生まれ変わって悪道を邁進する

マルジン

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1章コモンセンス

第8話コモンセンスオブアンダーワールド

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とある老婆は病死した。娘夫婦は王都へ引っ越して家にいるのは1人だけ。大した蓄えも無く、病気を隠し続け、ある日突然ぽっくりと死んだ。

その訃報が王都外州へ届いたのはそれから1週間後の事だった。あまりにも突然の知らせに、悲嘆にくれる間もなく実家への帰路についた。そうして更に4日後。生家で目にしたのは土を耕す元気な母の姿だった。
あの知らせは何だったのかと半ば怒りも滲んだが、それは焦燥や不安そして悲しみが消え去った喜び故の感情だと知っていたから、母を自然と抱きしめた。滂沱の涙を流しながら、迷子になった子供の様に、母の胸で泣いた。

このまま一人では置いていけないと、母を必死に説得し王都にある家で暮らすことが決まった。夫は仕事の都合もあって、別れて帰ることになり、母と娘はゆっくりと王都方面へと向かった。
のんびりとした田舎町、生まれ故郷で、心洗われる風景を眺めながら馬車の中で母がポツリと呟いた。

「どのくらい生きられるんだろうね」

早くに死んでしまった父の代わりに女手一つ、育ててくれた母は大きかった。だが、寄合馬車の中で遠くの方を見ながら言った母は年を取り、しわも増え腰も曲がり、いつの間にか小さくなっていた。そんな母の言葉に胸が締め付けられる思いだったが、気丈に笑い飛ばし、久々の二人の時間に心まで浸った。

それから1年後、戦争が始まった。ブルッフーヴァが侵攻してきたのだ。卑劣な奇襲と猛攻によってマルカーヴァ王国の2州は占領されてしまった。そして故郷であるエルデランド州は最前線になった。私のふるさとが知らない国になってしまうかもしれない。そんな想像に実感は伴わず、勝つだろう、守ってくれるだろう、失わないだろうと無根拠な想像が日常を支えてくれた。
相変わらず元気に部屋の掃除から料理まで手伝ってくれる母にはいささかの心配もしていなかった。訃報を聞いてから数日は目が離せなかったが、今となっては私よりも元気かもしれない。
妊娠したと告げた時の母の喜びようは、それは大きなもので、私だけの喜びではないのだと知ってとても嬉しかった。身重になったからと、私の世話や家事を忙しくこなしてくれる母に多少の申し訳なさを感じつつも、昔に戻ったようで、こみ上げる懐かしさに頬が緩む毎日だった。

ブルッファーヴァの侵攻は終わりを告げた。ふるさとはマルカーヴァ王国のまま終わってくれた。私と母の思い出が詰まった、あの田舎にまた、いずれ帰ろうと思わせてくれた吉報だったが、それだけでは終わらなかった。母を探している者がいると、近所の老夫婦から教えて貰った。何故、母を?と不安に思いながらも、出会ったら問いただせばいいかと深くは考えなかった。

そしてある人物が訪ねて来た。やたら宝石やら貴金属の類を身に着けた壮年の男性だった。夫が外出中で私が出迎えようとしたが、母の言葉を受け横になって休むことにした。
つわりがなくなって、体調も落ち着いてきたのでお茶ぐらい淹れようとベッドから起き上がり、居間に入ると、壮年の男性がにこやかに指をはじいたところだった。
疑問を差しはさむ間もなく、母の頭に油をかぶせたかのように火が付いたのだ。私は思わず叫び、母に駆け寄ろうとした。しかし、立ち止まってしまった。言葉の意味が理解できなかったからだ。

「来ないで、大丈夫だから」

いつもの優しい声が火の中から聞こえて来たのだ。そして、私を制する手は怯えも痛みも感じさせない落ち着いたもので、私に横になる様に言い聞かせてくれた時と全く同じものだった。
男性が嬉しそうに頷き、控えめな拍手をすると火は立ち消えた。そして、母の顔には傷ひとつなかった。髪も皮膚もいつものまま。何が起きているのか理解できずに呆然としていた私に、母は申し訳なさそうな顔で手招きした。

妊婦になって甘えすぎたせいか、心まで子供の頃に戻ったようで、どこか感じる疎外感と理解できない状況への不安から、母に抱きついた。
母は頭を優しく撫でてくれる。いつものように、昔のように。そして、こう言った。

「私は転生したの」

転生、という言葉について知っているのは、この国の英雄がそうだということぐらいだった。

馴染みのない言葉を聞き、子供のように聞き返すと、母は語ってくれた。

母は確かに死んだのだと。そして、私の知らないどこかの世界の誰かの魂がこの胸に宿っているのだと。いや違う、そんなはずはない。私の否定にもまた優しく答えてくれた。
私の子供の頃も、私が出て行くと決めた時の大喧嘩も、私が帰って来なかった寂しさも、全て覚えている。そして、死に際して駆け巡った走馬灯はどれも私との記憶だったと。全て覚えているから、母だと思っても仕方がないけど、本当は違うのだと。

「オイラは帰るね。邪魔しちゃ悪いから」

きっとこの男に何かされたんだ。私は叫んだ。

「待ちなさい!アンタが、アンタが何かしたんでしょ!」

母の表情は曇ったままだったが、言わずにはいられなかった。絶対に、何かされたんだ。精神に影響する魔法もあると聞いたことがある。だから、きっとそれを。

「オイラじゃないさ。でも」

その続きは無かった。顎に手を当て考えたかと思うと、じゃあねと一言残し消えた。見たこともない魔法で、一瞬で消えてしまった。
私は何も分からなかった、理解したくなかったから、ひたすら母の胸で泣いた。ぽっかりと空いた心の隙間が嘘であると信じられるように、母を抱きしめ、泣き続けた。

それからというもの、転生については一切話さなかった。母は何度か話そうとしていたが、私は取り合わなかった。これがただの時間稼ぎだと感じていたが、それでも良かった。母を失ったと知らされたあの日を繰り返すにはまだ時間が必要だった。

そうして引き延ばされた時間も終わりの日が来てしまった。

あの男が来てから1週間後。その日に限って夫は帰りが遅かった。そして、私の体調も悪く、その日は早めの夕飯を取り眠ることにした。

「おやすみ」

私は薄れゆく意識の中おやすみと言えたはずだ。

「不用心だよな、俺が言うのもなんだけど」

「フツーに誰か確認しただけでしょー。運がなかっただけじゃない?」

「……」

「オー大丈夫か?真っ青だぞ」

「よく普通でいられますね。信じられない」

「わーお。オー君、ウチじゃあこれがフツーだよ?これからやっていけるのー?」

知らない声で目が覚めた私は、すっかり良くなった体調もあって、明かりが灯る居間へと足を向けた。夫が同僚を連れて来たのだろうか、こんな遅くに少しうるさいなと腹立たしさを覚えながら戸を開くと、夫と母が倒れていた。

「ん?」

視線を上げると、見知らぬ男2人と坊主頭の中性的な1人が、こちらを見ていた。

「奥様、だねー」

「オー殺していいぞ。妊婦は食えねえ」

「嫌です」

殺す?まさか、2人は。私は母に飛びついた。瘦せてしまった母の背中に触れた。体温はしっかりとある。だが、規則的な振動が伝わってこない。呼吸の音も聞こえない。嘘だ。うつぶせになった夫の名前を呼び、背中を強く叩くが反応がない。体をひっくり返し、胸の音を確かめる。何も聞こえない。

