茜川の柿の木――姉と僕の風景、祈りの日々

永倉圭夏

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第28話 早春の東京(後編)

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 僕が目覚めたのは六時を少し回ったころだった。
 姉は隣のベッドですやすや寝ていて一安心した。僕はざっとシャワーを浴びて洋服を着る。
 その頃には姉も目覚めていた。姉にしてはずいぶん早起きだ。姉は東京に来るときに着ていたおしゃれなワンピースに着替える。レストランの開店に合わせ行ってみると、バイキングをやっていた。大はしゃぎの姉。うんざりする僕。
 僕はトレーやお皿を持って姉の後をついて回り、杖を突く姉の指示通りに食べ物を盛っていく。トースト、スクランブルエッグ、ハム、ベーコン、チーズ、コーンスープ、白身魚のフライ、唐揚げ、ピラフ…… 予想通り。姉一人で食いきれる量じゃない。
 姉の食事を取った後、僕はご飯とお味噌汁とお漬物だけ取る。

 驚く姉をしり目に僕は、姉が食べきれなくなるのを待つ。僕の予想通り姉は瞬く間に満腹になった。結局トーストとスクランブルエッグと白身魚のフライとコーンスープしか食べられなかった。
 僕は姉にバイキングで取った食べ物を残すのはマナー違反であると諭し、残りを僕が引き受けて平らげた。さらに僕は自分用に焼きサバとか海苔とか煮ものとか納豆とかご飯のお代わりとか、とにかく和風でそろえて、これもしっかりきれいに食べた。

 姉はすっかりあきれ顔だったけど、美味しいんだよねバイキングってなぜか。そんな呆れている姉だって、いつもより少しは多く食べられたみたいだし、よかったんじゃないかな。

 レストランから二人で部屋に戻る。僕はスマホで新幹線を含む電車の経路検索をしていた。姉もタブレットで何やら一生懸命検索している。

「じゃ、姉さん九時――」

「どっかいこ」

 僕は意表を突かれた。

「は?」

 と、そう言うのが精いっぱいだった。

 姉はにこにこしながら

「だってぎりぎりの時間の新幹線に乗ることにして、その前に東京観光するの」

「と、東京観光って…… どこ?」

「ん? まだ考えてない」

「だめだよそんな……」

「だめじゃないよ」

 僕は言葉を失った。

 東京観光。姉と二人っきりで東京観光。

 魅力的な言葉だ。
 だけど親父とおふくろが心配するにちがいない。ただ、考えてみれば昨日した電話では帰宅の時間を告げていない。だから姉が言ったようにギリギリの時間の新幹線に乗ればいい。親父とおふくろにはその時間の切符しか取れなかったと言えばいい。

 そんなことをぐるぐると考えていると、姉が少しはにかんだような上目づかいで僕に向かってつぶやいた。

「ね、今日一日だけ……」

「え?」

「……ん、何でもない」

 何か思い直したのか、姉は途中で言葉を切った。
 僕は改めてどうしようか考えていた。
 今はまだ親父もおふくろも大忙しだろうし、僕たちがいるとむしろ邪魔なんじゃないか。こちらからの電話に出なければ通話アプリにメッセージだけ送って事後承諾の形を取ればいい。
 なんってったって完全に二人っきりで観光する最初で最後の機会かもしれない。この機会を大切にすべきだ。
そして僕の腹も決まった。

「よし行こう」

 姉は杖を放り出して黙って僕にしがみ付いてきた。

「ありがとゆーくんっ」

 僕はそっと姉を抱きとめる。ここには誰もいない。僕たちを見とがめる人たちなんていない。そう思うと僕も少しタガが外れてしまっていたのかも知れない。
 僕は優しく姉に言った。

「こんな機会いつあるかわからないもんね」

 姉は僕にきゅっとしがみ付いてつぶやく。

「……うん」

「で、どこ行きたい?」

「遊園地!」

「だめ」

 笑顔で答えた姉を僕は一蹴した。

「え、なんで」

 姉は不服そうだ。

「アトラクション一つ乗るのに何時間も並ぶんだよ。しかも今は春休みだからもっと混む。待っているだけで体力を使いきっちゃうよ」

「う……」

 さすがの姉も僕の言葉には反論できないようだ。
 このあと姉と僕は相談した結果、タワーに行ってみることにした。世界一高いタワーだ。その後時間があればその時どうするか考えよう。

 まずは電車を乗り継いでタワーまで行く。東京はどうしてこんなに電車が走っているんだろう。ややこしくてしかたない。それと階段。階段が本当に多い。大抵の場合エレベーターがあるけれど、遠くにあったりしてそれを探すだけでも結構な手間だ。東京は意外と住みにくい街だと、僕はそう思った。
 僕と姉はああでもないこうでもないと言いながらようやくタワーのある駅で電車を降りた。そこからすぐエレベーターでタワーを上がる。タワーは何階層もあって、どこも楽しかった。姉は床が透明なフロアが特に気に入った様だった。僕たち二人ははしゃぎながら展望台を一周する。高いところに上がるとどうしてこうも開放的になるんだろう。珍しく僕の方から手を繋いで青空と遠い山々を眺めていた。
 その後は水族館に行く。考えてみれば水族館なんて初めての経験だ。姉と僕、二人でわくわくしながら薄暗い水族館の中を歩く。姉が杖を突いていない方の腕で僕の腕にしがみついてきて、いたずらっぽい目をする。僕も今日ばかりは姉とのデートを楽しもうと思い、姉に目配せをする。そうしてそのままじっとして大水槽を眺めていた。
 小さな窓から水槽内を覗くときなんかは、僕の方から姉の肩を抱き寄せ、顔がくっつきそうなほど寄せ合った。姉は驚いた顔をしたが、すぐ嬉しそうに僕にぴったりとくっついてきた。まるでゆったりと飛んでいるかのように泳ぐ魚たちがきれいだった。
 でもそれ以上に時折盗み見た姉の横顔の方がずっときれいだった。僕はこれから先、姉以上に魅力的な女性に出会えるのだろうか。もし出会えなくてもいいような気がする。姉さえいれば僕は何でもできそうな気がする。それでいい。だけどそう思った瞬間、姉とは全く違うタイプの委員長のことが突然頭に浮かんだ。僕は彼女のことを慌てて頭から打ち消し、姉のことだけを考えるようにした。

