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19.二手連弾
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その翌日、駅ピアノで藍はどうしても僕と連弾がしたいと言い出して僕を驚かせた。
「連弾って、僕は手が使えないんだぞ?」
「うん、だから左手だけでいいよ」
「左手だけ?」
「右手はあたし。月光の第三楽章弾いてみよ。あれすっごく良かったから。あたしの思い出の曲。ふふっ」
「いきなりなんて絶対無理だ」
「大丈夫。あたしが合わすから。絶対うまくいくって」
こうして急遽月光のよりによって第三楽章を二手連弾することになった。僕は不安でいっぱいだったが、ごく最初の部分だけもたついたものの、後は藍が僕に息を合わせ見事弾き切った。
弾き終わった時僕たちは爽快な気分に浸っていた。目配せして笑い合う。こんなに気持ちいい演奏はこの間やった幻想曲以来かも知れない。
気が付くと大きな拍手が沸き起こっていて僕たち二人は呆気にとられた。びっくりして周りを見回すと、ぐるりを若い女性を中心に囲まれていて、その中の三、四人が僕たちをスマホで撮影していた。色めき立って囁き合うこの人たちは一体何なのか。僕は気まずさでいっぱいだった。
僕はいそいそと席を立つ。この場を少しでも早く離れたかった。ところが僕の隣の藍はいきなり大げさに格式ばったお辞儀をする。小さな歓声が沸き上がっていくつものシャッター音が駅構内に鳴り響き、遠く離れた旅行客も不思議そうにこちらに目をやった。僕も藍につられて不器用な会釈をぴょこんとすると急いでピアノから離れた。
次の奏者は四十代の男性で、僕の聴いたことのない曲を弾いた。彼の演奏は正直上手とは言えず僕をいらだたせた。僕の手が治っていればこれとは比べ物にならない演奏を披露できるのに。
だがそれよりも気になるのはこの周りの人たちだ。一体何のためにここに集まってきているのか全く見当がつかない。
「やっぱり彼かっこよくない?」
「二人すごいお似合いだよね」
「彼女可愛いよねえ」
「今日はもう弾かないのかな」
「一日一曲ずつしかやらないみたい」
僕らを遠巻きにしながらひそひそ言葉を交わす人々の視線がむず痒い。そっと藍を見下ろしてみると涼しい顔で演奏を聴いている。これが泰然自若と言うやつか。藍らしいと言えば藍らしい。僕の視線に気づいたのか藍がこちらをちらっと横目で見上げる。その眼はどこかしら得意気だった。
もういい時間だったので今日は「五番館」に行くことにした。駅ピアノから離れる際、得意げな表情の藍が突然腕を僕の右腕に絡ませてくると、ギャラリーたちから小さなどよめきが起こった。
「おいよせよ、いてててて」
とっさに振りほどこうとしたが右手の甲が痛くて力が出せない。
「んふふふふ~」
藍は実に楽しそうな声を上げて僕の弱点を狙った卑怯な攻撃を止めようとしない。結局藍にしがみ付かれた僕は無様に身悶えしながら引きずられる。みっともなく歩く姿を見ず知らずの人々にさらけ出すことになった。これもまた撮られたんだろうか。
「五番館」でワンコインの五目海鮮丼を頬張る藍はこの上なくご機嫌で終始にやにやしっぱなしだった。
「うふふふ」
「なんだよ気持ち悪いな」
カウンターの隣にいる藍にしがみ付かれて不機嫌な僕は、やはりワンコインのイカ刺し丼を左手に箸を持ってぎこちなくすくう。
「だあってさ、お似合いだってお似合い~」
やに下がる男みたいな顔をする藍に僕は大きなため息をついた。
「なんでこんなことになったんだ、わけわからん」
「あっ、それはね、たぶんこれっ」