「じゃあどうすんだ。俺たちの面は割れてるぞ?」

「……記憶を、記憶を書き換えます」

「えー?能力使えないんでしょ?」

「やってみなきゃ分からないでしょ」

「確かに。使える様になりゃ儲けだし、やってみろ。ただし、駄目ならそいつは殺す」

暴漢たちの言葉は頭に入ってこなかった。目の前の現実が唐突で受け入れられなかった。私は母にしがみつき願うしかできなかった。ひたすら「お願いだから死なないで」と懇願するしかできなかった。

「あ、あの、ちょっといいですか」

おどおどした声に、私は顔を上げた。私を見る目には同情が溢れていた。驚きと拒絶をその目が一気に消し去り、私の怒りを呼び起こした。

「アンタが、アンタたちがああああああああ!」

武器もなく、武術の心得も無い私は、ただやみくもに拳を振り回した。まずは目の前の白髪頭を殺す。それから、女を殺してから、最後に、どうでもよさそうにこちらを見ているあの男を殺す。
覚悟が幸いしたのか、拳が男の頬に当たった。しかし、それだけだった。倒れた訳でも気絶した訳でも無い。息は上がり、重い体で立っているのがやっとだった。それでも、もうどうなってもいいと、私は弱弱しい拳を振り続けた。

「……本当に申し訳ない」

男は私の腕を掴むと、あの目で私にそう言った。何が申し訳ないよ。ふざけないでよ。一体なんの冗談なのよ。人の家族を殺しておいて、謝れば済むとでも思っているの?
どうしようもなくやるせなかった。家族を助ける知識も技術もない私が憎らしく、仇である暴漢に同情され謝られるような非力さが悔しかった。
溢れた涙で視界が歪み、震える脚では立っていられなかった。崩れ落ちそうになる私を、白髪頭の男は支える様にして抱きしめた。
私を助けるような心があるなら、何でこんなことをしたのよ。一体私たちが何をしたっていうのよ。





「見つけました、能力が使えました」

オーは妊婦を抱えながらそう言った。土壇場で能力開花とは、ヒーロー顔負けの運命力だなと感心するエーは頷きながら続きを促す。

「とても長い記憶です。どうしますか?」

「さあ、俺たちの顔さえ消してくれればいい。ああ、消せないのか。誰かと入れ替えてくれればいいさ」

「分かりました。少し時間をください」


オーは出来るだけ深くにある記憶から身代わりを探し出した。関りの薄い、探しても見つかりにくそうな人物は簡単に見つかった。そして、彼らはどこかで死んだと聞いたはずだと記憶を書き換えた。決して報復など考えない様に、混乱して誤った人物を殺さない様に亡霊を身代わりにしたのだ。
彼女がその記憶をもとに「亡霊に家族が殺された」と、誰かへ助けを求めるだろうことは予測できたが、復讐に身をやつすぐらいなら、家族を失い気が狂ったと思われる方がまだいいだろうと考えての事だった。

オーは作業を終えると、いつの間にか目を閉じていたことに気づいた。眠っていたような不思議な感覚から覚醒すると、腕の中で目を閉じる女性に視線を落とした。そして、そろそろ生まれるであろう子供を身籠った未亡人に告げた。

「僕達が悪いんだ、あなたは何も悪くない」




ねちゃねちゃと臓物をまさぐる音が廊下まで響く。少しだけ扉が開いているのは薬品や血の匂いが充満しないように。そして、作業に夢中になったエムを呼び出すたびに扉を破壊したくないというエーの意図もあった。
今回の教材は、殺したばかりの英雄だった。本来ならば、防腐処理をしてから作業を行う。長い時間楽しみながら『学習』できるからだ。しかし今回はエーの命令があり、限られた時間で『学習』を終えなければならなかった。

夜なべすることになると覚悟していたエムは事前に準備をしていた。普段は飲まない酒を飲み、朝から気絶するように睡眠をとった。そして、教材を読み込み始めたのだ。
まずは子宮と卵巣を取り出し、外観を確かめる。そうして、触感を確かめ解体しながらこの個体の持つ特性を脳に刻み込む。それが終わると、大腸をそして肝臓、心臓と順に繰り返していき、最後に脳を検分する。
まずは頭蓋骨を露出させる為、頭皮を剥ぎ取る。頭の部分だけが見えればいいので、中途半端に通したネックウォーマーの様に鼻の辺りまで皮膚を剥がす。次は、頭蓋骨に複数あるつなぎ目にノミをあて、金槌を使い慎重こじ開け、てこでもって隙間を大きくしていく。いくつかの継ぎ目がぐらつくと、ノミをねじ込み捻れば、パカリと骨が浮き上がってくれる。そうして脳を取り出せるまで解体すると、これまでの様にしっかりと目に焼き付け、触感を確かめる。
こうして得られる知見は能力となって発現する。

英雄アマーリエは3つの能力を保有していた。『反撃』『慈愛』『暗転』であった。

「会長、終わったー。説明求ムー」

「あ、ああ、とりあえず血を落としてくれないか?」

「うーん、分かったよー」

エムは一階にある勝手口を出ると、樽の中に溜められた水を桶で掬い頭から被った。秋も終わるころに、外気に晒された水は痛みすら感じるほど冷たかったようで、唇を紫にしながら二階へと戻った。

「か、かっかか会長、きっききき綺麗にして、ぎたよ」

「は?お、お前、ったく。言うまで動かねえって面だな」

「う、うん」

ビリヤード台の上にキューを置くと、煙を吐き出した。

「『反撃』は貰った攻撃をそのまま跳ね返す。自動でなく任意で発動するようだ。『暗転』は光を消す能力のようだ。あいつが使わなかったから詳しい発動方法とかバリエーションまでは分からないが、あんまり戦闘に向かないんじゃないか。で、最後が『慈愛』で愛を持って育むと急速な成長を遂げるみたいだけど、謎が多いな」

「よ、よじ、あ、あああありがとととう」

「うん、早く着替えて体を温めろ。今日だぞ」

エムは頷きながらエーの部屋を出て自室へと帰っていった。



間仕切りやソファーが奥へと乱雑に追いやられ、1階には広々とした空間ができていた。そしてそこにはCSOU社員達が集まっていた。

ACDEFHIMNSTV
総勢12名が一同に介するのはCSOU創設して初の事で、エーの顔も綻んでいる。

「アイ、久しぶりだな」

目元まで隠した髪に、うつむいた顔でボソボソと答えるが、エーには届かない。

「あー、まあ元気ってことだな。今日は頼むぞ」

真っ黒のローブの下からヌッと突き出したサムズアップに満足したエーは、ティーへと視線を向ける。

「ティー、お前は」

「なんスカ、俺は何なんスカ」

「お前は落ち着いて、指示通りに動け。頼んだぞ」

「わーってますよ。約束、守るッスよね?マジっすよ?」

「ああ、もちろん」

「うーーーっし」

尖った革靴にもっさりと着込んだ毛皮のコート。どこから仕入れたのか分からない、ピチピチとした光沢のあるズボンにショッキングピンクのワイシャツの男は、奇妙な小躍りをして、嬉しさを表現した。

