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第1話 秋のカラス
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僕の姉は鳥が好きだった。それも空を自由に飛び回る野鳥たちが。中学高校の頃の姉は探鳥部に入って野山を巡りながら野鳥を探し回っていた。病気のせいで高校をやめてからは、たまに散歩がてら町中の鳥を見つけては喜んでいた。
そんな姉に連れられて、僕は畑のど真ん中を走る秋深い道を歩いている。姉の三つ下で中二の僕は、姉の日課である長々とした散歩にしょっちゅう付き合わされていた。双眼鏡を首から下げた高二の姉は少し足を引きずりながら鳥の姿を探したり鳴き声に聞き耳を立てたりしている。
姉が嬉しそうに振り返った。
「ほら、ゆーくん今の聞こえた?」
「なにが?」
「なにがって、ジョウビタキ」
「いや全然」
「もお、なんだ全然ちゃんと聞いてないじゃん」
僕の前を歩き、顔をこっちに向けてぷぅっとふくれっ面になる姉の表情から僕は目が離せなかった。
「ごめん」
「まいっか。つきあわせちゃってごめんね」
「いいよ、好きでやってるんだし、気にしてないよ」
適当に受け流したその時の僕は、目の前を歩いている姉の後ろ姿ばかりながめていて何も考えていなかった。長い髪、年ごとに小さくなっていく華奢な姿に。その姉の姿を見ると、僕の胸は鋭い何かでえぐられたように苦しく痛むのだ。そして少し泣きそうになる。この目の前の命はもう長くはもたない。
突然姉が振り向いて笑顔で言った。
「柿の木行かない?」
「あそこ? めちゃくちゃ遠いじゃん」
さすがに遠出は疲れる。ましてや姉の身体にも良くないのではないか。
「いいの。今日はなんだか元気だし。ね、行こ?」
姉にこんな風に懇願されると僕には抗う術はない。全面降伏だ。
「いいよ。でも途中で苦しくなったらすぐ言って」
「だぁいじょうぶ、苦しくなんてならないし」
と傾きかけた陽の光を浴びた笑みを僕に見せてくれる。僕は思わず目をそらした。
「柿の木」というのはこのあたりでもちょっとは有名な古木で、樹齢にして二百年ほど経っている柿の木だった。茜川と言うと聞こえはいいが、実に小さな川がある。その茜川のほとりに威風堂々とした柿の木が生えていた。この時期になると枝が垂れ下がらんほどに大きな柿の実を実らせる。それを目当てに様々な野鳥と、たまに人間もやってきた。
「どうせカラスばっかじゃん」
「そうそう、そのカラスが面白くてね」
「いやあ、カラスはないわ」
「いろんなことをするからすっごく面白いんだよ」
「そういうもんなのかなあ」
「そういうもんなの」
確かに今日の姉は元気そうにお喋りを続け、歩いても息が上がってこないので大丈夫そうに見える。安心した僕と姉は柿の木にたどり着く。
案の定そこは五、六羽のカラスに占領されていて他の鳥たちは近づくことすら許されない。今のカラスたちは柿の木の上の暴君だった。
カァカァと鳴いて枝から枝を渡りながら柿の実をつつき回しているカラスの群れを、姉は嬉しそうに眺める。「ああ、あの二羽また一緒に来てる」「あの子たち仲悪いなあ」などとつぶやきながら。姉にとってはほほ笑ましい光景なのかもしれないが、僕にはとてもそうは見えなかった。真っ赤な夕日に照らされて真っ赤に熟した柿をついばむ真っ黒なカラスたちは、まるで吊るされた死者の心臓にくちばしを突き立てているように見えて、不気味を超えて空恐ろしささえ感じる時もあった。
眺めていて気分のいいものでもなかったし、放っておくと姉はいつまでもここにいそうだったので帰宅を促す。
「姉さん、もう帰らないと」
「もう少し」
「だいぶ冷えてきたしさ、おふくろも心配するって」
「はあい」
あきらめ顔でほほ笑む姉。僕はその表情に少しほっとし、今度は僕が先頭になって帰宅の途に就く。
誰もいない住宅街の路上までたどり着くと、夕焼けから夜のとばりへと空の色が移ろうとしていた。手を突っ込んでいたダウンのポケットに突然冷たいものが飛び込んでくる。
「えい」
「うわっ」
侵入してきた姉の手が僕の手を握ってくる。僕は硬直して歩みを止めた。
「あったかーい」
「いい加減にしろよ」
僕は精いっぱいの怖い顔で姉をたしなめようとしたが効果はなかったようだ。
「まあまあ、かわいい姉がこうして手を握ってくれるんだよ。ありがたいと思いたまえよ」
「自分でかわいい言うな」
と言いつつ実際本当にかわいいと思う自分がいた。僕の姉なのに。
「それにもうほんと冷たくってさ、手」
姉の手は冷たいだけではなく薄くて骨ばっていて、かさついた肌をしていた。
「だから行かなきゃよかったのに」
「ゆーくんさ」
珍しく神妙な声色になる姉。
「なに」
「ごめんね」
「なにが」
「私、もう彼氏なんてできないだろうしさ」
「そんなことないだろ全然。もうとか言うなよ」
「だからって、こうして彼氏の代わりみたいなことさせてごめん」
「いいよ僕は。別にそんなこと……」
「やった、やっぱ持つべきものは優しい弟だね、帰りアイスおごったげる」
「いらんて。寒いし」
「まあまあそう言わずにい」
そう言って姉は僕に体重を預けてくる。僕ははっとする、その寄りかかる重さがまた軽くなっていることに。