藍が珍しくどんぶりから目を離しスマホをいじる。
「あったあったこれこれ。見てみて」
それは動画投稿サイトの動画一覧画面だった。そこに並んでいる言葉を僕は読んでみる。
「超カップルでイく! フランクのヴァイオリンソナタイ長調 デュオ」再生回数327,632
「イケメンイケジョCP甘々連弾 リスト 愛の夢 弾いた」再生回数294,581
「Coolに見えた理系風イケメンの幻想即興曲が激アツだった」再生回数229,723
「清楚少女系カノジョの夜想曲19番が地獄のように暗い」再生回数413,372
僕はぽかんとなった。
「なんだ? なんなんだこれ?」
よく見てみるとそのサムネイルには間違いなく僕たちが映っていた。しかも結構くっきり。
「どっ、どういうことなんだこれっ!」
「どうもこうも、あたしたちの演奏誰かに勝手にUPされちゃってたみたいね」
涼しい顔で海鮮丼をかき込む藍
「かっ、勝手にこういうことしやがって。僕たちにだって肖像権というものがだなっ」
「いいじゃない、固いこと言わない言わない。あたしはなんだか嬉しいな。おじさまに近況を知らせる手間が省けるし。それに……」
にんまりと笑う藍。僕はどこか背筋が寒くなるものを感じた。
「ぐふっ、お似合い、お似合いだって、くっくっくっ……」
藍は顔を上気させて一人にやにや笑いが止まらない。僕は別に嬉しくはないけど。その時ふとある女性の顔が思い浮かんだ。彼女とお似合いって言われたなら僕は嬉しいと思うだろうか。間違いなく嬉しいと思うだろう。
僕はそんな意味のない妄想を止めてもっと現実的なことに思考を向けた。少しギャラリーが多すぎる気がする。以前のようにもっと閑散としていた方がよかった。これからはずっとこんな感じなんだろうか。あれでは集中できない。
「あんなに人がいたらなんだかやりにくくないか」
「なんで? あたしは大歓迎だけど。むしろもっとカモン」
すっかり浮かれている藍を見て、僕は頭が痛くなってきた。
嬉しそうな顔を崩さない藍とも話をしたけれど、結局僕自身しばらくピアノを弾けないこともあり、当分はこのままにするしかないということで話は終わり、そのまま解散した。
その夜冨久屋に入った途端、常連客でリタイア世代の田中さんがいきなり覚えたてのスマホを持って話しかけてくる。
「なあ、想ちゃんすごいね!」
田中さんが見せるスマホ動画には今日僕たちが月光を連弾していたところがしっかり映っていた。聞くところによると何でも田中さんのお孫さんが僕たちの動画を見つけてきて、地元の駅ピアノに男女二人組のすごい演奏家がいる、と少し興奮気味に言ってきたそうだ。
周りの常連客も田中さんのスマホを回し見したり自分のスマホで検索したりして僕と藍の動画が衆人のもとにさらされていく。
僕は一体どうしたらいいものか見当もつかず、席にも座らないでただ立ち尽くすしかなかった。
「なあに? どうされたんです?」
店の奥にいたすがちゃんが戻ってきた。僕は慌てた。
「あっいや大したことじゃないんです」
同時に田中さんのスマホを観ていた人たちから歓声が上がる。「この人美人だよねえ」「腕組んじゃってかわいい」「想ちゃんも隅に置けないねえ」「なに彼女想ちゃんの恋人?」
この言葉にすがちゃんが反応する。特に最後の「恋人」という言葉に反応したようだ。
「恋、人?」
すがちゃんの表情がほんの少し硬くなり、顔がほんの僅か青ざめるのがわかった。
「いやいやいやいや違います違います僕に恋人なんていません、いないんですっ本当にっ。いやいないと言うかいたらいいなっていうのはあって、あっ、でもそれってただの僕の願望で――」
僕は誰に向かうでもなく必死に弁明した。
