いられるような

及川 瞳

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いられるような

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 大抵の場合、朋晃ともあきにはお金がない。
 それは日々、大学で全く収入にならない微生物の研究をしているからだ。
 まあ、学生のうちなら利益を得られなくても研究はするものだろうけど、三年も前にとっくに卒業したのにまだ研究室に通って顕微鏡やシャーレと格闘している。その研究も、企業が求めている実験だったり開発だったりすればそれなりに資金の提供があったりする。けれどどうやら朋晃が長年情熱を傾けているのはそういう類のものではなく、彼の純粋な興味の対象としてだけの研究らしい。
 祥子しょうこには微生物のことなんてさっぱりわからないけど、とにかく、その彼の長期間に渡って全く衰えることのないプライベートな根気強い探究心にある種の尊敬の念さえ抱き始めていた。
 彼は京都の有名な老舗旅館の長男なのに、跡を継がずにこの大学の獣医学部に進学すると決めた時から親からの学費等の援助は一切受けていなかった。だから大学入学時から計算すると、もう七年目の年季の入った貧乏暮らしということになる。
 六畳一間のアパートは、ちょっと古いけど日当たりだけは抜群にいい。おかげで冬もあまり暖房費がかからないし、洗濯物もよく乾く。ベランダの隅に置いたプランターで育てているネギも、ぐんぐん伸びてありがたい。
 祥子はその朋晃のアパートの鍵を開けて中に入った。慣れ親しんだ朋晃の部屋の匂い。
 部屋はベッドと勉強机と箪笥、天井まである本棚、それに小さなちゃぶ台でもうほとんどスペース的にはいっぱいで、あとは縦方向の隙間に作られた棚にいろんな本がこれでもかとぎゅうぎゅうに積み重ねられていた。
 朋晃に会える時はいつもとても嬉しくて幸せだ。今日はお祝いだから余計その筈なのに、やはりさっき云われた藤崎隆一の言葉が頭から離れなくて、油断すると気持ちが重く沈んでしまいそうになる。
 ぐずぐずと考え込むのが嫌で気持ちを一掃しようと、祥子はベランダの戸を開け放って空気を入れ替えた。
 ベランダの柵に上半身を預けて、早春の柔らかい日差しをぼんやりと浴びる。ここ来るようになって三回目の春だ。朋晃は大学生から一応社会人に、祥子は中学生から大学生になろうとしていて、ずいぶん時間が経った筈なのに、実際は自分も朋晃もあの時から何一つ変わっていないと思う。
 ずっとそれでいいと思っていた。でも。
「祥子ちゃん」
 名前を呼ばれて振り向く。両手に買ってきた食べ物の包みを持ったまま、朋晃が立っていた。
「そこ寒くない? 何か珍しいものでも見える?」
 そのままベランダに出ると、祥子の隣に立って同じ方向を見てみる。背の高い朋晃の見る世界は、きっといつも少しだけ祥子の見ているそれとは違っているのかもしれない。見上げた祥子の視線を受け止めて、朋晃はいつもと変わらない笑顔を返してくれる。
 春でもまだ風は冷たい。祥子の揺れる長い髪がひんやりと肩を撫でる。朋晃に促されるまま、一緒に部屋の中へと入った。

「……これ、何」
 サッシを閉めた朋晃がちゃぶ台に置いた二つの買い物を見て、開口一番祥子が訊いた。
 今日は祥子の大学合格祝いだ。
 右の見慣れた紙袋はわかる。今晩はモスバーガーのハンバーガーとチキンとポテトでお祝いしようって決めていたから。普段めったに外食なんて贅沢はしない二人は、お祝い事の時だけ外御飯に決めていた。モスバーガーは祥子のリクエストだ。
 でももう一つの見知らぬ綺麗な紙箱は、最近駅前にできた噂の高級ケーキ店のロゴが入っているから、大きさからいってそこのホールケーキにまず間違いないだろう。
 朋晃は家から金銭的援助を受けていないので、基本生活費はアルバイトで賄っている。研究に集中するために決まったバイトはしていなくて、お金が無くなったら数か月分の生活費を働いてまとめて稼ぎ、質素倹約に努めつつ研究をしてまた資金が底をついたらバイトで稼ぐ、という生活だ。実は祥子との出会いも、彼女が高校受験の為に雇った家庭教師が当時大学4年生の朋晃だったのだ。
「えーと、先週友達がすごく割のいいバイトを紹介してくれたから」
 祥子に怒られる前に、朋晃は下手な言い訳をした。
「それにお店の前を通りかかったらなんだかすごく美味しそうで、つい。えっと、ごめんね?」
 朋晃が結局、両親とどういう折り合いをつけて今ここにいるのか分からないけど、お米だけはいつも実家から大量に送られてくる。だからどんなに貧窮してもそう簡単に飢え死にはしない筈だけど、いつも祥子は朋晃が無駄遣いをしないように厳しくチェックしていた。朋晃は自分の衣食住には全く頓着しないのだけど祥子には甘くて、思った以上にバイトのお金が入ると外食に連れて行くだの、流行りのアクセサリーを買ってあげるだの、祥子の大好物のスイーツで冷蔵庫をいっぱいにするだのといったことを、うっかりしでかそうとする。
 高校時代はずっとバスケットボール部でレギュラーだったというりっぱな体格なのに、今や油断すると米しか摂取しない朋晃の体調が心配で、祥子は普段ここに来るときはいつも肉と魚と野菜が満載のお弁当を作ってきて食べさせている。
