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始まりはこう

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 事の始まりは、一カ月前のことだった。

 二十八歳になったその日、私――七瀬充希ななせみつき――は断崖の上に立っていた。

 立っていたというよりは、岩だらけの地面に這いつくばっていたという方が正しい。
 豪快な絶壁の下には日本海の荒波。
 力を抜けば引きずり込まれるような恐怖感に、私は耐えていた。

 お守りのクマゾウを握りしめて――

 物心ついたときから高いところが苦手だった私は、二十八歳になるというこの日、ようやく高所恐怖症を克服しようと立ち上がったのである。

 まず第一関門として選んだのは、実家近くにあるかの有名な岬。
 まだ月が昇っている早朝に、普段は内巻きミディアムで下ろしている髪を束ね、ピンクのジャージ姿で、サスペンスドラマにも出てくる迫力満点な崖がある岬に挑んだ。

 ……のはいいけど、こ、怖すぎ。

 落ちるかもというより、今まさに落ちている、誰か助けてぇ―と形振り構わず絶叫しそうになる。
 岬の先端にも行きついてないのに。
 いくら帰省中に思い立ったとは言え、観光スポットにもなっている岬にいきなり来るのは無謀だった、と今更ながら後悔した。

 それでも、諦めてはダメ。ここで負けると一生観覧車に乗れないのよ、と自分を叱咤激励し、クマゾウを握り直して、中腰ながらもついに立ち上がったとき。

 ようやく顔を出した朝日が辺りを照らした。
 その光が岬の先端に立つ男を顕わにする。

 なにゆえに男がこんな早朝に?

 この非常事態は、既に限界の精神状態だった私を一気にパニックに陥らせた。

 こんなみっともない姿を他人に見られるわけにはいかない。

 動かない体をねじり、強引に回れ右をしようとした。
 固まっていた足が岩を踏み外す。その拍子にバランスを崩した私の体が急落下し、見るも無残にゴツゴツした岩へと叩き付けられる。

 ……寸前で、私は両手をついて体を起こした。

 怪我はなかったけど、クマゾウを落としてしまう。
 見渡すと、一メートル程離れた岩の上に、クマゾウは横たわっていた。
 手を伸ばしても届かない。

 幼い頃、喘息で病気がちだった私に、護符として祖母が作ってくれたマスコット人形のクマゾウ。
 近所の神社で、祖母のゲートボール仲間だった神官のおじいさんにも、祈祷を捧げてもらった。
 初めて男の子に告白して振られた時も、選抜高校テニス大会の地区予選でまさかの逆転負けして、悔し涙を流したときも、肌身離さず持っていた。
 どんなことがあっても、クマゾウを握りしめると乗り越えられる気がした。

 クマゾウを失うわけには――

 覚悟を決めると、私は地面に這いつくばり、前進し始めた。
 一センチ、二センチ、三センチ……
 
 地面が垂直になって、振り落とされるような錯覚を感じながらも、体を前進させた。
 岩を掴む指が擦り剥けても、血が滲み出ても、前進し続けた。
 二十センチ、十九センチ……あと十センチ、すぐそこに――クマゾウへと手を伸ばしたとき。

 どこからともなく黒い本革のビジネスシューズが現れた、と同時に、クマゾウにコツンと衝突する。靴下で作られ、中にはゲートボールも入っているクマゾウの小さな体が宙に浮き、着地すると、コロコロと転がった。岩から岩へと転落し、とうとう崖の下へと見えなくなる。

 クマゾウが……蹴られた??

 呆然と手を伸ばしたままの私を、見上げると、男が見下ろしていた。
 ショックで口も開けない私に、男は罪悪感も弁明も何もなく、ただ見下ろしている。
 その無情な姿が、悪魔のように私の目に映った。
 男は何事もなかったように、背を向けて去って行った。

 これが、藤原晃成との最初で最悪の出会いだった。
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