「聞けぃ!我らは革命を断行する!腐りきった王制を打破し、市民に自由を取り戻す!」

「なにそれ」

エイチが薄く笑いながらあっさりとしたツッコミを入れた。

「なんとなく。とりあえず作戦通りに行動してくれ。自分の身が危うくなったら能力をフルで使って離脱しろ」

まとまりのない返事を聞き終えると、エーはニヤリと笑った。

「よし!エム、頼むわ」

「はいよー」

外出時用の白衣姿のエムの周りを社員たちが取り囲んだ。

「3、2、1『変位』」

カウントダウンが終わり、変位と唱えると景色は一変した。そこは、王都を囲むマルカーヴァ州の南西にあるとある屋敷だった。
メイド服を着た侍女や侍従たちが歩き回っている、その最中に社員達はやってきたのだ。

「うい~っス、はい『幻覚』」

ティーはどこかのスーパースターのような振り付けで、親指と人差し指を伸ばした右手を天に突き上げた。
すると、正体不明の来客に慌てふためく間もなく、侍従たちはボーッと虚空を眺め、力無くだらりと腕をぶら下げた。

「後は宜しく」

頷いたシー、ディー、エム、エヌ、ティーが四方に散って行くやいなや、残る社員たちの額に手を当て出した。手が離れたのは数秒の後だった。すると水に垂らした絵の具が如く、額から皮膚が広がり、足先へと侵食していく。その顔は、エーが事前に見た執事や騎士へと変わり、市井一般に広がる服装だったエスは執事服へ衣装が変わる。他の社員たちの服も騎士の鎧へと変貌した。
そして自分の額に手を当て、でっぷりと肥えた高貴な人物へと『擬態』すると、一直線に玄関へと向かい歩き出した。

姿形が変わったイー、ヴィー、エイチ、エフ、アイ、エスがを従え、ボーッと宙を眺めるメイドの横を通り過ぎ、据え付けられた取っ手を握った。

外では、屋敷にいる主の私兵たちが焦点の定まらない目で立っていた。それを見て鼻で笑うエーは、長い動線の奥にある外へと繋がる門扉を開いた。

まさにそこが、王都である。門扉の外にも、私兵と同じ目をした騎士がやはりいるが、彼らを横目に一歩踏み出し、王都へと侵入したのだ。

王都には近衛騎士団と行政官庁努めの役人と、貴族の子弟がいるだけで、普通の平民はいない。
ここは1から人工的に生み出された街で、非常に分かりやすい造りになっている。王都を囲むマルカーヴァ州は、王都に倣い綺麗な円形となっている。入州するのは他州に比べて容易ではなく、ここもまた名の通った一部の者や官庁の下っ端役人しか住めない街である。王都へ入るにはまず、マルカーヴァ州へ入る必要があり、更にその奥、つまり王都へ進むためには、10の別邸を潜らねばならない。これらは先代の王の子が持つ屋敷であり、王都へ入る関所のような役割を担っていた。
そこすらも越えると、邸宅が規則正しく配置され、道は王城へと真っ直ぐに伸びている。俯瞰してみれば、自転車の車輪のような道筋になっているのだ。
ちょうど10本の道が関所代わりの各別邸から真っ直ぐにあり、何も考えずに歩けば王城へ辿り着く。

だが、歩いていく事はしない。ここは馬車専用の道であり、基本的に徒歩は想定されていない。何故ならここには地位と金がある高貴な人間しかいないからで、馬車ぐらいあるだろうという想定なのだ。

時間は朝の8時。『擬態』した高貴な人間が持っていた時計に目を落とすと、タイミングよく右手から3台の馬車がやってきた。平民が乗るようなものではなく、扉があり装飾もある豪奢な馬車である。

小気味良い蹄の音が止まると、窓から顔を覗かせたのは、マークネイト州の田舎町にある邸宅で隠居している、ティモシー・デ・マルカーヴァだった。

「久しいな、兄弟」

「順調だ。乗っていいか?」

「もちろんだ」

エーは、後ろの社員たちへ後方の馬車へ行くようにと、指で示し、開け放たれた馬車へと乗り込んだ。

「ふむ、デズモンドだな」

「見た目はな。記憶でボロが出ないように、俺は喋らないから頼むぞ」

「言われなくとも」

遠足を待つ子供のような笑みを浮かべたティモシーの言葉を残し、馬車は王都へ向かった。



口を半開きにして宙を眺める、デズモンド・デ・マルカーヴァの前にエムは立っていた。どうやら、執務中だったようで、溢れたワインが書類に大きなシミを作っていた。

「アンタが悪い権力者であることを願うよ」

机の上にある金に煌めくペーパーナイフを掴むと、首筋へと突き刺した。しかし、狙っていた頸動脈に当たらなかったのが気に入らないのか、何度も何度もナイフをつきたて、ようやく血しぶきが上がると、満足気に凶器を手放した。

「まっ、大金が入るからねー。関係なく殺るけど」

ペシペシと男の肩を叩くと、入り口から複数の足音がやってきた。

「ちっ、終わったのか」

「さーーすがっスネ、仕事が早い」

「ふふん!残念だったねー」

それぞれが各部屋を見て回り、デズモンド捜索に当たっていたが、ハズレだと分かりエントランスに戻っていた。だが、1人戻らないエムが当たりを引いたのだろうと、揃ってやってきたのだ。

「無駄話はいいから次、行こうよ」

「えーっと、早めに仕事を終わらせましょう。会長たちの足を引っ張ると良くないですし、という意味ですよ」

シーの言葉をマイルドにしてあげたディーだったが、誰も気にしていない様子を見て、安堵の表情を浮かべた。

「じゃ、集まってー。次はドロシー・デ・マルカーヴァさんのところに行くよー。3、2、1『変位』」

王都への侵入が容易ではないのは、マルカーヴァ州の検問と、現王の兄弟姉妹達の別邸を通るという高いハードルがあったからである。
それ以外の場所、つまり、なんとか州の検問をすり抜け別邸を避けようとすれば、魔法によって跡形もなく消えてしまう。だから、王都は清潔であった。そして、怠慢と慢心があった。

王都はあらゆる侵入者を阻むため、強力な魔法によって守られていた。通魂層まで届く円柱状の魔法は、アリ一匹通さない堅牢な防衛の要であり最後の砦である。
どんな魔法でも、どんな傑物でも、どんな魔物でも悪魔でも通さない古の魔法。
しかし、欠点もあった。

王都へ誘う王の縁者が裏切る可能性を考慮していない点である。
そして、転生者という魔法の効かない者がいなかった時代の魔法である点だ。

今回、CSOUの面々が敢えて別邸という関門を襲撃したのは3つの理由からだった。

1つ、エーが魔法の効力を受けるから。
2つ、混乱は最小限に留め、騎士が集結する前にカタを付ける必要があったから。
3つ、ティモシーの兄弟姉妹の内、明らかに敵対的な3名を処刑せよという依頼があったから。

エムとエーが持つ『変位』の能力は、指定した、見たことのある場所にピンポイントで移動できる能力である。事前に『擬態』でその場所をその目で見ており、能力発動の条件1をクリア。
条件2の指定についてはティモシーの血がポイントとなり、エム達は次の標的であるドロシー邸へと移動したのだ。



