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49.二度目
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アスドーラたちは魔闘場裏の森にいた。
「……じゃあ、もしもの時はよろしくねえ」
「気は乗らないが、しゃーねえ。パノラは離れてろ」
「う、うん」
亜空間に閉じ込めていた亜人たちを、解放する時が来た。
失敗していれば魂は抜けて、完全なる死が待っている。
しかしアスドーラは、心配していなかった。
いや、心配を押し隠し、大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
亜空間に満ちた魔力は、間違いなく自分のもの。
人のくだらない魔法など、弾いてくれているはず。
それでも、懸念は尽きない。
仮に魂が残っていても、蘇生後、自我を失っている可能性がある。
だからジャックには、戦闘態勢を取ってもらった。
襲いかかってきたり、亜人同士で殺り合ったりした場合に備えて。
そして、亜空間に閉じ込められた者は、廃人となる。
これはパノラで成功したように、アスドーラの魔法で治すことができた。
だから亜空間からみんなを解放した後は、蘇生を行い廃人治療を行う必要がある。
アスドーラは、ジャックに目配せをして、収納魔法という名の亜空間を広げた。
「……うっ。これは」
ジャックが体を震わせ、冷や汗を垂らすのも無理はない。
流れ出る魔力は、ドラゴンの魔力。
空間魔法と呼ばれる、亜空間を利用した魔法は、基本的に短い時間で完結する。
転移も、収納魔法も、秒数で言えば1秒にも満たない。
だが今は、アスドーラ自身の膨大な魔力と魔法技術によって、亜空間を世界に広げている。
流れ出るはずのない魔力が、流れ出ているわけだ。
ドサッ――。
ドサドサ。
無造作に落ちてくる亜人たち。
見慣れた制服、見慣れたローブに身を纏う彼らは、皆意識を失っている。
『蘇活せよ!』
亜空間が閉じた瞬間、アスドーラは呪文を唱えた。
キラキラ輝く空気の層が、多数の亜人たちを包み込み、そして蘇生する。
「アスドーラ!起きない奴は諦めろッ!」
「……うん」
一人一人に纏わりつく輝きが、亜人たちを蘇生させていくが、とある数名には効果がなかった。
アスドーラからは、はっきりと見える。
彼らには、生命の輝き、つまり魂がもうなかった。
実際、亜空間内は魔法を通さなかったらしい。
それは、数多くの亜人たちの中に魂が残っていたから、断言できる。
だが、効果の現れなかったものは、亜空間に入れられる前に、事切れたのだろう。
アスドーラが遅れたのか、彼らの魂が脆かったのか。
判断する術はない。
ジャックの言葉で意識を入れ替え、すぐさま治癒の魔法を施した。
ぶわりと広がる、神秘の魔力は亜人たちを包みこんだ。
ザクソンには『回復せよ』を教わったが、そちらよりも実績と信頼がある、己の魔法を選択した。
アスドーラの魔法が、苦しそうにする亜人たちへ安らぎを与え、そして癒しを与える。
それと同時に、亜空間の弊害である廃人化を回復させた。
心の傷は癒せないと人は言うが、アスドーラには及ばない言葉である。
世界最強に優しいドラゴンの、心に寄り添う魔法であった。
「……ありゃあ、ヤバくねえかって、おいッ!」
一人の獣人がふらりと起きると、遠くで事を眺めていたパノラへと駆け出した。
それはまるで、弱いものから食らう獣のような行動であった。
「悪いなッ!」
ズドォォォンッ!
ナックルダスターから放たれた、強烈な魔力打拳は、獣人の顔を粉砕した。
ビクビクと痙攣する獣人を見て、パノラは怯えていたが、ジャックは頭を撫でることすらできない。
「マジかよ」
続々と立ち上がる亜人たち。
その中の数名が、暴れ出した。
「ッぎゃゃゃああ」
「離れろっ!うわああ」
ジャックは、大混乱の中に飛び込み、獰猛な野性味を感じる亜人たちを片っ端からぶん殴る。
彼だって経験があるわけではない。
初めて見る症状に対して、正常か異常か看破するすべなどない。
だから勘で殴った。
「……うっ、止めて」
「悪い!」
ドゴォォォンッ!