青ざめたすがちゃんと目が合う。ほほ笑むすがちゃんは寂しそうな眼をしていた。その眼を見た僕は急に何も言えなくなってしまった。彼女は何をそんなに怖がっているのか、そしてどうしてそんなに寂しいのか、僕にはよくわからなかった
「いやいやこれだけの美人とこんだけイケメンな想ちゃんならお似合いじゃないか、なあ。ほれ見てみ」
田中さんがスマホをすがちゃんに見せる。
「あ、ええ。まあ、本当にかわいい方ですね。さすが想さん、隅に置けませんね」
この時のすがちゃんはもう青ざめても寂しそうな目もしていなかった。すっかりいつものすがちゃんだった。でもその硬い笑顔が作り笑いだと僕にはわかった。
僕が座った席の隣にいるベテラン自動車修理工の竹田さんがにやっと笑いながら小さな声で言う。
「そうだよな、お前はあれだもんな。一筋だもんな。あんな小娘に色目使ってる暇なんかねえよな」
僕の背中を力一杯叩く竹田さんに僕はコップ酒を零しそうになった。一瞬何のことかわからなかった。が、竹田さんの周りのお客さんも、みんな揃って訳知り顔で僕の方をにやにやしながら見ている。竹田さんが「頑張れよ」と微妙にいやらしい笑顔で言うと周りの人達もうんうんと頷いた。
そして口々に「ああ、俺があと四十年若かったらなあ」とか「三十年前の俺だったら絶対負けなかったのによお」とか「ばか言ってんじゃないよ、そんなあんたは三十年前結局あたししかいなかったじゃないか」とか「頑張れよ、応援してっから」とか口々に勝手なことを言っていた。これはもしかしてすがちゃんのことを言っているんだろうか。そんな気がして、僕は変な角度で頭を縦に振ってお辞儀をするほかなかった。
その後はいつもどおりの冨久屋に戻る。喧騒の中に身を置いた僕は傷のことがあって今更ながら思い出したように烏龍茶にした。
冨久屋の閉店後、僕はすがちゃんと二人っきりになって僕のアパートまで行く。今日はこの冬の最低気温を更新し、積雪量もそこそこある。東京育ちの僕では歩くのも足元がおぼつかない。
そんな僕をほほ笑みながら見つめるすがちゃんの視線と笑顔に僕はどきりとする。そして僕は言葉を選んで藍のことについて話した。藍と出会ったいきさつや、僕が怪我するまで二人でほぼ毎日駅ピアノを演奏していたことを説明する。すがちゃんは納得してくれたようだった。多分。声も表情も少し明るくなる。
僕のアパートに着くとすがちゃんはエプロンをつけ夜食を作ってくれた。
「はいっ、今日はワンタン野菜スープですよ」
つい、この間美味そうにワンタンメンを食べていた藍を思い出してしまう。今ここには似つかわしくない、夏に咲く花のような笑顔を浮かべていた藍を頭から振り払った。
「いつもすいません」
「いいんです、好きでやってるんだもの」
僕の右手に傷をつけた犯人、すがちゃんの前夫の行方は未だ杳として知れず、すがちゃんの付き添いは続いていた。
僕は熱々でぷるんぷるんのワンタンを口にしながらすがちゃんに言った。
「でももう僕のアパートに寄らずとも、すがちゃんのアパートまで直行すればいいだけの話で――」
自分のお椀を手にしたすがちゃんも言う。
「いいえ、これは付き添いのお礼みたいなものだから」
「でも夜遅くなりますし」
「いいえ、やらせて」
すがちゃんの目は決意に満ちていた。
「判りました。でも絶対に無理はなさらないで下さいね」
「ええ、全然無理なんてしてない。私結構頑丈なのよ」
すがちゃんはおどけた仕草をする。
「それにこんなことぐらいでは……」
ふと、視線を落としてすがちゃんは呟いた。
「こんなこと?」
「……なんでもない。ふふっ」
すがちゃんの表情は以前時折見せていた暗い影のようなものに少し似ていた。
