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3.すがちゃんとピアノ――ジムノペディ
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翌日、午前中で今日のバイトを終えた僕は相変わらず空腹と暇、そして寒い財布を抱え行く当てもない。結局駅構内に足を向けるしかなかった。単なる暇つぶしのつもりだった。
ピアノのことなんかどうでもよかった。いや、頭の中になかった。やはり僕は音楽を、ピアノを、捨てたのだ。そう胸に刻み込むようにしながらも僕は、駅ピアノのあるコンコースに向かって歩みを進めた。
でも、音楽もピアノももうどうでもいいと思っていたなら、僕はなぜ駅に向かったんだろう。そう思った時、昨日初めて会った彼女の大きくてきれいな瞳が頭に浮かんだ。
駅ピアノに行ってみたものの藍はそこにはいない。話が違う、と僕は少しいらだった。なにも弾かずに駅を出る。
僕は一人活力亭ラーメンで塩ラーメンを食ったが、そこにも藍はいなかった。きっと忙しいのだろう、と思い直して藍のことは忘れようとした。今日はこのあと半日ずっと空いている僕はどうしようもなく暇を持て余していた。
あまりにもすることがない。
仕方がない、溜息を吐いて暇つぶしに一曲くらい弾いてやろうかと思った。それに、昨日弾いた月光ソナタの第三楽章。あれを弾き切った瞬間、ほんの一瞬だけだけど僕は爽快感を感じたことを思い出した。僕はなぜかそんなことを思い起こしていた。音楽にはすっかり嫌気がさしていたはずなのに、どうしてそんな気分になれたのか不思議だった。だがもう一度でいい、僕は無性にそんな気分に浸りたくなっていた。
午後二時半過ぎ、僕はピアノ椅子に座り集中する。この弾く直前の緊張感。そう言えば僕はこの緊張感も好きだったことを思い出す。そして僕にしては珍しくゆったりとして穏やかな曲調の曲を弾いてみた。ゆっくりと、苦しむように弾く。
この苦しみが心地よい。
僕自身の心は不思議と穏やかになっていった。
演奏を終え席を立つ。いつも通りのまばらな拍手とは別にひときわ盛大に手を叩く音が聞こえた。そちらの方を振り向く。拍手の主はしゃれた分厚いコートを着て大きな荷物をいくつも抱えたすがちゃんだった。なんだか古代の巨大ペンギンのように見えなくもない。
称賛の眼差しで鳶色の瞳をきらきらと輝かせるすがちゃん。僕はなんだかひどく恥ずかしいことをしたところを見とがめられたような気がしてそそくさと逃げ出した。
荷物を抱えたすがちゃんが大声で何か言いながら僕を追いかけ追いつきぎゅっと袖をつかむ。見た目はペンギンなのにすごい速さだ。すがちゃんの息が荒い。よほど息せき切って走ってきたのだろう。
「もうっ、逃げることないじゃないですか。ひどい」
息を切らせふくれっ面をしたすがちゃんを見て僕は少し申し訳ない気持ちになった。
「す、すいません。追いかけられたのでつい」
「まあっ、私が悪かったんですか?」
「あ、いや、すいません。僕のせいです」
「ふふっ。素直でよろしい」
すがちゃんは息を整えながら、僕を子ども扱いするような言い方をして、少しおどけた顔をする。
「でもなんで追いかけてなんて」
「もちろん素晴らしい演奏をありがとうございますって言おうと思って。とってもきれいな曲。あれはなんて言うんですか」
「エリック・サティのジムノペディ、1番と3番です」
「ジムノペディ。なんだか名前の響きまできれいなんですね」
「曲調もロマンチックですね」
「ほんとそうね、ロマンチック。想さんってとってもピアノお上手なんですねえ。私感激しました」
「いやいや、お耳汚しで本当にお恥ずかしい限りです」
これからもここへ来るかも知れないことを言おうと思ったが、そうすると藍といるところを見られてしまいそうだ。下手をすると鉢合わせだ。なぜかは分からないがそれだけは絶対に避けたかった。藍のことですがちゃんに変な誤解を生みたくなかった。僕は話題を変えた。
「どうしたんですか、その荷物」
「今日明日の食材。車を修理に出していて。よいしょ。七重浜にいいお肉屋さんがあるんです。でもご主人、お年な上に膝が悪いのでなかなか配送がままならなくて。よいしょ」
「あ、僕持ちますよ」
「あらだめですよ、大事なお客さまに荷物持ちさせるだなんて」
「今はお客さんじゃないからいいですよね」
と僕は笑いながら強引に大きなエコバッグを一つ取り上げる。
「もう……」
そう言って苦笑いしたすがちゃんは観念したようで、僕の言う通り荷物の殆どを僕に引き渡した。これ、めちゃくちゃ重いぞ。
冨久屋まで駅から歩いて十分少々。僕たちは冷たい北風にあおられながら和やかに談笑する。こうして店の外ですがちゃんと笑いながら話せるなんて。寒さなんて忘れるくらい嬉しくなった僕は、ちょっとしたデート気分を味わった。すがちゃんといると本当に心が和んで暖かくなる。
開店前の冨久屋に入るのはこれが初めてだった。すがちゃんは店に着くなり仕込み中の長さんに「長さん長さん、想さんすっごくピアノが上手なんですよ! 私感動しちゃって!」と興奮気味に言う。いつものどこかしら陰のある表情と違って明るいすがちゃんを見た長さんは、一瞬少し驚いた顔をしたものの「そうですか、よかったですね」と不愛想に答える。しかしその眼はどこか優しく笑っていたようにみえた。
その後も駅での出来事の一部始終を目を輝かせて歌うように語るすがちゃん。その笑顔と声は本当に可愛らしくていつまでも見ていたい。またすがちゃんのために演奏するくらいならしてもいいかな、とそう思った。