見事に回復した途端に、強烈な一撃を見舞われた者もいた。
だがアスドーラの魔法がどんどん治癒させていく。
混迷を極めた復活の大仕事は、アスドーラの魔法が解かれて終了となる。
後はそれぞれ名前を聞いていくだけだが、なんせ他クラスの生徒たちなので、確認のしようがない。
「……ノピー?ネネ?」
友だち以外はひとまず放っといて、横たわるノピーとネネの側へ駆け寄った。
二人はぼうっと空を見上げていて、暴れまわるジャックたちには目もくれない。
不安になったアスドーラであったが、ボソリとノピーが呟いた。
「気分が悪いよ。アスドーラ君」
弱々しく、笑顔を浮かべた。
するとネネも、何かを飲み込みアスドーラを見やる。
「……ごめん見ないで。ぉぇぇぇ」
恋する乙女には、あまりにも酷な魔力酔い。
百年の恋も一時に冷めるという言葉があるが、それは短い時を生きる人が作ったもの。
生まれてこの方45億年目のアスドーラには、まったく持って縁のない言葉であった。
「よーし。よーし」
甲斐甲斐しくネネの背中を擦り、ぼうっとするノピーを見やり、アスドーラは優しく笑う。
これまで感じたことのない、温かい気持ちに心が包まれていた。
生きててくれて良かった。
「ノピー、ネネ。一応、名前を教えてよ。大事なことなんだ」
一度経験しているノピーはすぐに答えた。
「ノピー・ユーノマン」
一方ネネは、困惑しながらもノピーに続いて答えた。
「ネネ・カットス」
アスドーラはハッとした。
そう言えば、ネネのフルネームを聞いたことがなかったからだ。
「……本当に合ってる?名前が間違ってると、ああなるみたいなんだけど。大丈夫だよねえ?」
アスドーラが視線を向けたのは、暴れまわる獣人と少し汗ばむジャックだった。
「じゃあおばさんに……おばさんッ!おばさんはどこ!?」
ネネのおばに確かめればいい。そう言いかけた途端に、彼女の存在を思い出した。
無理矢理体を起こし、辺りを見回すが知らない猫人ばかり。
するとアスドーラは、ネネの背後へと声をかけた。
「合ってますか?」
彼女はポツリと座っていた。
アスドーラの問いかけに弱々しくも頷き、ネネの名を呼んだ。
「大丈夫?」
「おばさんこそ大丈夫!?治ったの!?」
「治ったよ。セニア・カットス。今はブロード。セニア・ブロードよ。ね?治ってるでしょ」
抱き合う2人の傍らで、横になったまま動かないノピー。
アスドーラは、逡巡していた。
告げるべきか、それとも隠し通すべきか。
ノピーが起き上がれない理由は、生命の輝きが教えてくれている。
やはり小さいままだった。
戻ることはないと思っていたけれど、ここまで肉体にダメージがいくのは想定外だった。
ふと、目が合う。
空を見上げていたはずのノピーは、アスドーラを見てニコリと笑った。
「助けてくれてありがとうね。アスドーラ君」
「……う、うん」
やはり言おう。
正直でいるべきだと、ノピーやネネに教えてもらったばかりなのだから。
正直に言って、僕が安心させてやればいい。
秘密を打ち明けさせてくれた、あの時のノピーのように。
「ノピー、あのさ――」
「大丈夫。体は動くよ」
ノピーはごろりと転がると、腕を張って体を起こし、体をよじって座った。
あまりにもぎこちない動きを見て、アスドーラは唇をかみしめた。
「……はあ。でも、体が重いや。それになんか、なくなった気がする」
人は魂を感じることができるのか。
答えは否。
ドラゴンにしか視えないし、感じることもできない。
ザクソンがやってみせたように、魔法と論理的推論でしか魂を認識できない。
だがノピーは特別であった。
何度もアスドーラの魔力を身に受けていたからだ。
治癒に始まり、転移を行い、そして亜空間に留まり、今も治癒を受けた。
ドラゴンの魔力を浴びれば、普通は数分と持たずに死んでしまう。
だがアスドーラは、魔力を調整しノピーの体に魔法という形で魔力を流し続けた。
だから魂を感じることができているのだ。
ノピーが言う「なくなった気がする」とは今まで感じ得なかった魂が大きく損なわれたという、形容し難い喪失感を表していた。
「ノピー。伝えたいことがあるんだ」
アスドーラは、ノピーと視線を同じくして向き合った。
何かを感じているのなら、薄々自分でも分かっているはずだから。
「……うん」
「あのね、ノピーの魂――」
ゴォォォォォ!
それは唐突に起きた。
大地から天を穿つ光の柱が立ち上がった。
魔力に聡くないものでも、あの柱に練り込まれた魔力を視認できた。
そしてノピーとアスドーラは、光柱から響く絶叫に体を震わせた。
それはまさに、魂の叫び。
「あれは一体……」
ノピーの呟きは、届かなかった。
「……ぅっぐぁぁぁぁああああああああッ!」
アスドーラは絶叫した。
人の体では到底御しきれない魔力の波動が、全身を駆け巡る。
心臓が破裂し、内臓は捩じ切れ、筋肉も骨も脳みそも、ぐちゃぐちゃと音を立ててかき回される。
「アスドーラ君!」
ノピーの言葉が、一瞬だけアスドーラの意識を呼び起こした。
たった一瞬であったが、それはアスドーラにとって、幸運とも呼べる一瞬だった。
「僕から逃げろッ!」
そう言ってアスドーラは、空へ飛び上がる。
内から止めどなく溢れる魔力を魔法に変え、どこまでも飛んだ。
早く離れねば。
その一心で飛び続け、人の体は正体を曝け出す。
皮膚を突き破ったのは、尻尾であった。
みるみるうちに、アスドーラは本来の姿へと変貌する。
明るい日差しを遮るほどの巨躯が、途方もない魔力を世界へもたらす。
それは瘴気と呼ばれるものだった。
バサリバサリと向かうは、あの光柱。
ドラゴンの本能が叫び続け、アスドーラの意識がかき消される。
アレは危険だ。
アレは世界に破滅をもたらす。
アレは消す。
消す消す消す。
アースドラゴンは息を吸い込み、咆哮した。
ギュアォォォォォッ!
ビリビリと大地を震わせ、空気を叩き光すらもねじ曲げる咆哮は、光柱を断ち切る。
だが、すぐさま光が立ち上り、何事もなかったように、光柱は天を貫き続けた。
一つ羽ばたけば、空気を消す。
二つ羽ばたけば、空を消す。
三つ羽ばたけば、星を消す。
見慣れた空はもうなかった。
そこにあるのは暗闇。
高い高い空にいるはずなのに、もうそこに日差しはなかった。
※※※
骨の髄を犯される、そんな感覚であった。
瘴気が大地に降り注ぎ、体は悲鳴を上げていた。
魔力を放出しようとしたらしいが、あいにくそんなものはない。
魔力酔いと瘴気の二重奏が、視界をぐらぐらと揺らす。
「……アスドーラ、君」
定かでない視界に映る、灰色の竜。
アスドーラの真の姿であった。
しかし頭から離れないのは、苦しむ彼の姿だった。
喉を切り裂く絶叫と共に、蹲ったと思えば急に飛んだ。
跳躍と同時に空へと飛んだのだ。
あれはきっと、僕たちに逃げる時間を与えるため。
でもこの瘴気では、動くこともままならない。
「っく……ノピーッ!どうしたらいいんだ!」
パノラを庇いながらジャックは叫ぶ。
どうしたらいいのか。
そう尋ねられて、どうにかできるならば、誰もドラゴンには怯えないはずだ。
けれど、ノピーは考える。
あれがただのドラゴンであれば、考えるのを止めて諦めたであろうが、違うのだ。
最初の友だちだ。
だから考える。
自分たちが助かる方法を。
ここにいる亜人たち、ジャック、パノラが助かる方法を。
アスドーラの苦しみを取り除き、ここへ引き戻す方法を。
ギュアォォォォォッ!
