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2章 天上天下、蠢動
第11話 人
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「イアン!ありがとうは?」
部屋に入ってくるなり感謝をねだる父。最近の様子とは打って変わって少し驚いた。
どうやら「ノックぐらいして」という僕の淡い望みは聞く気がないようだ。唇を尖らせて抗議の意を示したけれど、嬉しそうに僕を見ている。反抗的な態度が嬉しいのだろうか?すると入り口でつっかえる父を押しのけるようにして母がやってきた。
どうやら僕に伝えることがあるらしい。それを言わずに、余計な前置きで時間を潰した父は、母の鋭い牙に噛みつかれてたじたじだ。
僕は両親の喧嘩を見たことがあるし、寝たふりをしながら聞いたこともある。
今、目の前で繰り広げられているやり取りは、よくある一幕。じゃれ合っているだけだ。
息子の前で仲良くじゃれ合うのだから、よっぽどいい報告なんだろうと期待してしまう。
どこか影のある毎日だったけれど、少し華やいだようで、僕の眠気も何処かへと消えた。
再来年には15歳になる僕。この村には同い年の子供が沢山いる。その中でもとりわけ仲が良かったのは隣に住むリリーだった。
僕の両親とリリーの両親は、元々別の村に住んでいたけれど、いろいろあって引っ越したらしい。気になるいろいろを教えてくれる事はないけれど、無二の親友と元いた村から連れ立った思い出は教えてくれた。
リリーのお父さんは(僕はおじさんと呼んでいる)今でもお酒を飲みに来るし、一緒に夕飯をとることもある。仲のいい両親たちといれば、僕とリリーの距離も少しずつ縮まっていった。
リリーは大人びている。僕よりもずっと大人みたいな子だ。いたずらはしないし、つまらない事でも愛想よく笑う。いつも明日のことを考えていて、よく天気の話をする。そして眩しい日にはつばの広い藁帽子を被り、寒い日には着ぶくれするぐらい、洋服を重ねる。
僕や僕と同い年ぐらいの男は、眩しくても寒くても、大体同じ服で出歩いて、日月で魔力に酔ったり風邪をひくのに。
戦争に負けて以来、大人たちはどうにかして僕たちを大人にしようとしていた。仕事を少しでもサボれば殴られるようになったし、兄弟喧嘩をした奴らは、良くしなる木の枝で両腕を叩かれた。奴らが自慢げに紫色のミミズをひけらかしてきたから、よく覚えている。
マルカーヴァの頃なら笑って見逃していたはずなのに、今じゃどこで目が光っているかわからない。態度が変わった大人たちに首を傾げながらも、全く怒られないリリーを見て気がついたのだ。
大人たちはさっさと大人になれと言いたいのだと。
体だけはどんどん大人になる、腕も太くなるし髭も生えてきたけれど、精神的に大人になれと、そう言いたいのだと思う。
今考えてみるとリリーが大人びているというより、男が子供すぎるのかもしれない。
とにかく、リリー以外の友達はみんな子供だ、僕も含めて。
一番の友達のリリーだけは違う。
そう、違う。
「リリーと結婚が決まったぞ!」
父は嬉しそうだ。母は、いつもの母だ。無言で表情の変わらない僕を心配そうに見つめている。
正直驚きはなかった。
家族同士仲がいいし、家も隣。結婚するならリリー以外にいないと思っていたからだ。
「ありがとうは?」
「やめなさいよ!良かったわねイアン」
驚きはなかったけれど、頭がのぼせてしまうぐらい、血液が全身を駆け巡った。心臓がバクバクと跳ねて、声が震えないように意識するのがやっと。
緩みかけた口元に力を込めて、どうにか、そっけなく返事をしてみせる。
飛び上がりでもしたら、父にいじくりまわされるのが目に見えていたから。
子供らしくもない反応かもしれないけれど、二人は嫌な顔をせずにはにかんで、嫌がる僕を抱きしめ、部屋をあとにした。
僕はベッドで横になって、目が冴えて眠れそうもなかったけれど、落ち着きがない体を鎮めるために目を瞑った。
胸が堪らなくむず痒い。
僕はリリーが好きなんだと初めて知った。誰も教えてくれないから、正確には分からなけれど、たぶんそうだと思う。
リリーとの生活はどんなになるのだろうと夢想しながら、大人になった自分を想像できないまま、枕の中へ沈んでいった。
マルカーヴァが戦争に負けて、僕たちの住む村はブルッファーヴァに編入された。僕たち農民は、戦端が開いたのか、趨勢はどちらに傾いているのか、全く分からなかった。騎士の往来が増え、区域外移動を禁じられたぐらいから、そろそろ始まるのかと覚悟し始めたけれど、実際はもう始まっていてかなり押し込まれている状況だったらしい。これも戦争が終わってから知った。
僕たちの村は自然が多くて人の往来が少ない。マルカーヴァの端っこだし、国境を越えるのはどちらからでも許されていない。かなり閉鎖的な場所だったお陰か、一切の被害がなかった。ターヌマエ州の中央部、僕たちの村から南へ下っていくと大きな城塞があり、その中では、頭で描ききれないほど沢山の人が行き交っているらしい。
そんな州都は占拠されてしまった。これもあとから知った。
どうやら僕たちは、というより湖の畔にある村々は見向きもされなかったようで、一切の被害を受けずに戦争が終わった。始まりから終わりまで、何も知らなかった僕たちは、いつの間にかブルッファーヴァ人となった。
戦争が終わってやってきた役人は、元々マルカーヴァ人だった人で、事の次第を僕たちに話してくれた。
つい2日前に終わった戦争で、この村を包括するターヌマエ州はブルッファーヴァに編入される事。現領主は明日、一族諸共絞首刑となり、ブルッファーヴァ人の領主が治める事。隣州のエーレンハウでは、騎士のみならず農民までも命を奪われ、編入される事。隣州の惨事を鑑みればこの村も危険だろうが、マルカーヴァに逃げようとすれば、マルカーヴァ側の騎士に殺されてしまうかもしれないから逃げるのは止めた方がいい事。
当面は、普通に過ごすのが得策だろうと彼なりの結論を言い残して去っていった。
エーレンハウの住民(元マルカーヴァ人)が殺されたと聞いて、少しだけ不安を感じた。だけれど、少しだけ、例えば夕食に肉料理が出ると期待していると、毎晩食べるポリッジだけが並んだ、というぐらいの、その程度の変化だけが心にあった。
国の名前が変わるのは、妙な感じだけれどブルッファーヴァ人になるだけなのだから、ひときわ波立つような感情は起きなかった。
そんな僕とは違い、大人たちは俯きがちに口を結んでいた。何かを押し殺すように黙りこくっていた。
何故そんな顔をするのか聞きたかったけれど、それをすると僕だけがのけ者にされそうな気がして、僕も黙り込むことにした。
それから数日後の日が沈み赤焼け空の頃。
我が家にはある報告を聞くため、湖の周りにある村々からまとめ役たちがやって来た。しかめ面で警戒感を隠しもせずに、居間に立ち並んでいる。
「人頭税と土地税合わせて月3割、夫役は2週に一回2日だけらしい」
父は、今日の昼頃にやって来た徴税官の言葉を伝えた。
羊皮紙を広げて、大声を張り上げる徴税官は大分やつれていて、傍にいた騎士も随分と薄汚れていたから、長旅だったのだと思う。僕達の返事を待つわけでもなく早々に去っていった彼らを、父や大人たちは呆然と見送っていた。その表情は鳩が豆鉄砲を食ったような顔、ちょうど今まとめ役たちがしているような顔だった。
居間には低い唸り声やため息が反響して、頭を振ったり額に手を当てたりと、僕には理解しがたい態度を残して、自分たちの村へと帰っていった。
そして入れ替わりやって来たのはこの村の男衆だ。
「税が安いのは良いことだ」
