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第2章 空に纏(まつ)わりつく死の翳(かげ)

第8話 「ひろ君」と呼ぶひとに胸を痛め

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 夕食時、ムネさんは特に空さんについて何も言わなかった。だがここにいる三十七人の視線は矢のように僕の隣に座る空さんに突き刺さっていた。それはそうだろう、氏素性も知れぬ美人。それも飛び切りの美人が、どこの誰かもわからないままそこにいるのだから。そのせいか、食堂にいつものような賑わいは少なかった。37人の視線をものともしない空さんは、そのひどく華奢でやや小柄な体つきに似合わず夏野菜の冷製ポトフをお代わりしていた。その食欲にも驚いたが、大した度胸だとも思った。だが今の空さんはきっと周りのことになんか何の関心もないのだろう。そう僕は思った。

 その反対側の隣に座る原沢は、空さんに対し不信と不安と苛立ちの視線をちらちらと送り続けていた。珍しく口数が少なく何かを恐れているかのようだった。

 夕食後、僕たちが「夕のお勤め」と呼ぶ仕事が始まった。僕はこれに空さんを呼んだ。西巻先生が言っていたみたいになるべく誰かがそばにいる必要があった。それに暇を持て余すようなことがあってはいけない。なんでもいい。とにかく何かさせて気を紛らわせる必要があった。そうでないと何をするか判らない。そんな不吉な予感が、吐き気を催す春のそよ風となって僕の胸の中をいつまでも吹き抜けていた。

 厩舎きゅうしゃに行く途中で僕はわざと気さくな風を装って声をかける。

「お代わりするなんてすごいですね。あれ一皿で軽く1.5人前はあるんですよ」

「そう」

 空さんは相変わらず不愛想に答える。その声の響きは相変わらず空虚くうきょだった。

「へええ、痩せの大食いって奴っすかね。それともあれっすか、ただ飯ならいくらでも入るとか」

「おい原沢よせっ」

「ふーんだ」

「……」

 作業に入りながらも僕はまめに空さんに声をかけ続けた。少しでもこの人のことを知る必要がある。そこに彼女を救う手掛かりがあるかも知れない。

「いつもはどれくらい食べるんですか」

「最近は一日一食で何か軽く……」

「一食ですか? 軽く?」

 僕は驚いた。

「おそばとか好きだからそんなの。もりそば一枚」

「えっ」

「だからウエストゆるゆる」

 そりゃそうだ。何もしなくともその食生活だけで死ねるぞ。僕は怖くなった。

「さ、最近って、いつから?」

 空さんは小首をかしげた。

「……ふた月?」

「だめですよちゃんと食べなきゃ」

「みんなに言われた」

 空さんは他人事のように淡々と言う。

「そりゃそうですよ」

「でも、おなか減らないんだもの」

 空さんはフォークで干草を一輪車に積む僕の手を眺めながら言った。

「ね、きみ、お名前は?」

「み、簑島みのしま裕樹ひろきです」

「うん、『ひろ君』か」

 僕はびくっとした。そんな呼び方をしていたのは一人しかいなかった。僕は一瞬ひどいめまいに襲われる。苦く苦しい記憶が僕の胸をさいなむ。僕の胸に呪いのような黒い春風が吹き込んでくる。

「ちょっと少し馴れ馴れし過ぎないすかっ。あたしだってそんな風に言わないのにっ」

 激怒する原沢を無視して空さんが僕を見つめる。

「ひろ君。……一応色々ありがと」

 今日初めて空さんと目を合わせた。その死を予感させる生気のない眼で見つめられながら言われた言葉に、僕の心臓が大きく鳴った。甘酸っぱい言葉の響きの一方で僕は不安を覚え戸惑う。暗がりの中で空さんはほんの微かに微笑んだように見えたそれは不穏な笑みだった。


【次回】
第9話 死神に手を引かれる空
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