鼓膜を破りそうな咆哮が、空気を震わせた。
幸いにも、いやアスドーラが空高く飛んでくれたから、被害は少ない。
バサリバサリと風が吹きすさぶたび、空が星が消えていく。
かつての空は暗闇になり、瘴気が遠ざかっていく。
アスドーラの魔力はまだまだ残っているけれど、動けないほどじゃない。
ノピーは何をすべきか考えた。
まずは自分たちの安全確保。
それからアスドーラを連れ戻す。
そのために何ができるのか。
「あの光は、きっと王都だ。じゃあ北へ逃げればいい」
よろよろと立ち上がり、ネネや亜人たちへと声をかけようとしたが、体がバランスを崩して倒れ込む。
「だ、大丈夫?」
ネネの手を借りてもう一度立ち上がり、亜人たちを見回した。
瘴気が弱まり薄れている。
それはアスドーラが空高く飛び、さらに南へと距離をとっているからだ。
だからこそ、亜人たちも自分たちもこうして生きている。
そう、アスドーラが助けてくれている。
逃げるのが、本当に正しいことなのだろうか。
アスドーラが一人戦っているのに、離れてしまうのか。
何度も助けられた。命を救われた。
亜人だという理由で僕から離れたことは一度たりともなかった。
僕は逃げるのか。
ドラゴンだから?
生き延びるつもりなら、きっと逃げたほうがいい。
でも生きるなら、恥のない方を選びたい。
ギリギリの命。
アスドーラ君に拾ってもらった命だ。
苦しむ友だちを見捨てて、生き延びたくはない。
「ジャック君。みんなを連れて北へ向かって」
「……んああ。おいッ!」
ノピーは、歩くのもやっとだった。
3歩進んで転び、2歩進んで蹌踉めき、1步進んでまた転ぶ。
魂の毀損は、ノピーの体力を削っていた。
体の力、すなわち寿命である。
魂が毀損し、魂が小さくなり、死が近づいてしまった。
彼は人間で言う50歳程度にまで衰えており、さらに言えば、悪意ある魔法にあてられ、2度の蘇生を施され、体力も魔力も何もなかった。
けれど歩き続けられるのは、頑強な精神の力があったから。
なんとしてもアスドーラを助けるという思いと、根性が彼の体を突き動かしていたのだ。
「……お前、どこ行くつもりだよ」
ヨボヨボと歩くノピーの隣で、ジャックは尋ねた。
「ちょっとお手洗いに」
「……一人で行く気か」
「はあ……連れションしたいの?」
「……クソつまんねえよノピー。アスドーラんとこ行く気だろ」
「はあ、はあ。いいや、それはないよ。そんなことしたら死んじゃうじゃないか」
「……だから泣いてんだろ?」
ノピーは内気な少年だ。
勉強に打ち込める努力家で、人に気を使える思慮深さがあり、友だちを助けたいと思う優しさがある、ただの少年だ。
決して英雄なんかじゃない。
頭の良いノピーは、教室で魔力を失った時本気で死ぬと思った。
プジラと叫ぶザクソンの声が聞こえ、次は自分かと悟り、そしてアスドーラに救われた。
そしてついさっきここで目覚めた時に、周りに横たわる亜人たちを見て、またか、と諦めのような気持ちになっていた。
どうせまた、人間にやられたんだろうなと。
また何もできず、殺されそうになったんだなと。
抵抗すらできず命は削られ、命を救ってくれたアスドーラは我を失っている。
命だけでなく、友だちまで奪おうとしている。
怒りに任せて、自分を奮い立たせて歩いてみるけれど、怖いものは怖い。
もしも明日死ぬとしても、今すぐ死にたくはない。
でも友だちを見捨てて生き恥をさらしたくもない。
怖い――。
僕が行ったって、何もできないと思う。
あのドラゴンに、何かできるはずもない。
そりゃあ怖い。
初めて感じた瘴気の恐ろしさは、忘れることができないし、咆哮は耳にこびりついてるし、空の暗闇が世界を飲み込みそうで、怖い。
なぜ涙が流れるのか。
怖いからだ。
怖いけど、歩くのを止める気はない。
ノピーは涙を拭って歩いた。
亜人たちは皆、黙ってその背中を眺め、ジャックは隣でため息をつく。
「……なんで俺には助けてって言わねえんだよ。アスドーラには言うくせに」
呆れ顔で大きく首を振ったジャックは、パノラをチラリと見やる。
「パノラ!ソーチャルんとこ行くぞ!」
タタタッと走るパノラは、彼らが何を考えているのか知らない。
まさかドラゴンのところへ行くとは思わないから、ポツリと素直な思いをこぼした。
「ドーラちゃん、戻ってくるよねえ?」
「当たり前だろ。さあ行くぞ」
妹にはめっぽう弱いジャックにとって、その言葉は励みになった。
根性をみせたノピーと共に行く。
アスドーラを助けるために。
連れ戻すために。
転びそうになるノピーの肩に手を回し、彼の体を支えた。
「……あ、ありがとう」
「いっぺんアイツは、ぶっ飛ばさねえとな。ドラゴンだからって調子乗ってるわ」
「……う、うん。そうだね」
パノラも兄に倣ってノピーの手を握り、2人に支えられながら魔闘場の扉前にたどり着く。
ジャックが扉を開け放ち、3人は中へ入ろうとすると背後で声がした。