二人で夜食を食べて身体が温まったら今度はすがちゃんのアパートまで行く。すがちゃんはいつものように別れ際に深くお辞儀をして部屋に帰って行った。その時の顔はいつも何か大きな罪を犯した罪人のようだった。
◆次回
20.すがちゃんとコンサート――違う世界
2022年4月20日 21:00 公開予定
「連弾って、僕は手が使えないんだぞ?」
「うん、だから左手だけでいいよ」
「左手だけ?」
「右手はあたし。月光の第三楽章弾いてみよ。あれすっごく良かったから。あたしの思い出の曲。ふふっ」
「いきなりなんて絶対無理だ」
「大丈夫。あたしが合わすから。絶対うまくいくって」
こうして急遽月光のよりによって第三楽章を二手連弾することになった。僕は不安でいっぱいだったが、ごく最初の部分だけもたついたものの、後は藍が僕に息を合わせ見事弾き切った。
弾き終わった時僕たちは爽快な気分に浸っていた。目配せして笑い合う。こんなに気持ちいい演奏はこの間やった幻想曲以来かも知れない。
気が付くと大きな拍手が沸き起こっていて僕たち二人は呆気にとられた。びっくりして周りを見回すと、ぐるりを若い女性を中心に囲まれていて、その中の三、四人が僕たちをスマホで撮影していた。色めき立って囁き合うこの人たちは一体何なのか。僕は気まずさでいっぱいだった。
僕はいそいそと席を立つ。この場を少しでも早く離れたかった。ところが僕の隣の藍はいきなり大げさに格式ばったお辞儀をする。小さな歓声が沸き上がっていくつものシャッター音が駅構内に鳴り響き、遠く離れた旅行客も不思議そうにこちらに目をやった。僕も藍につられて不器用な会釈をぴょこんとすると急いでピアノから離れた。
次の奏者は四十代の男性で、僕の聴いたことのない曲を弾いた。彼の演奏は正直上手とは言えず僕をいらだたせた。僕の手が治っていればこれとは比べ物にならない演奏を披露できるのに。
だがそれよりも気になるのはこの周りの人たちだ。一体何のためにここに集まってきているのか全く見当がつかない。
「やっぱり彼かっこよくない?」
「二人すごいお似合いだよね」
「彼女可愛いよねえ」
「今日はもう弾かないのかな」
「一日一曲ずつしかやらないみたい」
僕らを遠巻きにしながらひそひそ言葉を交わす人々の視線がむず痒い。そっと藍を見下ろしてみると涼しい顔で演奏を聴いている。これが泰然自若と言うやつか。藍らしいと言えば藍らしい。僕の視線に気づいたのか藍がこちらをちらっと横目で見上げる。その眼はどこかしら得意気だった。
もういい時間だったので今日は「五番館」に行くことにした。駅ピアノから離れる際、得意げな表情の藍が突然腕を僕の右腕に絡ませてくると、ギャラリーたちから小さなどよめきが起こった。
「おいよせよ、いてててて」
とっさに振りほどこうとしたが右手の甲が痛くて力が出せない。
「んふふふふ~」
藍は実に楽しそうな声を上げて僕の弱点を狙った卑怯な攻撃を止めようとしない。結局藍にしがみ付かれた僕は無様に身悶えしながら引きずられる。みっともなく歩く姿を見ず知らずの人々にさらけ出すことになった。これもまた撮られたんだろうか。
「五番館」でワンコインの五目海鮮丼を頬張る藍はこの上なくご機嫌で終始にやにやしっぱなしだった。
「うふふふ」
「なんだよ気持ち悪いな」
カウンターの隣にいる藍にしがみ付かれて不機嫌な僕は、やはりワンコインのイカ刺し丼を左手に箸を持ってぎこちなくすくう。
「だあってさ、お似合いだってお似合い~」
やに下がる男みたいな顔をする藍に僕は大きなため息をついた。
「なんでこんなことになったんだ、わけわからん」
「あっ、それはね、たぶんこれっ」
藍が珍しくどんぶりから目を離しスマホをいじる。
