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38.だるまさんの遊び

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 しんと静まり返ったオフィスビル街。見上げる建物の灯りはまばらで、深夜とあってか街に取り残されたような気分になる。
 スクエアに切り取られた大理石で覆われたビルを横目に幹線道路を抜け、一本入った路地を右へ左へと角を曲がる。
 住宅が少なく、朝から夕方だけ騒がしく動く街がマリナは気に入っていた。少し古ぼけたタイル張りの建物には窓はない。白塗りの扉の横にはセキュリティのパネルがある。セキュリティキーを用いて解錠し、狭い廊下を進む。

 鹿鳴館のようなネオバロック様式で、日本からとんとかけ離れた内装の建物がマリナの城だ。バブル期に建てられたものだが、贅を尽くした建物は湿気に包まれ、人が住んでいる気配は感じられない。
 石膏は剥げ落ち、床材もひどく傷ついたまま。幹線道路を通過する車の振動に弱く、時折小さな石膏の欠片が零れる音が響く。マリナは修繕する気など全くなかった。
 
 この世に存在するものは必ず朽ち果てる。弱いものに手をかける気など一切なかった。それが命を持っていようと、無かろうと。
 強いものだけが存在意義がある──それだけだった。

 一階部分は大広間になっており、ソファーとテーブルがぽつんと置かれているだけだ。窓は塞いでいるので月明かりも通さない。最奥にはさらに扉があり、その扉には二重の鍵穴がある。この扉は細工がしてあって、一見普通の二重鍵のように見えるが、同時に解錠しなければ開かない仕組みだ。
 もちろん監視カメラを柱の影に設置しているので、見つけ出して始末することも容易だ。盗んでなくとも、侵入だけでも大罪なのだから。不穏物質は排除するに限る。

 マリナが懐から二本の鍵を取り出して同時に鍵を捻り解錠すると部屋の中へと入る。
 自動灯付きのスポットライトが足元を照らす。まるで行き先を照らすように連続して点灯する。最後に世界的な有名画家の贋作の前に立ち、額を反時計回りに傾けると中から重厚な隠し金庫が姿を表した。

 指紋認証を行い、さらに暗証番号を入力して金庫を開くと、マリナの表情が変わる。伸ばしかけていた手は小刻みに震えるものの身体はピクリとも動かない──いや、動かせない。

 金庫の中には依頼主から預かった機密資料から、枢密レベルの書類が入っていた。茶封筒の山の上に、見覚えのあるピンクの物体が置かれていた。少し、泥で汚れたその球体は数時間前に確かに我が手に握られていたものだ。

 川へと投げたピンクのボールが、返ってきた。

 スポットライトに照らされるピンクは異様で、所々うす汚れ、艶が無くなったボールがバランスを崩し金庫から落下した。数回跳ねて床を転がると、ボールは動かなくなった。ボールに自我はない。当たり前のことだが、その時のマリナは球がその場に留まっていることが不気味だった。
 マリナがごくりと生唾を飲み込むと背後を振り返った。部屋には金庫と、銃器等が保管されている。大机の上には小型銃からスナイパーライフル、ショットガンなど多種多様な銃器が整然と並んだままだった。
 
 背筋に戦慄が走る。
 おかしい。絶対に有り得ない。
 この場所を特定したことじゃない。いくつものセキュリティーを簡単に突破された。
 慌てて携帯電話を取り出し、数時間前の監視カメラの映像を再生する。数分前の自分の後ろ姿を確認し、ゆっくりと時を遡る。すると突然監視カメラの映像が切り替わった。監視カメラ一面に映ったのは一枚の紙。書き殴った文字に目を見張る。

──だるまさんが転んだ

 全身の毛穴が開いた。
 いつのまにか額から汗が滴り落ちていた。
 こんな恐ろしいものはない。いつだって、自分が優位な位置にいたはずなのに。あの男は、本当に生きているのか? こんなこと、生身の人間にできるはずが、ない。
 
 マリナは銃を取り出すと周囲に銃口を向けた。
 物陰が恐ろしく、手探りで照明のスイッチを叩くと部屋が光に包まれた。朧げだった机の下も、壁も、全てが視界に飛び込んできた。

 部屋の壁に写真が一枚貼られていた。
 恰幅のいい男と握手を交わす銀髪の男の背中が写っていた。それはマリナの無防備な後ろ姿だった。小一時間前の自分の姿にマリナは糸が切れたマリオネットのように膝崩れた。マリナは一度殺されたようなものだった。

 ライトに照らされた写真を見つめ、審判を待つ罪人のように胸の前で手を組んだ。光を失っていた瞳が、星を得たように煌めいたかと思うと感嘆の涙を流した。その泣き顔はひどく幼く、儚げだった。
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