9 / 160
第2章 空に纏(まつ)わりつく死の翳(かげ)
第8話 「ひろ君」と呼ぶひとに胸を痛め
しおりを挟む
夕食時、ムネさんは特に空さんについて何も言わなかった。だがここにいる三十七人の視線は矢のように僕の隣に座る空さんに突き刺さっていた。それはそうだろう、氏素性も知れぬ美人。それも飛び切りの美人が、どこの誰かもわからないままそこにいるのだから。そのせいか、食堂にいつものような賑わいは少なかった。37人の視線をものともしない空さんは、そのひどく華奢でやや小柄な体つきに似合わず夏野菜の冷製ポトフをお代わりしていた。その食欲にも驚いたが、大した度胸だとも思った。だが今の空さんはきっと周りのことになんか何の関心もないのだろう。そう僕は思った。
その反対側の隣に座る原沢は、空さんに対し不信と不安と苛立ちの視線をちらちらと送り続けていた。珍しく口数が少なく何かを恐れているかのようだった。
夕食後、僕たちが「夕のお勤め」と呼ぶ仕事が始まった。僕はこれに空さんを呼んだ。西巻先生が言っていたみたいになるべく誰かがそばにいる必要があった。それに暇を持て余すようなことがあってはいけない。なんでもいい。とにかく何かさせて気を紛らわせる必要があった。そうでないと何をするか判らない。そんな不吉な予感が、吐き気を催す春のそよ風となって僕の胸の中をいつまでも吹き抜けていた。
厩舎に行く途中で僕はわざと気さくな風を装って声をかける。
「お代わりするなんてすごいですね。あれ一皿で軽く1.5人前はあるんですよ」
「そう」
空さんは相変わらず不愛想に答える。その声の響きは相変わらず空虚だった。
「へええ、痩せの大食いって奴っすかね。それともあれっすか、ただ飯ならいくらでも入るとか」
「おい原沢よせっ」
「ふーんだ」
「……」
作業に入りながらも僕はまめに空さんに声をかけ続けた。少しでもこの人のことを知る必要がある。そこに彼女を救う手掛かりがあるかも知れない。
「いつもはどれくらい食べるんですか」
「最近は一日一食で何か軽く……」
「一食ですか? 軽く?」
僕は驚いた。
「おそばとか好きだからそんなの。もりそば一枚」
「えっ」
「だからウエストゆるゆる」
そりゃそうだ。何もしなくともその食生活だけで死ねるぞ。僕は怖くなった。
「さ、最近って、いつから?」
空さんは小首をかしげた。
「……ふた月?」
「だめですよちゃんと食べなきゃ」
「みんなに言われた」
空さんは他人事のように淡々と言う。
「そりゃそうですよ」
「でも、おなか減らないんだもの」
空さんはフォークで干草を一輪車に積む僕の手を眺めながら言った。
「ね、きみ、お名前は?」
「み、簑島裕樹です」
「うん、『ひろ君』か」
僕はびくっとした。そんな呼び方をしていたのは一人しかいなかった。僕は一瞬ひどいめまいに襲われる。苦く苦しい記憶が僕の胸をさいなむ。僕の胸に呪いのような黒い春風が吹き込んでくる。
「ちょっと少し馴れ馴れし過ぎないすかっ。あたしだってそんな風に言わないのにっ」
激怒する原沢を無視して空さんが僕を見つめる。
「ひろ君。……一応色々ありがと」
今日初めて空さんと目を合わせた。その死を予感させる生気のない眼で見つめられながら言われた言葉に、僕の心臓が大きく鳴った。甘酸っぱい言葉の響きの一方で僕は不安を覚え戸惑う。暗がりの中で空さんはほんの微かに微笑んだように見えたそれは不穏な笑みだった。
【次回】
第9話 死神に手を引かれる空
その反対側の隣に座る原沢は、空さんに対し不信と不安と苛立ちの視線をちらちらと送り続けていた。珍しく口数が少なく何かを恐れているかのようだった。
夕食後、僕たちが「夕のお勤め」と呼ぶ仕事が始まった。僕はこれに空さんを呼んだ。西巻先生が言っていたみたいになるべく誰かがそばにいる必要があった。それに暇を持て余すようなことがあってはいけない。なんでもいい。とにかく何かさせて気を紛らわせる必要があった。そうでないと何をするか判らない。そんな不吉な予感が、吐き気を催す春のそよ風となって僕の胸の中をいつまでも吹き抜けていた。