 世間の考え方とは大分ずれているのかもしれないけど、祥子は今のこの朋晃のヤクザな生活を、嫌だとか悪い事だとか全然思っていなかった。むしろそんな風に自分のすべてを持って打ち込める何事にも代えがたい覇業への情熱を真摯に貫き続けている朋晃を、カッコいいなあ凄いなあと思っていた。
 だから彼が赤貧なのは全く意に介していなかったけれど、怒涛のバイト月間が始まって長く会えなくなるのは寂しくて嫌だった。だから本当は自分のおこずかいやお年玉で、何か月分かの家賃くらい払いたかったけど、そういうのは絶対朋晃は受け取ってくれなかった。まあ、一般的な男というのは、きっとそういうものなのだろう。
 祥子は高校も大学も、そのままではおよそ彼女の実力に見合わない高レベルの処を受験して、そのどちらも一発でクリアしていた。それはひとえに朋晃のおかげだった。彼は丁寧で教え方がうまく、家庭教師のバイトも相当年季が入っているので受験のノウハウも会得していた。
 祥子が高校に入学して朋晃の正規の家庭教師の任が終わった後、ともすれば赤点を取りそうになる高校の試験を祥子が上手くこなしていけたのも、第一志望の難関私立大学に現役合格できたのも、すべて朋晃の個人レッスンあってこそだった。バイトもしていない学生の祥子の方が格段にお金持ちなのにもかかわらず、彼女から金銭的な助けを一切受け入れなかった朋晃だけど、その授業の報酬としての祥子の愛情弁当はどうにか受けとってくれていたのだ。
 けれど今、目の前にはこの高級ケーキ店の紙箱だ。テカテカツルツルの豪奢なパッケージだけで、豚コマくらいは買えるような額に違いない。
 きっとまた祥子に「無駄使いしちゃダメって云っているのに」と怒られるのは分かっていたけど、朋晃は祥子が「美味しい」って云いながら、パクパクとケーキを食べてくれる姿が見られればすべてOKだった。
 それに、本当に今回のバイトは割がよかった。同じ学部だった友人が就職した動物病院がカルテを管理するコンピュータを入れ替えることになって、その移し替え作業を手伝いに行った。朋晃は卒業する年に獣医師の国家試験をパスしていたので、臨床経験はないものの知識的には十分で、時給換算にすると破格のバイトだった。
 いつもデートと云えば試験前は勉強、後はアパートでテレビやDVDを一緒に見るとか、朋晃の大学近くの土手を散歩するとかの大変にエコでスローな感じなので、ちょっと大金を手にすると何か祥子の為にぱーっと散財したいという気になるのだ。しかして当然、そういう思惑は事前に露見すると、即「嗜好品は後回し。まずはお肉と魚!」と祥子本人に身も蓋もなく一蹴されるのだけど。
「……ありがとう」
 ところがどうしたことか今日の祥子は予想に反して、自分の為に用意された高価な嗜好品を前に、苦情も云わず素直にお礼を云った。
 もちろん頭の中では「だから、頼んだもの以外は絶対買わないでって、何回も何回も云ったのに」というセリフが用意されて、いつもなら間違いなくすぐにそれを口に出していた。でも、今日はその言葉を全部飲み込んで、お礼の言葉だけを云ったのだった。
 今日は念願の大学合格の祝いだからケーキくらいはとも思うけど、朋晃は甘味類が全然駄目で全く食べられない。祥子は甘いもの全般なんでも大好きだけど、中でも生クリームたっぷりのケーキが一番好きだ。もちろんそれを知っていたから朋晃は買ってきてくれたのだけど、祥子はやっぱり朋晃にはまず自分の健康を優先して欲しかった。
 それにこれまではずっと私的家庭教師の対価としてお弁当は辛うじて受け取ってもらえたけど、大学生になったからもう基本、勉強を見てもらうなんてことはなくなるだろう。そうしたらまた昔のように、ご飯に醤油、ご飯にソース、ご飯にケチャップという大変デンジャラスな食生活に戻ってしまうとすごく不安になっていた。
「あ、いや、えーと。本当ごめん。今後は気をつけます。お腹すいたから、食べよ?」
 朋晃はいつもと違う祥子の反応にちょっと面喰っていたけど、とにかく楽しく過ごしたくて話題を変えた。
「ん。野菜スープ作るね。下ごしらえしてきたから、すぐできるよ」
 祥子も気持ちを切り替えるように、流しの前へと立ち上がった。
 

 そのほんの30分前。
 駅の改札に祥子はいた。祥子の家と朋晃のアパートは電車で一駅のところにある。その駅は祥子が通っていた高校への途中になるから、今日はまだ通学定期券が使えた。大学もこの同じ路線で通うことになるから、ラッキーなことにちょうどまた朋晃のアパートに行くのに通学定期券が使える。
「あれ、祥子ちゃん?」
 改札を抜けて、構内を出ようとしたところで祥子は嫌な声に呼び止められた。かなり近い位置から呼ばれたので聞こえなかった振りをする訳にもいかず、祥子は不承不承、後ろを振り向いた。そこには思った通り、濃紺のスーツ姿でびしっと決めた藤崎隆一がにこやかに立っていた。
「……こんにちは」
 何の愛想もなく儀礼通りの挨拶をした祥子をまったく意に介した風もなく、藤崎は嬉しそうにすぐ傍まで近づいてきた。そして、祥子を上から下までまじまじと見回すと、相変わらずの立て板に水の勢いで祥子を称えた。
「うん。高校の制服姿も犯罪的に可愛かったけど、私服姿もありえない綺麗さだなあ。大丈夫? 一人で電車なんかに乗っていてナンパとかされなかった?」
「ええ。大丈夫でした」
「ああ、大学、受かったんだってね。祥子ちゃんは立っているだけで、美人オーラ出まくりで目立つからさ。不埒な男には気をつけないと」
「はい、そうします」
 祥子は淡々とそう答えた。