「ティモシー殿下お待ち、して、お」

窓の外から、中を物色していた騎士はエーを見て言葉を失った。

「貴様、無礼であろう。デズモンド殿下が御座すのだぞ」

年季の入ったしわくちゃな執事の叱責で、騎士は失態に気がついたのか、大きな体を縮こませ、ヘコヘコと頭を下げた。

「は、ははっ。申し訳ありません。デズモンド殿下、ティモシー殿下、ようこそおいでくださいました」

「デズモンド殿下と共に、陛下へと謁見仕りたい」

「さ、左様ですか。いやしかし、本日デズモンド殿下がいらっしゃるとは聞き及んでいなくてですな」

「だからティモシー殿下と共に参ったのだ」

「いやー、しかしですな、予定にない場合は如何なる御方でも」

「上を連れて来い。貴様では話にならん。ここを統括する者を今すぐに呼び出せ」

「……畏まりました」

唇を強く結び、視線を彷徨わせたかと思えば、すぐに諦めの境地に達した。か細い声で返事をすると、電話ボックスのような人ひとりが入れる待機所へと姿を消した。

それから数分後、肩を落としながら待機所から出てきた騎士は窓の外から「どうぞ」と一言発すると、部下たちに合図を出し、開門させた。

暇な馬車の中でエーは、見たこともない王を、頭の中で幾度も殺していた。すると向かいに座るティモシーが声を掛けてきた。

「緊張、しているのか?」

「ハハハ、冗談か?」

「……ふむ、強がりではなさそうだな」

「ったく、国王一人殺すだけだろ。そんなんでいちいち緊張してられるかよ」

剣さえあれば、ひと突きで殺せる距離に座る男。そんな男が吐いた言葉に目を丸くした。彼が見ているのは自分とは全く違うものであることに、今気づいたのだ。ただの快楽殺人者ではない。暗殺者でもない。ティモシーは得意の作り笑いで、盛大に危機を知らせる本能を隠した。

「楽しみだな」



魔力識別印紙とは、この世界ではよく使われている。各人の指紋が違うように、魔力もまた固有である。この特徴を利用して、羊皮紙にある魔法をかけることで、事前に登録された者であるか突合するというのが一般的な使い方である。
当然のことながら、王城でも用いられる、警備の基本ともいえるシステムである。

三本の塔が目を引くマルカーヴァ城。城壁の周囲は水堀になっており、ここを越えるには橋を渡るしかない。常時開いている橋は4本で、その奥には重々しい木製の門が構えている。

橋を渡りきると、今度は大きな煉瓦造りの小屋があった。
扉のない小屋から羊皮紙を持ってやってきたのは、皮のベストを着た分厚い胸板の男だった。

「識別を」

丸められた2枚の羊皮紙が執事へと手渡され、デズモンドに擬態したエーとティモシーがそれを受け取った。
王家の者であろうと、この段を飛ばして入城することはできないのだ。

エーは何食わぬ顔で、羊皮紙の麻紐を解いた。向かいに座るティモシーも同じく羊皮紙を広げるが、一向に識別印紙へと触れない。
ゴクリと執事が息を呑む音が車内に響く。

魔力とは固有であり、魔法によっても再現ができない。さらに、魔力を生成するという便利な能力も持ち得ないエーは、識別印紙に触れることはできないのだ。本当なら今頃、別邸で王家の者が殺されて厳戒態勢となり、継承権を持つ2人は即刻入城させられるはずだった。
しかし、番兵は不思議そうな顔をして、車内を見回している。



ドロシー邸での仕事を終え、最後の別邸へと移動したエム達は困惑していた。

「この人、誰だろー」

「……」

「偉い人、だと思うけど」

「困ったね」

「まとめてヤッちゃったらマズいんスよね」

ティモシーの弟であるリュードルは、4人の眼の前で眠りについていた。
そしてその横には、リュードルよりもひと周りほど歳上であろう女性がいた。ふっくらした顔つきや髪の艶、化粧で白くなった顔で、娼婦などではなく高貴な人だと分かる。
それが問題だった。

「余計な人を殺るのは、マズイよねー。特に貴族は」

「エムさん、時間は大丈夫なんですか?」

ディーの言葉で時計を確認する。8時28分。

「大丈夫じゃなーい!どうしよう!もう殺っちゃう?」

「止めた方がいい。コイツを殺すのはヤバい気がする」

「エヌ君、この人知ってるの?」

「勘」

「よし殺ろう」

「まあまあ、落ち着いて。冷静になりましょう。まず、クライアントの意向もありますから、余計な殺しはできるだけ避けたい、ですよね。それに、この方がクライアントの味方だった場合、ここで殺してしまうと、裏切りが判明してしまいます。そうなると、クライアントの陣容が崩れる可能性もある。そして、エヌさんの勘はよく当たります」

ディーの説明が正しいだけに更なる混乱をもたらした。

「じゃーどーするのーー」

頭を抱えたエムに救いの手を差し伸べたのはシーだった。

「急ごう。オレが能力を使って身元を探るから、コイツだけ起こしてほしい。あ、それからエヌさん、ババアが起きたらリュードルをできるだけグロく殺してほしいです」

「グロく?まあ、やってみるわ」

ティーはシーの頷きを確認すると、逆Lの字にした指先をアイドルが如く、熟年の女性へと向けた。
すると、女性の重いまぶたが何度か瞬き、ベッドの周りを囲む集団を見て固まった。

「あ、あああなた達は!?」

狼狽えた女性の様子を見て、シーは合図を送った。

「オイ、ババア。見てろ」

エヌは人差し指を突き立てて見せた。種を仕掛けもないぞとばかりによーく見せると、気持ちよさそうに眠るリュードルの右目へとゆっくりと沈めてゆく。水の中にピンポン玉を押し込むように、ブルンと眼球が飛び出し、神経や血管、筋肉や腱が配線コードのように眼球を引き留めた。それでも構わずに人差し指を沈めていくと、カギのように指を折り曲げ、引っ掛かりを探し出した。ちょうど鼻筋があるくぼみの部分だ。

「手品みたいに不思議だろ?頭が指にくっついた」

そう言いながら、頭を持ち上げて見せると、枕に押し付け、指をさらに奥まで突っ込んだ。
ウイスキーのロックを飲む前のように、執拗にぐりぐりとかき混ぜた。

「『取引』をしましょう。あなたは私達の質問に対する答えを持っています。それをいただきたいのです。対価として、あなたの頭を撫でましょう。取引成立ですか?」

ビクビクと跳ねるリュードルに釘付けになった女性の耳には届いていないようだった。ただ浅く呼吸をするだけで呆然としている。

「おい!こっちを見ろ!」

ベッドに足をかけ、女性の髪を鷲掴みにすると、再び問い掛けた。

「『取引』だ。お前は俺の質問の答えを持っている。それを寄越せ。対価は感謝の言葉だ。取引は成立か?答えろ!」

ただ頷くだけの木偶人形と化した女性の返答に満足すると、シーは質問を始める。

「名前は」

「キャサリン・デ・マルカーヴァです」

「……国王との関係は」

「義理の母です」

「……こいつとの関係は?」

「義理の母です。私は第4王子の母です」

「第4、ティモシーか?」

「は、はい」

「分かった、ありがとう」

シーは手を離すと、エムに視線を送った。

「わーお、リュードル君マザーファッカーじゃーん」

「俺の勘は当たってたな」

「だねー。殺さなくてよかったけど、どうしよっか」

「連れて行きゃーいいだろ。王子に返せばいい」

エムは時計に目を落とす。針は8時34分を示していた。

「うん、連れて行って会長に任せよー。予定の時間も過ぎてる、これ以上話してるヒマはないかも」

顔を見られた以上、対策を講じる必要がある。簡単なのは殺して頭を潰す。記憶を抜き出される心配もないから、本当はそうしたい。しかしクライアントの母である、という事実は無視できなかった。
彼女を連れ立っての仕事は、明らかに効率が悪くなるが致し方ないだろう。細かい事は会長に任せてしまえばいいと、考えることをやめたエムは、指示を出した。