厩舎に行く途中で僕はわざと気さくな風を装って声をかける。
「お代わりするなんてすごいですね。あれ一皿で軽く1.5人前はあるんですよ」
「そう」
空さんは相変わらず不愛想に答える。その声の響きは相変わらず空虚だった。
「へええ、痩せの大食いって奴っすかね。それともあれっすか、ただ飯ならいくらでも入るとか」
「おい原沢よせっ」
「ふーんだ」
「……」
作業に入りながらも僕はまめに空さんに声をかけ続けた。少しでもこの人のことを知る必要がある。そこに彼女を救う手掛かりがあるかも知れない。
「いつもはどれくらい食べるんですか」
「最近は一日一食で何か軽く……」
「一食ですか? 軽く?」
僕は驚いた。
「おそばとか好きだからそんなの。もりそば一枚」
「えっ」
「だからウエストゆるゆる」
そりゃそうだ。何もしなくともその食生活だけで死ねるぞ。僕は怖くなった。
「さ、最近って、いつから?」
空さんは小首をかしげた。
「……ふた月?」
「だめですよちゃんと食べなきゃ」
「みんなに言われた」
空さんは他人事のように淡々と言う。
「そりゃそうですよ」
「でも、おなか減らないんだもの」
空さんはフォークで干草を一輪車に積む僕の手を眺めながら言った。
「ね、きみ、お名前は?」
「み、簑島裕樹です」
「うん、『ひろ君』か」
僕はびくっとした。そんな呼び方をしていたのは一人しかいなかった。僕は一瞬ひどいめまいに襲われる。苦く苦しい記憶が僕の胸をさいなむ。僕の胸に呪いのような黒い春風が吹き込んでくる。
「ちょっと少し馴れ馴れし過ぎないすかっ。あたしだってそんな風に言わないのにっ」
激怒する原沢を無視して空さんが僕を見つめる。
「ひろ君。……一応色々ありがと」
今日初めて空さんと目を合わせた。その死を予感させる生気のない眼で見つめられながら言われた言葉に、僕の心臓が大きく鳴った。甘酸っぱい言葉の響きの一方で僕は不安を覚え戸惑う。暗がりの中で空さんはほんの微かに微笑んだように見えたそれは不穏な笑みだった。
【次回】
第9話 死神に手を引かれる空
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
【完結】選ばないでください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
豪華で綺麗な人達の中に紛れ込んで、
偽物の私が、何食わぬ顔で座っている。
私が、この場所にいるべきでない事は、私が一番知っている。
私に資格がない事は、私が一番知っている。
なのに、誰よりも高貴な貴方は私だけを見つめてきて、
あの時のように微笑みかけてくる。
その微笑みに見とれながら、
私はこの場所から逃げたくて仕方がない。
貴方には私より、もっとふさわしい人がいる。
本当はこの場所に来れるはずがない私だけど、
貴方に出会う事ができた。
貴方の笑顔を目に焼き付けて、
私は、何事もなくここから解放される時を待つ。
だから、、、
お願い、、、
私の事は、、、、
選ばないでください。
8月26日~続編追加します。不定期更新。完結→連載へ設定変更となります。ご了承ください。
王妃となったアンゼリカ
わらびもち
恋愛
婚約者を責め立て鬱状態へと追い込んだ王太子。
そんな彼の新たな婚約者へと選ばれたグリフォン公爵家の息女アンゼリカ。
彼女は国王と王太子を相手にこう告げる。
「ひとつ条件を呑んで頂けるのでしたら、婚約をお受けしましょう」
※以前の作品『フランチェスカ王女の婿取り』『貴方といると、お茶が不味い』が先の恋愛小説大賞で奨励賞に選ばれました。
これもご投票頂いた皆様のおかげです! 本当にありがとうございました!