「ネネッ!待ちなさい!」
振り返ると2、3度ずっこけながら、魔闘場へ走るネネの姿があった。
「……はあ、はあ。ぅぉぇ」
魔力酔いで顔は青ざめているが、決意は揺るがない。
「おばさんごめん!」
「ネネ!今すぐ戻りなさいッ!」
「早く行こう?おばさんが追いかけてきちゃう」
扉を塞ぐ3人をグイグイと押し込み、バタリと扉を閉じた。
「……ネネさん。止めたほうが」
そう言おとしたノピーだったが、彼女の表情を見て口を噤んだ。
有無を言わせぬ確固たる意思が、容易に見て取れたからだ。
彼女も覚悟を決めている。
ならばこれ以上は言うまい。
「アイツ、知り合いか?」
ふらつきながらもズンズン前を歩くネネの背を見て、ジャックは隣へ尋ねた。
獣種にもよるが獣人というのは耳が良い。
ジャックも一応気を使って小声にしてはいたが、思い切りネネの鼓膜に届いていた。
「……ノピー君。ちゃんと紹介してよね」
「あ、ご、ごめん」
「アスドーラの彼女のネネです。よろしくね」
度肝を抜かれたのは、ノピーだけではない。
ジャックもパノラも、思わず立ち止まってしまう。
あのアスドーラに彼女……。
移り気が激しく、飽きも早く、ぽやぽやしたあのアスドーラに。
友だちとの距離が近く、人との距離感をあんまり把握していないあのアスドーラが。
ジャックもノピーもなんとなく察したが、何も言わずに歩き出す。
たぶんこの話題には触れないほうが良い。
何を言ったって彼女は耳を貸さないだろうし、今この状況で言い争うのも時間の無駄だから。
思い込み激しく愛が重めな彼女に、この話題を振るのはやめよう。二人は無言で認識を共有するのであった。
※※※
「それは認識が間違っております大臣。ノース竜皇国はアースドラゴン様へ臣従するのです。それ以外のドラゴン――」
「陛下ッ!」
ノース竜皇国への国名変更と、それに伴う諸々の宣言について連絡が殺到していた。本来なら政府と政府、王と王での対話が望ましいが、一気に押し寄せる波を捌ける人員がおらず、しかも悠長に構えている時間もなかったため、女王自ら他国政府の質問へ答えていた。
女王執務室では、思念の魔導具越しに誤解を解いていた真っ最中、一人の騎士が慌てた様子で飛び込んできた。
「失礼、少々お待ちを。何事ですかッ!」
「も、申し訳ありません。急ぎバルコニーへお越しください」
「……一体どうしたのです」
「ドラゴン様が、お怒りになっております」
思念の魔導具から手を離すと、エリーゼはすぐに執務室を出た。
バルコニーには既に人が集まっており、皆が道を開け頭を下げる。
「……何が」
彼女の目に映った光景は、美しい絶望であった。
日の光が眩しいノース竜皇国よりも向こうには、暗闇が広がっていた。
その闇を穿つ煌々とした光。
そして羽ばたく一柱のドラゴン。
ギュアォォォォォッ!
女王たちの鼓膜を響かせる竜の咆哮。
次の瞬間には、全身が総毛立つ濃密な魔力が、そよ風のように頬を撫でた。
バルコニーから言葉は消えた。
目の前で、一つの王国が消えようとしているのだ。
かつて南域で起きたと言われる、ボルケーノドラゴンの災害。
二千年前、西で発生した災厄。
どちらも多大な被害が出たが、二千年前の災厄にだけはしてはならない。
南で起きた災害とは、まったく持って次元が違ったからだ。
その人数、その範囲。
世界を巻き込んだ災厄であった。
そんな災厄を望んでいるはずがない。
あの心優しきアースドラゴンが、そんなはずは。
ふとエリーゼの脳裏に蘇る、アスドーラの言葉。
「世界から人を消したって構わない」
アスドーラが初めて、ドラゴンらしい言葉を吐いた瞬間であった。
ドラゴンとはかくあるべき。
世界の絶対的支配者であるドラゴンには、あらゆるわがままが許され、人が気に食わなければ消し去っても構わない。
そんな存在であるにも関わらず、アスドーラは王城まで謝りに来てくれた。
きちんと話を聞き、自分の思いを伝え、人を慮る事が出来る。
世にも珍しき優しいドラゴンである。
絶対にさせてはいけない。
アースドラゴンを災厄の元凶にだけは、させてはいけない。
あれほどまでに人を愛し、人に絶望し、人へ期待してくれるドラゴンに、災厄は似合わない。
エリーゼは決然とした表情で言った。
「国境はすべて開放しなさい。騎士を動員し、避難民の護衛にあたらせるのです」
大臣、貴族、高官たちは、頭を下げてすぐに動き出す。
もちろん異を唱える者などいない。
ノース竜皇国を名乗ると決めた時から、アースドラゴンが舞い降りた日から、建国した時からやることはずっと変わらない。
おこがましい限りではあるが、守らせていただく。
ドラゴンの住処である、この世界を。
――――作者より――――
最後までお読みいただき、ありがとうごさいます。
作者の励みになりますので、♡いいね、コメント、☆お気に入り、をいただけるとありがたいです!