「裏があるんじゃないか?エーレンハウじゃ、騎士だけでなく農民まで殺されたんだぞ」
「残った者が隠れながら戦っているらしい。時々この辺りをうろついてるから全滅ってわけじゃねんだろうな」
「あんまり関わるんじゃねえぞ、割を食うのはガキどもなんだから」
「ひとまず様子を見ようじゃないか、なんにしても銭があるってのは悪いこっじゃねえ、そうだろ?」
漏れ聞こえてくる会話から、僕たちの村はつくづく運がいいなと思った。戦争の被害は無いし、税金はマルカーヴァにいる頃よりも遥かに安い。
エーレンハウの人には悪いけれど、ターヌマエは勤勉、堅実がモットーの州だから、その違いが僕たちの命運を分けたのかもしれない。もちろん、殺されたのは可哀想だけれど、この世界は残酷だ。力ある者が認めてくれたなら良し、認められなければ悪しと斬られる、そういうところだ。僕たちが育てている鶏と同じで、卵を産まないならその日は肉料理が食卓に並ぶし、そうでないなら大事に育てる、子供でも簡単に理解できた事実。
つまりこの村は認められているのだから、僕の持つ誇らしさを皆も共有しているはずだと思った。
でも、大人たちの言葉の端々からため息が溢れるのを僕は聞き逃さなかった。子供の前では見せない、素直な態度を僕は垣間見た。
そしてもう一つ、意外な事が起きて大人たちを悩ませた。
僕たちが元いた国マルカーヴァは鎖国をしている。他の国の人が簡単に入ってこられない国だったので、この村は国内に向けて作物を売っていた。
だけれどブルッファーヴァになってから、隣国のストレーヴァから商人がやってくるようになった。州都に向かう道すがら、編入した州を見て回っているとの事だった。
身なりは高貴そうで、従者をたくさん連れていたから大商人なんだと思う。父も大人たちもそう考えたのか、お帰り願うなんてことはせずに、農園を案内することになった。
果樹園を一回りした商人は、大げさな身振りで作物を褒めちぎった。色味が新鮮で、大きさも申し分ない。生産数も通年採取量も完璧だと。そして、父が矢面に立たされ早くも金額交渉に入った。早速、取引がしたいと言われたからだ。
ブルッファーヴァ首都向けの分とストレーヴァ本国向けの作物の金額は一年の税金を賄えるだけのものだった。もちろん生活必要分の作物と人頭税と土地税として納める分を除いた余剰分の作物だけでその金額が手に入ったのだから、村は色めきだった。
後から商人さんが、売却代金にも税金がかかりますよと、村のお祭り騒ぎを鎮静化するようなことを言ったけど、それでも手元に残るお金は多かったので、皆嬉しそうだった。
やっぱりブルッファーヴァになって良かった。僕は運が味方したのだと思っていたけれど、どうやら違うらしい。なぜ商人さんが物珍しそうに木々を見ていたのか、ブルッファーヴァやストレーヴァでは、果樹を農業として確立させていないらしい。
元居た国マルカーヴァでは果物が採れる村は珍しくない。
マルカーヴァでは、最低でも一日一回は果物を食す習慣がある。その習慣は自生する果物が沢山あり、昔から食されていた名残で、果物は生活に欠かせないものとなっている。需要があれば、生産者が黙っているわけもなく、この村のようにマルカーヴァ各地には果樹園が点々と存在するし、その歴史も長い。昔からどこにでもあると思っていた果実が、世界では高級品だったらしいのだ。
国が変わって風向きが変わった。今まで考えたこともなかった外国が、僕たちを認めてくれたのだと自信のようなものを得た。
大人たちも、商談がまとまって喜んでいたから、これでこの村もどんよりせずに済むと思っていたけれど、次の日になれば、演技でもしているみたいに暗くなっていた。ヒソヒソと話し込み、ため息をついて遠くを眺める、マルカーヴァにいた頃とは違う大人たちのままだった。
ハエすらも逃げ出しそうな異臭に、僕は思わず鼻をつまんだ。
「ま、待ってくれ!俺はマルカーヴァ人だ!頼む!話を聞いてくれ!」
腐った屎尿に吐瀉物と鉄を混ぜたような臭いが、澄んだ果樹園の空気を凌駕していて、彼が口を開く度に、僕が汚れるような気がして、後退りをしてしまった。
一体どんな生活をすれば、こんな臭いを体から発散させることができるのか。膝立ちで懇願する男の側には、刃の欠けた斧が転がっていた。
「話してみろ、ただし変な気は起こすなよ?容赦はしないぞ」
父と応援に駆けつけた男たちが見守る中、男は食べかけのリンゴを地面に置いた。
そして後生大事そうに片腕で抱いた麻袋をそっと開き、逆さまにした。中から出てきたのは、硬貨と紙幣、それから革袋と子供の服、そして一枚の紙だった。
「州境の村から逃げてきたんだ、奴らから逃れてきたんだ、見逃してくれ」
赤茶けた染みにふやけた紙幣を掴み上げると、父に差し出した、リンゴ1つにしては随分と多い。
「エーレンハウから?そんな成りでどうやってここまで、まさか森伝いに来たとでも?」
「ああ、その通りだ」
村の男たちは疑わしいとばかりに胡乱な視線を突き刺した。
彼らの態度は、森に入り森から生還するなどあり得ないと、知っているからだ。
森は恐ろしさは両親や祖父に、何度も聞かされた。何が怖いって、一度入れば方向を失い、見たこともない何かが息を潜めていて、人間はその中にあって孤独と恐ろしさに気を違えてしまい、果ては命が消えるまで、森はじっとその様子を見ているそうだ。滅多に現れない人間を養分にするために。
僕が小さな頃、怖いもの見たさで森に入ったことがある。あれほど入るなと言われた森だけど、僕には果樹園との違いが分からなかったのだ。
日月の標が見える場所、遠くの木々がまだ細く見える場所、ほんの数歩だけれど入ってみた。しんと冷たい空気が吹きつけて、どこまでも続く闇がぐんと全身を引っ張るような感じがした。目の利かない場所というのは不自由だけれど、怖いということはなかった。
なんせ、僕の背中が日月の暖かさを浴びていたから。
この辺で帰ろうかとした時、どうしてか体が振り返るのを嫌がった。なんだか、寒い日に、布団から出たくないようなお風呂に入るのが億劫になるような。
だから一歩踏み出してみた。
更に一歩。
また一歩。
一歩。
僕の息以外聞こえない、まったくの静けさだった。
目の前の木が随分と大きく見えた。
どういうわけか急に冷えてきた体を擦りながら、森の奥深くを覗き込もうと目を凝らした。
煤をぶちまけた世界、延々と暗く黒い、悲しそうな道行き。
ここではっとした。
振り返ってみると、日月が離れていた。いや、僕が動いたのだけれど、燦燦と黄色い光がいつの間にか赤まっていた。たった4つ足を進めただけなのに、時間も距離も随分と離れてしまった。
けれど、僕はその奥を感じてみたくなった。温かいのだろうか、光の射す幻想的な木々が踊っているのだろうか、悲しげな空間が目の前にはあるけれど、その奥には喜望的な景色が待っているような気がした。
そうしてまた一歩進もうとしたら、ぐーっと腹の虫が鳴いた。
撫でてやり腹の虫を宥めようとした僕は、途端に、言い知れない恐怖を感じた。虫よりも近くにいた、生まれた時からずっといた、昔から誰にもある、動物的な本能が大声を上げて危機を知らせてくれたのだ。
夢追う冒険者のような、果てない探究心はさっさと尻をまくったようで、ポリッジと豚足の入った温かいスープと1人一つのリンゴとを黙々と食べる家族の団らんが頭をよぎった。
何かが襲ってきやしないだろうか、眼球を急いで右往左往させ、少しずつ後ずさった。音を立てないように、なるだけ早く日月の光で酔いたかった。
不気味なほどに安心しきっていた僕はいつの間にか小心に陥っていて、首根っこを引っ掴まれた途端に固まってしまった。襟元が首を絞めたのも原因だけれど、警戒しきった動物が意表を突かれると、どうやら喉が固まるらしい。
