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第83話 茜川の柿の木
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僕たちは治療と研究にまい進した。が、未だその道は遠く、僕たちは何度も苦渋を飲まされてきた。それでも三十二歳まで生きた早坂愛未さんのように長生きしたいです、と十歳の少女から言われると涙が出るほど身につまされるものがある。
仕事が少し楽になったところで、僕はようやく彩寧と結婚をした。式場ではおふくろが姉のフォトフレームを持ち、披露宴では親族席の一席に姉のそのフォトフレームが置かれていた。それはまるで僕の結婚を祝うかのようにはち切れんばかりの笑顔を見せていた。
だがこの席に一番いてほしかったあの人は、もういない。
僕たちは間もなく二児をもうけた。長男の直樹は冷静沈着な性格で四歳にして将来の夢を心臓血管外科医と答えた。次男の夏樹は心配になるくらい呑気な、言い換えれば細かい事でいちいちくよくよしない性分で明るく、ボードゲームが大好きだった。姉の遺していったボードゲームコレクションのほとんどはのちに夏樹が引き取りプレイした。姉の遺品がこうして役立ったのは嬉しい。捨てないでよかった。
そしてある夏の午後。低い雲がどんより立ち込める日。僕は行き先を告げずに車で一人出かけた。
茜川の側道は昔と変わらず狭くて傾いている。もう長い事ここには来ていなかったが、道順は身体が、いや心が憶えている。
僕はいつもの角を曲がったが、そこに異変があった。いつもなら小山の様な濃緑色の影が見えてくるのだが、それがない。嫌な予感を感じながら僕はそこへ向かった。
そこには何もなかった。僕を迎えてくれるはずの柿の巨木がない。それがあるべき場所にはただただ太い切り株があるばかりだった。
愕然とした僕はそばにいた農家の人に尋ねてみた。すると、ちょうど姉が入院をし始めた頃を境に急速に樹勢が衰え瞬く間に枯死したのだと言う。その枯死した時期は正に姉の亡くなった頃と重なった。
僕はこの大きな切り株に腰かける。天を見上げると鼠色の曇天模様。僕は溜息をついた。姉が愛したこの柿の木は、もしかすると姉に何らかの力を与え続けていたのだろうか。そして樹勢を失うとともに姉に与える力を失っていったのかも知れない。そしてすべての力を失い姉が亡くなると共に枯死した。僕は切り株を撫でながらそう思った。
ここと柿の木にまつわる思い出が浮かび上がる。姉に付き合わされてこの不気味な秋の柿の木を見に連れて行かされたこと。キスを要求されてそれを拒み、柿の実を思い切り投げつけられたこと。「最後のデート」で僕が姉を後ろから抱き締める中、緑の葉を茂らせる真夏の柿の木をいつまでも眺めていたこと。樹の音が聞こえないかといたずらっぽい顔をした姉が幹に耳を当てていたこと。
切り株に水滴が落ちる。それとゆっくりと僕と切り株を陽射しが照らし始める。僕は久々に涙の発作を起こし、まるでスポットライトを浴びるかのように僕と切り株が生命力に満ちた輝きに照らされていく中、いつまで経っても止まる事のない涙にくれていた。
僕の失ったものは半身だった。決してどこにでもいるただの姉なんかではなかった。
熱気を帯びた夏の陽射しを浴びる僕は大事な一言を忘れていたことをはたと思い出す。愛してる、と同じくらい大事なこと。
僕は立ち上がって天使の階段がそこここに現れた鈍色の空に向かって叫んだ。
「ありがとう! ありがとう姉さん! 姉さんのおかげで僕は生きてこれた! 姉さんと一緒にいられてとっても楽しかった! 姉さんの弟ですっごく幸せだった! 本当にありがとう! 僕が逝くまでいつまでも待っててくれよ!」