お手数だとは思いますが、何卒よろしくお願いします!
「……じゃあ、もしもの時はよろしくねえ」
「気は乗らないが、しゃーねえ。パノラは離れてろ」
「う、うん」
亜空間に閉じ込めていた亜人たちを、解放する時が来た。
失敗していれば魂は抜けて、完全なる死が待っている。
しかしアスドーラは、心配していなかった。
いや、心配を押し隠し、大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
亜空間に満ちた魔力は、間違いなく自分のもの。
人のくだらない魔法など、弾いてくれているはず。
それでも、懸念は尽きない。
仮に魂が残っていても、蘇生後、自我を失っている可能性がある。
だからジャックには、戦闘態勢を取ってもらった。
襲いかかってきたり、亜人同士で殺り合ったりした場合に備えて。
そして、亜空間に閉じ込められた者は、廃人となる。
これはパノラで成功したように、アスドーラの魔法で治すことができた。
だから亜空間からみんなを解放した後は、蘇生を行い廃人治療を行う必要がある。
アスドーラは、ジャックに目配せをして、収納魔法という名の亜空間を広げた。
「……うっ。これは」
ジャックが体を震わせ、冷や汗を垂らすのも無理はない。
流れ出る魔力は、ドラゴンの魔力。
空間魔法と呼ばれる、亜空間を利用した魔法は、基本的に短い時間で完結する。
転移も、収納魔法も、秒数で言えば1秒にも満たない。
だが今は、アスドーラ自身の膨大な魔力と魔法技術によって、亜空間を世界に広げている。
流れ出るはずのない魔力が、流れ出ているわけだ。
ドサッ――。
ドサドサ。
無造作に落ちてくる亜人たち。
見慣れた制服、見慣れたローブに身を纏う彼らは、皆意識を失っている。
『蘇活せよ!』
亜空間が閉じた瞬間、アスドーラは呪文を唱えた。
キラキラ輝く空気の層が、多数の亜人たちを包み込み、そして蘇生する。
「アスドーラ!起きない奴は諦めろッ!」
「……うん」
一人一人に纏わりつく輝きが、亜人たちを蘇生させていくが、とある数名には効果がなかった。
アスドーラからは、はっきりと見える。
彼らには、生命の輝き、つまり魂がもうなかった。
実際、亜空間内は魔法を通さなかったらしい。
それは、数多くの亜人たちの中に魂が残っていたから、断言できる。
だが、効果の現れなかったものは、亜空間に入れられる前に、事切れたのだろう。
アスドーラが遅れたのか、彼らの魂が脆かったのか。
判断する術はない。
ジャックの言葉で意識を入れ替え、すぐさま治癒の魔法を施した。
ぶわりと広がる、神秘の魔力は亜人たちを包みこんだ。
ザクソンには『回復せよ』を教わったが、そちらよりも実績と信頼がある、己の魔法を選択した。
アスドーラの魔法が、苦しそうにする亜人たちへ安らぎを与え、そして癒しを与える。
それと同時に、亜空間の弊害である廃人化を回復させた。
心の傷は癒せないと人は言うが、アスドーラには及ばない言葉である。
世界最強に優しいドラゴンの、心に寄り添う魔法であった。
「……ありゃあ、ヤバくねえかって、おいッ!」
一人の獣人がふらりと起きると、遠くで事を眺めていたパノラへと駆け出した。
それはまるで、弱いものから食らう獣のような行動であった。
「悪いなッ!」
ズドォォォンッ!
ナックルダスターから放たれた、強烈な魔力打拳は、獣人の顔を粉砕した。
ビクビクと痙攣する獣人を見て、パノラは怯えていたが、ジャックは頭を撫でることすらできない。
「マジかよ」
続々と立ち上がる亜人たち。
その中の数名が、暴れ出した。
「ッぎゃゃゃああ」
「離れろっ!うわああ」
ジャックは、大混乱の中に飛び込み、獰猛な野性味を感じる亜人たちを片っ端からぶん殴る。
彼だって経験があるわけではない。
初めて見る症状に対して、正常か異常か看破するすべなどない。
だから勘で殴った。
「……うっ、止めて」
「悪い!」
ドゴォォォンッ!
