茜川の柿の木――姉と僕の風景、祈りの日々

永倉圭夏

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第3話 二人のゲレンデ 

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 うちから近い小さな山中にリフトが二機しかない小さな小さな公営スキー場がある。周辺住民のために作られたものだが、訪れる人がさっぱりなく、建設した役場の責任が問われている。それはともかく、今年は例年と違いそれなりの積雪があったのでいい感じに滑れるだろう。僕は小さい時に姉とそこで滑っていた頃を思い出していた。その時の姉はまだ病を発症していなくて、僕たちは暗くなるまで二人っきりで遊んだ。懐かしくて大切な思い出だ。

 近頃姉の体調も急に上がってきたので、そこに姉を連れて言ってもいいか親に訊いてみた。僕としては姉と二人っきりでスキーをしたかったけれど、そこは親父とおふくろの判断に任せるしかない。
 でも僕はなんでその時姉と二人っきりで行きたいって思ったんだろう。その時の僕はあまり深く考えていなかった。
 親父とおふくろはしかめっ面しい顔をして考え込んでいた。
 そして親父が、お前ら二人で行くんならいいと言ってくれた。俺たちは今どうしても手が空かない。車で連れてってやるから遊んでこい。時間が来たらまた車で迎えに行ってやる。とも言った。

 僕はもう大はしゃぎで、姉の部屋に行った。

「ねえ、姉さん外行きたくない?」

 ベッドに寝たままでタブレットをいじる姉は言う。

「お? そりゃたまには行きたいさ。柿の木とか」

「そうじゃなくてもっと遠いとこ」

「もっと遠いとこ? ホオズキ市の龍寧りゅうねいじ寺とか」

「もっと遠く!」

「え? わかんない。どこ? 海?」

 姉は身を起こして怪訝そうな顔をする。

「スキー場! あのちっちゃな!」

 姉はびっくりした表情を見せる。

「さすがにあそこは行かせてくれないでしょ。確かにスキーなんてもうずっと行ってないけどさ」

「親父とおふくろがいいって!」

 僕はどや顔になる。

「マジ?」

 半信半疑な顔で僕を見つめる姉。うんうん、思った通りのいい表情だ。

「マジ。親父とおふくろは忙しいからって送り迎えだけ。つまり――」

「二人っきりっ!」

 姉は歓声をあげた。

「そう!」

 僕も歓声をあげた。

「きゃー」

 危うく二人で抱き合いそうになったが、落ち着きを取り戻した僕の理性が無事ブレーキをかけてくれた。

 ただ姉のスキーウェアはレンタルしないといけないかな。明日にでも買いに行ってもいいけど、そこまでの出費を親は許してくれないだろう。レンタルだとデザインがイマイチなのが多くて残念。
 それでも僕たちはこの二人だけの冒険をワクワクしながら待ち焦がれた。



 そしてスキー当日。天気もほどよく曇りでスキー日和だ。僕は既に家でスキーウェアに着替えていて、姉は冬の衣装にダウンをまとって親父の車に乗る。車のウィンドウに粉雪が時折ちらりちらりと舞い落ちてくる天気に僕も姉もひどく興奮していた。

 僕たちはスキー場のふもとで車から降ろされた。ここからが姉にとっての最大の試練だ。今の姉は自力で歩けないこともないが、念のため両手にストックのような杖を突いて上を目指す。僕がその背後にいて、姉にもしものことがあった時受け止める。
 姉はゆっくりと歩みを進める。次第に姉の息が荒くなる。すると僕まで心臓が苦しくなっていく。僕は姉にこんなことをさせてしまって良かったんだろうか。疑問と後悔の念が浮かんでは消えていく。だが姉は何の迷いもなく上を目指していく。僕は後ろでそれを見守るしかない。それが僕には歯がゆい。

 ようやくのことで中腹にある小さな山小屋のような外見の休憩所にたどり着く。ここでリフト券やレンタル品やら食事やらをまとめて扱っている。中に入るとカンカンに熱されたおっきな石油ストーブが気持ちいい。二人でそれに手をかざして温まる。
 ストーブの前で温まりながら周囲を見渡してみる。さすが、誰もいない。僕はこのスキー場で誰かほかのスキー客を見たことがない。まるで僕たちしか知らない穴場中の穴場みたいな感じだ。

 まだ十二時には少し早かったけど姉の休息がてらにお昼ご飯にした。ラーメン大好きな姉はいつも通りの味噌ラーメン。僕は少し悩んでミートソースの大盛りにした。
 姉は僕のセレクトに不満が残ったようだ。どうせラーメンとか頼んだらチャーシューを強奪する気だったんだろ。おあいにく様。

 僕が食券を自販機で買って、僕がカウンターにそれを出して、僕が味噌ラーメンとミートソース(大)を受け取って姉のいる席まで持っていく。それだけじゃなくて割りばしとフォークとお絞りとお冷も持っていく。なんだ、僕ってものすっごく献身的じゃないか。その間姉は涼しい顔をしていた。

