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37.賞

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 三月二十一日、僕たちは朝から藍のアパートで待機していた。午前の配達が来たが、ガス料金の支払い延滞の通知とかそんなのばかりだった。僕たちはひどくがっかりした。夕方の配達が来る前に藍の部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開けた。缶ビールばっかりだ。それでもわずかにあった有り合わせのものを具にして、僕が藍の分も含めてインスタントラーメンを作る。藍はTVを見たり紙鍵盤を触ったり、僕は作曲の勉強をしつつ時々藍と話をしたりして、落ち着かないまま時間を潰していた。
 軽快な原付の音が聞こえ、ようやく午後の配達が来たのがわかる。僕たちは表に出て郵便局の配達員を待ち受けた。

 配達員が僕たちに直接郵便物を渡す。僕たちは走って部屋に戻り、冷たい古畳の上に座ってその中身を見た。あった、あったぞ、雪華コンクール運営事務局からの封筒。

「いいから早く開けろよ」

 じりじりと気をもんで気が気ではない僕。

「まあ焦るなって、金賞間違いなしなんだからさ」

 余裕の表情で舌なめずりしている藍。

「そ、そんなのわかんないだろ」

 などと騒ぎながら藍が封筒の封を切り黙って読む。

「どうだ? どうなんだ?」

 僕を焦らして喜んでる藍が小憎らしかった。

「ふふーん、なんだと思う?」

 その余裕の表情に僕も確信した。

「金賞か? 金賞なんだなっ?」

「はいココ読んでみよう!」

 藍が勢い良く開いて見せた通知にはくっきりと「金賞」の文字が記されていた。

「やった!」

「当たり前じゃん! やったよ奏輔っ!」

 藍が飛びついて僕に抱きついてきた。とっさのことに僕は避けられなかった。背中から畳の上に倒れる僕。僕にしがみ付いてきて乗っかった藍の軽くて痩せてるくせに柔らかい身体を感じ、僕は動揺した。
 藍はしがみ付いたまま僕の耳元で囁くように言う。

「あたし、こういう賞獲ったの初めて」

「そっ、そうか、おめでとう」

「みんな、みんなあんたのおかげ」

「大したことしてない」

「ううん、すっごい大したことしてくれたよ。ありがとね」

 しがみつく藍の腕に力が入る。

「どういたしまして」

「やっぱ、やっぱりあたしさ……」

「ん?」

 藍は突然起き上がった。僕に手を差し伸べる。僕はその手を掴み身体を起こす。得意げな顔の藍。

「よしっ、受賞祝いに飲みに行こっ」

「どこに?」

「サンシーロ」

「やだよそんな金ないからな?」

「大丈夫大丈夫あたしが出すから。サンシーロでもらった給料と賞金で飲む。お財布は全然痛まない。賢いでしょ?」

「いや全然。あぶく銭を失う典型パターンな気がする。普通に飲みに行こう」

 結局普通に飲み屋通りに出向いて適当に居酒屋を探すことになった。初めて入った大きな洋風居酒屋で、僕らは瓶ビールを注ぎ合いながら今回のコンクールの感想を述べあう。あの三番目の人のの革命のエチュードは彼女には難し過ぎたよね。ミスタッチが多すぎたもん。とか、ショパンの夜想曲第19番Op.72-1はやっぱり藍の演奏がずっと良かったよ、とか藍はやっぱり暗い曲が得意だよな、とか。藍はくそ度胸もあってすごい。とにかく僕はべた褒めした。そのたび僕の右手が嫉妬と羨望で鈍く疼く。
 藍は得意の絶頂と言った感じで僕の称賛を嬉しそうにかつ照れくさそうに聞いていた。その藍が口を開く。

「でもさ、やっぱり最後の曲がよかったんだよ」

「ん?」

「あんたの曲。『雪と風』」

「ああ、あれは藍の良さがいかんなく発揮されるよう、僕なりに考え抜いた曲だから」

「暗かったしね、ふふっ」

「そうそう。僕なんか本当に目の前に吹雪が吹き荒れたくらいだったぞ。あんなことは初めて藍の曲を聞いて以来だ」

「えっ、ほんとに?」

「ほんとほんと」

 ふっとお互い言葉が切れる。同時に物思いに耽るように視線を伏せる。

「ねえ」

 藍が僕の脚をつつきながらぼそっと言った。

「あたしとあんたならさ……」

「ん?」

「うん…… その、いいコンビになるんじゃないかと思ってさ……」

 藍とコンビか。とても刺激的で楽しそうだ。でもその分僕はいいように振り回されてクタクタになるだろうな。そう思うとちょっと苦笑いが出た。

「さあ、どうなんだろうな」

「ち」

 藍はちょっと強く僕の脚を蹴った。

 なんだか今日は藍と話している方が気分がいい気がする。この後バーに向かい、二人で音楽の話をしながら盛り上がる。すっかり夜も更け酔いも回ってきた頃、僕たちはようやく帰ることにした。藍をアパートまで送る。隣り合って歩くうち次第に口数も少なくなる。しばらく沈黙が続いた後で藍がなぜか恐る恐ると言った感じで口を開いた。

「あ、あの、さ……」

「なに?」

「今度またどこか行こ。その、ピアノの練習とかじゃなくて」

「ん? どこか行きたいところあるのか?」

「いや、今は特にないんだけどさ……」

 藍の言っていることが今一つつかめなかったが、それでも藍と一緒にいると楽しいことは確かだ。

「うん、まあいいんじゃないかな」

「ほんと?」

「もちろん」

 藍がふと不安そうな目で僕を見る。

「どうした?」

「……うん、いや、なんでもない」

 そう言うと藍はそれきり押し黙ったままだった。

 藍を送り自分の部屋に帰る。月に照らされ白い息を吐きながら僕は歩く。寒さも緩み始めた今、月明かりに照らされた僕は心穏やかに歩いていた。

◆次回
38.モスクワ
2022年5月8日 10:00 公開予定
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