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長い夜
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その大きな部屋には暖炉があった。
使用人の誰もが私と目を合わせることを禁じられているかのように俯き距離を置いていたが、その暖炉は彼らの不自然な仕打ちを忘れさせるには十分だった。
絵本でしか見たことがない暖炉が目の前にあるのだから。
絵本の中の暖炉にはくべられた薪に暖かな炎が描かれて、今はきれいに片付けられている暖炉にもいつか絵本のような暖かな火が見られるのかしらと思うと、何もないただの煉瓦の箱も私をワクワクさせた。
興味津々で中を覗いていると、サチが寄ってきた。
「クリスマスにはここに靴下を飾るんですよ。大きなクリスマスツリーも飾り付けておくとサンタクロースが煙突から入ってきてツリーの下にプレゼントを置いてくれるんです」
今までサンタクロースから何ももらえなかったのは暖炉がなかったからだと納得して、今年のクリスマスを想像すると思わず笑みがこぼれた。
しかし、その笑顔も視界に入った女主人の表情を殺した能面のような顔に消される。
「サチ。大きな声で喋らないで」
低い声で視線も合わせず言う女主人に向かって、サチが深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。奥様」
ベッドに横たわっていた時は折れそうなほど弱々しく見えたが、私の前に立っている彼女はピクリとも動かない顔の肉と白いドレスから見える骨ばった鎖骨のせいか殺伐とした悲哀をまとっていた。
父から彼女のことを「お母様」と呼ぶように言われたことを思い出し、慌てて「おかあたま」と言うと、彼女の瞳が一瞬、炎のように燃え、その視線を私に合わせた。
「あなたの母親になるつもりはありません。二度とそんな風に呼ばないで」
そう言い捨てると、踵を返し「夕食は私の部屋に」とだけ言い残して部屋から出て行った。
私に背を向けた二人の母の関係など知る由もなく、母親というものに、謂れなき冷酷を見せた環も含めた女というものに嫌われる存在、それが私なのだと朧げに心に刻み付けられた。
その夜、私は大き過ぎるベッドの真ん中で眠ることもできずに座り込んでいた。
カーテンやベッドカバー、クッション等、その部屋のあらゆる物にふんだんに取り入れられたピンクやレースが私のために用意された部屋だと主張していた。
しかし、その部屋は私には広かった。
その家の住人達が様々に繰り広げた冷ややかな態度の止めに、広い部屋の中の大きなベッドで寝かされた私は襲いかかる孤独と不安で震えていた。
泣いていたかも知れない。
泣き疲れたからだろうか、諦めたからだろうか、次第に孤独や不安は消え去り何の感情もない空っぽの自分がいた。
呆けたようにベッドに座り込んでいると、ふと窓際に置かれたテーブルと椅子が目に入った。
私はブランケットにくるまりそのテーブルの下にもぐり込んだ。その狭い空間はぽかぽかと暖かで、私は自然と唇がほころんだ。
翌朝、目覚めるとベッドの上にいた。
あれは夢だったのかしらとテーブルの下を見ると、胸に抱いていたはずのウサギのぬいぐるみが寂しそうに転がっている。慌てて駆け寄り拾い上げると、昨夜の私の独りぼっちを全て吸い上げていたかのようにしっとりと冷え切っていた。
私は胸に抱きしめ「ありがと」とつぶやいた。
「よほどお気に入りなんですね。その白いウサギ」
私を着替えさせようと背後で待ち構えていたサチが呆れたように言う。
「白じゃないもん。これは桃色ウタギのナナちゃん」
「桃色…気を遣って白って言ったけどほぼ灰色よ。それ捨てて旦那様に新しいのを買っていただいたらいいのに」
私はサチを睨みつけたのだろう、サチは首をふってため息をつく。
「はいはい、ごめんなさい。そんな怖い目で見ないで下さい。睨み付ける目は旦那様そっくり…」
サチはニヤニヤと口の端に笑みを浮かべながら手早く私を着替えさせる。
「おはよう」の声とともに突然、扉が開くとそこに父が立っていた。
口角を上げ目を細めている父を見て、堪らず駆け寄った。
見上げる私の頭を父は優しくなでる。
「さあ、今日は朝食を食べに出かけよう。美しい庭のあるホテルだ。きっと蘭子は気に入るぞ」
父の優しい声が、穏やかな笑みが、大きな手が、胸の奥深くにポッカリと開いた穴を埋めていくような気がして私は幸せな笑顔になっていたと思う。
不意に父の笑顔が固まり訝るような目つきに変わる。
「なんだ? これは」
父は私が胸に抱いていたウサギのぬいぐるみを取り上げた。
あっと声が出たが、次の声が出なかった。
「ウサギか。随分年季が入ったぬいぐるみだなあ」
そう言って笑う父に対して、私の顔は戸惑い強張っていたのかもしれない。
父はサチにぬいぐるみを手渡し「処分して」と言うと、腰を曲げ私の目線に合わせた。
「お父様が新しい、もっと素敵なものを買ってあげるからね」
私は、取り上げられたぬいぐるみへの執着は一瞬にして消え去り、突然視界に入った父の正面から見た顔をマジマジと見つめていた。
目の前の父の目は見上げた時のような細い目ではなく、パッチリとした大きな瞳は優しくて穏やかな温もりに満ちていた。
大きなベッドの上で眠れない夜に押しつぶされそうになっていた自分の姿を思い出し、鼻がひくひくと震え大粒の涙が流れた。
父は私を抱き上げた。
「ぬいぐるみはいらない…」
私は父の耳元で囁いた。
「どこにもいかないで…」
