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鷹花の二人編
第22話 千隼とさとみ
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千隼は「季節料理 鷹花」の前で、何時間も呆然と立ち尽くしていた。
あの時、なぜさとみは逃げたのだろう。あたしが怖くなったのだろうか。それとも嫌悪感からだろうか。
それでも千隼は待ち続けた。さとみは必ずここに帰ってくる。そして、その返事が自分にとって良いか悪いかは別として、さとみは必ず応えてくれる。千隼はそう信じていた。
雨が小やみになり、千隼は小さくため息をつく。遠くで、駅のからくり時計が昼の鐘を鳴らす音が聞こえてくる。千隼の腹が空いてきた。
さとみのおにぎりを恋しく思う。出汁の効いた湯気の立ち昇る香り高い味噌汁と一緒に食べた、あのおにぎりの味。あれは、千隼の冷え切った心を温める、不思議な力を持っていた。
もう、あれを食べることはできないのだろうか。
千隼はその考えを振り払おうと、激しく頭を振った。そんなことない。せめて今だけは、そう信じよう。
その時、千隼のお腹が盛大に鳴った。ビニール傘を差したまま、彼女はまた小さくため息をつく。
その瞬間、突然強い衝撃を感じた。危うく倒れそうになり、驚いて見下ろすと、さとみが力いっぱいしがみついている。さとみのくしゃくしゃのショートヘアが、視界に飛び込んできた。
「ちーちゃん! ちーちゃん、ちーちゃん!」
さとみは何度も「ちーちゃん」と繰り返し叫ぶ。メガネはずれ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔。周囲の耳目が集まるのも気にせず、彼女は千隼にしがみついていた。
「ごめん! 逃げたりしてごめん! 本当にごめんなさい、私……!」
「ちょ、ちょっと待って!」
千隼は慌ててさとみを引きはがした。
「と、とりあえず中で話そう。ね?」
さとみは、涙と鼻水でドロドロの顔をして、ゆっくりとうなずく。ずれたメガネを直そうともせず、彼女は裏口に向かい、ドアを開けた。呆気にとられる千隼。
「……あれ?」
「……あんなにびっくりした時に、わざわざ鍵なんてかけてから駆け出すと思う?」
「あ、ああ、そうだね。た、確かに……」
さとみは、くすくすと笑った。懐かしい笑い声だった。千隼もつられて、少し笑う。二人は「鷹花」の厨房を通り、カウンターに隣り合って座って向き合う。
さとみは、開口一番しっかりとした声で、頭を下げる。
「ごめんなさい、ちーちゃん。逃げちゃって、本当にごめん…… 傷ついたよね。私、本当にひどいことしちゃって…… ごめんなさい」
「い、いや、そんなことないから。ほら、頭を上げて」
千隼は言葉に詰まりながらも、なんとか優しく言うことができた。実は、少しだけ傷ついていた。
さとみは顔を上げ、椅子を千隼の方に向けて座り直す。
「私…… 志乃に叱られたの」
「叱られた?」
「うん。『もう誰が好きなのかも分からなくなっちゃったのか』って」
「そっか…… そうなんだ」
「そう。それで、色々考えて、やっと気づいたの」
「何に……?」
「遥歌ちゃんへの気持ちは、ただの憧れで…… 失ってしまったものへの執着だったんだって。私、だからあんなにして必死になって繋ぎ止めようとして…… 自分を偽って」
「うん……」
「だから、本当に大事な人は、私が本当に好きな人は……」
さとみの瞳が潤んで、千隼を見つめる。
「……ちーちゃん、私、ちーちゃんが好き。大好きなの」
千隼は何も言わず、そっとさとみを抱き寄せた。さとみもそれに静かに応え、千隼の背中に腕を回す。
「私も、さとみが好き。大好きだよ」
「ふふっ、じゃあおあいこだね」
「うん」