 姉はラーメン、特に味噌ラーメンとエビワンタンメンには一家言あって、今回も長々と食レポする。

「うん、たまごめんは味噌ラーメンに合わないと思うんだよね。あれは塩にこそ合う」

「姉さん」

「ん。なにかねゆーくん、何でも訊きたまえ」

「そのたまごめんが伸びる」

「はっ」

 慌ててめんをすする姉。
 どうやらここの味噌ラーメンは姉のおめがねにかなわなかったようだ。

 身体を内と外から充分温め、元気も取り戻したところでいざ! と思ったがまずレンタルをしなくては。いきなりスキー板で迷ったけど、姉には重いけど安定感のある普通の長さの。僕は安定性はいまいちだけどストックがいらなくて小回りの利くショートスキーを選んだ。それとプラスチックのそり。結構色々ある。さびれてても公営だからかな。
 姉はウェアを選んで杖を突いて着替えに行った。やけに派手なのを選んでいたようだ。

「ゆーくんお待たせ」

 姉の声に振り向いた僕は一瞬言葉を失った。心臓がきゅっとなった。姉は白地に蛍光グリーンと蛍光イエローと蛍光ピンクをあしらったウェアにニットキャップといったいでたちで、かなり古いデザインだったけれど、僕にとってはとてつもない破壊力だった。もっともその時は僕のなにが破壊されようとしていたのか、さっぱりわからなかったけど。

「どお?」

「かっかっかわっ――」

 何言おうとしてるんだ僕は! かわいい? 姉に向かってかわいい? どうかしてるそんなの! で、でもかわいい……

「うん、あー、ええと、似合ってるよ、うん……」

「ほんと、よかった」

 心なしか姉が少しもじもじしているような気がした。

 しかし兄ちゃんが言ってたゲレンデマジックって本当にあるんだな。ああ、いや、僕が姉をかわいいと思ったのは事故だ。あれは事故。おかしいってそんなの。でも事故だとしても息を呑むほどかわいかったのもまた事実で…… やっぱおかしいよな僕。

 ようやく滑り出せるようになって、まずは休憩所すぐ前のゆるい斜面に出てみた。
 驚いた。全く一本のシュプールもない。誰も滑った形跡がない。僕としてはこの新雪を思いっきり滑り降りたい衝動に駆られるが、今は姉と一緒だ。自重自重。姉にはストックを杖代わりに持たせ、僕の前に立たせてみる。大丈夫、自立できた。きついリハビリの成果だ。そのままゆっくりと緩やかな斜面を滑り降りる。

「きゃー」

 それだけでもう姉は叫んで大はしゃぎだ。僕たちの声が誰もいない山にこだまする。
 少し欲を出してスピードをあげようとしたがうまくバランスを保てず、ざざざーっと崩れ落ちるように二人で倒れる。

「きゃーっ!」

 姉は倒れても大喜びだ。

 緩斜面でしばらく遊んでいたが、姉は次第に満足できなくなったようだ。ここからふもとまで滑り降りたいと言う。うん新雪をかき分けてあそこまではさすがに難しい。ただ、踏み固められていた場所があったからそこならそりを使えば行けるかも。
 
 ど派手な赤色の大きめのそりに姉を乗せ、僕がその後ろに乗る。僕が足でそりを前に前に押しやると、そりは少しづつ前に進み始める。

「きゃー」

 大して進んでもいないのに姉はもう大はしゃぎだ。
 しかしそりは徐々にスピードを上げる。

「きゃー、きゃー!」

 姉が喜んでくれているようで僕も嬉しい。
 そりはさらにスピードを増し、ガタガタと激しく揺れ始め、次第に僕にも制御ができなくなる。

「ぎゃー! ぎゃー! 止めて止めてー!」

「うわわわわ、と、止まんないっ! 止まんないよっ!」

「ぎゃー怖いー! げらげらげら」

 怖いって言ってるのに、だったらなぜ叫びながら笑う。

 結局そりは派手に横転し、僕たちはほぼふもとのあたりでボフッと新雪の中に投げ出された。僕はすんでのところで姉を抱きかかえていたので、姉が遠くに投げ出されるようなことはなかった。雪に埋もれた姉を引っ張り出し雪を払う。

「大丈夫? けがはないっ? 痛いところは? 脚は動く?」

「…………」

 姉は放心状態だった。

「姉さん?」

 僕は恐る恐る声をかける。

「……ぷ」

 姉の口元が緩む。

「大丈夫?」

 僕が声をかけても反応のない姉は突然げたげたと笑いだした。

「あははははっ! たっのしー!」

 そして新雪の上にあお向けで大の字になる。

「ふーっ」

 安心した僕も姉の横にあお向けになる。

「ね、ゆーくん」

 姉が曇り空を見ながら言った。

「なに?」

 僕も同じ空を見ながら答える。

「今回のことゆーくんが企画してくれたんでしょ」

「ん、まーね。海は無理にしてもさ、ここくらいならなんとかなるっしょ、って」

「ありがと」

 姉が僕の手を握ってきた。グローブ越しに姉の手の感触が伝わってくる。僕はなぜか突然どきどきし始めたけれどどうしても姉の手を振りほどくことはできなかった。
 ふと姉の顔を見るとぱらりぱらりと粉雪が姉の顔や紙に降り注いでいた。僕はその横顔をずっと見つめていた。