 姉も僕も水族館でロマンチックな海の世界を満喫したが、まだまだ時間がある。
 このすぐそばにプラネタリウムがあるようだ。姉にそのことを言うと一も二もなくそこに行きたいと言う。僕たちは早速プラネタリウムへ急いだ。
 二人で受付まで行き券を購入しようとする。姉はじーっと上の方にある料金表を眺めていた。僕が券を購入しようとするその時姉が口を挟んでくる。

「ムーンシート下さいっ」

 僕は何のことやらわからなかったが、やたら高い。まあ、お財布にはまだ余裕あるからいいけど。限定五席しかないそのシートは無事購入できたので、僕たちはそこに向かう。
 見て驚いたがいやこれ完全にカップル向けじゃん。気が大きくなっていた僕でもさすがにあせった。円形のふかふかしたソファに大きなクッションまである。姉はさっさと腰かけ、ご満悦の様子で僕を手招きした。僕も腹をくくって姉の反対側に腰かけると、早速姉が僕の腕に自分の腕を絡みつかせ嬉しそうな表情を見せた。そして頭を僕の肩に乗っける。

「ねえ、ほんとにデートみたいだね」

 その姉のささやきに僕は無言で姉の手を握った。

 プラネタリウムの上映は「神話と星座」といったオーソドックスなものだったと思う。でも僕は、僕と身を寄せ合っていた姉の感触のことしか頭になくて、プラネタリウムのことはほとんど覚えていない。
 僕に彼女が出来たら僕はこんな風に水族館に行くのだろうか。プラネタリウムに行くのだろうか。行ったとしても今この時のように、どきどきしたり甘い苦しみが僕の胸に充満したりするのだろうか。
 僕にはそうは思えなかった。

 プラネタリウムを見終わって僕たちは無言でそこを出た。姉が僕の手をきゅっと握っているが、僕もその手を振りほどくつもりはなかった。
 まだ時間は充分にある。がそこで僕たちはお昼に何も食べていなかったことに気が付いた。
 どうせならここでしか食べられないものを、と思い浅草にあるもんじゃ焼き屋さんを目指す。
 お店の人に焼いてもらってよかった。あれ、僕たちじゃ絶対失敗してたと思う。でも姉がやたらと「あーん」させてくるのは恥ずかしくて困ったけど。

 その後は浅草寺へ。混み合っているので緊張する。姉が誰かと衝突して転ばないか細心の気を配る。でも結局はまた姉の肩を抱くことになったのだけれど。その時の姉といったらめちゃくちゃ嬉しそうでめちゃくちゃ照れ臭そうだった。仲見世で親父とおふくろへのお土産を買う。親父には「気合」と書かれたTシャツを、おふくろには水中花を。仲見世を抜け浅草寺の門を通り本堂へたどり着く。僕たちはここでお参りをした。僕の願い事は無論姉の病気が治ること。親父とおふくろには悪いけど僕にとってこれ以上重要な祈りはない。そして、もう少しでいい、姉とこうしていることができたら。姉はいつものように長々と色々お祈りをしている。

 お参りが終わり親父とおふくろにお守りを買ったら、僕たちの小旅行、いや、デートはおしまい。そろそろ新幹線の時間が近づいている。

 そう言うのは僕もつらいけど、言われる姉もつらいだろう。

「姉さん、もう帰らないと」

「……うん」

 と言ったっきりうつむいて何も言わない。僕が駅に行こうと歩みを進めると、そっと僕の服の袖をつまんできた。僕は何も言わずその姉の手を握った。

「あ……」

「デートはまだ終わってないよ」

「あ、うん……」

 僕がそう言ってもまだ姉の気は晴れないようだった。

 新幹線のグリーン車に静かに座る姉は今朝とは打って変わっておとなしい。窓の外を眺めて溜息を吐く。

 僕たちはほとんど会話もなく駅を降りた。
 駅前のラーメン屋で二人静かにラーメンを食べてからバスに揺られて家に帰る。

 バスで隣り合って乗ってる間も僕たちはほとんど無言だった。
 ただ、

「ゆーくん今日は本当にありがとうね。すごい楽しかった」

 と姉は寂し気に一言だけ言った。

 家では親父もおふくろも疲れた様子だったが、それ以上に僕たちのことを心配していたようだった。お土産を渡すと土産話も早々に姉は疲れたと言って風呂に入って寝た。

 確かに僕も少し疲れていたので早く寝ることにした。今回の二泊旅行は色々な初めてがいっぱいあってすごく楽しかった。そう思いながらベッドに横になると、なぜか水族館で盗み見た姉の横顔や、プラネタリウムで身を寄せ合って星を眺めていた時の感触が頭の中でぐるぐる回り出す。
 僕は姉の記憶に飲み込まれるような感覚を覚えながらゆっくりと眠りに落ちていった。
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