「あったあったこれこれ。見てみて」
それは動画投稿サイトの動画一覧画面だった。そこに並んでいる言葉を僕は読んでみる。
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僕はぽかんとなった。
「なんだ? なんなんだこれ?」
よく見てみるとそのサムネイルには間違いなく僕たちが映っていた。しかも結構くっきり。
「どっ、どういうことなんだこれっ!」
「どうもこうも、あたしたちの演奏誰かに勝手にUPされちゃってたみたいね」
涼しい顔で海鮮丼をかき込む藍
「かっ、勝手にこういうことしやがって。僕たちにだって肖像権というものがだなっ」
「いいじゃない、固いこと言わない言わない。あたしはなんだか嬉しいな。おじさまに近況を知らせる手間が省けるし。それに……」
にんまりと笑う藍。僕はどこか背筋が寒くなるものを感じた。
「ぐふっ、お似合い、お似合いだって、くっくっくっ……」
藍は顔を上気させて一人にやにや笑いが止まらない。僕は別に嬉しくはないけど。その時ふとある女性の顔が思い浮かんだ。彼女とお似合いって言われたなら僕は嬉しいと思うだろうか。間違いなく嬉しいと思うだろう。
僕はそんな意味のない妄想を止めてもっと現実的なことに思考を向けた。少しギャラリーが多すぎる気がする。以前のようにもっと閑散としていた方がよかった。これからはずっとこんな感じなんだろうか。あれでは集中できない。
「あんなに人がいたらなんだかやりにくくないか」
「なんで? あたしは大歓迎だけど。むしろもっとカモン」
すっかり浮かれている藍を見て、僕は頭が痛くなってきた。
嬉しそうな顔を崩さない藍とも話をしたけれど、結局僕自身しばらくピアノを弾けないこともあり、当分はこのままにするしかないということで話は終わり、そのまま解散した。
その夜冨久屋に入った途端、常連客でリタイア世代の田中さんがいきなり覚えたてのスマホを持って話しかけてくる。
「なあ、想ちゃんすごいね!」
田中さんが見せるスマホ動画には今日僕たちが月光を連弾していたところがしっかり映っていた。聞くところによると何でも田中さんのお孫さんが僕たちの動画を見つけてきて、地元の駅ピアノに男女二人組のすごい演奏家がいる、と少し興奮気味に言ってきたそうだ。
周りの常連客も田中さんのスマホを回し見したり自分のスマホで検索したりして僕と藍の動画が衆人のもとにさらされていく。
僕は一体どうしたらいいものか見当もつかず、席にも座らないでただ立ち尽くすしかなかった。
「なあに? どうされたんです?」
店の奥にいたすがちゃんが戻ってきた。僕は慌てた。
「あっいや大したことじゃないんです」
同時に田中さんのスマホを観ていた人たちから歓声が上がる。「この人美人だよねえ」「腕組んじゃってかわいい」「想ちゃんも隅に置けないねえ」「なに彼女想ちゃんの恋人?」
この言葉にすがちゃんが反応する。特に最後の「恋人」という言葉に反応したようだ。
「恋、人?」
すがちゃんの表情がほんの少し硬くなり、顔がほんの僅か青ざめるのがわかった。
「いやいやいやいや違います違います僕に恋人なんていません、いないんですっ本当にっ。いやいないと言うかいたらいいなっていうのはあって、あっ、でもそれってただの僕の願望で――」
僕は誰に向かうでもなく必死に弁明した。
青ざめたすがちゃんと目が合う。ほほ笑むすがちゃんは寂しそうな眼をしていた。その眼を見た僕は急に何も言えなくなってしまった。彼女は何をそんなに怖がっているのか、そしてどうしてそんなに寂しいのか、僕にはよくわからなかった
「いやいやこれだけの美人とこんだけイケメンな想ちゃんならお似合いじゃないか、なあ。ほれ見てみ」
