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第71話 ゆーくんが姉ちゃんになんでもする券

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 あの夏の日より数か月。春も盛り、桜の季節。そろそろ石割桜も開花するだろう。柔らかな日差しが冷たい病室に差し込み、闘いに疲れ果ててやつれた姉の顔を優しく照らしていた。姉は意識を取り戻したりまた意識を失ったりを繰り返していた。幾人かの医療スタッフが経過を観察する中、僕はじっと春の日差しに照らされた姉を見つめていた。疲れてやつれていながらも僕にとっては誰よりも美しく穏やかな寝顔だった。
 七歳の発症時から数えて、ここまで悪くなったことは一度もなかった。今や死線をさまようレベルで、奇跡でも起きなければ治癒は望めまい。僕たちはもう神頼みするレベルにまでなっていた。いっそのこと祈祷師でも呼んだ方がまだましだ。僕たちは医学の限界を痛感していた。

 鼻に人工呼吸器をつけた姉の眼がすうっと薄く開かれる。

「あれ? ゆーくん?」

 小さな声で囁く姉。薄い笑顔が浮かぶ。しかし意識が混濁しているようだ。
 スタッフは皆無言だったが色めき立った。僕は姉に覆い被さるぐらい顔を近づけ眼を剥く。

「姉さんっ、姉さんっ!」

「なんだよゆーくん大げさだなあ」

 姉は薄眼を開けたままかすかな笑顔を浮かべる。

「ねえ、ゆーくん……」

「なに?」

 およそ姉らしくないか細い声に僕は背筋が冷たくなった。

「姉ちゃんもうお終いなんだよね」

「そんな事ないっ! そんな事ないからっ! 治すから! 僕たちで必ず治す! 絶対治すから!」

「もういいよ。姉ちゃんもう充分生きた」

「そんな事言うなっ! そんな事言うなよっ! まだ三十二だろっ!こんな病気の一つや二つあっという間に治してやるって!」

「楽しかったなあ……」

「姉さん! 姉さん諦めるな!」

「ああそうだ」

 指でゆっくり床頭台を指差す。たったそれだけのことなのにとても辛そうだ。

「あそこの、棚……」

 僕は棚を開けた。そこにはガムテープでグルグル巻きにしたカラフルな缶の箱が入っていた。僕が厳重なガムテ―テープを引き剥がしふたを開けるとそこにはシンプルな洋封筒と一枚の茶けた紙切れが入っていた。僕は封筒を手に取る。

「あ、その封筒はね、三時間経ったらに見て」

 小さな笑みを見せ、囁くような声でこともなげに言う姉。その瞬間僕は総毛立った。今の姉に三時間後などあるのか。僕は否定的だった。つまりそれは姉の死後。
 それに今のこれは姉との最期の会話になるはずだ。そしてこの封筒にあるものは姉からの最期のメッセージ。そう思うと僕は緊張のあまりつばを飲み込む。喉と唇がからからに乾く。
 僕はもう一枚の茶けた紙切れを見た。そこにはクレヨンの拙い字でこう書かれてあった。

「ゆーくんが姉ちゃんになんでもする券」

 姉が小四、僕が小一の頃の頃のことだ。ゲームで連敗する僕の為に姉が作った券だった。

「裏」

 小声の姉の指示に従い裏を見る。そこには衝撃的な一言が書いてあった。

 <キスして>

 ぎょっとした僕はこの券を隠して辺りを見回す。幸い誰も見ていなかった。僕は姉を見つめる。姉は半眼で僕を見つめ返す。

「お願い」

 懇願する姉。

 僕は全身を硬直させ姉の眼を凝視し続けた。
 これで最後。これが最後だ。今この瞬間しかない。この先姉のカゲロウの命より儚く短い生涯の思い出を与えられるのは今しかない。残り僅か十と数分の人生の思い出作りくらいしてやっても良いのではないか。たとえそれが人の道に外れた背徳的行為だとしても。僕はブルっと震えた。僕の視線は姉の唇に吸い寄せられた。
 姉を見つめたまま硬い表情で僕は言った。

「すいません。しばらく二人きりにしてくれませんか」

 全員が仰天した顔で僕を見る。その間機器の管理は誰がするのだろう。

「どうかお願いしますっ」

 僕は光を失った瞳の姉をじっと見つめながら懇願した。その僕の悲痛な声に負ける様にして教授が皆を連れて室外に出る。姉と僕は二人っきりになった。
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