動物というのは大きく言い過ぎたかも。僕の場合は体が意外な反応をした。喉の筋肉が他人の筋肉のようになったし、目は現実を見るという仕事を止めて視界を閉ざしてしまった。
拳を胸の前で合わせてブルブルと震えていると、父の声が空から降って来た。優しい声でなく、激高した雷鳴だ。
すっかり暗くなった森の外には、ランタンを持った大人たちが大勢集まっていた。がははと笑ったり、自分の子供への良い教育材料だと言ったり、呆れてため息をついていたり、反応は色々だったけれど、父だけは激怒していた。
けれど僕は安堵した。ガツンと喰らった脳天へのげんこつも嬉しかったし、手を繋いで帰った自分の家で、母と3人ご飯を食べたのがとても温かかった。
そんな森に入って無事に抜け出してきたのだろうか、僕の場合は随分と子供だったから、もしかしたら大人なら、と考えたけれど大人たちは揃って森には近づくなというし、誰も入らない。つまり、人間が入ってはいけない場所なのだろう。何がどうなるから、なんて事は言うまでもない。
「寝言は寝て言え。悪いが騎士に突き出す」
「何!?」
男はやおら立ち上がり、汚れた紙幣を父の手に握らせようとするが、大きな手が彼の足を止めた。
「近づくんじゃない、お前からは死の匂いがする」
「……くっ、魂を売ったか、ブルッファーヴァに売ったんだな!お前たちの故郷はマルカーヴァだろ!」
「やめろ、そんなんじゃない」
「嘘をつけ!だったらここで殺してくれ、せめて同胞の手で天上へ返してくれ」
「……悪いが、できない」
結局男は遁走した。騎士に突き出すことはしなかったけれど、助けることもしなかった。明日騎士に報告するとだけ言って、哀れな男の姿を父は険しい顔で眺めていた。きっと気づいていなかったと思う、僕が唇を噛み締め、父への反抗心を抑えていたことを。ブルッファーヴァ人たろうとする僕の、この気概を知らなかったろうと思う。僕はそう努めたのだ、大人たちがするように。
放ってあった僅かな荷物を麻袋へ入れる時、ちらりと見えた家族の写真。きっと魔法で転写したものだと思う。腰掛ける娘の側でにっこりと笑う男女の写真。昔は裕福だったのだろう、けれど随分と落ちぶれてしまったこの男。父も同じものを見たのだろうか、猶予を与えた。きっと同情しただけなのだろう、僕も彼の過去を想像して幾分か心がまろやかになったから、きっとそうなのだろう。
でも、正しい選択だとは思えなかった。僕達がすべきことではなかったと今でも思う。
「商人には売らず私に卸せ」
「は、はあ」
「買い叩く気などない。専門の者に値をつけさせる。それでいいな」
「は、はい。もちろんです陛下」
「陛下、か。まあいい」
ある日、豪勢な馬車と騎士の隊列がやって来た。女子供は家の中に隠され、父を含めた男たちは緊張の面持ちでその一団を迎えた。見慣れない紋章をあしらった旗と騎士の胸当てが、この村に張り詰めた空気を齎した。
その原因は戦争終結の前に起きた隣州での虐殺話だ。何が騎士の癇に障ったのか、手当たり次第に命が刈り取られ、大麦を積むように死体の山が出来たらしい、と噂は大きく膨らんでいた。
騎士に立ち向かったとか、隠れていたとか、逃げようとしただとか大人たちは言っていた。だから殺されてしまうんだ。大人しく降参すればきっと助かったに違いない。そこらのごろつきとは違って騎士なのだから。
僕達は真面目な農民なのだから、怯える必要はない。毎年、たくさんの税金を納めるし、商人さんは果物を褒めてくれた。ブルッファーヴァにとって良い農民になるだろうと思ってくれたから、この村は無傷だし、こうしてマルカーヴァから奪われたんだ。だから、良い農民、良いブルッファーヴァ人でいれば何も起きるはずはない、と考えていた。
しかし、家の中へと押し込まれて大人たちの不安の一端を初めて感じた。
母が僕を抱きしめ祈ったのだ。
どうかお力を、どうか博愛を今お与えくださいと祈っていた。
大丈夫だとか、お父さんが何とかしてくれるわだとか、僕を励ましながら祈る母。その体の震えが伝わり、背中に悪寒が走った。
いくら考えても怖くないはずなのだけれど、僕を守ろうとする母は間違いなく怯えている。滅多に見せない本当の気持ちを子供であるはずの僕に見せている。
間違っていた?僕は僕を疑った。
本当に彼らは味方なのだろうか。ならばどうして、大人たちが緊張するのだろうか。どうしてこの村の大人たちは陰がかかったようにしょぼくれて生活していたのだろうか。どうして僕たちは隠されたのだろうか。間違ってはいないはずだけれど、理屈は通っているはずだけれど、どうして僕の体は逃げるように血の気が引いていくのだろう。どうして母の怯えを拒絶しようとしているのか、この反抗的な底心が全く分からなかった。
彼らが帰った後に家へ押しかけてきた村人たちへの説明を聞いていると、やってきたのはこの州の新しい領主であるウシャット公爵という人物だった。
僕が家へと押し込まれる前、チラリとだけれど車窓から顔を覗かせていた。ちょうどその時目が合って、驚いて固まってしまったら、領主様はにっこりと笑ってくれた。とても満たされた気分だった。滅多にお目に掛かれない貴族様に笑い掛けてもらえたのだ、やっぱり僕の考えは間違いじゃなかったと、自分の部屋で盗み聞きをする最中に確信した。大人たちが過剰に怯えているだけなんだと。
でも今思うと、僕を見ていた訳ではないと思う。たぶん、僕の隣にいたリリーを見ていたのだと思う。
領主様が去った翌日にはリリーが居なくなった。
いつもとは違う雰囲気で僕の家にやってきたリリーの両親。
「すまない」とだけ言ったおじさんへ父が詰問すると、どうやらリリーは領主の元へ行ったらしい。奉公に出された、その言葉を聞いた父は部屋へ行けと僕に怒鳴った。
大して広くもない家の、大して厚くもない扉から、獣の咆哮のような父の声が響いた。思わず僕も顔を引きつらせるぐらいの勢いだったけれど、母が宥めてやっと話ができるようになり、おじさんが話し出した一連の経緯を、僕は扉越しに聞いていた。
領主一行が帰り際に、リリーを働かせないかと提案したらしい。そして支度金として20万を置いていったそうだけれど、僕には安く思えた。商人に卸せば、領主様へ果物を卸せば、容易く手に入る額だったから。
再び空気が裂かれ、僕の部屋までも父の声がこだました。怒号の最中にあった言葉は、父や大人たちの様子が可笑しい原因を端的に表すものだった。
マルカーヴァ人が重用されるはずがない、エーレンハウでは何人も殺されたんだぞ!田舎の生娘を何に使うかぐらい分かるだろう、しかもマルカーヴァ人のだぞ!?お前は魂を売るのか、娘に売らせる気なのか。
僕はブルッファーヴァ人だ。ブルッファーヴァの領主様のために働く事について、どうしてそんなに怒るのか、ため息が出るほど理解しがたかった。
領主様のもとで働けるのは良いことだし、お金もたんまり貰えるかもしれない。教養も身につくし、上流階級の仲間入りができるかもしれないし、領主様がいい心証を覚えればこの村が贔屓されるかもしれないし、良きブルッファーヴァ人であると再認識してもらうには、絶好の機会だというのに。
父の怒りが収まることはなかった。
とはいっても、未来のお嫁さんが居なくなったのは寂しい。
リリーはよく「外に出てみたい」と言っていた。村の外で生活してみたいらしかった彼女にとって、良い巡り合わせだったのかもしれない。
けれど、お別れもなく突然消えた彼女に失望した。もちろん彼女は悪くない。僕なら、喜び勇んで働くに決まっている。この村のためにも、僕自身を認めてくれた領主様のためにも。いやでも、もしかしたら悪いかもしれない。断る事も出来たのではないか?