田中さんがスマホをすがちゃんに見せる。
「あ、ええ。まあ、本当にかわいい方ですね。さすが想さん、隅に置けませんね」
この時のすがちゃんはもう青ざめても寂しそうな目もしていなかった。すっかりいつものすがちゃんだった。でもその硬い笑顔が作り笑いだと僕にはわかった。
僕が座った席の隣にいるベテラン自動車修理工の竹田さんがにやっと笑いながら小さな声で言う。
「そうだよな、お前はあれだもんな。一筋だもんな。あんな小娘に色目使ってる暇なんかねえよな」
僕の背中を力一杯叩く竹田さんに僕はコップ酒を零しそうになった。一瞬何のことかわからなかった。が、竹田さんの周りのお客さんも、みんな揃って訳知り顔で僕の方をにやにやしながら見ている。竹田さんが「頑張れよ」と微妙にいやらしい笑顔で言うと周りの人達もうんうんと頷いた。
そして口々に「ああ、俺があと四十年若かったらなあ」とか「三十年前の俺だったら絶対負けなかったのによお」とか「ばか言ってんじゃないよ、そんなあんたは三十年前結局あたししかいなかったじゃないか」とか「頑張れよ、応援してっから」とか口々に勝手なことを言っていた。これはもしかしてすがちゃんのことを言っているんだろうか。そんな気がして、僕は変な角度で頭を縦に振ってお辞儀をするほかなかった。
その後はいつもどおりの冨久屋に戻る。喧騒の中に身を置いた僕は傷のことがあって今更ながら思い出したように烏龍茶にした。
冨久屋の閉店後、僕はすがちゃんと二人っきりになって僕のアパートまで行く。今日はこの冬の最低気温を更新し、積雪量もそこそこある。東京育ちの僕では歩くのも足元がおぼつかない。
そんな僕をほほ笑みながら見つめるすがちゃんの視線と笑顔に僕はどきりとする。そして僕は言葉を選んで藍のことについて話した。藍と出会ったいきさつや、僕が怪我するまで二人でほぼ毎日駅ピアノを演奏していたことを説明する。すがちゃんは納得してくれたようだった。多分。声も表情も少し明るくなる。
僕のアパートに着くとすがちゃんはエプロンをつけ夜食を作ってくれた。
「はいっ、今日はワンタン野菜スープですよ」
つい、この間美味そうにワンタンメンを食べていた藍を思い出してしまう。今ここには似つかわしくない、夏に咲く花のような笑顔を浮かべていた藍を頭から振り払った。
「いつもすいません」
「いいんです、好きでやってるんだもの」
僕の右手に傷をつけた犯人、すがちゃんの前夫の行方は未だ杳として知れず、すがちゃんの付き添いは続いていた。
僕は熱々でぷるんぷるんのワンタンを口にしながらすがちゃんに言った。
「でももう僕のアパートに寄らずとも、すがちゃんのアパートまで直行すればいいだけの話で――」
自分のお椀を手にしたすがちゃんも言う。
「いいえ、これは付き添いのお礼みたいなものだから」
「でも夜遅くなりますし」
「いいえ、やらせて」
すがちゃんの目は決意に満ちていた。
「判りました。でも絶対に無理はなさらないで下さいね」
「ええ、全然無理なんてしてない。私結構頑丈なのよ」
すがちゃんはおどけた仕草をする。
「それにこんなことぐらいでは……」
ふと、視線を落としてすがちゃんは呟いた。
「こんなこと?」
「……なんでもない。ふふっ」
すがちゃんの表情は以前時折見せていた暗い影のようなものに少し似ていた。
二人で夜食を食べて身体が温まったら今度はすがちゃんのアパートまで行く。すがちゃんはいつものように別れ際に深くお辞儀をして部屋に帰って行った。その時の顔はいつも何か大きな罪を犯した罪人のようだった。
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