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厄介な代物
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「とにかく困るんです」
施設長の島津がイラつきを抑えて言った。
「事故があってからでは遅いですからね。何とかご家族の方からお話してもらって、お持ち帰りいただかないと、何かあっても責任取れませんから」
柚木沙和は、テーブルに視線を落としたまま何度もうなずき、小さな声で「すみません」と繰り返す。
最近のシニア女性は美意識が高く、年齢より若く見られる人も多くなったが、沙和は年齢より随分老けて見える。
確か六十代前半だと思ったが、目の前の沙和は七十代と言われても違和感がない。
同年代の島津が、きれいに髪を整え厚めの化粧をしている姿と比べると、どちらが客かわからないと佐倉美緒は思った。
「じゃあ佐倉さん、あなたもご家族と一緒に行って、麻子さんとお話してくださいね。よろしくお願いします」
言葉は丁寧だが、その声色は突き放したような冷淡さがにじみ出ている。
島津がいら立つのは無理もないことだった。
一か月ほど前、老人介護施設「幸楽の館」に入居してきた柚木麻子が、ぐるぐると首に巻いていたのは、サックスブルーの長い手編みのマフラーだった。
「このような長いマフラーは、お預かりするにはちょっと危ないので、お持ち帰りいただけますか? 施設内は、常に快適な温度と湿度を保っておりますしね」
麻子に付き添ってきた沙和に、島津は丁寧に伝えた。
「すみません。義母が、どうしても持っていくと言って聞かないものですから… 持って帰りますね」
沙和はそう言ったが、姑に対して嫁の立場では、無理やり取り上げることもできなかったのだろう。
相変わらず麻子は、長いマフラーを畳んで膝の上に置いたり、時には首や肩、腰にぐるぐると巻き付けたりしていた。
島津が、一、二度、早く持ち帰るよう沙和に連絡を入れたりもした。
「次にうかがった時には、必ず持ち帰ります。すみません」
沙和は、そう繰り返すだけで、そもそも施設に顔を出さない。
そして、小さな事故が起きた。
いつもは、介護士が麻子の車椅子を押して移動させるのだが、その日、目を離した隙に、麻子が自力で車椅子を動かし、移動し始めた。
ほんの少し垂れ下がったマフラーの端が車輪に絡まり、マフラーを巻き付けている麻子の首が締まりかけたところを、介護士の美緒が慌てて止めて、事なきを得た。
沙和は、マフラーを持ち帰らなかったことや、この一か月、一度も施設を訪れていなかったことで、罪の意識を感じているのか、落ち込んだ様子で少しやつれて見える。
「すみません。お忙しいのにお呼び立てして」
美緒は、沙和と二人きりになったところで声をかけた。
「いえ、お手数かけて…」
沙和が消え入りそうな声で返す。
中庭に面した日の当たる窓際が、麻子のお気に入りの場所だ。相変わらず、サックスブルーのマフラーを膝の上に置いている。
「あそこが、麻子さんのお気に入りなんです。ずっとあそこで、マフラーを撫でたりもみもみしたり、本当にお気に入りなんですね」
沙和は「ええ」と困惑顔でため息をつく。
「もうずっと、義母の手元に置いてあるんです。一度、主人が無理やり取り上げようとしたんだけど、もう泣き叫んじゃって… それ以来、ますます肌身離さず状態で… だから私から言っても無理だと思うんです」
沙和は思い詰めた様子で、麻子の横顔を眺めている。
「麻子さん、ご機嫌いかがですか?」
美緒は麻子のもとに歩み寄り、耳元で声をかけた。
驚いたように美緒を見た麻子が、にっこりと顔をほころばせた。
「ご家族がお見えですよ」
美緒が沙和に顔を向けると、沙和は硬い表情をぎこちなく緩めた。
逆に麻子の顔から笑みが消える。
「ちょっと、いつまでここに置いておくつもり! 早くあの家に連れて帰ってちょうだい!」
麻子が膝に置いたマフラーをつかんで、自身の胸のあたりに押し当てる。
「蒼葉が帰ってくるかも知れないんだから!私がいないと蒼葉が寂しがるだろ。早く連れて帰って!」
「お義母さん…」
沙和が呟き、声を詰まらせる。
「あんたは本当に冷たい母親だよ!」
徐々に気が高ぶって、麻子の声が大きくなる。
「麻子さん、今日は帰れないですよ」
すかさず美緒が間に入って声をかけた。
「今日はね、沙和さん忙しい中、ちょっとだけ麻子さんのお顔を見に来ただけなの。もう帰らないとダメなんですって。ほらもうすぐおやつの時間だし」
麻子の大声に、後輩介護士の宮内加奈が飛んで来て、素早く車椅子の向きを変え、麻子の視界から沙和を消した。
「今日のおやつはねぇ、麻子さんの好きなシュークリームだよぉ。みんな麻子さんのこと待ってるよ。一緒に食べようねぇ」
