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鷹花の二人編
第12話 新たな常連客
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千隼は翌日からまた「季節料理 鷹花」へ通うようになった。やはりさとみのあの笑顔が忘れられない。幸いにもさとみはスーパー銭湯の件について何も話さなかったので、千隼は胸をなでおろした。
それからも千隼とさとみは、月に二、三回、フードロス削減のためと称して「季節料理 鷹花」の閉店後、ささやかな宴会を続けていた。
朝も昼も夜もなく、何も感じられない、深海の底のような孤独の世界にいた千隼。しかし、少しずつ夜だけは感じられるようになっていった。雑踏や人々のにぎやかな声、ネオン、頭上を走り抜ける緑や青やオレンジのラインが引かれた電車の音――そして、「季節料理 鷹花」の若おかみ、さとみの笑顔。
最近では、営業中でも目が合うと、他の常連客には見せない微笑みをそっと向けてくれるようになり、千隼としても自分がさらに特別な客になったと感じるようになっていた。
そこにもう一人、時折「鷹花」を訪れる女性がいた。さとみの小学校からの同級生で、幼馴染の志乃という名の女性だ。初めてさとみが千隼に志乃を紹介したとき、志乃は「ふうん……」と千隼を上から下まで一瞬だけ観察するように見つめ、「そ、よろしくね」とそっけなく答えただけだった。
しかし、話してみると志乃は意外に気さくで、さとみと同じ年齢の割に随分おばさんっぽいものの、その飾らない態度は千隼にとっても好ましいものだった。
志乃が来店する日は、さとみが志乃に取られたように感じることもあったが、たまにはいいかと千隼は心の中で苦笑し、さとみが忙しい間は、志乃と二人で話すことも増えていった。
だが、千隼はふと、刺身を切っているさとみに目を向ける志乃の視線に気づいた。それは幼馴染に向けるものとは違う、どこか含みを感じさせるものだった。ほんの一瞬のことだったが、千隼は胸にかすかな不安が広がるのを感じた。
「あなた、さとみと随分仲がいいのね」
志乃はいつも生ビールを一杯飲んだ後は必ず燗酒を頼む。お猪口を片手に、何か探るような目つきで千隼に問いかけた。
「えっ、いや、そっ、そうかな?」
千隼は動揺しながらも、志乃から自分が特別な存在だと思われているようでどこか嬉しかった。照れくさくなり、少し顔が赤くなる。ここで一番安い焼酎のお湯割りを口にする。
「毎日通ってるんですって? ここに」
「う、うん、まあ」
「いいわね……」
志乃の視線がほんの一瞬だけ、さとみの方向に向けられた気がした。しかし、そのまま何もなかったかのように会話は進んだ。
「私なんて仕事が忙しくて、月に一度来られるかどうかだもの」
「どんなお仕事を?」
志乃はいつもビシッと決めたスーツ姿で、仕事ができそうな雰囲気を醸し出していた。
「サンダーホーク・ゼニス・モメンタム・モータース」
「えっ」
サンダーホーク・ゼニス・モメンタム・モータース(SZM)はF1の世界で、今まさに急成長を遂げているチームだった。デビューからわずか数年で連続優勝を果たした新興コンストラクターで、近年最大の注目株だ。志乃は千隼にとってははるか雲の上のような存在だった。目を丸くして絶句する千隼。
「父がカーディフの小さなコンストラクターに勤めていて、高一の時にコペンハーゲンに引っ越したのがきっかけで私も興味を持ったの。それでSZMに入社したってわけ。今は資材調達部」
志乃が「できる女」に見える理由がなんとなく理解できた。新興企業にありがちな進取の精神、志乃からはそんな強い意欲と情熱が感じられる。
その時、千隼はハッと気づき、血の気が引いた。モータースポーツに詳しい日本人なら、千隼の過去の失態に気付いていないはずはない。その表情を察したのか、志乃はわずかに微笑んで言った。
「何も言わないわ。私からは、ね」
「えっ」
「あなたのこと」
志乃の言葉はどこか淡々としていたが、その視線は千隼には計り知れない何かが潜んでいるようだった。
「でも、いつかはきっと知られる。あなたが星埜千隼である限り」
「うん……」
「覚悟しておくことね。さとみだって、昔はモータースポーツに詳しかったんだから」
さとみが九年前、エミリオ・フェルナンド・リマが事故死するまでは大のモータースポーツファンだったことを思い出す。お互い、そのことについて口にしたことはなかったが。
「そうだね……」
焼酎のお湯割りを眺めながら、千隼は呟いた。もし自分の起こしたクラッシュや、左腕のことがさとみに知られたら、彼女はどう思うだろう。他の人と同じように軽蔑するのだろうか。嘲笑うのだろうか――千隼はいたたまれない気持ちに襲われた。
▼用語
※ コンストラクター
