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1巻
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しおりを挟む「思ったことを口にしただけだ」
彼が静かに答える。そして、おもむろに私の手を取った。
彼の冷たい手が私の冷たい手に触れている。
「事故の動画を見た時、衝撃を受けた。そこに映っていた君は、今まで会ったどの女性より綺麗だった」
映画のワンシーンのようだ。
完璧な演出に、滑らかなセリフ……
きらめく夜の光を背景に、私は彼に手を握られている。
「――その瞬間、俺は君に心を奪われた」
整った彼の顔が何かに煩わされたように一瞬歪む。
これは夜景の効果?
彼の手は冷たいのに、ジンとした熱さを感じる。
出会ったばかりの男の人の手を、私は振り解けないでいた。
「祖父は恩返しとして結婚を提案したが、俺は恩返しではなく、祖父に言われたからでもなく、君と結婚したい」
……私は、今彼にプロポーズをされているの? ずっと恋愛なんて頭になかった私が?
しかも、高御堂英之というスペックが違いすぎる男性に。
「まだ結婚なんて、とてもじゃないけど考えられません……それに、合わないと思うんです」
頭がいっぱいいっぱいになりながらも、正直に胸の内を伝える。
「何が合わないんだ?」
彼が私の手を握ったまま囁く。
言おうか言うまいか迷った末に、私は言った。
「……私と高御堂さんの身分が」
音楽が途切れるように、私の一言で彼が漂わせていたムードが消える。彼の目が点になった。
「今の時代に身分も何もない」
「でも、高御堂家は明らかに上流階級で、私は庶民の家庭で育ったし、価値観とか生活習慣とか、色んな面で絶対違うはずです。私が上流階級の家に嫁ぐなんて、ありえません」
「高御堂家は案外普通だ。一般の家庭とそんなに差はない」
彼が言い切った。
「本気でそう思ってます?」
けれど私の問いに、観念したようにため息をつく。
「確かに、大衆的ではない。でも君は高御堂家のことを何も知らない。なのに、ハナから合わないと決め付けている。育った環境とは違っても、君に合うかもしれないだろ?」
彼が私を説得し始めた。
私は口をつぐむ。
「結婚のことは、今すぐに決断しなくていい。試しに俺と付き合って、考えればいいことだ」
彼は答えを待つように、私を見つめる。
正直、返事に困った。
試しにと言われても、男性とお付き合いすること自体、私にとってはハードルが高い。
付き合ってみて、やっぱり好きになれなかったという苦い経験もあるし。
「と、友達からなら……」
考えあぐねた末、蚊の鳴くような声で答える。すると、彼が明らかに不満そうに、私を見た。
「男性とお付き合いした経験がほとんどないんです。だから、いきなり付き合うなんて無理です」
私はキッパリと言う。
「今まで何人と付き合った?」
彼が興味深げに聞く。
「一人だけ」
「いつ?」
「高校の時」
「大学の頃は?」
「ゼロです。ボランティアに目覚めて、長期の休みには発展途上国でゴミ処理問題に取り組んでいたし、恋愛に全然興味がなくて……」
マジで? と彼の表情が言っていた。
恋愛経験が乏しい人は、今時、珍しくもないのに。
「もっと言うなら、高校の時の人も付き合っていたというより、一緒に登下校していただけでした」
それが何か? と私は開き直る。
すると予想に反して、彼がフッと笑った。
「だったら、俺の家に住んでみるといい」
あまりにも自然にそう提案する。
私は一瞬思考が止まった。
「ええーっ? どうして、そうなるんですか?」
彼の言葉をようやく呑み込むと、異議を唱える。
「君に高御堂家が合うかどうか、判断してもらうためだ。その間に俺とも交流できる。それに、俺の家は君のアパートより君の職場に近い」
