凄く芯の強い人だと私には見えるんです。大人しくていつも自分の事よりも他人の事を気に掛けてて、でもしっかりと自分の意志は持っている。だからいざという時には大切な何かのために動ける、そんな人なんだって思うんです」
「つまり、追い詰められたらはっちゃけるタイプって事か?」
「そうですね、そんな感じです」
亮の見解はズレていたが、幸は頷いておいた。
「なにはともあれ、これで詩ちゃんと正明君がくっついてくれれば私たちはもう心残りはないかな? カノンも肩の力抜いたらどう?」
萌恵がだんまりを決め込んでいたカノンの頭に手を置いて引き寄せ、胸に顔を埋めさせた。
「よく頑張ったね。あんなにずっと反対してたのに良いお姉ちゃんだったよ? 詩ちゃんがあんなに良い子に育ったのはカノンのおかげだよ、ありがとう」
カノンは、萌恵の胸に隠されながら、ずっと我慢していた嗚咽を漏らした。
彼女は、ずっと詩が正明に恋心を持っているのを快く思っていなかった。
それは個人的な因縁もあれば、血が繋がっていなくても家族として、ずっと大切に想い、一緒に生きてきた詩を取られたくないという意地もあった。
ただ、家族に彼氏ができるだけの話。それでも泣いてしまうほどに彼女にとって詩の存在は大きかった。
「大丈夫だよ、カノンがどれだけ詩ちゃんを大事にしてたか私たちは知ってるし、これで詩ちゃんとの関係が終わる訳じゃない。正明君も、絶対に詩ちゃんを悲しませるような事はしない、優しくて強い人だから。だから、詩ちゃんたちが帰って来た時は笑って迎え入れてあげよう?」
萌恵に宥められながら、髪を撫でられながら、カノンはできるだけ声を出さない様に泣いた。
妹の恋が実るのを応援している、暖かい仲間たちに出会えた事を感謝しながら。
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2024/12/6:『よりそう』の章を追加。2024/12/13の朝4時頃より公開開始予定。
2024/12/5:『かぜ』の章を追加。2024/12/12の朝4時頃より公開開始予定。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
千年夜行
真澄鏡月
ホラー
多くの人々が笑顔で暮らす人間社会……
その裏側で厄災を鎮める為日々奔走するもの達がいた。
紀伊に住む神山 明美、彼女は何不自由なく平凡に暮らしていた。
しかしある日の夜、彼女達の暮らす家を訪れた異質な訪問者により、当たり前の日常は彼女にとって非日常へと転嫁した。
毎月20日更新予定
【短編】怖い話のけいじばん【体験談】
松本うみ(意味怖ちゃん)
ホラー
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