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疾走編
第24話 千隼の苦しみ、さとみの慈しみ
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「ちーちゃん」
さとみが、心細そうなか細い声で呼ぶ。
「ちーちゃん……」
千隼はようやく我に返り、顔を上げた。憔悴しきった表情のさとみが、じっとこちらを見つめている。
「ちーちゃん、ライトニングフォーミュラのドライバー……だったの?」
長い沈黙のあと、千隼は小さくうなずく。
「すごい……」
さとみの小さな声に、千隼はさとみの反応に驚いて目を見開く。
「それで、女性初の二位なんでしょ?」
再びさとみの反応に驚きつつ、千隼は呆然としたままうなずく。
「表彰台は二位が二回、三位は三回……」
「ますますすごい。パイオニアじゃない」
千隼は思わず目を伏せた。いや、違う。自分はそんな風に褒められるべき人間じゃない――あの事故で全てを失ったんだ。左腕も、築き上げたキャリアも。
脳裏に、あの時の辛辣なスポーツ紙の見出しが浮かぶ。「順位に固執したが故のアクシデント」「傲慢なドライビングが招いた惨事」「自業自得の代償」。チームに没収されたスマートフォンを思い出す。そこには、一体どんな言葉が渦巻いていたのだろうか。
千隼はゆっくりと、自分のジャケットとトレーナーの左袖をたくし上げた。女性にしては太く、たくましい腕。だが、その前腕をぐるりと一周する、三センチほどの傷痕が見える。
「でも、この有様だ」
さとみは、その傷を見つめる千隼の傷痕にそっと手を伸ばす。そして、傷痕を撫でながら優しい声で問いかけた。
「一緒に暮らしてたのに…… 私、どうして気づけなかったんだろう」
「ごめん、ずっと隠してたんだ。見られたくなくて」
「だからお風呂も一緒に入らなかったんだね」
「……そう」
「……私、気づけなかった」
さとみの目に涙がにじむ。
「い、いや、これは…… あたしの自業自得だからっ」
「そんなことない」
千隼の傷を見つめ撫でながら、さとみははっきりと強い口調でそう言うと首を振る。
「いや、そうだよ。エンジントラブルで道を開けるべきだったのに、順位に固執して無理した挙句にクラッシュして…… 左腕を切断してさ…… 再接合手術には成功したけど、もうドライビングできるほどには快復しなかったんだ。たくさんの人に迷惑をかけて、今は…… 一介のスーパー銭湯従業員」
「そんなの関係ない」
「……え?」
さとみの強い言葉に、千隼は驚き顔を上げる。
「だって、一度クラッシュしたからって、今までの実績が消えるわけじゃないもの。ライトニングフォーミュラで最初に表彰台に立った女性は、ちーちゃんなんだよ。それは変わらないんだから」
千隼は戸惑いながらも、心の中にゆっくりと温かいものが広がっていくのを感じた。あの事故以来、耳に入るのは非難や批判ばかりで、こんな風に肯定的な言葉をかけてくれたのは、さとみが初めてだった。さとみは優しく千隼の腕を撫で続け、その左腕をトレーナーで再び覆う。
その時、背後からまたも酔っ払いの声が飛び込んできた。
「ま、頑張れよお! 応援してっからなあ!」
隣の男が「いいかげんにしろよ。本当にすみません」と再度謝るが、千隼にはその声がもう遠くの音のようにしか聞こえない。さとみの優しさが、彼女の心を揺さぶり続けていた。
「そんなこと言われたの、初めてで……」
千隼は涙をぐっと堪えながら、うつむいて言葉を詰まらせる。天井の明かりを反射してキラキラ光る床を、じっと見つめることしかできなかった。
「ちーちゃん、本当に一人で苦しんできたんだね」
さとみの言葉が、千隼の胸にさらに深く染み込んでいく。コンコースのど真ん中で、千隼はもう涙をこらえることができなかった。頭を上げられないまま、感謝の言葉をようやく絞り出す。