「集まってー。ティー君はタイミング合わせてね」

キャサリンはエヌに引きずられ、ベッドからずり落ちた。それと入れ替わるようにエムが死体の横に立つと、社員たちがベッドの周りを囲んだ。

「3、2、1『変位』」

1と言ったタイミングで、ティーは天に突き上げた手を床へと向け『解除』と言い、彼らは消えた。



「あの、識別は」

もじゃもじゃの髭を掻きむしった後に、執事へと尋ねた番兵。この数分間、ティモシーはエーへと罵詈雑言を浴びせかけていたのだから、番兵の気持ちはいかばかりか。

「貴様が融通しなかったお陰で、私はあんなクソ田舎に飛ばされたのだぞ!ああ、そうだろうとも。私が憎くてくだらない蛮行に及んだ、そう言いたいのだろう。だから何だ!謝ったとて許されるものではない!私が王都にいないからと調子に乗りおって、見てみろこのざまを。ブルッファーヴァと戦争だと?また領地を取られたいのか、また市民を捧げるのか?プライドだなんだという騎士共を抑えきれん、お前たちに一体どれだけの価値がある!政治もまともにできぬのなら、表に出るな!読書でも騎士ごっこでも漫遊でもすればいい。その方が国のためになるというものだ!」

「こうなっては止められんのだ。暫し待ってくれ」

「……はあ」

立て板に水を流したように、スラスラと出てくる私怨の数々。その中には国のためにだとかキレイな言葉も織り交ぜているが、要約すると、お前が嫌い、と言いたいのだろう。心のなかでため息をつきながら、そんなことを考えていると、若い騎士が慌てて走って来た。

ティモシーの口は止まらないが、外の様子に意識が向けられているのは、攻撃を受けるエーだからわかることだろう。

「何!?」

髭面の番兵が驚きの顔を見せたことで、エーはやっと終わったかと、口の端をぐにゃり曲げた。

「失礼!緊急につきお通しします。すぐ入城してください!おい、進め!死にたくなければ全力で駆けろ!」

番兵が御者へ発破を掛けると、馬車は急発進した。
激しい揺れの中、ティモシーは大きく息を吐き、胸をなで下ろしていた。

「やっとか。全く、肝が冷えたぞ」

「フッ。お前ら相当仲が良いんだな」

「謝らんぞ」

舗装された道を馬車の列が駆け抜け橋を渡りきると、城門が開いている最中だった。2頭の馬が通れるかどうか、ギリギリの隙間、御者は躊躇いがなかった。むしろ、馬に鞭をうち、速度を上げると城門へと疾駆した。
門の内は開けた廓。侵入した敵の迎撃地点だが、平時ではもっぱら馬小屋や練兵場として使われていた。しかし今そこでは、屈強な男たちが忙しなく行き交っている。防具を身に着け、木箱から剣を取る。新兵には老骨たちが手とり足取り、装備品の身につけ方を教えている。

「止まれーーー!」

ひたすら真っすぐ、王城へと向かう馬車の前に立ちはだかったのは、一人の騎士だった。傷一つない金色の鎧には意匠の技がこれでもかと詰め込まれ、ウェーブの掛かった金髪は、貴族の女性よりも艷やかであった。
真っ白な歯を見せつけるように笑みをこぼしながら、急ブレーキをかけた馬車へ近づきノックをする。

車内では、ティモシーの右肩にキスをしたエーを押しのけ、執事が窓を開いた。

「……テープル公、何故このような」

「道を間違えているから、だよ?本城では正統会議の真っ最中だから、今はだめ」

「正統会議、でしたら殿下も臨席致します。その権はありますぞ」

「ティモシー殿下にはないって分かるでしょ?」

「デズモンド殿下にはあります。そして、デズモンド殿下が参会せよと仰せならば、権はございましょう?」

「でも、陛下が」

「その場に赴き謀ればよろしいこと。ここで立ち去れば、公の独断、意味は分かりますな?」

「……しわ寄せは陛下に行きそうだね。それは良くない。だったら確認させてもらうよ、中に御二人がいらっしゃるの?」

「ええもちろん」

執事が離れた窓から顔を覗かせたのは、美男子だった。王国でもアイドル的人気を誇る、東部の大将軍であり4英雄の一人アズガー・テープルは、高貴な車内に首を突っ込み、目を細めながら2人の顔を見比べた。

「デズモンド殿下、お久しぶりです。何故ティモシー殿下と御一緒なのです?あれ程嫌っていたではないですか」

痛む鼻を抑えながら、その男を観察する。能力は『恋慕』と『引率』。『擬態』を看破できる能力はない。しかし、その表情を見れば試されているのは自明だった。

気まずそうに顔を下に向けると、ティモシーが代弁してくれた。

「私が引きずり出したのよ、詮索好きの英雄殿。仔細話す義理はあるまい?」

「んー、そうでしょうか。動乱にあって、この異常、見過ごせますか?流石に怪しく思いますよ、殿下」

王弟への態度にしては不遜だが、彼は国王の最側近。剣呑な態度も国王に敵意を見せるからこそなのだ。

「口を慎め。私の世界で図に乗るな」

ティモシーの優しい顔立ちが、言葉をさらに鋭くする。激しい嫌悪と怒りが貴族の膨大な魔力に出会い昇華する。ピリピリとした雰囲気が車内に充満し、エーは感嘆していた。貴族の魔力とはこれほど素晴らしいのかと。

「……失礼しました、殿下。」

英雄アズガー・テープルは魔力の波動を感じたわけではない。言外にお前の世界ではないのだと言われた事に、自分の立場を思い出したのだ。自分の世界ではないことを、庇護される身であることを。

「出せ」

主の指示を受け執事は座席後ろの壁を叩いた。エーは俯いたまま、英雄は黙りこくったまま、馬車は再び王城へと進みだした。



ティモシーの別邸では彼の子であるロッシーニが贅を尽くし、エムたちを待ち受けていた。

「おお、何もないところからい、き、なり」

指定場所に現れた彼らの中に、ロッシーニの祖母キャサリンがいることに気づいた。だが、前に見た時とは違い憔悴して小刻みに震えている。

「えっ?」

ロッシーニは彼らの計画を知らない。父の友人がやってくる、その指示を受け最大のもてなしをしようと画策した。それも父ティモシーに褒められたい、できるならば、また会いたい、という一心からだった。

「あー、会長の言ってたボンボンか。ほれ、寝かせてやれ」

雑巾を投げ捨てるかのように放り出された祖母は、力無く崩れた。真冬の凍てつく湖に投げ出されたかのように、体の芯から震えている。

「お、おばあ様、何があったのですか?護衛はどこへ行ったのです、まさかこの者たちが?」

「エム様、旅ではまともな食事も無かったことでしょう。王都の食事をご用意しておりますので、ご案内致します」

何も知らないロッシーニは祖母の身をただ案じていた。そして、目の前にいるコイツらが何かしたのではないか、言質さえ取れば傍らで辺りを警戒する騎士に命じてその首を刎ねてやると意気込み、祖母を問いただす。
その横で別邸の執事は、社員たちを奥の広間へと案内しようと深々とお辞儀をしているところだった。
もちろん、キャサリン公を多少心配する気持ちはある。しかし、敵方であるリュードル殿下と寝るようなアバズレにかける心配よりも、この者たちを怒らせて、主の不興を買う方が心配だった。