 藤崎は開口一番から祥子の容姿を褒めまくっていたけど、実際、祥子は歩いているだけですれ違った異性は勿論、同性でも思わず振り返って見たくなるような目鼻立ちの整ったすこぶる美しい顔をしていた。さらにすべすべの白い肌にサラサラのまっすぐな黒髪を持ち、加えて手足の長いちょっと日本人離れしたスレンダーなプロポーションで、何処から見てもまったく非の打ちどころがなかった。
 ただ、知人からでも可愛いとか云われたら一応は「そんなことないよ」とか返すものだけど、祥子の場合この世に生まれ落ちた瞬間に助産婦さんから「なんて可愛い赤ちゃんだこと! こんなベッピンさんは初めてだわ」と絶賛されて以来もう数えきれないほど、美人だの綺麗だの可愛いだの、容姿についてはいろんな人たちから散々褒めちぎられてきたので、通常の場合もう謙遜する気力もなくなっていた。それに特に今日は藤崎が相手だから、余計に投げやりになってしまう。
 藤崎は朋晃の大学時代の同級生で、今は全国展開している大きな動物病院に勤務している。この近くにも系列の動物病院があるから時々この駅を使うとは云っていたけれど、実際にここで出会うのは初めてだった。
 藤崎は学生時代から見た目も交友関係も派手で、地味に暮らしている朋晃とは何の共通点もないように見えた。けど、何故か昔も今も結構仲が良くて、この間割のいいバイトを紹介してくれたのも藤崎だった。
 祥子は初めて会った時からやたらと親しげにベタベタと話かけてきた、こういうチャラいタイプの男が大の苦手なのだけど、朋晃の友達だからそこはぐっと我慢して無難に受け答えをするようにしていた。とはいっても、どうしても「キライ」が態度に出まくりだったけれど。
 祥子は卓越したルックスの持ち主なので、小さい時からやたらと周りの人の目をひいた。中学までは私立の女子校に通っており、小学生の時から電車通学だった祥子は芸能界のスカウトはもちろん、幅広い年代からナンパはされるは痴漢には遭うはで、日々気持ちが休まる時がなかった。祥子は一見すごく女の子っぽいのに、中身はかなりさっぱりしていておしゃれとか男の子にほとんど興味がなかった。会ってすぐ、好きだとか付き合ってくれとか云われるけど、それは自分の性格とか人格とかをまったく無視されているようで、小学校を卒業するくらいにはすっかり男というものにうんざりしていた。
 しかも中学二年の時、ずっと付きまとわれていた大学生に無理矢理車に押し込まれ、連れ去られそうになる事件が起きた。祥子は走っている車から、躊躇することなくドアを開けて外に飛び降りた。このまま連れて行かれて、この男に意に染まぬ事をされるくらいなら死んだ方がいいと本気で思った。
 地面に落ちた時に左腕を骨折して、後ろを走っていたバイクのブレーキが間に合わなくて接触したため首筋の左斜め後ろあたりを5針も縫う裂傷を負った。ひどい怪我には違いないけれど、事故の状況から考えたらかなり運がよい方だと警察から云われた。けれど気持ちがすっかり荒んだ祥子は、もういっそこの顔を怪我すればこんな思いをすることもないのにとさえ考えてしまった程だった。
 それから傷跡は何度かの形成手術を経てすっかり目立たなくなったけれど、母親や祥子を溺愛している父親はやはり今も気にしているようなので、髪を伸ばしていつもは他の人の目に触れないようにしている。
 ということを踏まえて、全くのとばっちりなのだけどその時の犯人の男と藤崎の風貌がよく似ており、余計嫌われているのだ。
「相変わらず素っ気ないなあ」
 と、己のまったく預かり知らぬ奴のしでかした所業でとんだそばづえを食わされた藤崎は、それでもさして堪えた風もなく云った。
「そんなに俺がキライ?」
 直球で訊かれて、流石の祥子もちょっと躊躇した。でも、この機会にずっと云いたかったことを云ってしまおうと意を決した。
「はい」
「ひどいな。俺は結構、好きなんだけどな」
「好きって私の顔とか外見が好きなんですよね。そういうのってすごく失礼だと思いませんか」
 はっきり正面から祥子にそう責められて、それでも藤崎はなんとなくこの会話を楽しんでいるようだった。
「そう? でも、その風貌も祥子ちゃんを形作る要因の一つであることに間違いないよね」
「そうだけど、そんな単純な理由で好きなんて云われても全然嬉しくありません」
「じゃあ、なんで君は朋晃が好きなの? 単に最初にあいつが安易に君を可愛いって云わなかったからって理由じゃないの?」
「……え」
 祥子はその藤崎の言葉に、一瞬何も云えなくなってしまう。
「……ち、違う。朋晃さんは優しいし」
「俺だって優しいでしょ」
 確かにいいバイト先を紹介してくれたのも今回だけじゃないし、前に朋晃が六匹の仔猫と八匹の仔犬を同時に拾ってしまった時も予防注射代やエサ代を半分だしてくれて、一緒に奔走して飼い主を捜してくれた。
 さらに去年、朋晃が風邪をこじらせてひどい熱を出した時、祥子は期末試験中でアパートに入れてもらえなくて、代わりに一週間藤崎が自分の予定を全部キャンセルしてつきっきりで看病してくれたのだ。
「えっと、朋晃さんはずっと自分の夢を追いかけていて……」
「それ、本人には云わない方がいいよ。自分の信念を、とか云っても結局ただのフリーターでしょ。親に無理云ってこっちの大学に来させてもらったのに、つまるところは何の結果も出せずに二十五にもなってフラフラしているって結構気にしてんだよ。君にそんな処が好き、とか云われたら、あいつはいい気持ちしないんじゃないかな」