見事に回復した途端に、強烈な一撃を見舞われた者もいた。
だがアスドーラの魔法がどんどん治癒させていく。
混迷を極めた復活の大仕事は、アスドーラの魔法が解かれて終了となる。
後はそれぞれ名前を聞いていくだけだが、なんせ他クラスの生徒たちなので、確認のしようがない。
「……ノピー?ネネ?」
友だち以外はひとまず放っといて、横たわるノピーとネネの側へ駆け寄った。
二人はぼうっと空を見上げていて、暴れまわるジャックたちには目もくれない。
不安になったアスドーラであったが、ボソリとノピーが呟いた。
「気分が悪いよ。アスドーラ君」
弱々しく、笑顔を浮かべた。
するとネネも、何かを飲み込みアスドーラを見やる。
「……ごめん見ないで。ぉぇぇぇ」
恋する乙女には、あまりにも酷な魔力酔い。
百年の恋も一時に冷めるという言葉があるが、それは短い時を生きる人が作ったもの。
生まれてこの方45億年目のアスドーラには、まったく持って縁のない言葉であった。
「よーし。よーし」
甲斐甲斐しくネネの背中を擦り、ぼうっとするノピーを見やり、アスドーラは優しく笑う。
これまで感じたことのない、温かい気持ちに心が包まれていた。
生きててくれて良かった。
「ノピー、ネネ。一応、名前を教えてよ。大事なことなんだ」
一度経験しているノピーはすぐに答えた。
「ノピー・ユーノマン」
一方ネネは、困惑しながらもノピーに続いて答えた。
「ネネ・カットス」
アスドーラはハッとした。
そう言えば、ネネのフルネームを聞いたことがなかったからだ。
「……本当に合ってる?名前が間違ってると、ああなるみたいなんだけど。大丈夫だよねえ?」
アスドーラが視線を向けたのは、暴れまわる獣人と少し汗ばむジャックだった。
「じゃあおばさんに……おばさんッ!おばさんはどこ!?」
ネネのおばに確かめればいい。そう言いかけた途端に、彼女の存在を思い出した。
無理矢理体を起こし、辺りを見回すが知らない猫人ばかり。
するとアスドーラは、ネネの背後へと声をかけた。
「合ってますか?」
彼女はポツリと座っていた。
アスドーラの問いかけに弱々しくも頷き、ネネの名を呼んだ。
「大丈夫?」
「おばさんこそ大丈夫!?治ったの!?」
「治ったよ。セニア・カットス。今はブロード。セニア・ブロードよ。ね?治ってるでしょ」
抱き合う2人の傍らで、横になったまま動かないノピー。
アスドーラは、逡巡していた。
告げるべきか、それとも隠し通すべきか。
ノピーが起き上がれない理由は、生命の輝きが教えてくれている。
やはり小さいままだった。
戻ることはないと思っていたけれど、ここまで肉体にダメージがいくのは想定外だった。
ふと、目が合う。
空を見上げていたはずのノピーは、アスドーラを見てニコリと笑った。
「助けてくれてありがとうね。アスドーラ君」
「……う、うん」
やはり言おう。
正直でいるべきだと、ノピーやネネに教えてもらったばかりなのだから。
正直に言って、僕が安心させてやればいい。
秘密を打ち明けさせてくれた、あの時のノピーのように。
「ノピー、あのさ――」
「大丈夫。体は動くよ」
ノピーはごろりと転がると、腕を張って体を起こし、体をよじって座った。
あまりにもぎこちない動きを見て、アスドーラは唇をかみしめた。
「……はあ。でも、体が重いや。それになんか、なくなった気がする」
人は魂を感じることができるのか。
答えは否。
ドラゴンにしか視えないし、感じることもできない。
ザクソンがやってみせたように、魔法と論理的推論でしか魂を認識できない。
だがノピーは特別であった。
何度もアスドーラの魔力を身に受けていたからだ。
治癒に始まり、転移を行い、そして亜空間に留まり、今も治癒を受けた。
ドラゴンの魔力を浴びれば、普通は数分と持たずに死んでしまう。
だがアスドーラは、魔力を調整しノピーの体に魔法という形で魔力を流し続けた。
だから魂を感じることができているのだ。
ノピーが言う「なくなった気がする」とは今まで感じ得なかった魂が大きく損なわれたという、形容し難い喪失感を表していた。
「ノピー。伝えたいことがあるんだ」
アスドーラは、ノピーと視線を同じくして向き合った。
何かを感じているのなら、薄々自分でも分かっているはずだから。
「……うん」
「あのね、ノピーの魂――」
ゴォォォォォ!
それは唐突に起きた。
大地から天を穿つ光の柱が立ち上がった。
魔力に聡くないものでも、あの柱に練り込まれた魔力を視認できた。
そしてノピーとアスドーラは、光柱から響く絶叫に体を震わせた。
それはまさに、魂の叫び。
「あれは一体……」
ノピーの呟きは、届かなかった。
「……ぅっぐぁぁぁぁああああああああッ!」
アスドーラは絶叫した。
人の体では到底御しきれない魔力の波動が、全身を駆け巡る。
心臓が破裂し、内臓は捩じ切れ、筋肉も骨も脳みそも、ぐちゃぐちゃと音を立ててかき回される。
「アスドーラ君!」
ノピーの言葉が、一瞬だけアスドーラの意識を呼び起こした。
たった一瞬であったが、それはアスドーラにとって、幸運とも呼べる一瞬だった。
「僕から逃げろッ!」
そう言ってアスドーラは、空へ飛び上がる。
内から止めどなく溢れる魔力を魔法に変え、どこまでも飛んだ。
早く離れねば。
その一心で飛び続け、人の体は正体を曝け出す。
皮膚を突き破ったのは、尻尾であった。
みるみるうちに、アスドーラは本来の姿へと変貌する。
明るい日差しを遮るほどの巨躯が、途方もない魔力を世界へもたらす。
それは瘴気と呼ばれるものだった。
バサリバサリと向かうは、あの光柱。
ドラゴンの本能が叫び続け、アスドーラの意識がかき消される。
アレは危険だ。
アレは世界に破滅をもたらす。
アレは消す。
消す消す消す。
アースドラゴンは息を吸い込み、咆哮した。
ギュアォォォォォッ!