フォーミュラカーレースなどでレース用の車両を設計し製造する企業。多くは車体だけを製作するが一部のコンストラクターはエンジンの製作もおこなう。
【次回】
第13話 動揺するさとみ
それからも千隼とさとみは、月に二、三回、フードロス削減のためと称して「季節料理 鷹花」の閉店後、ささやかな宴会を続けていた。
朝も昼も夜もなく、何も感じられない、深海の底のような孤独の世界にいた千隼。しかし、少しずつ夜だけは感じられるようになっていった。雑踏や人々のにぎやかな声、ネオン、頭上を走り抜ける緑や青やオレンジのラインが引かれた電車の音――そして、「季節料理 鷹花」の若おかみ、さとみの笑顔。
最近では、営業中でも目が合うと、他の常連客には見せない微笑みをそっと向けてくれるようになり、千隼としても自分がさらに特別な客になったと感じるようになっていた。
そこにもう一人、時折「鷹花」を訪れる女性がいた。さとみの小学校からの同級生で、幼馴染の志乃という名の女性だ。初めてさとみが千隼に志乃を紹介したとき、志乃は「ふうん……」と千隼を上から下まで一瞬だけ観察するように見つめ、「そ、よろしくね」とそっけなく答えただけだった。
しかし、話してみると志乃は意外に気さくで、さとみと同じ年齢の割に随分おばさんっぽいものの、その飾らない態度は千隼にとっても好ましいものだった。
志乃が来店する日は、さとみが志乃に取られたように感じることもあったが、たまにはいいかと千隼は心の中で苦笑し、さとみが忙しい間は、志乃と二人で話すことも増えていった。
だが、千隼はふと、刺身を切っているさとみに目を向ける志乃の視線に気づいた。それは幼馴染に向けるものとは違う、どこか含みを感じさせるものだった。ほんの一瞬のことだったが、千隼は胸にかすかな不安が広がるのを感じた。
「あなた、さとみと随分仲がいいのね」
志乃はいつも生ビールを一杯飲んだ後は必ず燗酒を頼む。お猪口を片手に、何か探るような目つきで千隼に問いかけた。
「えっ、いや、そっ、そうかな?」
千隼は動揺しながらも、志乃から自分が特別な存在だと思われているようでどこか嬉しかった。照れくさくなり、少し顔が赤くなる。ここで一番安い焼酎のお湯割りを口にする。
「毎日通ってるんですって? ここに」
「う、うん、まあ」
「いいわね……」
志乃の視線がほんの一瞬だけ、さとみの方向に向けられた気がした。しかし、そのまま何もなかったかのように会話は進んだ。
「私なんて仕事が忙しくて、月に一度来られるかどうかだもの」
「どんなお仕事を?」
志乃はいつもビシッと決めたスーツ姿で、仕事ができそうな雰囲気を醸し出していた。
「サンダーホーク・ゼニス・モメンタム・モータース」
「えっ」
サンダーホーク・ゼニス・モメンタム・モータース(SZM)はF1の世界で、今まさに急成長を遂げているチームだった。デビューからわずか数年で連続優勝を果たした新興コンストラクターで、近年最大の注目株だ。志乃は千隼にとってははるか雲の上のような存在だった。目を丸くして絶句する千隼。
「父がカーディフの小さなコンストラクターに勤めていて、高一の時にコペンハーゲンに引っ越したのがきっかけで私も興味を持ったの。それでSZMに入社したってわけ。今は資材調達部」
志乃が「できる女」に見える理由がなんとなく理解できた。新興企業にありがちな進取の精神、志乃からはそんな強い意欲と情熱が感じられる。
その時、千隼はハッと気づき、血の気が引いた。モータースポーツに詳しい日本人なら、千隼の過去の失態に気付いていないはずはない。その表情を察したのか、志乃はわずかに微笑んで言った。
「何も言わないわ。私からは、ね」
「えっ」
「あなたのこと」
志乃の言葉はどこか淡々としていたが、その視線は千隼には計り知れない何かが潜んでいるようだった。
「でも、いつかはきっと知られる。あなたが星埜千隼である限り」
「うん……」
「覚悟しておくことね。さとみだって、昔はモータースポーツに詳しかったんだから」
さとみが九年前、エミリオ・フェルナンド・リマが事故死するまでは大のモータースポーツファンだったことを思い出す。お互い、そのことについて口にしたことはなかったが。
「そうだね……」
焼酎のお湯割りを眺めながら、千隼は呟いた。もし自分の起こしたクラッシュや、左腕のことがさとみに知られたら、彼女はどう思うだろう。他の人と同じように軽蔑するのだろうか。嘲笑うのだろうか――千隼はいたたまれない気持ちに襲われた。
▼用語
※ コンストラクター
フォーミュラカーレースなどでレース用の車両を設計し製造する企業。多くは車体だけを製作するが一部のコンストラクターはエンジンの製作もおこなう。
【次回】
第13話 動揺するさとみ
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