僕にはできない事をリリーに求めて怒っていた。
でもそれはぽっかりと空いた空洞を誰にも見せたくなかったから。
当然僕にも見せたくなかったから、悲しみの代わりに顔を出してくれたのだとうすうす気づいていた。
だから僕は早く大人に成りたいなと強く思った。村の大人たちがそうであるように、リリーがそうであったように、みんな隠すのがうまいから。
うねうねと掴みどころのない感情に弄ばれる僕は、なんとか祝福できる態度を作った。後日、僕に謝りに来たリリーの両親に、努めて口に出したおめでとうを伝え、気持ちを何処かへと逸らすため果樹園へと向かった。
ある日、商人がやって来た。
父は領主様と契約することを伝え、以前の約束はなかったことにしてくれないかと相談すると、不承不承ながらも頷いていた。
そしていつものように一泊する折、僕はあることを聞かれた。
「君たちは何を信仰しているのか」と。
そして僕は答えた。
――悪魔ですと。
一瞬の間と驚いた表情は、何か言ってはいけないことを言ってしまったのかと僕を不安にさせた。でもすぐに商人は謝って、その表情の訳を話してくれた。
ブルッファーヴァでも悪魔を信仰しているそうで、話を聞く限り、僕たちの信仰している悪魔と同じだった。商人さん曰く、王国統一時代の名残でブルッファーヴァに近い、ここターヌマエ州は同じ悪魔を信仰しているのだろう、だそうだ。
他の州のことはよく分からないけれど、隣州のエーレンハウも僕たちと同じ悪魔を信仰しているので領主様同士、住民同士仲が良いと祖父が言っていた記憶がある。もしかしたら、マルカーヴァ国内でも信仰は様々なのかもしれない。
商人さんが、驚いた理由はそれだけではなかった。どうやらストレーヴァでは悪魔崇拝を禁忌としているらしい。王国統一時代の経験が尾を引いているそうだ。
浅黒い肌が特徴のストレーヴァ人、もとい大陸北部の人間が差別的な扱いを受けてきた歴史があり、その元が悪魔信仰によるものだと信じているからだそうだ。そんな話は初めて聞いたし、悪魔が差別を助長するというのは初めて聞いたけれど、彼らがそう思うのならそうなのだろう。
僕は話の流れを汲んで、何を信仰しているのかと訪ねたら、彼はこう答えた。
――光の使徒だと。
大陸が分断された昔に、ストレーヴァを救った白い翼の神秘的な人ならざるものを信仰しているそうだ。
彼がブルッファーヴァ中央へ向かったその日、亡き祖父の面影と共に信仰を思い出した。祖父に聞いた話では、愛を司る悪魔だとか。
大して信じてもいない悪魔に祈るほど浅ましい人間ではないから、日々形式的に胸に六芒星を切っていた。しかし、今となっては少しだけ力を貸してほしかった。
待ってろよ、そろそろ縁談がまとまるぞと両親は励ますように僕に話してくれた。興味なさげに頷いていたけれど、実際は気が気でなかった。誰が来たってこの空洞は埋まりそうもなかったからだ。
悪魔を信仰するのは、魂を清めるため。彼らが好きな邪な欲望を告白し、奪ってもらう。そうすることでその日一日をまっさらな魂で過ごし、夜に感謝を捧げる。六芒星とそれを囲む円は、魔界にいる悪魔に声を届けるものらしい。だからこれを思い描き、祈りなさいと祖父によく言われた。
惨めったらしい毎日を、リリーがいた日常に戻すには替わりが必要で、僕に思いつくのは信仰だった。
戻ってこないだろうリリーを待つのもいい。でも、僕だけがこんな気持ちなのだと思うと、つくづくちんけな自分を厭悪する繰り返しで疲れ果てていた。
そして、日々の隙間に現れるリリーの笑顔が嫌いになっていた。領主様の屋敷に行けば、良い食事に良い服、そして僕よりも金持ちの良い男が見つかるだろう。もしかしたら領主様に見初められるかも。辺鄙な村での日々は彼女を思う度に僕を苦しめた。だから、一刻も早く空洞を埋めてくれる存在が必要だった。リリーの代わりは見つからない。だから大人に成って、不愉快な気持ちをうまく隠せるように成りたかった。
大人たちは苦しいときに祈っている。悪魔を小馬鹿にしたようなことをよく言う癖に、何故か祈っている。たぶん、いやきっと効果があるからだろう。
隙間を埋めるように僕は熱心に祈った。心の穴を塞いでください。平穏な日々をお与えください。この苦痛を取り除いてください。できるのならば、リリーを返してください。
幼馴染で初恋の人をどうにか帰らせてはくれないだろうかと、愛の分別もない僕は、愛の悪魔に祈ってみたのだ。憧れも怒りもこの寂しさも何もかも、彼女が戻ってきてくれれば、全てが丸く収まると思っていたから。
こんな僕を見たら、祖父はきっと小突くだろう。マルカーヴァの男はドンと構えて笑ってろ、とよく言っていたから。
耐えられない時は悪魔に尋ねなさい「間違っていますか」と。その日一日が清清と澄み切ったなら、お前は間違っていたという事だ。霞がかったままなら、お前の苦悩を共に理解してくれる強い味方が付いているという事だから、笑っていられるぞ。
尋ねてみたが僕の世界はどんよりと濁ったままだった。祖父の言う通りならば、僕の気持ちは自然なのだろう。だけれど、信仰の浅い僕に悪魔が寄り添っているとは思えなかった。だから、祖父の言うマルカーヴァの男には、どうにもなれる気がしなかった。
前に見たことのある徴税官がやってきた。目の下にはクマができ、焦点の定まらない目で僕たちを確かめた。袈裟懸けのカバンから、羊皮紙を取り出して、端っこを両手で引き伸ばし、宣言した。
「血税を献上しろ、戦争は近い!お前たちがブルッファーヴァ人であると、我らと祖を同じくすると証明してみせろ!」
何度かカバンを空かして、やっとのことで羊皮紙を仕舞い終えた徴税官は、くるりと来た道を戻った。時たま足をもつれさせ、ともに行動する騎士に支えられながらも、村から遠ざかって行った。
2回目の税の引き上げで父は愚痴をこぼした。血税という税が、村から男手を奪って行き、残される老人や子供、妻達はどうしろというのかと。
僕はまたもや歯噛みした。僕の父やリリーのお父さん、僕よりも早く成人した同世代まで連れて行ってくれるというのに、僕は対象ではなかったのだ。やっとブルッファーヴァ人だと証明できる機会が巡ったのに……。
結局リリーは帰ってこなかったし、戦争は始まった。夫役でいなくなった男手は村へ戻るとすぐさま戦場へと駆り出された。今ではブルッファーヴァ国民なのだから、これは義務、だそうだ。
父と一緒に帰ってきたリリーのお父さんは、旅立ちの際、僕にリングをくれた。おじさんの顔を怪訝に見返すと「リリーからだ」とボソリ一言。険しい表情のまま、僕が手にしたリングを見ていた。
「……分かってくれとは言わない。恨んでくれて構わない。本当にごめんな、イアン」
そう言うと僕に背を向け、出発した。笑い上戸のリリーのお父さんは、硬い表情のままだった。最後の言葉の意味も分からないし、このリングの意味も分からない。男は装飾品を身に着けない。ましてや農民は装飾品を身に着ける余裕がない。
何気なく指輪越しに空を眺めて見た。すると、内側に刻印があることに気づいた。
「リリーより永遠の愛をイアンへ」
ドキリと心臓が跳ねた。彼女の口から聞きたかった言葉が、このリングにはあったのだ。
いじけていた僕の、さもしい感情が晴れて、次に差し込んだのは罪悪だった。
決して安くないはずなのに……。
嫉妬で彼女を貶めてしまった僕には勿体ない言葉だ。
唇を噛み締め日月を眺めた。リング越しに差す光が僕を焦がし、叱ってくれているような気がして、酔うと分かっていても、日月から目を離さなかった。
旅立つ彼らの姿を見て、大人達は苦々しい顔で歯を食いしばっていた。泣きながら見送る母、僕も思わず涙が零れた。
ブルッファーヴァは強い。マルカーヴァから奪われた僕たちがいい証明になる。だから、泣くことはないはずなのに。