死なせてくれたらよかったのに
夕季 夕
現代文学
物心ついた頃から、私は死に対して恐怖心を抱いていた。生きる意味とはなにか、死んだらなにが残るのか。
しかし、そんな私は死を望んだ。けれどもそれは、悪いことですか?
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
【完結済み】だって私は妻ではなく、母親なのだから
鈴蘭
恋愛
結婚式の翌日、愛する夫からナターシャに告げられたのは、愛人がいて彼女は既に懐妊していると言う事実だった。
子はナターシャが産んだ事にする為、夫の許可が下りるまで、離れから出るなと言われ閉じ込められてしまう。
その離れに、夫は見向きもしないが、愛人は毎日嫌味を言いに来た。
幸せな結婚生活を夢見て嫁いで来た新妻には、あまりにも酷い仕打ちだった。
完結しました。
求婚書を返却してすみません!
有木珠乃
恋愛
余命三ヵ月を受けて死んだ私は、なぜかカティア・イーリィ伯爵令嬢の体に入っていた。それに慣れる間もなく、求婚書を送り返してしまう。その相手スティグ・ギルズ伯爵令息は、カティアの幼なじみであり。さらに政略結婚ではなく、ちゃんと互いに思い合う仲だった。知らなかったとはいえ送り返してしまうなんて! 転生早々やらかしてしまった!
しかも、カティアの性格を把握していないまま、スティグがやってきてしまい、又々やらかします。
その後も、色々と主人公がやらかす話です。
※カクヨム、ベリーズカフェ、エブリスタでも投稿しています。
初恋の幼馴染に再会しましたが、嫌われてしまったようなので、恋心を魔法で封印しようと思います【完結】
皇 翼
恋愛
「昔からそうだ。……お前を見ているとイライラする。俺はそんなお前が……嫌いだ」
幼馴染で私の初恋の彼――ゼルク=ディートヘルムから放たれたその言葉。元々彼から好かれているなんていう希望は捨てていたはずなのに、自分は彼の隣に居続けることが出来ないと分かっていた筈なのに、その言葉にこれ以上ない程の衝撃を受けている自分がいることに驚いた。
「な、によ……それ」
声が自然と震えるのが分かる。目頭も火が出そうなくらいに熱くて、今にも泣き出してしまいそうだ。でも絶対に泣きたくなんてない。それは私の意地もあるし、なによりもここで泣いたら、自分が今まで貫いてきたものが崩れてしまいそうで……。だから言ってしまった。
「私だって貴方なんて、――――嫌いよ。大っ嫌い」
******
以前この作品を書いていましたが、更新しない内に展開が自分で納得できなくなったため、大幅に内容を変えています。
タイトルの回収までは時間がかかります。
同期の御曹司様は浮気がお嫌い
秋葉なな
恋愛
付き合っている恋人が他の女と結婚して、相手がまさかの妊娠!?
不倫扱いされて会社に居場所がなくなり、ボロボロになった私を助けてくれたのは同期入社の御曹司様。
「君が辛そうなのは見ていられない。俺が守るから、そばで笑ってほしい」
強引に同居が始まって甘やかされています。
人生ボロボロOL × 財閥御曹司
甘い生活に突然元カレ不倫男が現れて心が乱される生活に逆戻り。
「俺と浮気して。二番目の男でもいいから君が欲しい」
表紙イラスト
ノーコピーライトガール様 @nocopyrightgirl
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる