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庭の記憶

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 一面芝生が広がる庭は、元は白い玉砂利たまじゃりが敷かれ、鯉がゆうゆうと泳ぐ存在感がある池、その池に掛けられた橋を渡った先に小山がありそこに大きな桜の木があったそうだ。

 一人息子の隆太郎りゅうたろうが、よちよちと歩き始めた頃、その池に落ちたことで半狂乱になった彼の母親がその忌々いまいましい日本式の庭を全て潰して平坦な芝生で埋め尽くした。そして、四季折々の花が咲くように芝生の周りに花壇が作られ、小ぶりの噴水、女神や天使の像等を配置した洋風の庭園へと姿を変えた。

 噴水も女神や天使像も幼い隆太郎を喜ばせ、また少し大きくなった頃にはサッカーボールを蹴ったり、キャッチボールをしたりと彼には最適な庭だったのだろう。
 あるじのいない庭は閑散として寂しく、思い出が蘇る度に彼の父親は悲しみと戦い、母親は思い出に浸る。

 父がホテルの日本庭園に面した明るいレストランで朝食を取る訳もそこにあったのかも知れない。
 潰された庭にあった大きな桜の木だけは唯一生き残ることを許され、庭の一角で毎年美しい花を咲かせていた。


 私が小学校に入学する年の早春のことだった。
 珍しく父が夕食前に帰宅し、三人で夕食をたべようと誘ってきた。

 暖炉がある部屋はテラス側にソファセット、中央寄りに十数人の席が用意できる長方形の大きなテーブルがあり、今ならリビングダイニングと言うところだろうが、その存在感のあるテーブルによって「食堂」と呼ばれていた。

 それまで食堂にあるそのテーブルは、三人がそろった時や親戚を交えた時を除いて、女主人と私が二人きりで同席することはなかった。
 もちろんそこには使用人たちの相応の努力があり、私と女主人ばかりか彼らにとっても精神衛生上極めて好ましい配慮でもあった。
 むしろ三人で食事をする時の父の精神衛生は最悪だったのではないだろうか。

 食事中、父は無言で黙々と食べる彼の妻に気を遣いながら、私に絶えず話しかけ、時々、妻にもあたりさわりのない言葉をかける。
 食事が終盤になりかけた頃、父が突然、会社の幹部家族を招待し庭で桜を見る会を開くと切り出した。
 それまで話しかけられれば「そうね」とか「ええ」と相槌をうつ以外は無言だった彼の妻が甲高い声を張り上げた。

「嫌よ。あの庭に他人を入れるなんて耐えられない。会合ならホテルでやったらいいじゃない。ここでやる必要ないでしょ」
「いつまでも喪中の気分でふさぎ込んでいても仕方ないだろう」
「あなたはどうしてそんなに簡単に隆太郎を忘れられるの?」
「忘れてない。忘れるわけがない! ただ、蘭子のことも考えてくれ」

 女主人の表情が一瞬のうちに固まり、視線を父から逸らすと冷淡な目つきであらぬ方を見やる。
 サチが慌てて私を立たせようとしたが、私はのんびりとホットミルクを飲んで食べかけのシフォンケーキにフォークを刺して口に運んだ。
 サチが私の耳元で「お部屋で食べましょう」と囁いたが、私はサチを無視してまたミルクを口にする。
 父の視線を感じたが、私は我関せずと言いたげに目の前のデザートに目を落としたまま黙々と口を動かした。

 父の視線が再び彼の妻に向かった。
「暖炉に火も入れなければクリスマスツリーも出させない。庭に出ることも許さず、どうやってこの家で育てていくつもりだ」
「知らないわよ。代わりにあなたが色々なところに連れて行ってるじゃない。それでいいでしょ。庭は隆太郎の庭よ…暖炉も隆太郎の暖炉、何もかも隆太郎のもの、ここは隆太郎の家よ! 妾の娘に荒らされたくない!」
「いい加減にしないか!」
 父の怒鳴り声に彼の妻も私もビクッと身を震わせた。

 一旦は引き下がっていたサチが慌てたように姿を見せると強引に私を立たせ、背中を押して部屋を後にした。
 私の部屋に入ると、サチは真顔で私の目線に合わせて腰を落とす。
「廊下でこっそり立ち聞きするのは構いません。だけど、あの場に居座るのはダメです」
「どうして?」
「どうしてもです」
 初めて聞くサチの怒気を含んだ声にそれ以上何も言えなかった。


 桜を見る会が開かれたのは、そろそろ桜の花が散り始める頃だった。
 頑なに拒否していた女主人もカジュアルなティーパーティーで、短時間でサクッと済ませるからという父の説得に折れて渋々ではあるが承諾した。

杏紗あずさ、今日はよろしく頼むよ」
 当日の朝、努めて穏やかな口調で父が声を掛ける。
 無言で紅茶をすする女主人がおもむろに父をチラリと見るとすぐに視線を戻す。
「私にだって晋太郎しんたろうさんの顔を潰さないだけの理性はあるわよ」
 彼女は感情を抑えた静かな口調の中に棘を残して答えた。
 軽くうなずき、父はガラリと表情を変えて私を見る。
「蘭子もよろしく頼むよ」
 私は満面の笑みでうんと大きくうなずいて答えた。

 朝から使用人たちがせわしなく庭と屋敷を行き来し、日常とは違う落ち着かない雰囲気は、私の心を大いに沸きたてた。
 実際、いつも窓から見ていた陽の光を浴びる美しい芝生の緑に足を踏み入れるのが楽しくて仕方なかった。

 隆太郎が亡くなって以来止めていた噴水の水も美しい弧を描き、真っ白なクロスを掛けられたテーブルには軽食やデザート、飲み物が美しく並べられ、色とりどりに咲き乱れる花々や庭園の他の装飾品と、渾然とした調和を見せていた。

 一人の女が花壇の一角で花を摘んでいた。
 いつもより弾んでいた好奇心が私を彼女の傍らに引き寄せる。
「お花を摘んでるの?」
 女は私を見てにこやかに微笑んだ。
「テーブルの上に飾るんです。お庭に溢れるお花もいいけど、テーブルに少し飾ると可愛いでしょ」
「私もやりたい」
 女は困惑気味に微笑む。
「そんなことをさせたら私が怒られます」
「お父様の書斎の机に少しだけ飾りたいの。いいでしょ」
「旦那様の…わかりました」
 彼女は持っていたハサミを私に渡した。

 その場であたりの花々を見回していたが、私はいつも部屋から眺めていたひと際、色とりどりの花々が咲き誇る花壇に目が行く。
「あっちの花壇のほうが綺麗な色のお花がたくさんあるよ」
 私の示す花壇を見て、女の笑顔が固まった。
「あそこの花壇は勝手に取ってはダメなんですよ。庭師が常に色々な花を植え替えているんです」

 窓から眺めていた時、たまきがあの花壇からたくさんの花を摘んでいるのを何度も見ている。
 環が許されているのにどうして…
 そんな疑問が湧くと同時に女主人の顔が浮かんだ。


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