至極当然のことのように、彼は言う。
「引っ越しするなら、今週末がいい。業者も手配しよう」
唖然とする私を他所に、スマートフォンで予定をチェックしながら計画を進めていこうとした。
「ちょ、ちょっと待って。私はまだ高御堂家に住むと決めてません」
「いつ決まる?」
彼が間を置かずに聞く。
いつって――
「難しく考えるな。家には空き部屋がたくさんある。シェアハウスだと思えばいい。住んでみて嫌だったら、すぐ出ていっても構わない。費用は全て俺が持つ。君に損はないはずだ」
左手は彼に握られたままだ。
彼の手は相変わらず熱くて、酔わせるように私の感覚を鈍らせる。
全てが非日常的で、これは夢かもしれないと思いそうだ。
「三日後……?」
それが十分な時間なのかも分からずに答えていた。
「いいだろう。三日後に連絡する」
彼が私の手を自分の唇に近づける。
何をされるのか見当もつかない私の手の甲に、彼の唇が触れた。
「――ッ」
ビクッと引っ込めようとした私の手を彼は逃さない。逃さずに――
「いい返事を期待している」
たった今口付けた箇所を、指でなぞる。
その行為は誰にも感じたことのない、未知の感覚を私に送ったのだった。
三
朝なのにまだ夢の中にいるみたいに、頭がボーッとしていた。
いつもなら目覚め良く、直ぐに体を起こせるのに、今朝の私はベッドの中でぐずついている。手を伸ばしてベッド脇の棚から、体温計を取り出した。
体温を測ると、三十六度五分。平温だ。
仕方なくノソノソ起き上がり、洗面所に向かう。
熱っぽさの原因は分かっている。
昨夜、手の甲にされた彼のキスだ。
挨拶程度のキスで、こんな微熱のような感覚が続くなんて……よほど私は免疫がないの?
ちょっとヤバくない? 五ヶ月前に、二十三歳になったというのに。
寝癖がついた自分の顔を鏡で見ながら、不安になった。
もしかして、男性に免疫を付けるためにも、高御堂家で暮らしてみたほうがいいのではないだろうか?
ふとそんな考えが頭に浮かぶ。
いやいやいやと、私は慌てて否定した。
こんな突拍子もない話、どう考えても断るのが正解だ。社会人という自覚を持って判断しないと。
これが一日目の私の答えだった。
二日目は心に余裕が出てきたのか、高御堂家での日常生活に関してアレコレと想像を巡らせてみる。
ご馳走になった時はかなり豪勢だったけど、普段はどんな食事をしているのだろう、とか。あんな大きな家だったら、お風呂は温泉のようにかなり広いだろうな、とか。
そして、彼らの生活を垣間見るのも悪くないのでは、と思ってしまい、ちょっと待った、と自分を止めた。
仕事中なのに、手の甲にされたキスを思い出して、一人で焦ってしまったではないか。
それに、どうして彼が私に執着しているのかも分からない。
動画を見て心を奪われたと言われても、到底本気だとは……
やっぱり彼から連絡が来たら、断ろう。
当然、二日目も私の答えは変わらなかった。
彼に返事をしなければいけない三日目。
左手を無意識に見ながら職場の給湯室でコーヒーが落ちるのを待っていると、水野所長がやってくる。
「左手がどうかしたの? ここ数日、凄く気にしているみたいだけど」
「ええっ? 全然気にしてません」
私はいけないものでも見られたかのように、左手を後ろに隠す。
「そう?」
水野所長は私の過剰な反応を気にせず、私と自分のマグカップにコーヒーを入れる。そして、そのコーヒーを口にし、フゥーと一息ついた。
「御曹司に何かされた?」
コーヒーが私の口からブッと噴き零れ、ダークカラーのセーターを汚す。
「な、何もされてないです。どうしてそんなこと聞くんですか?」
あらあらと水野所長に渡されたペーパータオルで、私はセーターの汚れを拭き取った。