そう絞り出すように言うと父の首にしがみついた。
「蘭子は泣き虫だな。お父様がいるからもう寂しくないぞ」
父の声が優しく私の耳に響いた。
使用人の誰もが私と目を合わせることを禁じられているかのように俯き距離を置いていたが、その暖炉は彼らの不自然な仕打ちを忘れさせるには十分だった。
絵本でしか見たことがない暖炉が目の前にあるのだから。
絵本の中の暖炉にはくべられた薪に暖かな炎が描かれて、今はきれいに片付けられている暖炉にもいつか絵本のような暖かな火が見られるのかしらと思うと、何もないただの煉瓦の箱も私をワクワクさせた。
興味津々で中を覗いていると、サチが寄ってきた。
「クリスマスにはここに靴下を飾るんですよ。大きなクリスマスツリーも飾り付けておくとサンタクロースが煙突から入ってきてツリーの下にプレゼントを置いてくれるんです」
今までサンタクロースから何ももらえなかったのは暖炉がなかったからだと納得して、今年のクリスマスを想像すると思わず笑みがこぼれた。
しかし、その笑顔も視界に入った女主人の表情を殺した能面のような顔に消される。
「サチ。大きな声で喋らないで」
低い声で視線も合わせず言う女主人に向かって、サチが深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。奥様」
ベッドに横たわっていた時は折れそうなほど弱々しく見えたが、私の前に立っている彼女はピクリとも動かない顔の肉と白いドレスから見える骨ばった鎖骨のせいか殺伐とした悲哀をまとっていた。
父から彼女のことを「お母様」と呼ぶように言われたことを思い出し、慌てて「おかあたま」と言うと、彼女の瞳が一瞬、炎のように燃え、その視線を私に合わせた。
「あなたの母親になるつもりはありません。二度とそんな風に呼ばないで」
そう言い捨てると、踵を返し「夕食は私の部屋に」とだけ言い残して部屋から出て行った。
私に背を向けた二人の母の関係など知る由もなく、母親というものに、謂れなき冷酷を見せた環も含めた女というものに嫌われる存在、それが私なのだと朧げに心に刻み付けられた。
その夜、私は大き過ぎるベッドの真ん中で眠ることもできずに座り込んでいた。
カーテンやベッドカバー、クッション等、その部屋のあらゆる物にふんだんに取り入れられたピンクやレースが私のために用意された部屋だと主張していた。
しかし、その部屋は私には広かった。
その家の住人達が様々に繰り広げた冷ややかな態度の止めに、広い部屋の中の大きなベッドで寝かされた私は襲いかかる孤独と不安で震えていた。
泣いていたかも知れない。
泣き疲れたからだろうか、諦めたからだろうか、次第に孤独や不安は消え去り何の感情もない空っぽの自分がいた。
呆けたようにベッドに座り込んでいると、ふと窓際に置かれたテーブルと椅子が目に入った。
私はブランケットにくるまりそのテーブルの下にもぐり込んだ。その狭い空間はぽかぽかと暖かで、私は自然と唇がほころんだ。
翌朝、目覚めるとベッドの上にいた。
あれは夢だったのかしらとテーブルの下を見ると、胸に抱いていたはずのウサギのぬいぐるみが寂しそうに転がっている。慌てて駆け寄り拾い上げると、昨夜の私の独りぼっちを全て吸い上げていたかのようにしっとりと冷え切っていた。
私は胸に抱きしめ「ありがと」とつぶやいた。
「よほどお気に入りなんですね。その白いウサギ」
私を着替えさせようと背後で待ち構えていたサチが呆れたように言う。
「白じゃないもん。これは桃色ウタギのナナちゃん」
「桃色…気を遣って白って言ったけどほぼ灰色よ。それ捨てて旦那様に新しいのを買っていただいたらいいのに」
私はサチを睨みつけたのだろう、サチは首をふってため息をつく。
「はいはい、ごめんなさい。そんな怖い目で見ないで下さい。睨み付ける目は旦那様そっくり…」
サチはニヤニヤと口の端に笑みを浮かべながら手早く私を着替えさせる。
「おはよう」の声とともに突然、扉が開くとそこに父が立っていた。
口角を上げ目を細めている父を見て、堪らず駆け寄った。
見上げる私の頭を父は優しくなでる。
「さあ、今日は朝食を食べに出かけよう。美しい庭のあるホテルだ。きっと蘭子は気に入るぞ」
父の優しい声が、穏やかな笑みが、大きな手が、胸の奥深くにポッカリと開いた穴を埋めていくような気がして私は幸せな笑顔になっていたと思う。
不意に父の笑顔が固まり訝るような目つきに変わる。
「なんだ? これは」
父は私が胸に抱いていたウサギのぬいぐるみを取り上げた。
あっと声が出たが、次の声が出なかった。
「ウサギか。随分年季が入ったぬいぐるみだなあ」
そう言って笑う父に対して、私の顔は戸惑い強張っていたのかもしれない。
父はサチにぬいぐるみを手渡し「処分して」と言うと、腰を曲げ私の目線に合わせた。
「お父様が新しい、もっと素敵なものを買ってあげるからね」
私は、取り上げられたぬいぐるみへの執着は一瞬にして消え去り、突然視界に入った父の正面から見た顔をマジマジと見つめていた。
目の前の父の目は見上げた時のような細い目ではなく、パッチリとした大きな瞳は優しくて穏やかな温もりに満ちていた。
大きなベッドの上で眠れない夜に押しつぶされそうになっていた自分の姿を思い出し、鼻がひくひくと震え大粒の涙が流れた。
父は私を抱き上げた。
「ぬいぐるみはいらない…」
私は父の耳元で囁いた。
「どこにもいかないで…」
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