村のあちこちで流れる涙と、別れを惜しむ抱擁が、僕の思考とは酷くアンバランスで、僕は寂しくなった。絶対に勝つだろうし絶対に帰ってくると分かっているのに、とても寂しくなったのだ。リリーの時と同じように、味わいたくないものだった。
僕は小さな部屋の片隅で祈りを捧げた。この寂しさの正体である不安を取り去ってくださいと祈った。父は必ず帰って来ますよねと尋ねた。不安が消えなかったのは、酷く心が揺れてしまっているからだろう。僕は竈門の煤を片手に部屋へと戻った。頭の中に思い描けなかった六芒星とそれを囲む円を床に描き、また祈った。
あなたは間違いでないと言った。大人になろうとする気持ちも、リリーを思う気持ちも、村の大人たちへ向ける気持ちも、正しいから僕をこんな惨めにさせているのでしょう。
早く大人になれますように。強く逞しい精神を持ち、従順なブルッファーヴァ人して認められますように、そうすればきっと、リリーもこの村も何もかもが元通りになるはずだから、僕は善きブルッファーヴァ人になれるよう祈りを捧げた。
部屋に入ってくるなり感謝をねだる父。最近の様子とは打って変わって少し驚いた。
どうやら「ノックぐらいして」という僕の淡い望みは聞く気がないようだ。唇を尖らせて抗議の意を示したけれど、嬉しそうに僕を見ている。反抗的な態度が嬉しいのだろうか?すると入り口でつっかえる父を押しのけるようにして母がやってきた。
どうやら僕に伝えることがあるらしい。それを言わずに、余計な前置きで時間を潰した父は、母の鋭い牙に噛みつかれてたじたじだ。
僕は両親の喧嘩を見たことがあるし、寝たふりをしながら聞いたこともある。
今、目の前で繰り広げられているやり取りは、よくある一幕。じゃれ合っているだけだ。
息子の前で仲良くじゃれ合うのだから、よっぽどいい報告なんだろうと期待してしまう。
どこか影のある毎日だったけれど、少し華やいだようで、僕の眠気も何処かへと消えた。
再来年には15歳になる僕。この村には同い年の子供が沢山いる。その中でもとりわけ仲が良かったのは隣に住むリリーだった。
僕の両親とリリーの両親は、元々別の村に住んでいたけれど、いろいろあって引っ越したらしい。気になるいろいろを教えてくれる事はないけれど、無二の親友と元いた村から連れ立った思い出は教えてくれた。
リリーのお父さんは(僕はおじさんと呼んでいる)今でもお酒を飲みに来るし、一緒に夕飯をとることもある。仲のいい両親たちといれば、僕とリリーの距離も少しずつ縮まっていった。
リリーは大人びている。僕よりもずっと大人みたいな子だ。いたずらはしないし、つまらない事でも愛想よく笑う。いつも明日のことを考えていて、よく天気の話をする。そして眩しい日にはつばの広い藁帽子を被り、寒い日には着ぶくれするぐらい、洋服を重ねる。
僕や僕と同い年ぐらいの男は、眩しくても寒くても、大体同じ服で出歩いて、日月で魔力に酔ったり風邪をひくのに。
戦争に負けて以来、大人たちはどうにかして僕たちを大人にしようとしていた。仕事を少しでもサボれば殴られるようになったし、兄弟喧嘩をした奴らは、良くしなる木の枝で両腕を叩かれた。奴らが自慢げに紫色のミミズをひけらかしてきたから、よく覚えている。
マルカーヴァの頃なら笑って見逃していたはずなのに、今じゃどこで目が光っているかわからない。態度が変わった大人たちに首を傾げながらも、全く怒られないリリーを見て気がついたのだ。
大人たちはさっさと大人になれと言いたいのだと。
体だけはどんどん大人になる、腕も太くなるし髭も生えてきたけれど、精神的に大人になれと、そう言いたいのだと思う。
今考えてみるとリリーが大人びているというより、男が子供すぎるのかもしれない。
とにかく、リリー以外の友達はみんな子供だ、僕も含めて。
一番の友達のリリーだけは違う。
そう、違う。
「リリーと結婚が決まったぞ!」
父は嬉しそうだ。母は、いつもの母だ。無言で表情の変わらない僕を心配そうに見つめている。
正直驚きはなかった。
家族同士仲がいいし、家も隣。結婚するならリリー以外にいないと思っていたからだ。
「ありがとうは?」
「やめなさいよ!良かったわねイアン」
驚きはなかったけれど、頭がのぼせてしまうぐらい、血液が全身を駆け巡った。心臓がバクバクと跳ねて、声が震えないように意識するのがやっと。
緩みかけた口元に力を込めて、どうにか、そっけなく返事をしてみせる。
飛び上がりでもしたら、父にいじくりまわされるのが目に見えていたから。
子供らしくもない反応かもしれないけれど、二人は嫌な顔をせずにはにかんで、嫌がる僕を抱きしめ、部屋をあとにした。
僕はベッドで横になって、目が冴えて眠れそうもなかったけれど、落ち着きがない体を鎮めるために目を瞑った。
胸が堪らなくむず痒い。
僕はリリーが好きなんだと初めて知った。誰も教えてくれないから、正確には分からなけれど、たぶんそうだと思う。
リリーとの生活はどんなになるのだろうと夢想しながら、大人になった自分を想像できないまま、枕の中へ沈んでいった。
マルカーヴァが戦争に負けて、僕たちの住む村はブルッファーヴァに編入された。僕たち農民は、戦端が開いたのか、趨勢はどちらに傾いているのか、全く分からなかった。騎士の往来が増え、区域外移動を禁じられたぐらいから、そろそろ始まるのかと覚悟し始めたけれど、実際はもう始まっていてかなり押し込まれている状況だったらしい。これも戦争が終わってから知った。
僕たちの村は自然が多くて人の往来が少ない。マルカーヴァの端っこだし、国境を越えるのはどちらからでも許されていない。かなり閉鎖的な場所だったお陰か、一切の被害がなかった。ターヌマエ州の中央部、僕たちの村から南へ下っていくと大きな城塞があり、その中では、頭で描ききれないほど沢山の人が行き交っているらしい。
そんな州都は占拠されてしまった。これもあとから知った。
どうやら僕たちは、というより湖の畔にある村々は見向きもされなかったようで、一切の被害を受けずに戦争が終わった。始まりから終わりまで、何も知らなかった僕たちは、いつの間にかブルッファーヴァ人となった。
戦争が終わってやってきた役人は、元々マルカーヴァ人だった人で、事の次第を僕たちに話してくれた。
つい2日前に終わった戦争で、この村を包括するターヌマエ州はブルッファーヴァに編入される事。現領主は明日、一族諸共絞首刑となり、ブルッファーヴァ人の領主が治める事。隣州のエーレンハウでは、騎士のみならず農民までも命を奪われ、編入される事。隣州の惨事を鑑みればこの村も危険だろうが、マルカーヴァに逃げようとすれば、マルカーヴァ側の騎士に殺されてしまうかもしれないから逃げるのは止めた方がいい事。
当面は、普通に過ごすのが得策だろうと彼なりの結論を言い残して去っていった。
エーレンハウの住民(元マルカーヴァ人)が殺されたと聞いて、少しだけ不安を感じた。だけれど、少しだけ、例えば夕食に肉料理が出ると期待していると、毎晩食べるポリッジだけが並んだ、というぐらいの、その程度の変化だけが心にあった。
国の名前が変わるのは、妙な感じだけれどブルッファーヴァ人になるだけなのだから、ひときわ波立つような感情は起きなかった。
そんな僕とは違い、大人たちは俯きがちに口を結んでいた。何かを押し殺すように黙りこくっていた。
何故そんな顔をするのか聞きたかったけれど、それをすると僕だけがのけ者にされそうな気がして、僕も黙り込むことにした。
それから数日後の日が沈み赤焼け空の頃。
我が家にはある報告を聞くため、湖の周りにある村々からまとめ役たちがやって来た。しかめ面で警戒感を隠しもせずに、居間に立ち並んでいる。
「人頭税と土地税合わせて月3割、夫役は2週に一回2日だけらしい」
父は、今日の昼頃にやって来た徴税官の言葉を伝えた。
羊皮紙を広げて、大声を張り上げる徴税官は大分やつれていて、傍にいた騎士も随分と薄汚れていたから、長旅だったのだと思う。僕達の返事を待つわけでもなく早々に去っていった彼らを、父や大人たちは呆然と見送っていた。その表情は鳩が豆鉄砲を食ったような顔、ちょうど今まとめ役たちがしているような顔だった。