「王都の食事かー。楽しみだなー」

「王都は初めてなので?」

「うん、外州の方には仕事で行ったことがあるけど、その一回きり。王都に入るのは初めてだねー」

「一流の料理人が腕によりをかけております。ささ、参りましょう」

ロッシーニが余計な癇癪を起こす前に、早くこの場から引き離したかった執事は、給仕と音楽家たちの待つ奥の部屋へと歩き出した。

「待て!」

だが遅かった。

「お前たちはおばあ様に何をした!父上の友人だと聞いていたが本当なのか?ジャズ、お前もなにか知っているのだろう!」

ピタリと足が止まり社員たちは振り返る。
侍女や侍従はその辺にたくさんいるのに、キャサリンに駆け寄ったのは男の子だけ。違和感のある光景、思えば不思議だなとエムは脳内で頭をひねった。

そして、会長の説明不足にも頭をひねっていた。ここにはボンボンがいるとだけ。
ティモシーの息子だとは聞いていなかった。
貴族だろうとは思っていたが、小さな男の子だとは聞いていない。
それに、食事があることも聞いていない。食事の席はさぞや豪華なものだろう。

「なーんで教えてくれなかったのかなー会長は。めんどくさい事になりそーだなー」

すべて会長が仕組んだことならば、シー、エヌ、ティーが何をするかは目に見えている。
コイツらはこだわりが強い。殺しには色々と注文をつける。会長の命令なら、嫌嫌ながらも仕事をこなすが、そうでないなら好みを重んじる。場を整え完璧にならないと殺しはしない。

今、整いつつあるこの空間で彼らがどう動くのか。御せない、絶対に。だが、会長の思惑通りならこのまま静観していてもいいのではないか。
エムは冷静に三人を見据えた。
いつも不愉快そうなシーは優しく笑みをたたえている。
会長以外の何事にも興味を見せないエヌは、ロッシーニの横に立つ騎士へと熱い眼差しを送っている。
呼吸を荒く、小鼻をふくらませるティーは、今すぐにでもロッシーニに飛びかかりそうな勢いである。


「ロッシーニ様、今はお止めください。ご説明いたしますから、まずは客人を」

パチン!
エントランスホールに響いた。

ロッシーニの横にはティーが立ち、エヌの横には騎士が立っていた。

「なっ」

パチン!
騎士が剣を抜く前に、更に一つ。

2つの絶叫が交差した。
執事とキャサリンは目を覆い、床で転げ回る。
彼らのもとに駆け寄るメイド達を見て、シーは指を鳴らそうとした。だが、ディーの言葉で動きを止めた。

「シー、その辺にしておきなよ。ここはティモシーさんの家なんだよ?さすがにマズイよ」

「どうかな?エヌもティーも我慢できない、そうでしょ?」

2人から嬉々とした同意の言葉が返ってくる。

「たぶん会長はこうなることを望んでいるんだよ。オレたちの趣味を知らない人じゃない。つまりこれはご褒美、最近は禁欲的だったから、きっとそうだ」

「はあ、僕は知らないからね」

険しい顔をするエムは、シーの視線に何も答えなかった。
シーの弁解が自分の疑問の一部を解消する鍵だったからだ。でも、協力者を痛めつける意味がわからない。仕事はキッチリこなすはずの会長らしくない。
暴れる三人を止めることはできない。シーの指が擦れ、音を立てた後の惨劇をただ傍観するだけだった。




王の間、謁見や上奏が行われ、賓客が通される部屋。
壁に掛けられた7つの旗はマルカーヴァを治めるマルカーヴァ家へ忠誠を誓った家々を表す。家を代表する旗の主は王から各領を与えられ統治をする。
玉座の後ろには、マルカーヴァ家の旗が掛けられている。横たえた剣と鮮血の旗。如何なる反乱も剣を立て血をもって沈黙させる。如何なる戦いにも終わりがあり、その時には剣を横たえ血の上で手を取り合う。血の代償無しには屈せず、血の代償なしには平和をなし得ないという意味が込められたマルカーヴァ家の旗は、集った旗の子らを静かに見守っていた。


「第1王太子、デズモンド・デ・マルカーヴァ殿下、第4王太子、ティモシー・デ・マルカーヴァ殿下、ご入場!」

羽飾り付きの帽子を被り、金色に輝く槍を構えた守衛たちが見守る中、扉の奥からアナウンスが聞こえた。古臭い木の扉が音を立てながら開くと二人の守衛は頭を下げた。

エーが見た正面の玉座に座る男の第一印象は若い、だった。
もふもふの毛皮をまとい、髭を蓄え、王冠を被ってはいるが、想像していたような者では無かった。体は引き締まり、左眉から口までは戦いの傷が刻まれていて武闘派であることが窺える。光も吸い込む真っ黒い瞳は、遠目からでも人を威圧し、敷居を跨ぐ自分たちだけでなく、その奥にある心までも見透かしそうな深い色をしていた。

ティモシーとエーは、従士の後に続き王の間の中央へと進み片膝をついた。

「仰せの通り口上は控えます陛下」

従士は短い言葉を残し扉から去っていった。

「デズモンド、ティモシー、久しぶりだな」

エーは隣にいる真の王弟に倣い軽く頭を下げた。

「別邸が襲われた。それも3つ」

低くゆったりとした王の言葉は、空気を重く感じさせ、意思がなくとも頭を垂れてしまいそうなものだった。

「リュードル、ドロシー、それからデズモンドは殺された」

ティモシーは顔を上げた。最後の言葉が常識ハズレでおかしなものだったから。

「陛下、私の隣にいるのが誰だかお分かりでしょう?デズモンドです。一体誰が死んだなどと」

「間違いない。死んだのだ」

ティモシーはゆっくりと隣にいる人物へと視線を向ける。俯いたままのデズモンド、もといエーは笑うでもなく怯えるでもなく、無表情で床を見つめている。

「では、その隣りにいるのは誰なのか。私の疑問にお前は答えてくれるのだろう?」

「……陛下、理解できません。彼はデズモンド、それ以外に見えますか?」

「まず、リュードル。これだけで王都は厳戒態勢に入った。王家の者を王城に参集し万全の体制でもって敵を屠る。そしてドロシー。この訃報は旗主へと通達する決心をさせてくれた。軍を起こして国境を守れとな。王位継承権を持つ2人が1日で殺されたのだ、混乱は免れない」

王はため息をこぼすと、悲しそうに続きを話した。

「デズモンドの訃報はお前たちが来る前に聞いた。騎士たちは中に入れるべきではないと言ったが、私は拒みこうして会っている。何故か、貴様らの言葉を聞きたいからだティモシー、そしてどこぞのマヌケよ」

肩で息をし始めたティモシーは、脂汗を拭いながら必死で打開策を探していた。しかし、無理だ。死んだはずのデズモンドが横にいるというのだから、抗弁のしようがない。
本来、ドロシーとリュードルを消し、国王と最も仲のいいデズモンドを人質に、王位を簒奪するはずだった。国王派とされるのはこの3名であり、マルカーヴァ州を含めた王都周辺で最大規模の軍を持つデズモンドを生きたままにしておけば、国王の暗殺は容易く、その後の掌握も簡単だからだ。

何故、デズモンドを殺したのだと考えるよりも先に、コイツらの性根が異常であるということで納得してしまった。だから、ティモシーは必死に保身の言葉を探すが、そんなのはどこにもなかった。