加奈が声を響かせながら、麻子を食堂へと連れて行った。
施設長の島津がイラつきを抑えて言った。
「事故があってからでは遅いですからね。何とかご家族の方からお話してもらって、お持ち帰りいただかないと、何かあっても責任取れませんから」
柚木沙和は、テーブルに視線を落としたまま何度もうなずき、小さな声で「すみません」と繰り返す。
最近のシニア女性は美意識が高く、年齢より若く見られる人も多くなったが、沙和は年齢より随分老けて見える。
確か六十代前半だと思ったが、目の前の沙和は七十代と言われても違和感がない。
同年代の島津が、きれいに髪を整え厚めの化粧をしている姿と比べると、どちらが客かわからないと佐倉美緒は思った。
「じゃあ佐倉さん、あなたもご家族と一緒に行って、麻子さんとお話してくださいね。よろしくお願いします」
言葉は丁寧だが、その声色は突き放したような冷淡さがにじみ出ている。
島津がいら立つのは無理もないことだった。
一か月ほど前、老人介護施設「幸楽の館」に入居してきた柚木麻子が、ぐるぐると首に巻いていたのは、サックスブルーの長い手編みのマフラーだった。
「このような長いマフラーは、お預かりするにはちょっと危ないので、お持ち帰りいただけますか? 施設内は、常に快適な温度と湿度を保っておりますしね」
麻子に付き添ってきた沙和に、島津は丁寧に伝えた。
「すみません。義母が、どうしても持っていくと言って聞かないものですから… 持って帰りますね」
沙和はそう言ったが、姑に対して嫁の立場では、無理やり取り上げることもできなかったのだろう。
相変わらず麻子は、長いマフラーを畳んで膝の上に置いたり、時には首や肩、腰にぐるぐると巻き付けたりしていた。
島津が、一、二度、早く持ち帰るよう沙和に連絡を入れたりもした。
「次にうかがった時には、必ず持ち帰ります。すみません」
沙和は、そう繰り返すだけで、そもそも施設に顔を出さない。
そして、小さな事故が起きた。
いつもは、介護士が麻子の車椅子を押して移動させるのだが、その日、目を離した隙に、麻子が自力で車椅子を動かし、移動し始めた。
ほんの少し垂れ下がったマフラーの端が車輪に絡まり、マフラーを巻き付けている麻子の首が締まりかけたところを、介護士の美緒が慌てて止めて、事なきを得た。
沙和は、マフラーを持ち帰らなかったことや、この一か月、一度も施設を訪れていなかったことで、罪の意識を感じているのか、落ち込んだ様子で少しやつれて見える。
「すみません。お忙しいのにお呼び立てして」
美緒は、沙和と二人きりになったところで声をかけた。
「いえ、お手数かけて…」
沙和が消え入りそうな声で返す。
中庭に面した日の当たる窓際が、麻子のお気に入りの場所だ。相変わらず、サックスブルーのマフラーを膝の上に置いている。
「あそこが、麻子さんのお気に入りなんです。ずっとあそこで、マフラーを撫でたりもみもみしたり、本当にお気に入りなんですね」
沙和は「ええ」と困惑顔でため息をつく。
「もうずっと、義母の手元に置いてあるんです。一度、主人が無理やり取り上げようとしたんだけど、もう泣き叫んじゃって… それ以来、ますます肌身離さず状態で… だから私から言っても無理だと思うんです」
沙和は思い詰めた様子で、麻子の横顔を眺めている。
「麻子さん、ご機嫌いかがですか?」
美緒は麻子のもとに歩み寄り、耳元で声をかけた。
驚いたように美緒を見た麻子が、にっこりと顔をほころばせた。
「ご家族がお見えですよ」
美緒が沙和に顔を向けると、沙和は硬い表情をぎこちなく緩めた。
逆に麻子の顔から笑みが消える。
「ちょっと、いつまでここに置いておくつもり! 早くあの家に連れて帰ってちょうだい!」
麻子が膝に置いたマフラーをつかんで、自身の胸のあたりに押し当てる。
「蒼葉が帰ってくるかも知れないんだから!私がいないと蒼葉が寂しがるだろ。早く連れて帰って!」
「お義母さん…」
沙和が呟き、声を詰まらせる。
「あんたは本当に冷たい母親だよ!」
徐々に気が高ぶって、麻子の声が大きくなる。
「麻子さん、今日は帰れないですよ」
すかさず美緒が間に入って声をかけた。
「今日はね、沙和さん忙しい中、ちょっとだけ麻子さんのお顔を見に来ただけなの。もう帰らないとダメなんですって。ほらもうすぐおやつの時間だし」
麻子の大声に、後輩介護士の宮内加奈が飛んで来て、素早く車椅子の向きを変え、麻子の視界から沙和を消した。
「今日のおやつはねぇ、麻子さんの好きなシュークリームだよぉ。みんな麻子さんのこと待ってるよ。一緒に食べようねぇ」
加奈が声を響かせながら、麻子を食堂へと連れて行った。
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