居間には低い唸り声やため息が反響して、頭を振ったり額に手を当てたりと、僕には理解しがたい態度を残して、自分たちの村へと帰っていった。
そして入れ替わりやって来たのはこの村の男衆だ。
「税が安いのは良いことだ」
「裏があるんじゃないか?エーレンハウじゃ、騎士だけでなく農民まで殺されたんだぞ」
「残った者が隠れながら戦っているらしい。時々この辺りをうろついてるから全滅ってわけじゃねんだろうな」
「あんまり関わるんじゃねえぞ、割を食うのはガキどもなんだから」
「ひとまず様子を見ようじゃないか、なんにしても銭があるってのは悪いこっじゃねえ、そうだろ?」
漏れ聞こえてくる会話から、僕たちの村はつくづく運がいいなと思った。戦争の被害は無いし、税金はマルカーヴァにいる頃よりも遥かに安い。
エーレンハウの人には悪いけれど、ターヌマエは勤勉、堅実がモットーの州だから、その違いが僕たちの命運を分けたのかもしれない。もちろん、殺されたのは可哀想だけれど、この世界は残酷だ。力ある者が認めてくれたなら良し、認められなければ悪しと斬られる、そういうところだ。僕たちが育てている鶏と同じで、卵を産まないならその日は肉料理が食卓に並ぶし、そうでないなら大事に育てる、子供でも簡単に理解できた事実。
つまりこの村は認められているのだから、僕の持つ誇らしさを皆も共有しているはずだと思った。
でも、大人たちの言葉の端々からため息が溢れるのを僕は聞き逃さなかった。子供の前では見せない、素直な態度を僕は垣間見た。
そしてもう一つ、意外な事が起きて大人たちを悩ませた。
僕たちが元いた国マルカーヴァは鎖国をしている。他の国の人が簡単に入ってこられない国だったので、この村は国内に向けて作物を売っていた。
だけれどブルッファーヴァになってから、隣国のストレーヴァから商人がやってくるようになった。州都に向かう道すがら、編入した州を見て回っているとの事だった。
身なりは高貴そうで、従者をたくさん連れていたから大商人なんだと思う。父も大人たちもそう考えたのか、お帰り願うなんてことはせずに、農園を案内することになった。
果樹園を一回りした商人は、大げさな身振りで作物を褒めちぎった。色味が新鮮で、大きさも申し分ない。生産数も通年採取量も完璧だと。そして、父が矢面に立たされ早くも金額交渉に入った。早速、取引がしたいと言われたからだ。
ブルッファーヴァ首都向けの分とストレーヴァ本国向けの作物の金額は一年の税金を賄えるだけのものだった。もちろん生活必要分の作物と人頭税と土地税として納める分を除いた余剰分の作物だけでその金額が手に入ったのだから、村は色めきだった。
後から商人さんが、売却代金にも税金がかかりますよと、村のお祭り騒ぎを鎮静化するようなことを言ったけど、それでも手元に残るお金は多かったので、皆嬉しそうだった。
やっぱりブルッファーヴァになって良かった。僕は運が味方したのだと思っていたけれど、どうやら違うらしい。なぜ商人さんが物珍しそうに木々を見ていたのか、ブルッファーヴァやストレーヴァでは、果樹を農業として確立させていないらしい。
元居た国マルカーヴァでは果物が採れる村は珍しくない。
マルカーヴァでは、最低でも一日一回は果物を食す習慣がある。その習慣は自生する果物が沢山あり、昔から食されていた名残で、果物は生活に欠かせないものとなっている。需要があれば、生産者が黙っているわけもなく、この村のようにマルカーヴァ各地には果樹園が点々と存在するし、その歴史も長い。昔からどこにでもあると思っていた果実が、世界では高級品だったらしいのだ。
国が変わって風向きが変わった。今まで考えたこともなかった外国が、僕たちを認めてくれたのだと自信のようなものを得た。
大人たちも、商談がまとまって喜んでいたから、これでこの村もどんよりせずに済むと思っていたけれど、次の日になれば、演技でもしているみたいに暗くなっていた。ヒソヒソと話し込み、ため息をついて遠くを眺める、マルカーヴァにいた頃とは違う大人たちのままだった。
ハエすらも逃げ出しそうな異臭に、僕は思わず鼻をつまんだ。
「ま、待ってくれ!俺はマルカーヴァ人だ!頼む!話を聞いてくれ!」
腐った屎尿に吐瀉物と鉄を混ぜたような臭いが、澄んだ果樹園の空気を凌駕していて、彼が口を開く度に、僕が汚れるような気がして、後退りをしてしまった。
一体どんな生活をすれば、こんな臭いを体から発散させることができるのか。膝立ちで懇願する男の側には、刃の欠けた斧が転がっていた。
「話してみろ、ただし変な気は起こすなよ?容赦はしないぞ」
父と応援に駆けつけた男たちが見守る中、男は食べかけのリンゴを地面に置いた。
そして後生大事そうに片腕で抱いた麻袋をそっと開き、逆さまにした。中から出てきたのは、硬貨と紙幣、それから革袋と子供の服、そして一枚の紙だった。
「州境の村から逃げてきたんだ、奴らから逃れてきたんだ、見逃してくれ」
赤茶けた染みにふやけた紙幣を掴み上げると、父に差し出した、リンゴ1つにしては随分と多い。
「エーレンハウから?そんな成りでどうやってここまで、まさか森伝いに来たとでも?」
「ああ、その通りだ」
村の男たちは疑わしいとばかりに胡乱な視線を突き刺した。
彼らの態度は、森に入り森から生還するなどあり得ないと、知っているからだ。
森は恐ろしさは両親や祖父に、何度も聞かされた。何が怖いって、一度入れば方向を失い、見たこともない何かが息を潜めていて、人間はその中にあって孤独と恐ろしさに気を違えてしまい、果ては命が消えるまで、森はじっとその様子を見ているそうだ。滅多に現れない人間を養分にするために。
僕が小さな頃、怖いもの見たさで森に入ったことがある。あれほど入るなと言われた森だけど、僕には果樹園との違いが分からなかったのだ。
日月の標が見える場所、遠くの木々がまだ細く見える場所、ほんの数歩だけれど入ってみた。しんと冷たい空気が吹きつけて、どこまでも続く闇がぐんと全身を引っ張るような感じがした。目の利かない場所というのは不自由だけれど、怖いということはなかった。
なんせ、僕の背中が日月の暖かさを浴びていたから。
この辺で帰ろうかとした時、どうしてか体が振り返るのを嫌がった。なんだか、寒い日に、布団から出たくないようなお風呂に入るのが億劫になるような。
だから一歩踏み出してみた。
更に一歩。
また一歩。
一歩。
僕の息以外聞こえない、まったくの静けさだった。
目の前の木が随分と大きく見えた。
どういうわけか急に冷えてきた体を擦りながら、森の奥深くを覗き込もうと目を凝らした。
煤をぶちまけた世界、延々と暗く黒い、悲しそうな道行き。
ここではっとした。
振り返ってみると、日月が離れていた。いや、僕が動いたのだけれど、燦燦と黄色い光がいつの間にか赤まっていた。たった4つ足を進めただけなのに、時間も距離も随分と離れてしまった。
けれど、僕はその奥を感じてみたくなった。温かいのだろうか、光の射す幻想的な木々が踊っているのだろうか、悲しげな空間が目の前にはあるけれど、その奥には喜望的な景色が待っているような気がした。
そうしてまた一歩進もうとしたら、ぐーっと腹の虫が鳴いた。
撫でてやり腹の虫を宥めようとした僕は、途端に、言い知れない恐怖を感じた。虫よりも近くにいた、生まれた時からずっといた、昔から誰にもある、動物的な本能が大声を上げて危機を知らせてくれたのだ。
夢追う冒険者のような、果てない探究心はさっさと尻をまくったようで、ポリッジと豚足の入った温かいスープと1人一つのリンゴとを黙々と食べる家族の団らんが頭をよぎった。
何かが襲ってきやしないだろうか、眼球を急いで右往左往させ、少しずつ後ずさった。音を立てないように、なるだけ早く日月の光で酔いたかった。