「顔が赤くなっているからよ」
私って分かりやすすぎ。
「良かったら相談に乗るわよ?」
セーターを拭き終わった私に、水野所長が申し出てくれる。
正直、迷った。
彼への返事は決まっている。当然NOと言うべきだ。
はっきり答えは出ている。出ているのに――
なぜか私の心が揺れ動く。どんなに正当な理由を並べても、本当にそれでいいの? と問う自分がいた。
でも、上司に相談することではない気がする。友達とも恋愛関係の話は滅多にしないのに。
ただ、友達は私と似たり寄ったりで、恋愛より趣味に走る女子ばかりだ。ごくたまに恋バナになることはあったが、私はいつも適当にはぐらかしていたし。
もしかすると、そのツケで今、悶々としてしまっているのかもしれない。
ならばこの際、経験豊富な水野所長に真っ当な道に導いてもらって、迷いを断ち切ったほうが――
「実は――」
彼のことを話そうとした時、武田先輩が給湯室に入ってきた。
「聞いた? 亀蔵がアメリカの蒸留酒大手メーカーを買収したってニュース。すげえよなー。俺、高御堂英之がうちに寄付をして以降、亀蔵の動きから目が離せなくてさー」
彼の大声で、不意にその場が騒がしくなる。
「今夜、一緒にご飯でも食べましょ」
もう恋愛相談はできないなと思っている私に、水野所長が耳打ちする。
私は頷いて、デスクに戻った。
九時間後、定時になるや、私は水野所長と近くの居酒屋に向かった。
事故の詳細に始まり、高御堂家にほぼ強制的に連れていかれたこと、上から目線で結婚を押し付けられていること、高御堂英之に一緒に暮らしてみないかと誘われていることなど、全てを話す。
カウンター席とテーブルが一つしかない、こぢんまりとした空間に水野所長の笑い声が響いた。
「笑ってしまってごめんなさいね。花音ちゃんは困ってるのに」
「でも、こんなの笑うしかないです」
「で、花音ちゃんは、高御堂英之のことをどう思ってるの?」
水野所長が、私の盃にお酒を注ぐ。
「そりゃあ、イケメンだとは思いますけど、出会ったばかりの人に恋愛感情を抱くなんて、ありえません。過去に男性を好きになったことも、きっとないのに」
「そういえば、大学一年の頃からうちの団体に関わっているけど、花音ちゃんの恋愛話なんて聞いたことなかったな」
「恋愛とはずっと無縁でした。だから、心を奪われたと彼に言われてもピンと来なくて。人を好きになるという感情がイマイチ分からないというか。しかも、動画を見て一目惚れって……彼は女性慣れしてるみたいで告白も完璧だったし、嘘なんじゃないかって気がするんです」
苦手だと思っていた恋バナだけど、水野所長に話してみると、案外すらすらと言葉が出てくる。温かい日本酒の力も借りて、私はいつもよりオープンになっていた。
「そうは言うけど、彼のことを思い出して顔を赤くした花音ちゃんは、可愛かったわよ? 普段も可愛いんだけど、なんていうか、もっと女の子っていう可愛さが出てた」
「えっ、私可愛くなんか……モテないし」
「謙遜しない。モテないのは、花音ちゃんが恋愛に興味がないせいよ。出会いもないし……私は高御堂家に飛び込んで、当たって砕けてもいいと思う」
水野所長はそう言って、おでんの大根を美味しそうに噛み締める。
断るように後押ししてくれると思っていた私は、面食らった。
「……本当に思ってます?」
「絶対そう思う。私も昔あったのよ。まだ恋愛もそんなに経験してなかった頃に、手の届かないような男性に誘われたことが。初めは彼の手を取るのも勇気が要ったけど、彼の胸に飛び込んでみて世界が広がったわ。結局破局しちゃったものの、その経験があって今の旦那に落ち着いたの」
水野所長が幸せそうに微笑む。
「花音ちゃんが迷っているのは、自分の殻から抜け出したいと思っているからじゃないかしら」