 そんな風に次々と澱みなく切り替えされて、祥子は少し混乱してくる。藤崎の云っていることは、何処も間違っていない気がする。でも、彼が自分の容姿を褒めなかったから朋晃を好きになったんじゃない。断じて違う、と祥子は思った。


 朋晃と初めて出会ったのは、中学三年の冬。
 それまで祥子は幼稚舎からある、私立のいわゆるお嬢様女子校に通っていた。大学まで併設されているので、余程のことがない限りエスカレータ式に進学することができた。
 そこには千晶という友達がいた。彼女は頭が良くて、しっかりしていて優しくて今も祥子の大好きな親友だ。彼女は将来の為に、高校は外部の進学校を受験することにしていた。それで親友と同じ学校に行きたいという気持ちももちろんあった。けれど、遅まきながら祥子も自分の将来を考えてみるに、その女子校の多くの卒業生がなる普通の専業主婦にはなりたくなかった。そもそも男という種別の人間に嫌気がさしていたから、とてもじゃないけど結婚なんてしたいと思えなかった。ぼんやりとではあったけど、いつかは自分で起業して大きな仕事ができたら、と思ったのだ。
 そのために今できることはとりあえず勉強だろう、ということで外部進学を決めたのが受験の三か月前だった。けれどその時の成績ではとてもじゃないけど千晶の受ける高校に入れる可能性はほとんどなく、それで塾に入るよりも確実に短期間で効果がありそうな家庭教師を雇うことにした。
 もちろん元々は女の先生を希望していたけど、そんな切羽詰った時期に丁度いい条件の人がすぐ見つかる筈もなく、仕方なく性別には目をつぶって朋晃に来てもらうことになった。
 いくら自分の家とはいえ、最初は男性と密室に二人きりになることに不安があった祥子だけど、初めて顔を合わせた時もいつものように舐めまわすような視線で見られることもなく、可愛いねとか写真を撮らせてなどといった下らないことも一切云われなかった。 
 朋晃はまず、各受験科目の単元テストを行い、その後それぞれ一時間ずつ授業をして、もう一度単元テストをした。
 朋晃は授業前後の答案用紙を見ながら、
「うん。大丈夫。十分理解力はあるからきっと合格できるよ。一緒に頑張ろうね」 
と優しい笑顔で云ってくれた。
 ギリギリに決めた受験で、学校の先生にも到底無理だと云われていた祥子は本当はそれまで凄く不安だった。けれど朋晃にそう云ってもらえて、とても安心して嬉しくなった。改めて頑張ろうって素直に思えた。
 はたして祥子は受験に成功し、念願の高校に入学することができた。朋晃も自分のことのようにとても喜んでくれた。
 その三か月間、祥子はこれまでの人生でないくらいに真面目に勉強に打ち込んだけど、朋晃もすごく親身に指導してくれた。時間外でも祥子が苦手な処をわかりやすくまとめてプリントにしたり、彼女に合った問題集を自作して毎週届けてくれたりした。
 これまで祥子は男の人とあまり話したことがなかった。いつも向こうの方が変に緊張したり、下心見え見えで探りをいれてきたりして普通に話すどころじゃなかったからだ。けれど朋晃は極普通に接してくれて勉強の合間に通っている大学のこととか、研究室で飼っている鼠やウサギのこととか、これまでにした変わったバイトのことなど祥子の知らなかった世界の興味深い話を教えてくれた。
 そのうち、何かの流れで合格したらお祝いにどこかに遊びに行こうという約束をした。その時は朋晃がこんなにも貧乏だとは知らなかったから、朋晃の奢りで二人で遊園地に行った。
 それが祥子にとって男の人との初めてのデートで、そして初めての恋だった。
 けれど、祥子の告白は簡単には受け入れてもらえなかった。遊園地の帰りの電車の中で好きって云った途端、急に朋晃はつれなくなった。ろくに話も聞いてもらえず、会うことはおろか電話もメールも返事をくれなくなった。
 祥子はどうしたらいいか分からなかった。人をこんなに好きになったのも、その人から冷たくされるのも全部初めてのことで毎日が辛くて苦しかった。もし、ここで祥子がそのまま諦めてしまっていたら、二人はおそらく生涯二度と出会うこともなかっただろう。
 けれど、祥子は行動を起こした。
 祥子はその日から毎日、朋晃の大学の正門前で早朝から夜までずっと彼を待ち続けた。その時は彼の住所を知らず、朋晃に遭遇できる可能性のある場所がここしかなかったのだ。休み中とはいえ通ってくる学生も多く、そこに存在するだけで人一倍目立ってしまう祥子はすぐに学内で話題になった。
 誰が何を話しかけても返事もせず、ただ朋晃だけを待って立ち尽くしていた。もちろん朋晃が毎日研究室に来ているのか、他にいくつもある入り口の中でこの門を使っているのか、そもそも彼の通っている研究室がここの敷地内にあるのか何も分からなかった。でも、ひたすら朋晃を求めてそこにいた。
「西広さん?!」
「……先生」 
「何で、ここに?」
 この時ばかりは祥子の嫌う、その彼女の美貌が幸いして瞬く間に広がった正門前の不思議美少女の噂は五日で朋晃の耳にも入り、まさかと思いつつもすぐさま駆け付けた朋晃と祥子は久しぶりに再会した。
 ここの処の心労で二キロは体重を落とした祥子は、連日の正門通いの疲れもあって見た目にも弱弱しく、それを心配した朋晃がとにかく座れる処へと声を掛けようとした途端、一変、よく通る祥子の強い声で一喝された。
「先生はずるい!」
「え……」
 朋晃はびっくりして、すぐに二の句が継げなかった。
