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鷹花の二人編
第1話 切断(プロローグ)
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――あなたは言った。ああ私は災いだ。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆き疲れ果て、安らぎを見いだせない、と――
エレミヤ書45:3
エンジン音が轟き、観客席からの歓声が響く。ここ、マッハランドスピードウェイ岐阜は独特の高低差がある人気のコースだ。鋭角的な先端で、車高が低く、車体の外に大きくはみ出したタイヤが特徴の、レースのためだけに開発されたマシン、フォーミュラカーが疾走する。日本最高峰のフォーミュラカーレース、ライトニングフォーミュラ第三戦も終盤を迎えていた。曇天にもかかわらず、多くの観客が詰めかけ熱のこもった声援を送る。そして今、ライトニングフォーミュラの歴史が変わろうとしていた。カーナンバー58、星埜千隼が、女性初の優勝を掴もうと疾走している。そのヘルメットには青白い彗星とハヤブサの頭部が描かれている。
残り三周。千隼のマシンは、ここ八周ほどエンジンの不調に悩まされていた。まるで咳き込む老人そっくりなエンジンの挙動に、千隼はいらだちを隠せない。更に彼女をいらだたせたのはぴったりつけてくる後続車だった。再三再四、隙を見てはインにアウトに追い抜きにかかろうとしている。千隼はその度にがっちりとブロックをし、激しくあおる後続車の行く手を阻んだ。
あと三周。あと三周で優勝できる。この優勝は単なる初優勝ではない。歴史的快挙だ。自分以外にこの勝利を掴める者はいない。マシンはエンジンの不調により、すでに一位を維持することが困難になりつつあった。だが、千隼は素晴らしい集中力で、後続車をブロックし続ける。誰の目から見ても、千隼は後続車に道を譲るべきであるように見えた。しかし千隼にとって幸運なことに、マーシャルから後続車に道を空けるよう指示するブルーフラッグは出ていない。
そこにほころびが生まれたのが次のラップ、最後の周回となるファイナルラップの一周前だった。後続車を操る現在二位のドライバーは、弱冠十九の今シーズンデビューしたての新人だ。彼の順位は、荒れに荒れたレース展開によって勝手に足元に転がり込んできた、まさに幸運とも言えるものだった。あとは後ろから見てもエンジンの不調が明かな目前の車を追い越すだけで、初優勝を手に入れることができる。だがこのマシンは、不当なほど執拗に道を塞ぎ続けている。女性で初めて表彰台に上がった経歴を持つ選手だか何だか知らないが、許される走りではない。抜きどころはあと二か所。どう勝負をつけるか。
最終コーナー。後続車は勝負を仕掛けた。強引にインから抜こうと鼻先を突っ込もうとする。千隼もこれは想定済みで車を寄せて後続車の道を塞ごうとした。
悪魔はその瞬間を待っていた。
行き場を失くした後続車の尖った先端にあるフロントウィングが、千隼のマシンのリアタイヤに絡みつく様にしてバーストさせる。コントロールを失った千隼のマシンは、コース上を回転しながら、アウト側のタイヤバリアに斜め横から激突。後続車はフロントウィングが根元のフロントノーズごと脱落したことでダウンフォースを失う。マシンは宙を浮きながら、安全に車両を停車させるはずのランオフエリアを飛び越え千隼のマシンとは反対側の側壁に斜め後ろから激突した。
千隼にはまだ意識があった。コクピットを包み込んでドライバーを保護する強靭なモノコックのおかげで身体にも異常はなさそうだ。
左手でハンドルを取り狭いコクピットから出ようと試みる。横に長い長方形の形をしたステアリングを手に取ろうとする。だが左手がステアリングを取ることはなかった。
本来ステアリングを握るべき左手があるべき場所。そこには何もなかった。
短くなった左腕を見る。赤黒い断面が目に入る。ハムか何かのようだと思った。これが自分の腕なのか。千隼は呆然とそれを見つめていた。安否確認に駆け付けたマーシャルがこの様を見て絶叫するの聞いてから彼女の意識はない。
レースは赤旗中断となった。
▼用語
※ ライトニングフォーミュラ:
【架空のレースカテゴリ】