「へ、陛下これはなにかの間違いです」

「そう言うだろうな。記憶を探れば真偽は分かることだ」

「そんなことをせずとも、私の言葉で十分でしょう!」

「兄弟殺しの言葉など、聞きたくもない。もう喋るな、吐き気がする。で、お前は誰だ?弟の皮を被る者よ」

エーは顔を上げた。悲しみが滲み、僅かに震える唇は怒りをはらむ、その表情を見てエーは笑った。
ざわざわとどよめく王の間を見渡すと、その中には知っている顔がいた。手には趣味の悪い宝石を、耳や首にはシャンデリアの光を反射する金の装飾品を身に着けた、あの男が。

「陛下、俺の騎士はどこに?」

「……私の騎士が牢へと案内した」

「守りは、万全ですか?」

「王国一の騎士だ」

「フッ、そうですか」

「で?質問の答えは」

「そうですね」

エーは立ち上がり、隣りにいるティモシーを見下ろした。

「コイツは小物ですよ。野望も、手法もしょうもない。そして」

振り下ろした手は刀となり、血が滴っていた。そして、ティモシーの首はズルリと滑り落ち、床に転がる。

「命もしょうもない」

何が起きたのか考える時間を置き悲鳴が上がった。そして剣を抜く騎士たち。王の横で謀反人の策を看破したと口の端を歪めていた宰相は、甲高い声で殺せとがなり立てていた。その場でいたって冷静だったのは、国王とエーそして成金趣味の男だけ。

「黙れ」

「陛下!いけません、今すぐに処刑を。騎士よ、今すぐにそやつの首を」

「黙れと言っている。お前たちも下がれ」

黒く冷たい目で射抜かれた宰相は怖気づき、騎士たちは鞘へと剣を収めた。しかし、柄には手を掛けたまま。

「さあ続けてくれ。私の質問は簡単なのだが、随分と長くなりそうだ」

刀は手へと変わり、白い肌についた鮮血をティモシーの服で拭う。

「エー、虎壱實とらいちざね龍瑯たつろう、エリック・ベクシン、名前はいくつかある。アンタが聞きたいのはこれじゃないだろ?」

「ああ」

「アンタらの敵だ。王政の敵、法政の敵であり、革命家、かな。たぶん」

「たぶん?自分が何者かも分からずにその道を進もうとしているのか」

「何者か知っている必要はねえだろ。俺は俺。より良い世界にしようと努力するただの人間だ」

「大義の為に手段を選らばずか、良き心構えだ」

「だが、って続くんだろ?」

「フッ。だが、その世界は何が支配する?お前の目には何が見えている」

「お前に教える義理はないが、まあ少しだけ教えてやるよ。人間は獣だ、動物だ。自分はサルとは違う生き物だと確信してるだろ?本質はその辺の犬と変わらないってのに」

「本質は本能だけで定義できないだろう。人間にはあって獣にはないものなどたくさんある。法はその典型だ」

「いや、同じだ。法律を運用できて、王に従って、夢を見て、正義に生きて、愛を与えて、神を信じても死ぬ。殺されるんだよ弱者は。法律や政治家に、家族に、神に、ゴミみたいにな」

「話がすり替わっていないか?獣とは違うのと弱者が殺されるのと関係があるのか」

「弱肉強食だよ。弱きは強きにくじかれる。法にも政治にも家族にも神にも負けるのは弱いからだ。弱ければ群れから切り捨て、そして強き者に食われる。元の姿を覆い隠してそれっぽく振舞ってるのが人間ってだけで、人間の本質も、その集まりである社会も自然と変わらない。だったらいっそのこと、化けの皮を剥がして正直になった方がいいだろ。俺みたいにバカを見ないで済む」

「世間や政治に恨みを持つのは構わないが、独善的で迷惑だ。お前以外の民の気持ちは考えないのか」

「弱肉強食の世界に民の気持なんかいらない。そこにあるのは強いかどうか」

「智の集積を軽んじるバカだという事は分かった。もういい、捕らえよ」

三本の剣が扇の様に開かれた紋章の鎧。それは近衛騎士を表し、王の盾となり矛となる者たちである。彼らは呼吸する間もなく動いた。

「捕縛せよ」

大逆トリーズンの枷シャックルズ

左右にいた騎士が詠唱すると、床から伸びた麻ひもがエーの足から頭まで巻き付き、さらに鉄の鎖が、そして包帯のような布が全身を簀巻きにする。
一切の抵抗を見せずエーはばたりと倒れ、部屋の中では喝采が起きた。

「今すぐに地下へ連れていけ。これ以上御前を穢すな」

4人の騎士が近づき、身体を持ち上げようとすると奇妙な感覚が彼らの体を襲った。言いようもない恐怖である。得体のしれない、抗いがたい恐怖が全身を浸す。
体が震え、冷や汗をかき思わず剣を抜いてしまう。しかし、この恐怖の根源が分からない。簀巻きになって動けない男が怖いはずもなく、自分が何に怯えているのかも分からずただ狼狽する。

「お前たち、どうした」

近衛騎士筆頭の男は部下の異常な怯え様に警戒を滲ませた。何かの魔法かもしれない、だとすれば、まだ敵は場内に潜んでいる。

「陛下、今すぐに避難を。まだ賊は」

ゾクリと全身が総毛立ち、背後を振り返ると、王の間の入り口がゆっくりと開いた。
騎士は国王へ再度警告する。

「今すぐに避難を。何かおかしい、賊がまだいます!」

またもや襲う恐怖感に、思わず視線を外し集中した。巨大な獣に吐息を掛けられた、そんな恐怖の生暖かさが体中をしっとりと包み、ガチガチと震える奥歯を噛みしめ、国王の危機だと何度も反芻する。再び視線を戻した騎士は、この場の状況に愕然とした。

冷や汗をかき震える国王に、四つん這いになり頭を抱える部下、泡を吹き白目を剥いて倒れる国王の兄弟姉妹たち。皆が皆、同じ恐怖を味わっていたのだ。

「ぐっ、ふふははっははは。遅かったようだ。見てみろ、賊が来た」

国王の指さした先は簀巻きになった賊ではなく、その後ろで陽炎の様に揺れる空間だった。初めて見る魔法、だからこそ危険。抜剣し国王の前に立ちふさがる。

「い、今すぐにお逃げを。時を稼ぎます」

「一人でか、マンスール」

「いいから逃げるんだ、これは、ヤバイ」

「分かった友よ」

名残惜しそうに戦友の背中を見つめた国王は笑う膝を抑えながら、何とか立ち上がろうとした。しかし、その時に起きた現実は受け入れがたかった。

「がっ」

近衛騎士筆頭の戦士であるマンスールが突然膝から崩れ落ちたのだ。仰向けになった彼の左眼と喉にはナイフが突き刺さっていたが、彼は倒れてもなお剣を突き上げ道ずれにしてやろうともがいていた。しかし健闘も虚しく、玉座までの段差の上で顎が勢いよく跳ね上がり動かなくなってしまった。

見えない敵が戦友を容易く殺し、もはやこの場に国王を守れるものはいなくなった。

そして、王の間中央の陽炎から姿を現したのは騎士だった。国王の記憶ではデズモンドの騎士である。



「これが会長なの?どうしたらこうなるのやら」

「魔法、でしょうね。困りました」

「ボクたちに魔法は効かないんじゃないの?」

「会長だけは効くのよ、坊や」

「……」

覇気のない痩身の騎士、もといイーは辺りを見渡した。玉座ではアイの能力『恐慌』によって怯えきった王と、彼が見つめる首の折れた騎士がいた。このまま王の首を取るのは容易いが、会長は言っていた。