「私のこと、嫌いなら嫌いってちゃんとそう云って。ただ黙って、そのまま有耶無耶にされるなんて、それじゃ私、諦めきれない……」
 待っている間中、ずっとあれもこれも云いたいことを全部ぶつけてやろうと思っていた祥子は最初こそ威勢がよかったけれど、話している傍からいろんな感情が入り混じってだんだん勢いがなくなってくる。
「嫌いなんかじゃないよ。絶対そんなんじゃない」
 まったく予期せぬことの成り行きに驚きつつも、一番気にしていた部分をすぐ否定してくれた大好きな朋晃の顔を見ていると、一気に昂っていた気持ちが萎えて見る見るうちに大粒の涙が溢れて祥子の頬を伝った。
「私、どうしたらいい? 先生が気に入るような女の子になるから。一所懸命、頑張るから。だから……だから離れて行かないで」
 朋晃が祥子のことを嫌いな訳がなかった。初めて会った時、恐ろしく綺麗な子だなと思ってしまったのはやはり仕方ないと思う。
 でもずっと一緒にいると一見おとなしそうなのに実は負けん気が強くて、だけど素直で頑張り屋で思いやりがあって外見なんかよりずっと中身の可愛い女の子だってわかった。一緒にいるのはすごく楽しかったし、好きだって云われてとても嬉しかった。
 けれど、七つも年上で、さらに大学は出たものの今やっている何の得にもならないような研究を続けたいだけの為に就職もしなかった自分が、女の子と付き合うなんてことをしちゃいけないと思っていた。だから、メールも電話も返さなかった。はっきり断ってしまえばよかったのだろうけど、嫌いだなんて嘘はどうしてもつけなかった。
 でも今、小さな肩を震わせて堪え切れずに泣きだした祥子を見ていたら、もうそんなことは何もかもどうでもよくなった。こんな見知らぬ場所で、十五歳の女の子が一人でずっといつ来るか分からない人を待ち続けるのは、想像以上に心細くて辛いことだっただろう。 
「うん。わかった。僕が悪かった。ごめん。ごめんね」
 朋晃が祥子の一途さに完敗して、晴れて二人は付き合うことになった。
 その一件は今も大学内で「正門の純愛物語」として語り継がれ、恋愛に悩む一部の学生は生きた伝説の恋愛神である朋晃にあやかろうと、お供え物(主に食料)を持って拝みにやってきたりするのだった。

 藤崎は実際には三年前のその現場を見たわけではなかったけれど、とても「らしい」エピソードだと思っていた。
 駅で偶然、久しぶりに祥子に会えて嬉しくてついわざと意地の悪いことを云ってまた怒らせてしまった。残念ながら初対面からかなりの勢いで疎まれていたけれど、藤崎は祥子のことを結構気に入っていた。
 物心ついた時から異性関係が派手だった藤崎には、可愛いだけの女の子なんて取り巻きにいくらでもいた。プロのモデルや芸能界関係の女性とも付き合いはある。でも祥子のような子はいままで会ったことがなかった。自分の容姿を少しでも高値で売りつけようとする女はいても、自分の容姿を賛美する輩をこそ次々と切り捨てていくような女の子は。
 それと同意に、朋晃のことも気に入っていた。真面目で清廉潔白で馬鹿正直な奴なんて大嫌いだったけど、それがあまりに突き抜けて徹底しているからか朋晃は憎めなかった。
 在学中からいろいろと変わった切り口の興味深い研究をしていて、教授達の関心も高かった。卒業後も製薬会社など数社から誘いはあったらしいから、とりあえずそこに就職しておけば微生物ではないかもしれないけれどちゃんと給料を貰いながら研究もできただろうに、未だに後輩たちの実習とか教授達の論文とかをほとんど無償で手伝いながら大学の研究室に通い続けているんだから、まあいい人である前に結構、変人ではあるだろう。 
 祥子が朋晃の彼女でなければ、本気を出して口説きにかかっていたかもしれない。まあ、仮定の話はあくまでも仮定でしか語れないけれど。
 とりあえず二人が上手くいっている今は祥子の素直すぎる可愛い反応が見たくて、やっかみでする多少の意地悪くらいは許されるだろうと、大変に傍迷惑なことを藤崎は勝手に考えていた。


 二人で食事を済ませて祥子が洗い物をしている間、朋晃がコーヒーを淹れてくれた。前に朋晃がバイトしていたコーヒーショップのオーナーが、量が半端になった銘柄や賞味期限が近い豆を格安で譲ってくれるので、コーヒーだけはいつも贅沢をしていた。
 狭い部屋の中は本棚の二段目に置かれたテレビの前にちゃぶ台、そして人がやっと座れるスペースの後ろはすぐベッドがある。いつものように二人はベッドを背凭れ代わりにして、並んで食後のコーヒーを飲んだ。
 そして今日はさらにケーキだ。
 4号のホールケーキはたっぷりの生クリームに、うっすら粉砂糖を振りかけられたイチゴが惜しげもなくどっさりと載せられていた。45度に切ってお皿に載せると、断面もイチゴが溢れんばかりに挟み込まれていて見るからに豪華で幸せになれる光景だった。
「祥子ちゃん、合格、おめでとう。たくさん食べて」
 祥子がケーキを食べるのをニコニコと嬉しそうに待っている朋晃を見て、祥子はなんだか悲しくなった。朋晃はいつもこんなに穏やかで優しいのに、普段の祥子は「そんなもの買っちゃダメ」とか、「時間がなくても今、会いたい」とか、「女の子の家には家庭教師に行っちゃ嫌だ」とか、我儘の云いたい放題をしていた。