ビリビリと大地を震わせ、空気を叩き光すらもねじ曲げる咆哮は、光柱を断ち切る。
だが、すぐさま光が立ち上り、何事もなかったように、光柱は天を貫き続けた。
一つ羽ばたけば、空気を消す。
二つ羽ばたけば、空を消す。
三つ羽ばたけば、星を消す。
見慣れた空はもうなかった。
そこにあるのは暗闇。
高い高い空にいるはずなのに、もうそこに日差しはなかった。
※※※
骨の髄を犯される、そんな感覚であった。
瘴気が大地に降り注ぎ、体は悲鳴を上げていた。
魔力を放出しようとしたらしいが、あいにくそんなものはない。
魔力酔いと瘴気の二重奏が、視界をぐらぐらと揺らす。
「……アスドーラ、君」
定かでない視界に映る、灰色の竜。
アスドーラの真の姿であった。
しかし頭から離れないのは、苦しむ彼の姿だった。
喉を切り裂く絶叫と共に、蹲ったと思えば急に飛んだ。
跳躍と同時に空へと飛んだのだ。
あれはきっと、僕たちに逃げる時間を与えるため。
でもこの瘴気では、動くこともままならない。
「っく……ノピーッ!どうしたらいいんだ!」
パノラを庇いながらジャックは叫ぶ。
どうしたらいいのか。
そう尋ねられて、どうにかできるならば、誰もドラゴンには怯えないはずだ。
けれど、ノピーは考える。
あれがただのドラゴンであれば、考えるのを止めて諦めたであろうが、違うのだ。
最初の友だちだ。
だから考える。
自分たちが助かる方法を。
ここにいる亜人たち、ジャック、パノラが助かる方法を。
アスドーラの苦しみを取り除き、ここへ引き戻す方法を。
ギュアォォォォォッ!
鼓膜を破りそうな咆哮が、空気を震わせた。
幸いにも、いやアスドーラが空高く飛んでくれたから、被害は少ない。
バサリバサリと風が吹きすさぶたび、空が星が消えていく。
かつての空は暗闇になり、瘴気が遠ざかっていく。
アスドーラの魔力はまだまだ残っているけれど、動けないほどじゃない。
ノピーは何をすべきか考えた。
まずは自分たちの安全確保。
それからアスドーラを連れ戻す。
そのために何ができるのか。
「あの光は、きっと王都だ。じゃあ北へ逃げればいい」
よろよろと立ち上がり、ネネや亜人たちへと声をかけようとしたが、体がバランスを崩して倒れ込む。
「だ、大丈夫?」
ネネの手を借りてもう一度立ち上がり、亜人たちを見回した。
瘴気が弱まり薄れている。
それはアスドーラが空高く飛び、さらに南へと距離をとっているからだ。
だからこそ、亜人たちも自分たちもこうして生きている。
そう、アスドーラが助けてくれている。
逃げるのが、本当に正しいことなのだろうか。
アスドーラが一人戦っているのに、離れてしまうのか。
何度も助けられた。命を救われた。
亜人だという理由で僕から離れたことは一度たりともなかった。
僕は逃げるのか。
ドラゴンだから?
生き延びるつもりなら、きっと逃げたほうがいい。
でも生きるなら、恥のない方を選びたい。
ギリギリの命。
アスドーラ君に拾ってもらった命だ。
苦しむ友だちを見捨てて、生き延びたくはない。
「ジャック君。みんなを連れて北へ向かって」
「……んああ。おいッ!」
ノピーは、歩くのもやっとだった。
3歩進んで転び、2歩進んで蹌踉めき、1步進んでまた転ぶ。
魂の毀損は、ノピーの体力を削っていた。
体の力、すなわち寿命である。
魂が毀損し、魂が小さくなり、死が近づいてしまった。
彼は人間で言う50歳程度にまで衰えており、さらに言えば、悪意ある魔法にあてられ、2度の蘇生を施され、体力も魔力も何もなかった。
けれど歩き続けられるのは、頑強な精神の力があったから。
なんとしてもアスドーラを助けるという思いと、根性が彼の体を突き動かしていたのだ。
「……お前、どこ行くつもりだよ」
ヨボヨボと歩くノピーの隣で、ジャックは尋ねた。
「ちょっとお手洗いに」
「……一人で行く気か」
「はあ……連れションしたいの?」
「……クソつまんねえよノピー。アスドーラんとこ行く気だろ」
「はあ、はあ。いいや、それはないよ。そんなことしたら死んじゃうじゃないか」
「……だから泣いてんだろ?」
ノピーは内気な少年だ。
勉強に打ち込める努力家で、人に気を使える思慮深さがあり、友だちを助けたいと思う優しさがある、ただの少年だ。
決して英雄なんかじゃない。
頭の良いノピーは、教室で魔力を失った時本気で死ぬと思った。
プジラと叫ぶザクソンの声が聞こえ、次は自分かと悟り、そしてアスドーラに救われた。
そしてついさっきここで目覚めた時に、周りに横たわる亜人たちを見て、またか、と諦めのような気持ちになっていた。
どうせまた、人間にやられたんだろうなと。
また何もできず、殺されそうになったんだなと。
抵抗すらできず命は削られ、命を救ってくれたアスドーラは我を失っている。
命だけでなく、友だちまで奪おうとしている。
怒りに任せて、自分を奮い立たせて歩いてみるけれど、怖いものは怖い。
もしも明日死ぬとしても、今すぐ死にたくはない。
でも友だちを見捨てて生き恥をさらしたくもない。
怖い――。
僕が行ったって、何もできないと思う。
あのドラゴンに、何かできるはずもない。
そりゃあ怖い。
初めて感じた瘴気の恐ろしさは、忘れることができないし、咆哮は耳にこびりついてるし、空の暗闇が世界を飲み込みそうで、怖い。
なぜ涙が流れるのか。
怖いからだ。
怖いけど、歩くのを止める気はない。
ノピーは涙を拭って歩いた。
亜人たちは皆、黙ってその背中を眺め、ジャックは隣でため息をつく。
「……なんで俺には助けてって言わねえんだよ。アスドーラには言うくせに」
呆れ顔で大きく首を振ったジャックは、パノラをチラリと見やる。
「パノラ!ソーチャルんとこ行くぞ!」