僕の叫びは降りしきる桜吹雪にかき消される。だがきっと届いたはずだ。だって僕らは特別な姉弟なんだから。
山の向こうから姉の笑い声が聞こえたような気がした。
――了――
※2024.1.10 大幅に修正しました
仕事が少し楽になったところで、僕はようやく彩寧と結婚をした。式場ではおふくろが姉のフォトフレームを持ち、披露宴では親族席の一席に姉のそのフォトフレームが置かれていた。それはまるで僕の結婚を祝うかのようにはち切れんばかりの笑顔を見せていた。
だがこの席に一番いてほしかったあの人は、もういない。
僕たちは間もなく二児をもうけた。長男の直樹は冷静沈着な性格で四歳にして将来の夢を心臓血管外科医と答えた。次男の夏樹は心配になるくらい呑気な、言い換えれば細かい事でいちいちくよくよしない性分で明るく、ボードゲームが大好きだった。姉の遺していったボードゲームコレクションのほとんどはのちに夏樹が引き取りプレイした。姉の遺品がこうして役立ったのは嬉しい。捨てないでよかった。
そしてある夏の午後。低い雲がどんより立ち込める日。僕は行き先を告げずに車で一人出かけた。
茜川の側道は昔と変わらず狭くて傾いている。もう長い事ここには来ていなかったが、道順は身体が、いや心が憶えている。
僕はいつもの角を曲がったが、そこに異変があった。いつもなら小山の様な濃緑色の影が見えてくるのだが、それがない。嫌な予感を感じながら僕はそこへ向かった。
そこには何もなかった。僕を迎えてくれるはずの柿の巨木がない。それがあるべき場所にはただただ太い切り株があるばかりだった。
愕然とした僕はそばにいた農家の人に尋ねてみた。すると、ちょうど姉が入院をし始めた頃を境に急速に樹勢が衰え瞬く間に枯死したのだと言う。その枯死した時期は正に姉の亡くなった頃と重なった。
僕はこの大きな切り株に腰かける。天を見上げると鼠色の曇天模様。僕は溜息をついた。姉が愛したこの柿の木は、もしかすると姉に何らかの力を与え続けていたのだろうか。そして樹勢を失うとともに姉に与える力を失っていったのかも知れない。そしてすべての力を失い姉が亡くなると共に枯死した。僕は切り株を撫でながらそう思った。
ここと柿の木にまつわる思い出が浮かび上がる。姉に付き合わされてこの不気味な秋の柿の木を見に連れて行かされたこと。キスを要求されてそれを拒み、柿の実を思い切り投げつけられたこと。「最後のデート」で僕が姉を後ろから抱き締める中、緑の葉を茂らせる真夏の柿の木をいつまでも眺めていたこと。樹の音が聞こえないかといたずらっぽい顔をした姉が幹に耳を当てていたこと。
切り株に水滴が落ちる。それとゆっくりと僕と切り株を陽射しが照らし始める。僕は久々に涙の発作を起こし、まるでスポットライトを浴びるかのように僕と切り株が生命力に満ちた輝きに照らされていく中、いつまで経っても止まる事のない涙にくれていた。
僕の失ったものは半身だった。決してどこにでもいるただの姉なんかではなかった。
熱気を帯びた夏の陽射しを浴びる僕は大事な一言を忘れていたことをはたと思い出す。愛してる、と同じくらい大事なこと。
僕は立ち上がって天使の階段がそこここに現れた鈍色の空に向かって叫んだ。
「ありがとう! ありがとう姉さん! 姉さんのおかげで僕は生きてこれた! 姉さんと一緒にいられてとっても楽しかった! 姉さんの弟ですっごく幸せだった! 本当にありがとう! 僕が逝くまでいつまでも待っててくれよ!」
僕の叫びは降りしきる桜吹雪にかき消される。だがきっと届いたはずだ。だって僕らは特別な姉弟なんだから。
山の向こうから姉の笑い声が聞こえたような気がした。
――了――
※2024.1.10 大幅に修正しました
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