不気味なほどに安心しきっていた僕はいつの間にか小心に陥っていて、首根っこを引っ掴まれた途端に固まってしまった。襟元が首を絞めたのも原因だけれど、警戒しきった動物が意表を突かれると、どうやら喉が固まるらしい。
動物というのは大きく言い過ぎたかも。僕の場合は体が意外な反応をした。喉の筋肉が他人の筋肉のようになったし、目は現実を見るという仕事を止めて視界を閉ざしてしまった。
拳を胸の前で合わせてブルブルと震えていると、父の声が空から降って来た。優しい声でなく、激高した雷鳴だ。
すっかり暗くなった森の外には、ランタンを持った大人たちが大勢集まっていた。がははと笑ったり、自分の子供への良い教育材料だと言ったり、呆れてため息をついていたり、反応は色々だったけれど、父だけは激怒していた。
けれど僕は安堵した。ガツンと喰らった脳天へのげんこつも嬉しかったし、手を繋いで帰った自分の家で、母と3人ご飯を食べたのがとても温かかった。
そんな森に入って無事に抜け出してきたのだろうか、僕の場合は随分と子供だったから、もしかしたら大人なら、と考えたけれど大人たちは揃って森には近づくなというし、誰も入らない。つまり、人間が入ってはいけない場所なのだろう。何がどうなるから、なんて事は言うまでもない。
「寝言は寝て言え。悪いが騎士に突き出す」
「何!?」
男はやおら立ち上がり、汚れた紙幣を父の手に握らせようとするが、大きな手が彼の足を止めた。
「近づくんじゃない、お前からは死の匂いがする」
「……くっ、魂を売ったか、ブルッファーヴァに売ったんだな!お前たちの故郷はマルカーヴァだろ!」
「やめろ、そんなんじゃない」
「嘘をつけ!だったらここで殺してくれ、せめて同胞の手で天上へ返してくれ」
「……悪いが、できない」
結局男は遁走した。騎士に突き出すことはしなかったけれど、助けることもしなかった。明日騎士に報告するとだけ言って、哀れな男の姿を父は険しい顔で眺めていた。きっと気づいていなかったと思う、僕が唇を噛み締め、父への反抗心を抑えていたことを。ブルッファーヴァ人たろうとする僕の、この気概を知らなかったろうと思う。僕はそう努めたのだ、大人たちがするように。
放ってあった僅かな荷物を麻袋へ入れる時、ちらりと見えた家族の写真。きっと魔法で転写したものだと思う。腰掛ける娘の側でにっこりと笑う男女の写真。昔は裕福だったのだろう、けれど随分と落ちぶれてしまったこの男。父も同じものを見たのだろうか、猶予を与えた。きっと同情しただけなのだろう、僕も彼の過去を想像して幾分か心がまろやかになったから、きっとそうなのだろう。
でも、正しい選択だとは思えなかった。僕達がすべきことではなかったと今でも思う。
「商人には売らず私に卸せ」
「は、はあ」
「買い叩く気などない。専門の者に値をつけさせる。それでいいな」
「は、はい。もちろんです陛下」
「陛下、か。まあいい」
ある日、豪勢な馬車と騎士の隊列がやって来た。女子供は家の中に隠され、父を含めた男たちは緊張の面持ちでその一団を迎えた。見慣れない紋章をあしらった旗と騎士の胸当てが、この村に張り詰めた空気を齎した。
その原因は戦争終結の前に起きた隣州での虐殺話だ。何が騎士の癇に障ったのか、手当たり次第に命が刈り取られ、大麦を積むように死体の山が出来たらしい、と噂は大きく膨らんでいた。
騎士に立ち向かったとか、隠れていたとか、逃げようとしただとか大人たちは言っていた。だから殺されてしまうんだ。大人しく降参すればきっと助かったに違いない。そこらのごろつきとは違って騎士なのだから。
僕達は真面目な農民なのだから、怯える必要はない。毎年、たくさんの税金を納めるし、商人さんは果物を褒めてくれた。ブルッファーヴァにとって良い農民になるだろうと思ってくれたから、この村は無傷だし、こうしてマルカーヴァから奪われたんだ。だから、良い農民、良いブルッファーヴァ人でいれば何も起きるはずはない、と考えていた。
しかし、家の中へと押し込まれて大人たちの不安の一端を初めて感じた。
母が僕を抱きしめ祈ったのだ。
どうかお力を、どうか博愛を今お与えくださいと祈っていた。
大丈夫だとか、お父さんが何とかしてくれるわだとか、僕を励ましながら祈る母。その体の震えが伝わり、背中に悪寒が走った。
いくら考えても怖くないはずなのだけれど、僕を守ろうとする母は間違いなく怯えている。滅多に見せない本当の気持ちを子供であるはずの僕に見せている。
間違っていた?僕は僕を疑った。
本当に彼らは味方なのだろうか。ならばどうして、大人たちが緊張するのだろうか。どうしてこの村の大人たちは陰がかかったようにしょぼくれて生活していたのだろうか。どうして僕たちは隠されたのだろうか。間違ってはいないはずだけれど、理屈は通っているはずだけれど、どうして僕の体は逃げるように血の気が引いていくのだろう。どうして母の怯えを拒絶しようとしているのか、この反抗的な底心が全く分からなかった。
彼らが帰った後に家へ押しかけてきた村人たちへの説明を聞いていると、やってきたのはこの州の新しい領主であるウシャット公爵という人物だった。
僕が家へと押し込まれる前、チラリとだけれど車窓から顔を覗かせていた。ちょうどその時目が合って、驚いて固まってしまったら、領主様はにっこりと笑ってくれた。とても満たされた気分だった。滅多にお目に掛かれない貴族様に笑い掛けてもらえたのだ、やっぱり僕の考えは間違いじゃなかったと、自分の部屋で盗み聞きをする最中に確信した。大人たちが過剰に怯えているだけなんだと。
でも今思うと、僕を見ていた訳ではないと思う。たぶん、僕の隣にいたリリーを見ていたのだと思う。
領主様が去った翌日にはリリーが居なくなった。
いつもとは違う雰囲気で僕の家にやってきたリリーの両親。
「すまない」とだけ言ったおじさんへ父が詰問すると、どうやらリリーは領主の元へ行ったらしい。奉公に出された、その言葉を聞いた父は部屋へ行けと僕に怒鳴った。
大して広くもない家の、大して厚くもない扉から、獣の咆哮のような父の声が響いた。思わず僕も顔を引きつらせるぐらいの勢いだったけれど、母が宥めてやっと話ができるようになり、おじさんが話し出した一連の経緯を、僕は扉越しに聞いていた。
領主一行が帰り際に、リリーを働かせないかと提案したらしい。そして支度金として20万を置いていったそうだけれど、僕には安く思えた。商人に卸せば、領主様へ果物を卸せば、容易く手に入る額だったから。
再び空気が裂かれ、僕の部屋までも父の声がこだました。怒号の最中にあった言葉は、父や大人たちの様子が可笑しい原因を端的に表すものだった。
マルカーヴァ人が重用されるはずがない、エーレンハウでは何人も殺されたんだぞ!田舎の生娘を何に使うかぐらい分かるだろう、しかもマルカーヴァ人のだぞ!?お前は魂を売るのか、娘に売らせる気なのか。
僕はブルッファーヴァ人だ。ブルッファーヴァの領主様のために働く事について、どうしてそんなに怒るのか、ため息が出るほど理解しがたかった。
領主様のもとで働けるのは良いことだし、お金もたんまり貰えるかもしれない。教養も身につくし、上流階級の仲間入りができるかもしれないし、領主様がいい心証を覚えればこの村が贔屓されるかもしれないし、良きブルッファーヴァ人であると再認識してもらうには、絶好の機会だというのに。
父の怒りが収まることはなかった。
とはいっても、未来のお嫁さんが居なくなったのは寂しい。
リリーはよく「外に出てみたい」と言っていた。村の外で生活してみたいらしかった彼女にとって、良い巡り合わせだったのかもしれない。
けれど、お別れもなく突然消えた彼女に失望した。もちろん彼女は悪くない。僕なら、喜び勇んで働くに決まっている。この村のためにも、僕自身を認めてくれた領主様のためにも。いやでも、もしかしたら悪いかもしれない。断る事も出来たのではないか?