その言葉で、私の気持ちに閃光が走った。
モヤモヤの原因はまさにそれだ。
だからいくら自分を納得させようとしても、それでいいのかと疑問を感じてしまうのだ。
「上手くいけば、万々歳。駄目でも、それをバネに女を上げればいいじゃない。もし何か問題があったら、うちの理事の弁護士に訴えてもらうから」
水野所長が力強く、私の背中を押す。
その後、熱燗とおでんで温まった私と水野所長は、お店を出た。
私はその温かさが消えないうちに、自分から高御堂英之に連絡する。
高御堂家で暮らしてみます――と。
彼から電話で返事が来たのは、その直後だった。
***
私が高御堂家に引っ越したのは、まだ真冬の天気が続く二月初旬。彼と食事に行ってからたった四日間しか経っていない、土曜日の夕方だった。
返事をした翌日に引っ越したわけは、彼の押しに負けたのと、引っ越し作業が超簡単だったせいだ。
キッチン用品は必要なかったし、いつでも戻れるようにアパートはそのままキープするから、衣類を荷造りするだけで済む。業者の手配も断り、大きなスーツケース二つと段ボール箱一つを持って移動した。
タクシーで高御堂家に着くと、キヨさんと門松さんが迎えてくれる。
「あなたの歓迎のための晩餐会が一時間後にありますから、それなりの服装に着替えて、一階に下りてきてください」
早速私を部屋に案内すると、キヨさんがきびきびと予定を告げた。
門松さんに荷物を全て運んでもらった私は、自分のアパートよりも広い部屋を見渡す。
高い格天井に、バルコニーへ続く大きな格子窓。板床と壁の腰の高さまで貼られた木のパネルが、大正レトロを感じさせる。
服や小物をクローゼットにしまうと、私は部屋の片隅にあるもう一つのドアが気になった。
クローゼットや部屋の入り口のドアと違って、アーチ型になっている。
何のドア?
好奇心が湧き、ドアノブに手をかけた。
開けると、ドアの向こうに更にドアがある。
二重ドアなんて、パニックルームみたい。
ドキドキしながら奥のドアを開ける――
そこにいたのは、半裸の高御堂英之だった。
ギャーという私の悲鳴がこだまする。
「ここは俺の部屋だ。いて当たり前だろ」
高御堂英之が耳を塞いだ。
「ご、ご、ごめんなさい!」
すぐに私はドアを閉め、バクバクしている心臓を手で押さえる。直後、ジーンズしか穿いていない彼が、ドアを開けて私の部屋に入ってきた。
「このドアがあなたの部屋に通じてるって、知らなかったんです!」
キャーと彼の半裸を見ないように顔を手で覆い、私は必死で弁明する。
「この部屋は、俺の未来の妻用だ。だから部屋が続いている。悲鳴を上げないなら、いつでも俺の部屋に入ってきていい」
慌てふためく私に彼が近づいてきた。
「う、上に何か羽織ってくれますか?」
「重症だな」
彼が尚も近づき、私は足がもつれて床に尻餅をついた。「大丈夫か」と彼が手を貸してくれる。
彼に手を握られるのは、これで二回目だ。
その事実を過剰に意識して立ち上がると、堅そうな裸の胸に直面した。
心臓が爆発寸前になる。
高御堂家に着いてまだ一時間も経ってないのに、こんな試練に曝されるなんて!
「も、もう大丈夫なので、手を離してください」
そう懇願しているのに、彼は私の手を離さない。
「嫌だと言ったら?」
面白がるように、口の端が上がっている。
私から目を離さず、私の手を自分の顔に近づけると、彼は甲に口付けをした。
唇で触れるだけでなく、肌を舐める。
「や……」
艶かしい感触に、私の口から無意識に声が漏れた。
今までに出したことのない艶のある声が――その瞬間、彼の目が熱を帯びる。
……気がした。
けれどパッと彼は手を離す。
「晩餐の時間だ」
急に素に戻ると、自分の部屋に帰る。
パタンとドアが閉められた。
初っ端からこんな感じで、ここで生きていけるのだろうか?