二人がいつまでもそっと抱き合う中、雨は止み、柔らかな秋の陽が店内に差し込んでくる。「季節料理 鷹花」はこの日、静かに臨時休業を迎えた。
【次回】
エピローグ
あの時、なぜさとみは逃げたのだろう。あたしが怖くなったのだろうか。それとも嫌悪感からだろうか。
それでも千隼は待ち続けた。さとみは必ずここに帰ってくる。そして、その返事が自分にとって良いか悪いかは別として、さとみは必ず応えてくれる。千隼はそう信じていた。
雨が小やみになり、千隼は小さくため息をつく。遠くで、駅のからくり時計が昼の鐘を鳴らす音が聞こえてくる。千隼の腹が空いてきた。
さとみのおにぎりを恋しく思う。出汁の効いた湯気の立ち昇る香り高い味噌汁と一緒に食べた、あのおにぎりの味。あれは、千隼の冷え切った心を温める、不思議な力を持っていた。
もう、あれを食べることはできないのだろうか。
千隼はその考えを振り払おうと、激しく頭を振った。そんなことない。せめて今だけは、そう信じよう。
その時、千隼のお腹が盛大に鳴った。ビニール傘を差したまま、彼女はまた小さくため息をつく。
その瞬間、突然強い衝撃を感じた。危うく倒れそうになり、驚いて見下ろすと、さとみが力いっぱいしがみついている。さとみのくしゃくしゃのショートヘアが、視界に飛び込んできた。
「ちーちゃん! ちーちゃん、ちーちゃん!」
さとみは何度も「ちーちゃん」と繰り返し叫ぶ。メガネはずれ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔。周囲の耳目が集まるのも気にせず、彼女は千隼にしがみついていた。
「ごめん! 逃げたりしてごめん! 本当にごめんなさい、私……!」
「ちょ、ちょっと待って!」
千隼は慌ててさとみを引きはがした。
「と、とりあえず中で話そう。ね?」
さとみは、涙と鼻水でドロドロの顔をして、ゆっくりとうなずく。ずれたメガネを直そうともせず、彼女は裏口に向かい、ドアを開けた。呆気にとられる千隼。
「……あれ?」
「……あんなにびっくりした時に、わざわざ鍵なんてかけてから駆け出すと思う?」
「あ、ああ、そうだね。た、確かに……」
さとみは、くすくすと笑った。懐かしい笑い声だった。千隼もつられて、少し笑う。二人は「鷹花」の厨房を通り、カウンターに隣り合って座って向き合う。
さとみは、開口一番しっかりとした声で、頭を下げる。
「ごめんなさい、ちーちゃん。逃げちゃって、本当にごめん…… 傷ついたよね。私、本当にひどいことしちゃって…… ごめんなさい」
「い、いや、そんなことないから。ほら、頭を上げて」
千隼は言葉に詰まりながらも、なんとか優しく言うことができた。実は、少しだけ傷ついていた。
さとみは顔を上げ、椅子を千隼の方に向けて座り直す。
「私…… 志乃に叱られたの」
「叱られた?」
「うん。『もう誰が好きなのかも分からなくなっちゃったのか』って」
「そっか…… そうなんだ」
「そう。それで、色々考えて、やっと気づいたの」
「何に……?」
「遥歌ちゃんへの気持ちは、ただの憧れで…… 失ってしまったものへの執着だったんだって。私、だからあんなにして必死になって繋ぎ止めようとして…… 自分を偽って」
「うん……」
「だから、本当に大事な人は、私が本当に好きな人は……」
さとみの瞳が潤んで、千隼を見つめる。
「……ちーちゃん、私、ちーちゃんが好き。大好きなの」
千隼は何も言わず、そっとさとみを抱き寄せた。さとみもそれに静かに応え、千隼の背中に腕を回す。
「私も、さとみが好き。大好きだよ」
「ふふっ、じゃあおあいこだね」
「うん」
二人がいつまでもそっと抱き合う中、雨は止み、柔らかな秋の陽が店内に差し込んでくる。「季節料理 鷹花」はこの日、静かに臨時休業を迎えた。
【次回】
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