「あーあ、でもまたここ登るのか……」

 姉が憂うつそうに溜息を吐く。
 いや、まてよ? 確かこの辺りにリフトがなかったっけか?

「ちょっと待って。この辺リフトあった気するから探してみる」

 リフトなんて大きいもの探すまでもなかった。すぐそばにちゃんと休憩所まで上がれるリフトがあったよ。

「灯台下暗しだねえ……」

 姉は唖然として言う。

「いや、面目ない」

 僕は恥じ入った。

「いいんだよいいんだよ、ゆーくんのせいじゃないって。でもこれで上までひとっ飛びだねっ」

「姉さんがうまく乗れれば、だけどね」

「だあいじょうぶ、だいぶコツ掴んできたもん」

 ストックを杖にして足を引きずりながら歩く姉のペースに合わせてゆっくりリフトまでたどり着いて僕は息を呑んだ。

「こっ、これはっ」

「なあに? どおしたの?」

「Tバーリフトだったのかっ!」
 
 Tバーリフト。
 それは文字通りT字型のバーを股に挟んで引っ張られて滑りながら登るリフトだ。これの使用には熟練を要する。これに不慣れなスキーヤーはいくら上級者でも、まるでギャグマンガのようにコロコロと転がされて滑稽な姿をさらすことになる。

 これは無理だ。姉には絶対無理だ。どうする?
 僕なら乗れないことはない。そうしたら姉の後ろに僕がついて“二人乗り”すれば大丈夫かも。僕たちの体重ならきっと問題ない。

 リフト乗り場までゆっくり時間をかけて行き、姉と僕のポジショニングを慎重に決める。姉を前に立たせて僕が後ろにぴったりと張り付く。
 タイミングを見計らってTバーを掴んで僕と姉の股をくぐらせる。
 バーのケーブルがピンと張って僕のももの付け根を引っ張り前進を始め……



 いや、ちょっと待ったこれだめだだめだ。



 あ、姉の、お尻が、僕の、股間に、思いっきり押し付けられてる…… ヤバい、これマジでヤバイ。

「おおー、すいすい上がってくよー」

「っ!」

 そう言って姉が気持ちよさそうに周りを見回すたび、姉のお尻が僕の股間にグリグリと押しつけられてくる。あっという間に色々もう限界だ。
 僕が平常心を保てるかどうかといった瀬戸際の瞬間にようやくリフトは頂上に到着した。僕はがっくり膝をついて息を整える。勝った。ギリギリの勝利だった。

「どうしたの?」

 不思議そうな目を向ける姉

「僕自身と戦ってた……」

 僕はようやっと吐き出すようにして言う。

「ふうーん」

 姉は何のことだかわからない顔で僕のことを見ていた。

 ここから上に行くリフトは一人乗りだけど普通のチェアリフト。まず僕が上がって、その後に姉がリフトから下りるときに補助すれば何とかなると思う。
 とにかくあのTバーリフトだけは絶対だめだ。

 その後は色々理由をつけてチェアリフトだけを使うようにした。
 この後も、僕が姉を後ろから抱えるように補助しながらゆっくり滑り降りたり、二人でそりに乗ってみたり、と僕たちは思いっきり無人のスキー場を二人で堪能した。ただ、姉が何度も意味もなく抱きついてきそうになるのには正直困った。

 陽が落ちて間もない頃、ふもとに降りて待っていると親父の車が迎えに来てくれた。それに乗り込むと姉はたちまち眠りに落ちて僕の肩に頭を乗っけてくる。反対側に戻しても戻しても、寝ぼけてクスクス笑いながらまた僕の方に頭を預ける。重くて嫌だったけど最後は諦めてそのままにしておいた。
 いつの間にか僕も姉の頭に自分の頭を寄りかからせて寝ていたようで、気が付くともう家についていた。
 二人してすっかり疲れて果て、寝ぼけながら晩ご飯を食べ、風呂に入って寝る。

 廊下でそれぞれの部屋に同時に入ろうとした時、姉が声をかけてきた。

「今日はありがと。楽しかったよ」

 僕も眠い目をこすりながら答える。

「どういたしまして。楽しかったね」

「また行こうね」

「ん」

 僕たちは自分の部屋に入って布団に潜り込んだ瞬間、二人同時に眠りについた。お互い一緒にスキーをする夢を見ながら。
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