僕にはできない事をリリーに求めて怒っていた。
でもそれはぽっかりと空いた空洞を誰にも見せたくなかったから。
当然僕にも見せたくなかったから、悲しみの代わりに顔を出してくれたのだとうすうす気づいていた。
だから僕は早く大人に成りたいなと強く思った。村の大人たちがそうであるように、リリーがそうであったように、みんな隠すのがうまいから。
うねうねと掴みどころのない感情に弄ばれる僕は、なんとか祝福できる態度を作った。後日、僕に謝りに来たリリーの両親に、努めて口に出したおめでとうを伝え、気持ちを何処かへと逸らすため果樹園へと向かった。
ある日、商人がやって来た。
父は領主様と契約することを伝え、以前の約束はなかったことにしてくれないかと相談すると、不承不承ながらも頷いていた。
そしていつものように一泊する折、僕はあることを聞かれた。
「君たちは何を信仰しているのか」と。
そして僕は答えた。
――悪魔ですと。
一瞬の間と驚いた表情は、何か言ってはいけないことを言ってしまったのかと僕を不安にさせた。でもすぐに商人は謝って、その表情の訳を話してくれた。
ブルッファーヴァでも悪魔を信仰しているそうで、話を聞く限り、僕たちの信仰している悪魔と同じだった。商人さん曰く、王国統一時代の名残でブルッファーヴァに近い、ここターヌマエ州は同じ悪魔を信仰しているのだろう、だそうだ。
他の州のことはよく分からないけれど、隣州のエーレンハウも僕たちと同じ悪魔を信仰しているので領主様同士、住民同士仲が良いと祖父が言っていた記憶がある。もしかしたら、マルカーヴァ国内でも信仰は様々なのかもしれない。
商人さんが、驚いた理由はそれだけではなかった。どうやらストレーヴァでは悪魔崇拝を禁忌としているらしい。王国統一時代の経験が尾を引いているそうだ。
浅黒い肌が特徴のストレーヴァ人、もとい大陸北部の人間が差別的な扱いを受けてきた歴史があり、その元が悪魔信仰によるものだと信じているからだそうだ。そんな話は初めて聞いたし、悪魔が差別を助長するというのは初めて聞いたけれど、彼らがそう思うのならそうなのだろう。
僕は話の流れを汲んで、何を信仰しているのかと訪ねたら、彼はこう答えた。
――光の使徒だと。
大陸が分断された昔に、ストレーヴァを救った白い翼の神秘的な人ならざるものを信仰しているそうだ。
彼がブルッファーヴァ中央へ向かったその日、亡き祖父の面影と共に信仰を思い出した。祖父に聞いた話では、愛を司る悪魔だとか。
大して信じてもいない悪魔に祈るほど浅ましい人間ではないから、日々形式的に胸に六芒星を切っていた。しかし、今となっては少しだけ力を貸してほしかった。
待ってろよ、そろそろ縁談がまとまるぞと両親は励ますように僕に話してくれた。興味なさげに頷いていたけれど、実際は気が気でなかった。誰が来たってこの空洞は埋まりそうもなかったからだ。
悪魔を信仰するのは、魂を清めるため。彼らが好きな邪な欲望を告白し、奪ってもらう。そうすることでその日一日をまっさらな魂で過ごし、夜に感謝を捧げる。六芒星とそれを囲む円は、魔界にいる悪魔に声を届けるものらしい。だからこれを思い描き、祈りなさいと祖父によく言われた。
惨めったらしい毎日を、リリーがいた日常に戻すには替わりが必要で、僕に思いつくのは信仰だった。
戻ってこないだろうリリーを待つのもいい。でも、僕だけがこんな気持ちなのだと思うと、つくづくちんけな自分を厭悪する繰り返しで疲れ果てていた。
そして、日々の隙間に現れるリリーの笑顔が嫌いになっていた。領主様の屋敷に行けば、良い食事に良い服、そして僕よりも金持ちの良い男が見つかるだろう。もしかしたら領主様に見初められるかも。辺鄙な村での日々は彼女を思う度に僕を苦しめた。だから、一刻も早く空洞を埋めてくれる存在が必要だった。リリーの代わりは見つからない。だから大人に成って、不愉快な気持ちをうまく隠せるように成りたかった。
大人たちは苦しいときに祈っている。悪魔を小馬鹿にしたようなことをよく言う癖に、何故か祈っている。たぶん、いやきっと効果があるからだろう。
隙間を埋めるように僕は熱心に祈った。心の穴を塞いでください。平穏な日々をお与えください。この苦痛を取り除いてください。できるのならば、リリーを返してください。
幼馴染で初恋の人をどうにか帰らせてはくれないだろうかと、愛の分別もない僕は、愛の悪魔に祈ってみたのだ。憧れも怒りもこの寂しさも何もかも、彼女が戻ってきてくれれば、全てが丸く収まると思っていたから。
こんな僕を見たら、祖父はきっと小突くだろう。マルカーヴァの男はドンと構えて笑ってろ、とよく言っていたから。
耐えられない時は悪魔に尋ねなさい「間違っていますか」と。その日一日が清清と澄み切ったなら、お前は間違っていたという事だ。霞がかったままなら、お前の苦悩を共に理解してくれる強い味方が付いているという事だから、笑っていられるぞ。
尋ねてみたが僕の世界はどんよりと濁ったままだった。祖父の言う通りならば、僕の気持ちは自然なのだろう。だけれど、信仰の浅い僕に悪魔が寄り添っているとは思えなかった。だから、祖父の言うマルカーヴァの男には、どうにもなれる気がしなかった。
前に見たことのある徴税官がやってきた。目の下にはクマができ、焦点の定まらない目で僕たちを確かめた。袈裟懸けのカバンから、羊皮紙を取り出して、端っこを両手で引き伸ばし、宣言した。
「血税を献上しろ、戦争は近い!お前たちがブルッファーヴァ人であると、我らと祖を同じくすると証明してみせろ!」
何度かカバンを空かして、やっとのことで羊皮紙を仕舞い終えた徴税官は、くるりと来た道を戻った。時たま足をもつれさせ、ともに行動する騎士に支えられながらも、村から遠ざかって行った。
2回目の税の引き上げで父は愚痴をこぼした。血税という税が、村から男手を奪って行き、残される老人や子供、妻達はどうしろというのかと。
僕はまたもや歯噛みした。僕の父やリリーのお父さん、僕よりも早く成人した同世代まで連れて行ってくれるというのに、僕は対象ではなかったのだ。やっとブルッファーヴァ人だと証明できる機会が巡ったのに……。
結局リリーは帰ってこなかったし、戦争は始まった。夫役でいなくなった男手は村へ戻るとすぐさま戦場へと駆り出された。今ではブルッファーヴァ国民なのだから、これは義務、だそうだ。
父と一緒に帰ってきたリリーのお父さんは、旅立ちの際、僕にリングをくれた。おじさんの顔を怪訝に見返すと「リリーからだ」とボソリ一言。険しい表情のまま、僕が手にしたリングを見ていた。
「……分かってくれとは言わない。恨んでくれて構わない。本当にごめんな、イアン」
そう言うと僕に背を向け、出発した。笑い上戸のリリーのお父さんは、硬い表情のままだった。最後の言葉の意味も分からないし、このリングの意味も分からない。男は装飾品を身に着けない。ましてや農民は装飾品を身に着ける余裕がない。
何気なく指輪越しに空を眺めて見た。すると、内側に刻印があることに気づいた。
「リリーより永遠の愛をイアンへ」
ドキリと心臓が跳ねた。彼女の口から聞きたかった言葉が、このリングにはあったのだ。
いじけていた僕の、さもしい感情が晴れて、次に差し込んだのは罪悪だった。
決して安くないはずなのに……。
嫉妬で彼女を貶めてしまった僕には勿体ない言葉だ。
唇を噛み締め日月を眺めた。リング越しに差す光が僕を焦がし、叱ってくれているような気がして、酔うと分かっていても、日月から目を離さなかった。
旅立つ彼らの姿を見て、大人達は苦々しい顔で歯を食いしばっていた。泣きながら見送る母、僕も思わず涙が零れた。
ブルッファーヴァは強い。マルカーヴァから奪われた僕たちがいい証明になる。だから、泣くことはないはずなのに。
村のあちこちで流れる涙と、別れを惜しむ抱擁が、僕の思考とは酷くアンバランスで、僕は寂しくなった。絶対に勝つだろうし絶対に帰ってくると分かっているのに、とても寂しくなったのだ。リリーの時と同じように、味わいたくないものだった。
僕は小さな部屋の片隅で祈りを捧げた。この寂しさの正体である不安を取り去ってくださいと祈った。父は必ず帰って来ますよねと尋ねた。不安が消えなかったのは、酷く心が揺れてしまっているからだろう。僕は竈門の煤を片手に部屋へと戻った。頭の中に思い描けなかった六芒星とそれを囲む円を床に描き、また祈った。
あなたは間違いでないと言った。大人になろうとする気持ちも、リリーを思う気持ちも、村の大人たちへ向ける気持ちも、正しいから僕をこんな惨めにさせているのでしょう。
早く大人になれますように。強く逞しい精神を持ち、従順なブルッファーヴァ人して認められますように、そうすればきっと、リリーもこの村も何もかもが元通りになるはずだから、僕は善きブルッファーヴァ人になれるよう祈りを捧げた。
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彼の秘められた実力とは一体何なのか? そもそもそんなもの実在するのか!?
力こそが全てであり、鋼の教えと闇を司る魔が支配する世界。ムカフ島と呼ばれる火山のダンジョンの攻略を通して彼らはやがて大きな陰謀に巻き込まれてゆく。
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少し冷めた村人少年の冒険記
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辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
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優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
飯屋の娘は魔法を使いたくない?
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3歳の時に川で溺れた時に前世の記憶人格がよみがえったセリカ。
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異世界転生の話です。
のんびりとしたセリカの日常を追っていきます。
※ 表紙は星影さんの作品です。
※ 「小説家になろう」から改稿転記しています。
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貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
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【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
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ユーヤのお気楽異世界転移
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死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
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実験施設から抜け出した俺が伝説を超えるまでの革命記! 〜Light Fallen Angels〜
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それはある世界の、今よりずっと未来のこと。いくつもの分岐点が存在し、それによって分岐された世界線、いわゆるパラレルワールド。これは、そ無限と存在するパラレルワールドの中のひとつの物語。
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