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第73話 だいすき
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間もなく姉は意識を消失した。両親が到着する。そして一時間後。
これ以上の治療は姉の苦痛を引き延ばすだけだろう。僕たちは敗北を痛感した。誰もがそう思った瞬間、顔を歪め息の荒い姉が力なく僕に向かって手を伸ばした。
「ゆーと……」
僕は慌てて跪いて姉の手を取る。
「姉さんっ」
顔を姉のすぐそばに持って行く。どんなに小さな声でも聞きとれるように。
姉は小さく息を吸い込んだように見えた。そして一気に吐き出す。
「ゆーくんだあいすき」
姉は力なく僕の手を握ると弱々しく小さな野花のように微笑んだ。僕は優しく囁き返した。両親がいようとスタッフがいようともう僕には関係なかった。姉が握った痩せて骨ばったガサガサの手に口づけをする。
「知ってた。僕も……大好きだ」
「ありがとゆーくん。そっか、知ってたのか…… ふふっ、でも最後に一言だけ……でも言いたかった……の。やっと……言え……た…… だい……す……き…… ありが…… と……」
ゆっくり目を閉じる。
跪いて姉の手を握りもう一度口づけする。そうすれば目覚めるのではないかと思って。すっかり生気を失った土気色の姉の顔をひたすら見つめる十五分後、スタッフの硬く上ずった声が遥か遠い彼方から響く。
「ステルベン……です……」
僕は黙って姉の手をさすっていた。姉の安らかな寝顔を見つめる。もう一度口づけする。ああ、つい一分前まで生きて呼吸していたのに。目覚めてくれ。頼むから目覚めてくれ。そのためになら僕は自分の全てを投げ打っても構わないのに。おやじの、おふくろの嗚咽が聞こえる。
教授が時計を見る。
「4月10日14時37分死亡確認といたします」
僕は今までの志望宣告と同じように無表情で淡々としていたつもりだった。だがなんだ、この滝の様な涙は。スタッフが記録を取ったり機器を姉から取り外したりエンゼルケアを施したりする間、僕はただ茫然としてずっと姉の手を握ったまま、じっと死体と化した姉の顔を見つめていた。
こんなにやつれて。骨ばって皺だらけでかさかさのまだ温かい手を握り、姉の苦しい闘病生活に思いを馳せた。治療だなんだと言って結局僕たちはおよそ四半世紀の間姉を苦しめてしまっただけなのかもしれない。そう思うと何もかもがやるせなかった。だが治療しなければ姉の人生はわずか十年そこそこで終えていただろう。色々な考えと、そして何より深い絶望が駆け巡り、僕の頭は破裂しそうだった。
僕は黙ってふらりと病室を出る。
「おいっ早坂先生っ」
同僚の声が聞こえる。
「いいから、そっとしておいてやれ」
遠くから教授の声が聞こえる。
当院の中庭にはそれは見事なソメイヨシノの巨木があって、今は見事な濃い緑の葉を茂らせている。耳をつんざくようなセミの鳴き声が中庭に反響する。夏真っ盛りの生命力に満ち溢れた季節。桜の木、どこかで見た光景。夢で見たのか? どうにも思い出せない。
僕は姉の死とこの活力に満ちた季節のギャップが呑み込めずに困惑する。
この息が詰まる熱気とセミの鳴き声、そして桜の巨木へのデジャヴュに戸惑いながら僕はそれに抱かれるようにしてひたすら泣いた。桜の古木に手をついて涙が枯れてもまだ泣いた。
そうだ。はっと気がつく。白衣のポケットに手をやった。何で僕はこんな大切な物を忘れていたのか。ポケットから出てきたのは姉の病室の床頭台の棚にあったカラフルな缶箱に入っていた封筒だった。僕は震える手でこれを開封する。これに、これに姉の最期のメッセージがある。
そこにはもう一枚「ゆーくんがねーちゃんに何でもしてくれる券」が入っていた。一体何枚持ってたんだ。だが裏側を見て僕は眼を剥いた。そこには少し丸くて、だけど震える姉の字でこう書かれてあった。
<どんなに遠く離れ離れになっても、どんなに時間が経っても、例え死が二人を分かつても、優斗だけは姉ちゃんのことを絶対に、一生死ぬまで忘れないこと>
僕は思わず低い声で唸った。叫び出しそうになった。忘れる? 忘れるだって? 僕が姉さんを忘れる訳なんかないじゃないか。一生忘れるもんか。姉さんが僕の記憶として僕の中に生き続ける限り、姉さんと僕は二人で一つの特別な姉弟として生き続けるんだ。
なあ判るだろ姉さん?