「会長の手で殺す、と言っていましたね。では解放しなければ」

「とりあえず、騎士を殺してみる?魔法を掛けた人が死ねば解けるっていうのが相場じゃない?」

「ですな。それでは銃などいかがです?」

どろりとした白色の塊が空中で薄く引き伸ばされ、エイチの目の前で銃の形をとった。

「助かるー。撃ったことないけど、たぶん大丈夫よね?」

「ええ、近くで撃てばエイチさんでも簡単に殺せます」

「よっしありがとう」

乾いた音が響き、怯えて床に伏せる騎士は凶弾に倒れ、イーは躊躇いなく剣で突き刺していく。

「坊やはどうするの?」

エフは国王を見つめるヴィーに問いかけた。

「会長を待ちます。一応、見学だしな」

「ふーん」

エーの周りにいた4人の騎士は躯となり、社員たちは簀巻きになった塊を見下ろした。魔法が解けなければ、解法を探すことになる。骨が折れるそんな仕事は嫌だと誰もが考え、祈る様に見つめていた。

すると、はらりと布がほどけ鎖が灰になり麻ひもは体に溶けるようにしてなくなり、デズモンドに扮したエーが姿を現した。

「あー、息苦しかった。すぅーーーーはぁーーー」

ゆっくりと立ち上がり、喧噪を暫し眺めたエーは顔の前で手を翳し元の姿へと戻った。

「さて、お前たちも戻すか。誰が誰だか分かんねえ」

風化した壁画の色が崩れていき手のひらに吸い取られていく。彼らの姿も元へと戻ると、エーの側の空間が歪みだした。

「私も戻してよ」

「そのままでいいんじゃね?いつもより可愛いぜ」

「はああああ?両刀なの?知らなかったんだけど」

エスの顔に手を当て元の姿に戻すと、ギュッと頬を掴んだ。

「女だけに決まってんだろ。でもこの顔よりはまだいいって話だよ」

「うしょちゅき!よりゅになっちゃら」

「黙れ」

手についた唾液をズボンに押し当てわざとらしく擦ると、エーは国王へと近づいていった。恐慌状態の臣下たちは誰もエーを見ていなかった。だがその中でただ一人、宝石を過度に身に着けた男だけは苦笑しながら見守っていた。

「王様、アンタに恨みはないんだ。悪いな」

「まっまままままっま、まっで、待って、くくくくくれ」

「ふっ、可哀そうに。怖いんだろ?何が怖いかも分からない恐怖があるんだろ?そうやって怯えないように強くならなきゃな。あ、忘れてた。ヴィーやっていいぞ」

待ってましたとばかりに、ヴィーは玉座へと駆けた。転がる騎士の剣を掴み取り、王と対峙する。

「ボク、ずっと考えていたんです。たぶんあなたは悪くない。でも、この国を作った責任はある。だから、その分の痛みを負担してもらいます」

重そうに持ち上げた剣を、抵抗すらできなくなった王の腹へとぎこちなく差し込んだ。
死にきれず、恐怖で失禁し痛みに悶える王を、暫く悲哀の目で眺めると、スッキリした顔でエーにバトンを渡した。

「ありがとうございました。これで、王様への復讐は終わりです」

「あっそ」

手刀を一閃。
マルカーヴァ王国国王、イマヌエル・デ・マルカーヴァは崩御した。正体不明の賊の手によって、罪人の様に首をはねられたのだ。

「アイ、全員殺せ」

「……」

小さな声で、うんと言ったアイは加減していた能力を強めた。ダイヤルの強弱の様に加減しているのではなく、誤って殺してしまわないよう、いつもは力を抑制して使用している。しかし今は箍を外し、ただ暴れたいように力を解放した。
ある者は早鐘の様に打っていた心臓が破裂し、ある者は手当たり次第に攻撃していき恐怖の元を取り除こうとし、ある者は自らの手で命を絶った。

だが、『恐慌』は殺しに向かない能力である。それを分かっているエーは彼女のもう一つの能力に頼っていた。

『殺して、でないと死んじゃう』

『恐慌』でも生き残った者たちは、制御の効かない体を無理やり起こし、近くにいた者に襲い掛かった。それは義務感からである。『伝播』は義務を負わせる能力だが、人を従わせる力はない。しかし、言い知れぬ恐怖を感じる者達は殺さなければ死ぬという戯言さえも真であると思い込んでいた。恐怖の正体がこの言葉だと思い込んだのは、殺さなければならないという強い義務感を本能的な衝動だと勘違いしたからである。

本来なら、自分が死んでしまうという言葉の裏付けがあって初めて、理由なき義務感のある殺せという命令に従う。つまり、いくら義務でも殺さない選択も出来るのだ。

だが今回は逆である。

恐怖の原因は分かっていない。そしてどこからか急に沸き起こる、「殺さなければならない」という義務感。
何も見えない状況で確かなのは自分の感覚である。次々と襲う恐怖の正体は未だ分からないが、殺さなければという義務感だけは強く残っている。強い恐怖に本能が警鐘を鳴らしているのだと認識し、今日、この時だけは自分の動物的感覚に身を委ねたのだ。そして誰かの「死んでしまう」という言葉が少しだけ残っていた人間的な倫理を納得させた。

いかれた者同士の醜い殺し合いの中で淡々と攻撃を防ぐ成金趣味の男は、エーと熱い視線を交わしていた。

「マモン、殺されるなよ?おっと」

エーにとびかかって来た宰相の首を串刺しにすると、マモンに向けてにやりと笑みを溢した。

凍てつく生命アイスドライフ

マモンから広がる氷の波は王の間を一瞬で凍てつかせた。『恐慌』によって暴れまわる者達は動きを止め、氷の彫像と化した。
魔法の効かない社員達の足元は凍らないままで、エーの周りだけが器用に円を象っていた。

「おお、ありがとよ。早めに終わって助かった」

「昨日、こうなるって教えてくれればよかったのに。オイラ、ちょっとだけ寂しいよ」

「アンタの召喚主は国王だろ?バラされたら困るんでね」

「それでも、寂しいものは寂しいのさ。それで、誰なんだい?依頼主は」

「俺の弟だよ」

「弟?もしかして、貴族の?」

「そう、この世界での弟。同じ転生者の貴族様だよ」

「はあ、まったく君たちは。本当に転生させて良かったよ」

「今から飲みに行くんだ。お前もどうだ?」

「えっ!?行くよ!絶対に行く!君から誘われるなんて、オイラ嬉しくて、幸せだなー」

「大袈裟だ、バカ。こっち来い、まずはティモシーの屋敷に行ってアイツらを迎えに行く」

マルカーヴァ王国は大混乱の中戦争に突入した。新国王は継承権第三位のミアーセ女王が、戦中に異例の即位を行った。別邸からの参城が遅れ運良く生き残った彼女は、王城の惨劇を見た一人でもある。
王の間だけでなく、王城に勤める者達はこぞって精神をやみ、二度と登城したくないと田舎に引っ込んだ。
王都の機能は完全に麻痺してしまい、もはや王家は凋落の過渡にいた。
先代国王は病死として片付けられ、瓦解する王国を立て直そうとする新国王は内外の問題を前に、犯人を探すことはできなかった。
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