私はヘナッとその場に座り込んだのだった。
***
一階のダイニングルームは、天井からシャンデリアが下がり、壁に高御堂家の先祖と思われる白黒の写真が飾られた、豪華な部屋だった。
十八席もある長いテーブルの端に、私は高御堂英之と並んで座り、向かいには彼の弟明之君が座って、会長が来るのを待っている。背後には薄桃色の着物を着たお手伝いの丸井さんが控え、テーブルの上にはちょっとした前菜と食前酒が準備されていた。
「花音ちゃんって、俺より四歳年上なんだ。全然見えないね。同い年かと思ったよ」
明之君は、高御堂英之を可愛いバージョンにしたような、人懐っこい十九歳の男の子だ。私のことをいきなりちゃん付けで呼び、高御堂英之に注意される。
初対面なのに、距離感が近い。
「苗字で呼ぶなんて、ダサいだろ。会長も花音ちゃんって呼んでたじゃん」
この家では高御堂会長のことを、お爺ちゃんではなく会長と呼んでいるらしい。
「花音ちゃんでいいです。英之さんも私のこと、呼び捨てですし」
私が弟の肩を持つと、高御堂英之が面白くなさそうに口を閉ざす。
「恩返しなら、俺と結婚しない? 花音ちゃんみたいな女の子、タイプなんだ。歳は俺のほうが近いし、絶対兄貴より気が合うよ」
「まだ酒を飲めないガキは黙れ」
高御堂英之が冷淡に毒を吐く。
冗談なのに、そこまで言わなくても……
「でもマジで兄貴はやめたほうがいいよ。花音ちゃんとは別に婚約者もいるし、ヤバイヤバイ」
続く明之君の言葉に、私は高御堂英之を見た。
「婚約なら解消した。幼少時に親族が勝手に決めた婚約で、相手の女性とは付き合ったこともない。気にとめなくていい」
高御堂英之が明之君を睨んだ後、私に説明する。
親族が婚約を決めるなんて。しかも幼少時に。やっぱり世界が違う。現代の一般人にはありえないことだ。
感心していると、群青色のちゃんちゃんこを着た会長が、執事らしい黒服を着た門松さんとやってきた。
会長の水戸黄門みたいな頭巾を見るなり、私は呆気にとられる。
会長の強烈な個性がきわ立ち、似合っているといえば似合っているけれど……そんな時代錯誤な頭巾を被っている人がいるなんて!
けれど、明之君と高御堂英之はスルーしている。それならと、私も彼らを見習って気にしないことにした。
会長は門松さんが引いた椅子に威風堂々と座る。
格式張った手順で、徳利が丸井さんから門松さんに渡され、会長が盃を手に取った。日本酒が清らかな音を立てて注がれる。
順に私と高御堂英之の盃にも徳利で日本酒が注がれ、丸井さんが会席料理風に綺麗に盛られたお料理を、説明を交えて運んできた。
一応、フォーマルなワンピースにカーディガンを着ているが、思った以上に仰々しい。
会長による私への歓迎の挨拶が終わると、四人での食事が厳かに始まった。
***
「――家の案内はもう済んだ? まだだったら、俺が案内してあげるよ」
歓迎会がお開きになって会長がいなくなり、高御堂英之も電話で席をはずすと、明之君が親切に申し出てくれた。
「まだです。つい先程着いたばかりなので……お願いし――」
「俺が案内する。明之は大学の試験で忙しいだろ」
ちょうど高御堂英之が戻ってくる。
けれどスマートフォンが再び鳴り、彼は舌打ちをした。
「残念ながら、俺は案内をできそうにない。丸井に頼む」
「試験なら余裕だから、俺が案内するって」
そう言う明之君の言葉を無視して、テーブルの片付けを始めた丸井さんに私の案内を頼み、高御堂英之は部屋から出ていった。
「案内はやっぱり明日に……それより、片付けるのを手伝います」
明之君に案内してもらうと何か都合が悪いのだろうと、私は立ち上がる。
「大丈夫です。これは私の仕事なので、花音さんに手伝っていただくなんて、キヨさんに叱られます」
冗談めかしながらも、丸井さんはきっぱりと断った。
「この家では、お手伝いさんの仕事は感謝はしても手伝うな、という掟があるんだ」
明之君も冗談みたいなことを、真顔で言う。
「片付けは後でもできるので、案内しますよ。早いほうが、迷わなくて済むでしょう?」
メガネをかけ髪を後ろにまとめた丸井さんが優しく微笑んだ。
私はその厚意に甘え、案内してもらうことにした。
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