◆次回
4.暗雲
2022年4月4日 21:00 公開予定
ピアノのことなんかどうでもよかった。いや、頭の中になかった。やはり僕は音楽を、ピアノを、捨てたのだ。そう胸に刻み込むようにしながらも僕は、駅ピアノのあるコンコースに向かって歩みを進めた。
でも、音楽もピアノももうどうでもいいと思っていたなら、僕はなぜ駅に向かったんだろう。そう思った時、昨日初めて会った彼女の大きくてきれいな瞳が頭に浮かんだ。
駅ピアノに行ってみたものの藍はそこにはいない。話が違う、と僕は少しいらだった。なにも弾かずに駅を出る。
僕は一人活力亭ラーメンで塩ラーメンを食ったが、そこにも藍はいなかった。きっと忙しいのだろう、と思い直して藍のことは忘れようとした。今日はこのあと半日ずっと空いている僕はどうしようもなく暇を持て余していた。
あまりにもすることがない。
仕方がない、溜息を吐いて暇つぶしに一曲くらい弾いてやろうかと思った。それに、昨日弾いた月光ソナタの第三楽章。あれを弾き切った瞬間、ほんの一瞬だけだけど僕は爽快感を感じたことを思い出した。僕はなぜかそんなことを思い起こしていた。音楽にはすっかり嫌気がさしていたはずなのに、どうしてそんな気分になれたのか不思議だった。だがもう一度でいい、僕は無性にそんな気分に浸りたくなっていた。
午後二時半過ぎ、僕はピアノ椅子に座り集中する。この弾く直前の緊張感。そう言えば僕はこの緊張感も好きだったことを思い出す。そして僕にしては珍しくゆったりとして穏やかな曲調の曲を弾いてみた。ゆっくりと、苦しむように弾く。
この苦しみが心地よい。
僕自身の心は不思議と穏やかになっていった。
演奏を終え席を立つ。いつも通りのまばらな拍手とは別にひときわ盛大に手を叩く音が聞こえた。そちらの方を振り向く。拍手の主はしゃれた分厚いコートを着て大きな荷物をいくつも抱えたすがちゃんだった。なんだか古代の巨大ペンギンのように見えなくもない。
称賛の眼差しで鳶色の瞳をきらきらと輝かせるすがちゃん。僕はなんだかひどく恥ずかしいことをしたところを見とがめられたような気がしてそそくさと逃げ出した。
荷物を抱えたすがちゃんが大声で何か言いながら僕を追いかけ追いつきぎゅっと袖をつかむ。見た目はペンギンなのにすごい速さだ。すがちゃんの息が荒い。よほど息せき切って走ってきたのだろう。
「もうっ、逃げることないじゃないですか。ひどい」
息を切らせふくれっ面をしたすがちゃんを見て僕は少し申し訳ない気持ちになった。
「す、すいません。追いかけられたのでつい」
「まあっ、私が悪かったんですか?」
「あ、いや、すいません。僕のせいです」
「ふふっ。素直でよろしい」
すがちゃんは息を整えながら、僕を子ども扱いするような言い方をして、少しおどけた顔をする。
「でもなんで追いかけてなんて」
「もちろん素晴らしい演奏をありがとうございますって言おうと思って。とってもきれいな曲。あれはなんて言うんですか」
「エリック・サティのジムノペディ、1番と3番です」
「ジムノペディ。なんだか名前の響きまできれいなんですね」
「曲調もロマンチックですね」
「ほんとそうね、ロマンチック。想さんってとってもピアノお上手なんですねえ。私感激しました」
「いやいや、お耳汚しで本当にお恥ずかしい限りです」
これからもここへ来るかも知れないことを言おうと思ったが、そうすると藍といるところを見られてしまいそうだ。下手をすると鉢合わせだ。なぜかは分からないがそれだけは絶対に避けたかった。藍のことですがちゃんに変な誤解を生みたくなかった。僕は話題を変えた。
「どうしたんですか、その荷物」
「今日明日の食材。車を修理に出していて。よいしょ。七重浜にいいお肉屋さんがあるんです。でもご主人、お年な上に膝が悪いのでなかなか配送がままならなくて。よいしょ」
「あ、僕持ちますよ」
「あらだめですよ、大事なお客さまに荷物持ちさせるだなんて」
「今はお客さんじゃないからいいですよね」
と僕は笑いながら強引に大きなエコバッグを一つ取り上げる。
「もう……」
そう言って苦笑いしたすがちゃんは観念したようで、僕の言う通り荷物の殆どを僕に引き渡した。これ、めちゃくちゃ重いぞ。
冨久屋まで駅から歩いて十分少々。僕たちは冷たい北風にあおられながら和やかに談笑する。こうして店の外ですがちゃんと笑いながら話せるなんて。寒さなんて忘れるくらい嬉しくなった僕は、ちょっとしたデート気分を味わった。すがちゃんといると本当に心が和んで暖かくなる。
開店前の冨久屋に入るのはこれが初めてだった。すがちゃんは店に着くなり仕込み中の長さんに「長さん長さん、想さんすっごくピアノが上手なんですよ! 私感動しちゃって!」と興奮気味に言う。いつものどこかしら陰のある表情と違って明るいすがちゃんを見た長さんは、一瞬少し驚いた顔をしたものの「そうですか、よかったですね」と不愛想に答える。しかしその眼はどこか優しく笑っていたようにみえた。
その後も駅での出来事の一部始終を目を輝かせて歌うように語るすがちゃん。その笑顔と声は本当に可愛らしくていつまでも見ていたい。またすがちゃんのために演奏するくらいならしてもいいかな、とそう思った。
◆次回
4.暗雲
2022年4月4日 21:00 公開予定
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