 祥子が朋晃を大好きなのは、藤崎が云っていたように祥子の容姿について何も言及しなかったからなんてそんなことじゃない。それは自分のことだから良く分かる。明確に説明できなくても、朋晃が今のこの朋晃だから好きなのだ。その大好きな朋晃がちゃんと自分の傍にいてなんでも云うことを聞いてくれるのが嬉しくて、今までつい思う通りに奔放に振る舞ってしまっていた。
 だけど今日、藤崎と話していて唐突に不安になった。
 朋晃は自分のどこが好きなんだろう、と。祥子が自分で確実にわかる自身の長所はこの因縁のルックスなのだけど、どうやらそれは朋晃に対してはアピールポイントにならないように思えた。
 嫌われていないのは間違いないと思う。誰にでも分け隔てなく優しい朋晃だけど、祥子を部屋に入れてくれてアパートの合鍵をくれたし、どんなに忙しくても電話をすれば会いに来てくれた。
 けれど、押しかけ彼女になって三年。一度も彼から好きだと云われたことがないし、抱きしめられることはおろか、朋晃が自分から祥子に触れることも一切なかった。
 一緒に歩いている時に手を繋いだりとか、テレビを見ている時に肩に凭れかかったりといったことは祥子の方からはしている。朋晃はそれを振りほどいたり避けたりはしなかったので、祥子は全く気に留めることもなかったけれど、もしかしたらこの状態はあまり一般的な恋人同士の関係じゃないのかもしれないと遅まきながら考え始めた。
 キスも2、3回はしたことはあるけれど、それもやはり朋晃がぼんやりしている時に祥子の方から突然口づけて、でも恥ずかしくてすぐ視線を外してしまったのでセクシャルな雰囲気になることも全然なかった。
 祥子は前に一度、ちょっとした好奇心で朋晃に微生物の一体どこがそんなにいいのか訊いてみたことがある。
 そもそも微生物とは、ざっくり云うと肉眼では存在が判別できない大きさの生物をさすもので、かなり広義な意味を持つのだそうだ。
「僕が今研究しているのは、主に極限環境微生物という特殊な環境下のみで増殖できるタイプの微生物で、さらにその中の好塩菌という至適増殖に0.2 M以上のNaCl濃度が必要な原核生物の……あ、えーと」
 当然のことながら、話の途中から祥子が『?』という顔をしていたので、朋晃は説明の仕方を変えようとした。けれど、ごく普通の女の子に一言でわかりやすく微生物学を説明できる人間なんて、そうこの世の中にいるとも思えなかった。
「うん。なんていうか、すごく健気で可愛い奴なんだよ、微生物って」
 と、我ながら女子向きにそこそこ上手くイメージは伝えられたかなと朋晃は悦にいっていたのだけど、祥子は途端にムッとして機嫌が悪くなった。
 朋晃は初対面の時だけでなく、今までに一度だって祥子のことを「可愛い」と云ってくれたことがなかった。嬉しそうに語る朋晃を見て、いるかいないかさえわからないような微生物ごときのくせに、と祥子は嫉妬していたのだ。
 朋晃にはなんで祥子が怒っているのか全く分からなかった。実際は微生物より祥子の方が比べるまでもなく、もちろん、ずっと言葉通りの意味で可愛いと思っている。けれど、祥子が他人に容姿を褒められることを嫌っているのを知っていたから、云わないようにしていただけだった。
 朋晃が云うのと他の人が云うのでは、祥子にとってまったく意味合いが違うのだということを、朴念仁の朋晃に分かれと云う方が到底、無理な話であろうが。
 

「そろそろ送って行くよ」
 そう朋晃に云われて、祥子は窓の外を見た。すっかり辺りは暗くなっていて、風に揺れる外の半枯れの木の枝がとても寒そうに見えた。
「まだ、大丈夫」
 もっと一緒にいたくてそう云った祥子だったけど、朋晃はなんだか今日の祥子はいつもと違って元気がないように見えて心配だった。
「また明日来ればいいよ。大学の方ヘは行かないから」
 美味しいケーキもあまり食べられなくて、乾燥しないように箱ごとラップでくるんで冷蔵庫に入れてある。
 立ち上がった朋晃に急かされるように仕方なく祥子も一度は重い腰を上げたのだけど、すぐにまたペタンと元の位置に座り込んだ。
「……帰らない」
「え?」
「帰りたくない。……ずっとここにいても、いいでしょ?」
 当然、その意味はわかった。
 もちろん朋晃も健康な男性だから、正直な処これまで幾度も祥子に対していろんな妄想や衝動は持った。けれど、実際になにか行動に起こすなんてことはありえなかった。
 最初は中学生だったから問題外だったし、高校生になって付き合うようになってからもしばらくはそれまでの癖が抜けず「先生」と呼ばれていた。少し弾むような声でそう呼ばれる度に、何だかとても背徳めいたことをしているようで気が引けた。その後も祥子は何しろあまりに無邪気で無防備すぎて、自分から触れることなんてできなかった。
 人を愛するのに資格とか基準がある筈はないけれど、二十五歳になっても自分のやりたいことだけを貫いている自分には、本当に大切な人に対してやっぱり安易に踏み込んではいけない領域があると思っていた。
「とにかく、今日は帰りなさい。送るから」
 まじめな声音でそう云って、上着を渡そうとしたけれど祥子は受け取らなかった。
「祥子ちゃん」
 祥子はちょっと語尾を上げて、そう自分を呼ぶ優しい朋晃の声が好きだった。もっと自分を好きになって欲しくて、今日はケーキに沢山お金を使ったことにも文句も云わなかった。素直で従順な女の子になろうって思った。
 でも、今は引きたくない。
 たくさんの祥子の我儘を無条件に聞いてくれた朋晃だけど、今日の祥子の言葉には頷かなかった。どう云って説得するかを考えている顔をしていた。
 だから、祥子は意を決して、