タタタッと走るパノラは、彼らが何を考えているのか知らない。
まさかドラゴンのところへ行くとは思わないから、ポツリと素直な思いをこぼした。
「ドーラちゃん、戻ってくるよねえ?」
「当たり前だろ。さあ行くぞ」
妹にはめっぽう弱いジャックにとって、その言葉は励みになった。
根性をみせたノピーと共に行く。
アスドーラを助けるために。
連れ戻すために。
転びそうになるノピーの肩に手を回し、彼の体を支えた。
「……あ、ありがとう」
「いっぺんアイツは、ぶっ飛ばさねえとな。ドラゴンだからって調子乗ってるわ」
「……う、うん。そうだね」
パノラも兄に倣ってノピーの手を握り、2人に支えられながら魔闘場の扉前にたどり着く。
ジャックが扉を開け放ち、3人は中へ入ろうとすると背後で声がした。
「ネネッ!待ちなさい!」
振り返ると2、3度ずっこけながら、魔闘場へ走るネネの姿があった。
「……はあ、はあ。ぅぉぇ」
魔力酔いで顔は青ざめているが、決意は揺るがない。
「おばさんごめん!」
「ネネ!今すぐ戻りなさいッ!」
「早く行こう?おばさんが追いかけてきちゃう」
扉を塞ぐ3人をグイグイと押し込み、バタリと扉を閉じた。
「……ネネさん。止めたほうが」
そう言おとしたノピーだったが、彼女の表情を見て口を噤んだ。
有無を言わせぬ確固たる意思が、容易に見て取れたからだ。
彼女も覚悟を決めている。
ならばこれ以上は言うまい。
「アイツ、知り合いか?」
ふらつきながらもズンズン前を歩くネネの背を見て、ジャックは隣へ尋ねた。
獣種にもよるが獣人というのは耳が良い。
ジャックも一応気を使って小声にしてはいたが、思い切りネネの鼓膜に届いていた。
「……ノピー君。ちゃんと紹介してよね」
「あ、ご、ごめん」
「アスドーラの彼女のネネです。よろしくね」
度肝を抜かれたのは、ノピーだけではない。
ジャックもパノラも、思わず立ち止まってしまう。
あのアスドーラに彼女……。
移り気が激しく、飽きも早く、ぽやぽやしたあのアスドーラに。
友だちとの距離が近く、人との距離感をあんまり把握していないあのアスドーラが。
ジャックもノピーもなんとなく察したが、何も言わずに歩き出す。
たぶんこの話題には触れないほうが良い。
何を言ったって彼女は耳を貸さないだろうし、今この状況で言い争うのも時間の無駄だから。
思い込み激しく愛が重めな彼女に、この話題を振るのはやめよう。二人は無言で認識を共有するのであった。
※※※
「それは認識が間違っております大臣。ノース竜皇国はアースドラゴン様へ臣従するのです。それ以外のドラゴン――」
「陛下ッ!」
ノース竜皇国への国名変更と、それに伴う諸々の宣言について連絡が殺到していた。本来なら政府と政府、王と王での対話が望ましいが、一気に押し寄せる波を捌ける人員がおらず、しかも悠長に構えている時間もなかったため、女王自ら他国政府の質問へ答えていた。
女王執務室では、思念の魔導具越しに誤解を解いていた真っ最中、一人の騎士が慌てた様子で飛び込んできた。
「失礼、少々お待ちを。何事ですかッ!」
「も、申し訳ありません。急ぎバルコニーへお越しください」
「……一体どうしたのです」
「ドラゴン様が、お怒りになっております」
思念の魔導具から手を離すと、エリーゼはすぐに執務室を出た。
バルコニーには既に人が集まっており、皆が道を開け頭を下げる。
「……何が」
彼女の目に映った光景は、美しい絶望であった。
日の光が眩しいノース竜皇国よりも向こうには、暗闇が広がっていた。
その闇を穿つ煌々とした光。
そして羽ばたく一柱のドラゴン。
ギュアォォォォォッ!
女王たちの鼓膜を響かせる竜の咆哮。
次の瞬間には、全身が総毛立つ濃密な魔力が、そよ風のように頬を撫でた。
バルコニーから言葉は消えた。
目の前で、一つの王国が消えようとしているのだ。
かつて南域で起きたと言われる、ボルケーノドラゴンの災害。
二千年前、西で発生した災厄。
どちらも多大な被害が出たが、二千年前の災厄にだけはしてはならない。
南で起きた災害とは、まったく持って次元が違ったからだ。
その人数、その範囲。
世界を巻き込んだ災厄であった。
そんな災厄を望んでいるはずがない。
あの心優しきアースドラゴンが、そんなはずは。
ふとエリーゼの脳裏に蘇る、アスドーラの言葉。
「世界から人を消したって構わない」
アスドーラが初めて、ドラゴンらしい言葉を吐いた瞬間であった。
ドラゴンとはかくあるべき。
世界の絶対的支配者であるドラゴンには、あらゆるわがままが許され、人が気に食わなければ消し去っても構わない。
そんな存在であるにも関わらず、アスドーラは王城まで謝りに来てくれた。
きちんと話を聞き、自分の思いを伝え、人を慮る事が出来る。
世にも珍しき優しいドラゴンである。
絶対にさせてはいけない。
アースドラゴンを災厄の元凶にだけは、させてはいけない。
あれほどまでに人を愛し、人に絶望し、人へ期待してくれるドラゴンに、災厄は似合わない。
エリーゼは決然とした表情で言った。
「国境はすべて開放しなさい。騎士を動員し、避難民の護衛にあたらせるのです」
大臣、貴族、高官たちは、頭を下げてすぐに動き出す。
もちろん異を唱える者などいない。
ノース竜皇国を名乗ると決めた時から、アースドラゴンが舞い降りた日から、建国した時からやることはずっと変わらない。
おこがましい限りではあるが、守らせていただく。
ドラゴンの住処である、この世界を。
――――作者より――――
最後までお読みいただき、ありがとうごさいます。
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