日本のスーパーフォーミュラに該当する。“フォーミュラカー”とは様々な規定(フォーミュラ)に基づいて製作された車両を指す。車輪が車体から露出し、重心が低く、空力特性(エアロダイナミクス)を持ち、軽量高出力のエンジンを搭載する車両のこと。このフォーミュラカーによるレースは“F1”を頂点として、“F2”“F3”“F4”とその裾野を広げている。
※ マッハランドスピードウェイ岐阜
【架空のサーキット】
コーナー(曲がり角)とストレート(直線)がバランス良く配置され、高低差があり見どころの多いコースで人気がある。
※ ファイナルラップ
サーキットを走行するレースは同じコースを何十周もして、既定の距離もしくは時間を走り順位を決める。その最後の周回。
※ 不当なほどに執拗なブロック
周回遅れであったり、走力が著しく衰えているにもかかわらず、後続車を通そうとせずに、執拗なブロックを続ける行為は処罰の対象になる。最悪の場合失格もあり得る。
※ マーシャル
有償無償の係員を指す。コースの整備や事故発生時の復旧作業、各種マーシャルカーの運用、旗によるコースコンディションの周知、レースの進行や審判をするなど様々な役割を担っている。
※ ブルーフラッグ
後続に道を譲るよう指示する旗。これが出ていなかったということは、本文で示されたような観客の印象とは異なり、マーシャルは千隼の走行を不当と見なしていなかったと言える。
※ フロントウィング
フォーミュラカーの先端部分にある翼。これでダウンフォースを得る。
※ ダウンフォース
“空力特性(エアロダイナミクス)”によって車両を地面に押し付ける力。これにより車両はまるで“地面に吸い付く様に”高速で走行できる。ウィングが外れたり、そうでなくても事故で逆向きに走行してしまうと宙に浮いて極めて危険な状態となる。
※ ランオフエリア
コースの周囲に設けられた安全地帯。砂利や草地で整備されている。コースアウトした車両は、側壁にぶつかる前にこの砂利や草にはまって、安全に停車することができる。
※ モノコック
サバイバルセルとも言う。車体の一部として構成されている高い剛性と強度を持つ一体成型の構造物で、事故時や衝突時にドライバーを保護する役割を持つ。カーボンファイバーやアルミニウムなどの様々な複合素材でできており、車体を構成する重要な要素の一つとなっている。
※ ステアリング
ハンドルのこと。乗用車のそれと違って円形ではなく横長の長方形。ここにたくさんの操作ボタンがびっしりと並んでいる。
【次回】
第2話 季節料理屋 鷹花
エレミヤ書45:3
エンジン音が轟き、観客席からの歓声が響く。ここ、マッハランドスピードウェイ岐阜は独特の高低差がある人気のコースだ。鋭角的な先端で、車高が低く、車体の外に大きくはみ出したタイヤが特徴の、レースのためだけに開発されたマシン、フォーミュラカーが疾走する。日本最高峰のフォーミュラカーレース、ライトニングフォーミュラ第三戦も終盤を迎えていた。曇天にもかかわらず、多くの観客が詰めかけ熱のこもった声援を送る。そして今、ライトニングフォーミュラの歴史が変わろうとしていた。カーナンバー58、星埜千隼が、女性初の優勝を掴もうと疾走している。そのヘルメットには青白い彗星とハヤブサの頭部が描かれている。
残り三周。千隼のマシンは、ここ八周ほどエンジンの不調に悩まされていた。まるで咳き込む老人そっくりなエンジンの挙動に、千隼はいらだちを隠せない。更に彼女をいらだたせたのはぴったりつけてくる後続車だった。再三再四、隙を見てはインにアウトに追い抜きにかかろうとしている。千隼はその度にがっちりとブロックをし、激しくあおる後続車の行く手を阻んだ。
あと三周。あと三周で優勝できる。この優勝は単なる初優勝ではない。歴史的快挙だ。自分以外にこの勝利を掴める者はいない。マシンはエンジンの不調により、すでに一位を維持することが困難になりつつあった。だが、千隼は素晴らしい集中力で、後続車をブロックし続ける。誰の目から見ても、千隼は後続車に道を譲るべきであるように見えた。しかし千隼にとって幸運なことに、マーシャルから後続車に道を空けるよう指示するブルーフラッグは出ていない。
そこにほころびが生まれたのが次のラップ、最後の周回となるファイナルラップの一周前だった。後続車を操る現在二位のドライバーは、弱冠十九の今シーズンデビューしたての新人だ。彼の順位は、荒れに荒れたレース展開によって勝手に足元に転がり込んできた、まさに幸運とも言えるものだった。あとは後ろから見てもエンジンの不調が明かな目前の車を追い越すだけで、初優勝を手に入れることができる。だがこのマシンは、不当なほど執拗に道を塞ぎ続けている。女性で初めて表彰台に上がった経歴を持つ選手だか何だか知らないが、許される走りではない。抜きどころはあと二か所。どう勝負をつけるか。