帰宅すると姉はすぐに風呂に入った。どうやらよっぽど冷えたらしい。ほかほかと温もった湯上りの姉は以前と同じように見えて僕はなんだかほっとする。その晩の姉はいつも以上に終始ご機嫌だった。
そんな姉に連れられて、僕は畑のど真ん中を走る秋深い道を歩いている。姉の三つ下で中二の僕は、姉の日課である長々とした散歩にしょっちゅう付き合わされていた。双眼鏡を首から下げた高二の姉は少し足を引きずりながら鳥の姿を探したり鳴き声に聞き耳を立てたりしている。
姉が嬉しそうに振り返った。
「ほら、ゆーくん今の聞こえた?」
「なにが?」
「なにがって、ジョウビタキ」
「いや全然」
「もお、なんだ全然ちゃんと聞いてないじゃん」
僕の前を歩き、顔をこっちに向けてぷぅっとふくれっ面になる姉の表情から僕は目が離せなかった。
「ごめん」
「まいっか。つきあわせちゃってごめんね」
「いいよ、好きでやってるんだし、気にしてないよ」
適当に受け流したその時の僕は、目の前を歩いている姉の後ろ姿ばかりながめていて何も考えていなかった。長い髪、年ごとに小さくなっていく華奢な姿に。その姉の姿を見ると、僕の胸は鋭い何かでえぐられたように苦しく痛むのだ。そして少し泣きそうになる。この目の前の命はもう長くはもたない。
突然姉が振り向いて笑顔で言った。
「柿の木行かない?」
「あそこ? めちゃくちゃ遠いじゃん」
さすがに遠出は疲れる。ましてや姉の身体にも良くないのではないか。
「いいの。今日はなんだか元気だし。ね、行こ?」
姉にこんな風に懇願されると僕には抗う術はない。全面降伏だ。
「いいよ。でも途中で苦しくなったらすぐ言って」
「だぁいじょうぶ、苦しくなんてならないし」
と傾きかけた陽の光を浴びた笑みを僕に見せてくれる。僕は思わず目をそらした。
「柿の木」というのはこのあたりでもちょっとは有名な古木で、樹齢にして二百年ほど経っている柿の木だった。茜川と言うと聞こえはいいが、実に小さな川がある。その茜川のほとりに威風堂々とした柿の木が生えていた。この時期になると枝が垂れ下がらんほどに大きな柿の実を実らせる。それを目当てに様々な野鳥と、たまに人間もやってきた。
「どうせカラスばっかじゃん」
「そうそう、そのカラスが面白くてね」
「いやあ、カラスはないわ」
「いろんなことをするからすっごく面白いんだよ」
「そういうもんなのかなあ」
「そういうもんなの」
確かに今日の姉は元気そうにお喋りを続け、歩いても息が上がってこないので大丈夫そうに見える。安心した僕と姉は柿の木にたどり着く。
案の定そこは五、六羽のカラスに占領されていて他の鳥たちは近づくことすら許されない。今のカラスたちは柿の木の上の暴君だった。
カァカァと鳴いて枝から枝を渡りながら柿の実をつつき回しているカラスの群れを、姉は嬉しそうに眺める。「ああ、あの二羽また一緒に来てる」「あの子たち仲悪いなあ」などとつぶやきながら。姉にとってはほほ笑ましい光景なのかもしれないが、僕にはとてもそうは見えなかった。真っ赤な夕日に照らされて真っ赤に熟した柿をついばむ真っ黒なカラスたちは、まるで吊るされた死者の心臓にくちばしを突き立てているように見えて、不気味を超えて空恐ろしささえ感じる時もあった。
眺めていて気分のいいものでもなかったし、放っておくと姉はいつまでもここにいそうだったので帰宅を促す。
「姉さん、もう帰らないと」
「もう少し」
「だいぶ冷えてきたしさ、おふくろも心配するって」
「はあい」
あきらめ顔でほほ笑む姉。僕はその表情に少しほっとし、今度は僕が先頭になって帰宅の途に就く。
誰もいない住宅街の路上までたどり着くと、夕焼けから夜のとばりへと空の色が移ろうとしていた。手を突っ込んでいたダウンのポケットに突然冷たいものが飛び込んでくる。
「えい」
「うわっ」
侵入してきた姉の手が僕の手を握ってくる。僕は硬直して歩みを止めた。
「あったかーい」
「いい加減にしろよ」
僕は精いっぱいの怖い顔で姉をたしなめようとしたが効果はなかったようだ。
「まあまあ、かわいい姉がこうして手を握ってくれるんだよ。ありがたいと思いたまえよ」
「自分でかわいい言うな」
と言いつつ実際本当にかわいいと思う自分がいた。僕の姉なのに。
「それにもうほんと冷たくってさ、手」
姉の手は冷たいだけではなく薄くて骨ばっていて、かさついた肌をしていた。
「だから行かなきゃよかったのに」
「ゆーくんさ」
珍しく神妙な声色になる姉。
「なに」
「ごめんね」
「なにが」
「私、もう彼氏なんてできないだろうしさ」
「そんなことないだろ全然。もうとか言うなよ」
「だからって、こうして彼氏の代わりみたいなことさせてごめん」
「いいよ僕は。別にそんなこと……」
「やった、やっぱ持つべきものは優しい弟だね、帰りアイスおごったげる」
「いらんて。寒いし」
「まあまあそう言わずにい」
そう言って姉は僕に体重を預けてくる。僕ははっとする、その寄りかかる重さがまた軽くなっていることに。
帰宅すると姉はすぐに風呂に入った。どうやらよっぽど冷えたらしい。ほかほかと温もった湯上りの姉は以前と同じように見えて僕はなんだかほっとする。その晩の姉はいつも以上に終始ご機嫌だった。
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