俺のソフレは最強らしい。

深川根墨

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74.ただいま、ゼロ

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 大海原で一人揺蕩っているような心地よさに京は深く息を吐いた。
 耳まで水に浸かり、ぷかぷかと浮いている。この世界には音が存在しない。青空を見てみたいと思うのに、瞼を動かすことができない。重くて重くて仕方がない。
 ちゃぷんと水が跳ねるような音がして、温かな湯の波が優しく身体にかかる。

 あぁ、気持ちがええな。
 どこもかしこも解れて、このまま浸っていたい。
 
『京』

 どこからか低い声が聞こえた。甘い色を含んだ声。あぁ、そうだ。この声を知っている。──会いたいな。


 目が覚めると見慣れた光景が広がっていた。何年も住んでいる自宅の風呂場の天井だ。蒸気でたっぷりの水滴を携えた古びたユニットバス。黒カビ処理で苦戦した隅が見える。
 視線を下にやると、素足が湯の中に沈んでいた。

 京はたっぷりのお湯の中、顎付近まで湯に浸かっていた。
 寒い季節になるとこうして入浴中にうたた寝をしていたなと回想したところで、このおかしな状況に疑問を感じた。
 
 ──あれ? 俺、なんで風呂に?

「目が覚めたか?」
「え、あ……俺、ゼロ?」

 背中に感じる筋肉の柔らかさと、裸の自分を包みこむ逞しい腕に気付き、一気に覚醒した。あたふたと周囲を見渡した。
 そこでようやく腕に怪しげな注射をされたことを思い出し、己の身体を抱きしめた。今更ながら震えが止まらない。死んだかと思った。もう、ダメだと思った。

 恐怖のあまり身を縮める京をゼロが抱きしめた。宝物を引き寄せるように、ゆっくりと、優しく京を抱き締めると震える腕を撫で、子供をあやすように頭を何度も撫でられる。

「すまない。すまなかった」
「ゼロ……」

 顔が見たくて振り返ろうとするが、ゼロは強い力でそれを阻止した。無言のまま、京の身体を撫で続ける。京の肩に顔を埋めたまま何も言わない。……こんなの顔を見なくたって伝わる。ゼロが息を呑むのを肌越しに感じた。

 京の瞼が熱くなる。涙が溢れ、とめどなく流れる。熱いものが頬を伝って湯船へと消える。
 ぽろぽろ。ぽろぽろと溢れ落ちる涙。

「っふぅ……ゼロ」
「…………」
「ごめん、ゼロ、ごめんな」
「…………」
「……泣かん、といて?」

 ゼロも泣いている。
 決して涙を見せないが、ゼロが俺を抱きしめたまま泣いている。ゼロの苦しみを感じて京も涙を堪えることが出来ない。
 力づくで身体を捻り、ゼロに抱きついた。俯いたゼロの唇に無理矢理口付ける。
 飲泣していた唇は閉じていた。その唇が嗚咽を抑えるように震えている。

「会いたかった。ほんまに会いたかった……っ、あのまま、会われへんかったらどうしようかと──」
「京、京……」

 二人は深い口付けを交わした。
 互いの身体を弄り、引き寄せあってその温もりを確かめるように抱き合った。

 京が優しく微笑んでゼロの目尻を指で拭い、頬を左右交互に啄むようにキスをする。リップ音を響かせ「しょっぱいわぁ」といつもの調子で揶揄う。
 いつもの会話。いつもの京。いつもと同じ日々。

 湯船を出るとひどい立ちくらみと、回転性の眩暈に襲われ真っ直ぐ立てなかった。
 ゼロは分かっていたのかバスタオルで身体を包んでくれて、そのまま横抱きでベッドまで運ばれた。頭にもタオルが巻かれてミイラ男にでもなったみたいだ。
 ゼロの顔は真剣そのものなので笑うのを必死で堪えた。出会った時の簀巻き事件を思い出した。

 ──あぁ、帰ってこれた。

 安堵の涙が溢れると、突然顔にボールが直撃した。毛むくじゃらのボール──雷太だ。
 
 いつもよりも五割り増しの勢いで擦り寄ってくる。ふんがふんがと鼻を鳴らし、小さな尾で竜巻を起こせそうだ。
 愛おしくて胸に閉じ込めようとするが、雷太は興奮し切っており、寝たままの京は顔中を隈なく舐め回される。
 泣き笑い、笑い泣き、どっちか分からないけれど、溢れる涙は止まらない。ひどい頭痛だって、雷太の皺だらけの顔を見たら霧散する。愛しい雷太。

 雷太との邂逅はゼロによって終了した。
「興奮しすぎると長生きできない」という理由でゼロによってゲージに入れられた。
 雷太は不満げだったが、ゲージの中にご飯を用意してもらうと、はぐはぐと勢いそのままに完食し、満足したようにゲージの角に顔を寄せて眠り始めた。

「あれから、こいつは公園にいたようだ」
「うん。うんうん、良かった」
「不快かもしれないが、少し……説明していいか?」

 ゼロは京の様子を窺いながら話し始めた。

 まず、カクが元妻である雅美を人質に呼び出され、携帯電話を奪われた。そして京を誘き出したこと。全てがみちるの暴走で、今回の件は秘密裏に処理されたことを知った。
 カクが入院していることを知り、自分への怒りで目の前が赤く染まる。
 幸いなことに意識を取り戻しており、数日経過を見て退院するようだ。鍛え上げられた筋肉のおかげだとゼロは笑った。
 最後の記憶にあった注射はやはり媚薬だったらしい。あんな脳が溶けてしまうような感覚など、二度と経験したくない。思い返しては身震いする。
 
「お前が一番の被害者だ。気に病むことはない」
「……他のみんなは、どこなん?」
「今は後処理中だ。明日、ここへ来るだろう。あの男たちは捕獲して今は桜庭組に任せている。警察の介入がないからな」
「そっか……みちるちゃんは?」
「みちるは父親の元だ……もう二度と京の前には現れないだろう」
「そっか。そっか……その方がいいやろな、お互いに」

 最後に和解はできたが、自分の存在はみちるにとっては毒でしかないはずだ。
 若い彼女の人生を狂わせてしまったのは申し訳ないが、自分に出来ることはもう何もない。
  
 ゼロが京の手を握りしめた。考えるな、と呟くゼロに微笑み返す。

 終わりだ、終わった。
 もう、命を狙われることもないのだ。
 唐突に迎えた終焉に、京は喜びというよりも茫然としてしまう。

 京を抱き締めるとゼロは照明を落として、寄り添うように横になった。京は静かに瞼を閉じた。

 長い長い一日が終わった。そして、俺は二千万円の価値がなくなった。
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