最終コーナー。後続車は勝負を仕掛けた。強引にインから抜こうと鼻先を突っ込もうとする。千隼もこれは想定済みで車を寄せて後続車の道を塞ごうとした。
悪魔はその瞬間を待っていた。
行き場を失くした後続車の尖った先端にあるフロントウィングが、千隼のマシンのリアタイヤに絡みつく様にしてバーストさせる。コントロールを失った千隼のマシンは、コース上を回転しながら、アウト側のタイヤバリアに斜め横から激突。後続車はフロントウィングが根元のフロントノーズごと脱落したことでダウンフォースを失う。マシンは宙を浮きながら、安全に車両を停車させるはずのランオフエリアを飛び越え千隼のマシンとは反対側の側壁に斜め後ろから激突した。
千隼にはまだ意識があった。コクピットを包み込んでドライバーを保護する強靭なモノコックのおかげで身体にも異常はなさそうだ。
左手でハンドルを取り狭いコクピットから出ようと試みる。横に長い長方形の形をしたステアリングを手に取ろうとする。だが左手がステアリングを取ることはなかった。
本来ステアリングを握るべき左手があるべき場所。そこには何もなかった。
短くなった左腕を見る。赤黒い断面が目に入る。ハムか何かのようだと思った。これが自分の腕なのか。千隼は呆然とそれを見つめていた。安否確認に駆け付けたマーシャルがこの様を見て絶叫するの聞いてから彼女の意識はない。
レースは赤旗中断となった。
▼用語
※ ライトニングフォーミュラ:
【架空のレースカテゴリ】
日本のスーパーフォーミュラに該当する。“フォーミュラカー”とは様々な規定(フォーミュラ)に基づいて製作された車両を指す。車輪が車体から露出し、重心が低く、空力特性(エアロダイナミクス)を持ち、軽量高出力のエンジンを搭載する車両のこと。このフォーミュラカーによるレースは“F1”を頂点として、“F2”“F3”“F4”とその裾野を広げている。
※ マッハランドスピードウェイ岐阜
【架空のサーキット】
コーナー(曲がり角)とストレート(直線)がバランス良く配置され、高低差があり見どころの多いコースで人気がある。
※ ファイナルラップ
サーキットを走行するレースは同じコースを何十周もして、既定の距離もしくは時間を走り順位を決める。その最後の周回。
※ 不当なほどに執拗なブロック
周回遅れであったり、走力が著しく衰えているにもかかわらず、後続車を通そうとせずに、執拗なブロックを続ける行為は処罰の対象になる。最悪の場合失格もあり得る。
※ マーシャル
有償無償の係員を指す。コースの整備や事故発生時の復旧作業、各種マーシャルカーの運用、旗によるコースコンディションの周知、レースの進行や審判をするなど様々な役割を担っている。
※ ブルーフラッグ
後続に道を譲るよう指示する旗。これが出ていなかったということは、本文で示されたような観客の印象とは異なり、マーシャルは千隼の走行を不当と見なしていなかったと言える。
※ フロントウィング
フォーミュラカーの先端部分にある翼。これでダウンフォースを得る。
※ ダウンフォース
“空力特性(エアロダイナミクス)”によって車両を地面に押し付ける力。これにより車両はまるで“地面に吸い付く様に”高速で走行できる。ウィングが外れたり、そうでなくても事故で逆向きに走行してしまうと宙に浮いて極めて危険な状態となる。
※ ランオフエリア
コースの周囲に設けられた安全地帯。砂利や草地で整備されている。コースアウトした車両は、側壁にぶつかる前にこの砂利や草にはまって、安全に停車することができる。
※ モノコック
サバイバルセルとも言う。車体の一部として構成されている高い剛性と強度を持つ一体成型の構造物で、事故時や衝突時にドライバーを保護する役割を持つ。カーボンファイバーやアルミニウムなどの様々な複合素材でできており、車体を構成する重要な要素の一つとなっている。
※ ステアリング
ハンドルのこと。乗用車のそれと違って円形ではなく横長の長方形。ここにたくさんの操作ボタンがびっしりと並んでいる。
【次回】
第2話 季節料理屋 鷹花
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