「……ありがと」
【次回】
第25話 千隼の遺伝子
さとみが、心細そうなか細い声で呼ぶ。
「ちーちゃん……」
千隼はようやく我に返り、顔を上げた。憔悴しきった表情のさとみが、じっとこちらを見つめている。
「ちーちゃん、ライトニングフォーミュラのドライバー……だったの?」
長い沈黙のあと、千隼は小さくうなずく。
「すごい……」
さとみの小さな声に、千隼はさとみの反応に驚いて目を見開く。
「それで、女性初の二位なんでしょ?」
再びさとみの反応に驚きつつ、千隼は呆然としたままうなずく。
「表彰台は二位が二回、三位は三回……」
「ますますすごい。パイオニアじゃない」
千隼は思わず目を伏せた。いや、違う。自分はそんな風に褒められるべき人間じゃない――あの事故で全てを失ったんだ。左腕も、築き上げたキャリアも。
脳裏に、あの時の辛辣なスポーツ紙の見出しが浮かぶ。「順位に固執したが故のアクシデント」「傲慢なドライビングが招いた惨事」「自業自得の代償」。チームに没収されたスマートフォンを思い出す。そこには、一体どんな言葉が渦巻いていたのだろうか。
千隼はゆっくりと、自分のジャケットとトレーナーの左袖をたくし上げた。女性にしては太く、たくましい腕。だが、その前腕をぐるりと一周する、三センチほどの傷痕が見える。
「でも、この有様だ」
さとみは、その傷を見つめる千隼の傷痕にそっと手を伸ばす。そして、傷痕を撫でながら優しい声で問いかけた。
「一緒に暮らしてたのに…… 私、どうして気づけなかったんだろう」
「ごめん、ずっと隠してたんだ。見られたくなくて」
「だからお風呂も一緒に入らなかったんだね」
「……そう」
「……私、気づけなかった」
さとみの目に涙がにじむ。
「い、いや、これは…… あたしの自業自得だからっ」
「そんなことない」
千隼の傷を見つめ撫でながら、さとみははっきりと強い口調でそう言うと首を振る。
「いや、そうだよ。エンジントラブルで道を開けるべきだったのに、順位に固執して無理した挙句にクラッシュして…… 左腕を切断してさ…… 再接合手術には成功したけど、もうドライビングできるほどには快復しなかったんだ。たくさんの人に迷惑をかけて、今は…… 一介のスーパー銭湯従業員」
「そんなの関係ない」
「……え?」
さとみの強い言葉に、千隼は驚き顔を上げる。
「だって、一度クラッシュしたからって、今までの実績が消えるわけじゃないもの。ライトニングフォーミュラで最初に表彰台に立った女性は、ちーちゃんなんだよ。それは変わらないんだから」
千隼は戸惑いながらも、心の中にゆっくりと温かいものが広がっていくのを感じた。あの事故以来、耳に入るのは非難や批判ばかりで、こんな風に肯定的な言葉をかけてくれたのは、さとみが初めてだった。さとみは優しく千隼の腕を撫で続け、その左腕をトレーナーで再び覆う。
その時、背後からまたも酔っ払いの声が飛び込んできた。
「ま、頑張れよお! 応援してっからなあ!」
隣の男が「いいかげんにしろよ。本当にすみません」と再度謝るが、千隼にはその声がもう遠くの音のようにしか聞こえない。さとみの優しさが、彼女の心を揺さぶり続けていた。
「そんなこと言われたの、初めてで……」
千隼は涙をぐっと堪えながら、うつむいて言葉を詰まらせる。天井の明かりを反射してキラキラ光る床を、じっと見つめることしかできなかった。
「ちーちゃん、本当に一人で苦しんできたんだね」
さとみの言葉が、千隼の胸にさらに深く染み込んでいく。コンコースのど真ん中で、千隼はもう涙をこらえることができなかった。頭を上げられないまま、感謝の言葉をようやく絞り出す。
「……ありがと」
【次回】
第25話 千隼の遺伝子
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