「今日帰るくらいなら、別れる」
と、きっぱりと云ってみたものの、ついその後に未練がましく「かも」と続けたくなる。もしかして、もしかしたら朋晃が、
「そうか。それならしかたない。別れよう」
とあっさり同意してしまうんじゃないかと思って。本心では別れるなんて、絶対にしたくなかった。
 祥子はなんて云われるのか穏やかざる心中で、少し上目使いに朋晃を見上げていた。彼は祥子のそんな本音を知る由もないから、別れるとまで云われて本当に困って言葉に詰まってしまった。
「んと、……困ったな」
と、思ったとおり、そう言葉にも出した。
 とりあえず祥子は、即、別れるって云われなかったことに安心してもっと強気にでる。
「朋晃さんは、私のこと何にも分かってない」
 そう強く云われて、朋晃は動揺した。
 祥子のことが大事だから、精一杯大切にしたかった。だけどそれは本当に祥子の為の完璧な選択なのか分からなくなる。
 二人で向かい合ったまま、ただお互いに黙り込んでしまった。
 俯いた祥子は泣きたくなるのを一所懸命こらえていた。わざとじゃなかったけれど、三年前に想いを受け止めてもらった時のように、もう泣いて我を通すようなことをしたくなかったのだ。
 好きっていう自分の気持ちばかりを押し付けて、また朋晃を困らせている自分がすごく嫌になってくる。顔は上げられなかったけど、泣かないように頑張って云った。
「わかった。ごめんなさい。……帰る」
 朋晃を見てしまったら、また無理なことを云いだしてしまいそうで、祥子は視線を逸らしたままコートとバッグを拾って立ち上がった。そのまま玄関に歩いていく祥子の背中に引っ張られるように立ち上がった朋晃は、考えるより先に追いかけて後ろから祥子を抱きしめた。
 そんな風にされたのは初めてだったので、びっくりした祥子はどうしていいか分からず、ただされるまま耳の傍で繰り返される朋晃の息使いを聞いていた。
 朋晃はまだ迷っていた。
 このまま祥子を抱いてもいいのか。
 腕の中の祥子はとても華奢で柔らかくて、今この時でさえ彼女を壊してしまわない為にはどのくらいの力を入れて抱きしめればいいのか計りかねる程だった。
 ゆっくりと朋晃の腕が緩んで体が自由になったので祥子が振り返ろうとした途端、朋晃に強く腕を引かれて今度は正面から抱きしめられた。
 もう迷うなんて無意味だった。ここまで来て止められるはずもない。
 それは祥子がこれまで知っていた朋晃とは随分と違って見えた。
 頬にかかる祥子の黒髪を右手ですくって耳に掛け、そのままその暖かい手で顔に触れながらしたキスは、彼女が戯れにしていたキスとは全然違う、大人のキスだった。
 ベッドの上でもう一度長いキスを交わした後に瞳を開けて見た逆光の朋晃は、今までに見たこともないようなとても真剣な表情で、改めて彼は大人で男の人なんだ、と祥子は思った。
「僕が、怖い?」
 そう訊いたのは、彼が祥子のうなじの傷の理由を知っているから。
 祥子は首を横に振る。
「ううん。……好き。大好き」
 腕を回して、祥子は朋晃を抱きしめた。


 初めてしたセックスは事前に頭の中で考えていたような、ふんわりとした美しいものではなく、当然だけどずっと生生しくて現実的なものだった。これは相手が朋晃だからできる、というか大好きな人とじゃなきゃ絶対にしたくない類のことだ、というのはよくわかった。
 どう取り繕ってももうとにかく恥ずかしいし、朋晃は徹頭徹尾、すごく気遣ってくれて実際はそれほどではなかったけれど、本能として体の中に何かを突っ込まれる、というのはものすごく痛いというイメージがずっと頭から離れなかった。だから余計駄目なんだって分かっていてもどうしても怖くて体からうまく力を抜けなくて、自分はただされるままになっていただけなのに、終いには疲れ果ててぐったりしてしまった。
 慣れれば、事後しばらく抱き合ったまま余韻に浸るとか、ここぞとばかりに歯の浮くようなセリフで愛を囁き合うとかするのかもしれないけど疲労困憊でひたすら眠かった。朋晃が、たぶんシャワーを浴びたらとかなんとか云っていた気がするけど、ただ生返事をして頷いただけで祥子はそのままずるずると眠り込んでしまった。


「……祥子ちゃん。祥子ちゃん、電話」
 その朋晃の声で、祥子は目が覚めた。
 目を開けて最初に大好きな人の顔が見られるなんて、すごく幸せだった。ベッドの枕元近くに腰かけて、朋晃が祥子の顔を覗き込むようにしながら起こしてくれていた。
「まだ眠い? でも、さっきから祥子ちゃんの携帯がずっと鳴っていて。出てみた方がいいんじゃないかな」
 そう云われて祥子は、頷いて体を起こした。少し残っている眠りの余韻をぬぐうように、指で目を数度こすった。朋晃が手渡してくれた、まだ鳴り続けている携帯を見ると自宅からだった。
「もしもし。……うん。ごめんなさい。連絡するの、忘れていた」
 合格した大学は自宅から通える距離にあるので、祥子は未だに実家暮らしだ。傍で事の成り行きを見守っていた朋晃にも、どうやら祥子が夕べ外泊することを云っていなかったので、親が心配して朝一番に電話をかけてきたのだということは分かった。それは年頃の娘を持つ親としては当然の対応だろう。
「うん。大丈夫。……え、やだ。お父さん、泣かないでよ」
 そのセリフに朋晃は、一瞬にして血の気がさーっと引く思いがした。祥子は前から、「うちは放任主義だから平気。門限もないし」といって帰宅時間などもかなりアバウトだった。親には、歳上の人と交際している、とは云っていたようだけど挨拶に行ったこともない。というか、そもそもフリーターの身としては到底ご両親に合わせる顔がない。