僕は姉の最期の願いが書かれた紙をくちゃくちゃに握り締めながらまたひとしきり泣いた。
僕たちは、僕は破れた。姉の病に敗北を喫したのだ。無残な完敗だった。僕はおのれの無力さを激しく呪った。
※2024.1.10 大幅な修正を行いました。
これ以上の治療は姉の苦痛を引き延ばすだけだろう。僕たちは敗北を痛感した。誰もがそう思った瞬間、顔を歪め息の荒い姉が力なく僕に向かって手を伸ばした。
「ゆーと……」
僕は慌てて跪いて姉の手を取る。
「姉さんっ」
顔を姉のすぐそばに持って行く。どんなに小さな声でも聞きとれるように。
姉は小さく息を吸い込んだように見えた。そして一気に吐き出す。
「ゆーくんだあいすき」
姉は力なく僕の手を握ると弱々しく小さな野花のように微笑んだ。僕は優しく囁き返した。両親がいようとスタッフがいようともう僕には関係なかった。姉が握った痩せて骨ばったガサガサの手に口づけをする。
「知ってた。僕も……大好きだ」
「ありがとゆーくん。そっか、知ってたのか…… ふふっ、でも最後に一言だけ……でも言いたかった……の。やっと……言え……た…… だい……す……き…… ありが…… と……」
ゆっくり目を閉じる。
跪いて姉の手を握りもう一度口づけする。そうすれば目覚めるのではないかと思って。すっかり生気を失った土気色の姉の顔をひたすら見つめる十五分後、スタッフの硬く上ずった声が遥か遠い彼方から響く。
「ステルベン……です……」
僕は黙って姉の手をさすっていた。姉の安らかな寝顔を見つめる。もう一度口づけする。ああ、つい一分前まで生きて呼吸していたのに。目覚めてくれ。頼むから目覚めてくれ。そのためになら僕は自分の全てを投げ打っても構わないのに。おやじの、おふくろの嗚咽が聞こえる。
教授が時計を見る。
「4月10日14時37分死亡確認といたします」
僕は今までの志望宣告と同じように無表情で淡々としていたつもりだった。だがなんだ、この滝の様な涙は。スタッフが記録を取ったり機器を姉から取り外したりエンゼルケアを施したりする間、僕はただ茫然としてずっと姉の手を握ったまま、じっと死体と化した姉の顔を見つめていた。
こんなにやつれて。骨ばって皺だらけでかさかさのまだ温かい手を握り、姉の苦しい闘病生活に思いを馳せた。治療だなんだと言って結局僕たちはおよそ四半世紀の間姉を苦しめてしまっただけなのかもしれない。そう思うと何もかもがやるせなかった。だが治療しなければ姉の人生はわずか十年そこそこで終えていただろう。色々な考えと、そして何より深い絶望が駆け巡り、僕の頭は破裂しそうだった。
僕は黙ってふらりと病室を出る。
「おいっ早坂先生っ」
同僚の声が聞こえる。
「いいから、そっとしておいてやれ」
遠くから教授の声が聞こえる。
当院の中庭にはそれは見事なソメイヨシノの巨木があって、今は見事な濃い緑の葉を茂らせている。耳をつんざくようなセミの鳴き声が中庭に反響する。夏真っ盛りの生命力に満ち溢れた季節。桜の木、どこかで見た光景。夢で見たのか? どうにも思い出せない。
僕は姉の死とこの活力に満ちた季節のギャップが呑み込めずに困惑する。
この息が詰まる熱気とセミの鳴き声、そして桜の巨木へのデジャヴュに戸惑いながら僕はそれに抱かれるようにしてひたすら泣いた。桜の古木に手をついて涙が枯れてもまだ泣いた。
そうだ。はっと気がつく。白衣のポケットに手をやった。何で僕はこんな大切な物を忘れていたのか。ポケットから出てきたのは姉の病室の床頭台の棚にあったカラフルな缶箱に入っていた封筒だった。僕は震える手でこれを開封する。これに、これに姉の最期のメッセージがある。
そこにはもう一枚「ゆーくんがねーちゃんに何でもしてくれる券」が入っていた。一体何枚持ってたんだ。だが裏側を見て僕は眼を剥いた。そこには少し丸くて、だけど震える姉の字でこう書かれてあった。
<どんなに遠く離れ離れになっても、どんなに時間が経っても、例え死が二人を分かつても、優斗だけは姉ちゃんのことを絶対に、一生死ぬまで忘れないこと>
僕は思わず低い声で唸った。叫び出しそうになった。忘れる? 忘れるだって? 僕が姉さんを忘れる訳なんかないじゃないか。一生忘れるもんか。姉さんが僕の記憶として僕の中に生き続ける限り、姉さんと僕は二人で一つの特別な姉弟として生き続けるんだ。
なあ判るだろ姉さん?
僕は姉の最期の願いが書かれた紙をくちゃくちゃに握り締めながらまたひとしきり泣いた。
僕たちは、僕は破れた。姉の病に敗北を喫したのだ。無残な完敗だった。僕はおのれの無力さを激しく呪った。
※2024.1.10 大幅な修正を行いました。
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