 それでも礼儀としていつもは朋晃の方が、帰りが遅くならないように気をつけていたのだけど今回は失敗した。
「わかった。お昼までに帰る。ん。じゃあね」
 祥子は使い終わった携帯を閉じる前に、明け方近くから始まっている家からの大量の着信履歴を見てちょっとびっくりしていた。姉たちと違って、自分はこれまであまり無茶をしたことがなかったから無駄に心配させてしまったようだ。
 祥子は西広家の三人姉妹の次女だ。西広家の方針は、「子供が十五歳過ぎたら親は子供の行動に一切口出ししない、自分の行動はすべて己の判断に任せる」というものだった。
 どうしたって普通、親の方が先に死ぬ。親が干渉して子供の人生を変えてしまったとして、でも結局その後の人生を歩んで行かなければならないのは子供自身だ。自分の生き方は、すべて自分で選ばせてやりたい。
 父は娘達のことが大好きな子煩悩な人なのだけど、妻が決断したこの方針には同意していた。
 祥子の姉は高校時代にアメリカに留学してそのまま編入、向こうの大学に進学した。さらに卒業後もアメリカで就職して、もう五年も日本には帰って来ていなかった。
 祥子の妹は犬の散歩で知り合った隣のマンションの商社マンと十六歳の誕生日に入籍して、今は転勤で北海道に住んでいる。夏には初めての赤ちゃんが生まれる予定だ。
 本音では両親は三人の娘達に女の子としての平穏な幸せを願い、全員を名門私立女子校に入れたのだけど、結局誰ひとりとしてそこの高校を素直に卒業する者はいなかった。けれどそれぞれが選んだ人生を心から応援し、見守ってくれていた。
 今日の無断外泊も、昔の連れ去り未遂事件のこともあってきっとすごく心配しただろうに、それでも決して責めることなく無事だったことだけを喜んでくれた父に悪いことをしてしまったと反省した。
「今日一緒に行って、祥子ちゃんのご両親に挨拶しておこうか」
 不意に朋晃にそう云われて、祥子は顔を上げて彼を見た。神妙な表情をした朋晃の今考えていることが全部わかったような気がした。だからそれらも全部ひっくるめるように祥子はゆっくり、でもはっきりと首を横に振った。
「いい」
「でも、ちゃんと会って謝らないと」
 こういう関係になったらきっと、優しくて真面目な朋晃のことだから「責任」とか「謝罪」とか云っちゃうんじゃないかなって思ってはいた。そして祥子自身は、これまでやってきたことも今からやろうとしていたことも全部放り出して、ただもう朋晃の傍にいられれば他はどうでもいいってそんな風になっちゃうんじゃないかとも思っていた。
 はたして、朋晃はだいたい予想通りの行動だったけど、祥子は意外にもまったく逆だった。朋晃はいつも自分の信念に従って、ぶれることなくまっすぐに生きている。それは凄いことだと思っていたけど、祥子自身もこれからのことをもっと真剣に考えてちゃんと自立して自分の道を歩いて行きたいって極自然にそう思えた。
「私が今ここにいるのは私の選択だから。朋晃さんが謝る必要なんて何もない。お父さん達もそんなこと望んでない。朋晃さんには今まで通りでいて欲しいし、私もそうしたい」
 祥子のこの気持ちの変化はなんなのだろう。上手く云い現わせないけど、一番近いのは「安心した」という感じだろうか。
 朋晃に心と体全部で大切に愛してもらえたら、ずっと長い間、自覚もないくらいに小さくくすぶっていた不安とか得体のしれない迷いみたいなものが、さっぱりと洗い流されたように無くなってしまっていた。
 朋晃の背中ばかり追いかけるのではなく隣に並んで一緒に歩きたい、そう思った。
 シャワーを浴びた後で、朋晃に美味しいコーヒーを淹れてもらって残ったケーキを食べた。流石に有名高級店のケーキだけあって、コクがあるのにすっきりした甘さの生クリームと甘酸っぱいイチゴが絶妙で、結構な量が残っていたのに一気に全部平らげてしまった。
 朋晃にもビタミン補給にイチゴを食べさせようとしたけど、上にかかった粉砂糖とまぶされた赤ワインのジュレが駄目だった。代わりに甘くないから大丈夫と云って生クリームをちょっと舐めさせたけど、やはりものすごく微妙な顔をしたので、本当にこれはもう決定的に無理なんだなって改めて確信した。

 その後、帰ろうとしたら朋晃が送ってくれるという。いつも別れる時は夜だったから家の前まで送ってもらっていたけど今は朝だ。
 それにさっき目覚めた時、祥子は結構ベッドの真ん中あたりに寝ていた。そもそもここの作り付けのベッドは普通のシングルサイズだから、普段朋晃が一人で寝ていてもちょっと窮屈そうだった。夕べは彼が一体どんな体勢で寝たのかわからないけど、少なくとも熟睡はできなかったのではなかろうか。
「大丈夫。一人で帰れる。朋晃さんはもう少し眠ったら?」
 そう云ってみたけれど、朋晃はまったく揺らぐことなく、
「いや、送る。絶対に、送る」
と断言した。その云い方が子供みたいで、祥子は少し笑ってしまった。

 二人一緒にアパートのドアを出る。
 今日は日差しがとても暖かくて、吹く風も柔らかだ。
 完璧な春は、もう殆どそこまで来ていた。 
                            〈 了 〉

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