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第53話 仮病、純潔、身の内に滾らせる炎

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 僕は開口一番厳しい口調になった。

「おい、仮病は使うな」

 姉はうっすらと目を開けた。

「判る?」

「判らんわけなかろう。さっきみたいな症状の出る病気じゃない」

 姉は薄く照れ笑いをして、顔の半分ぐらい毛布を引き上げる。そんな仕草もすごく可愛い。だが僕は心を鬼にした。

「そんなにキスが嫌だったか」

「えっ?」

「そんなに樋口さんとキスするのが嫌なのか、って言ってんだっ」

「そんな事ない。そんな事ないよ。ただびっくりしちゃって……」

「びっくりなんて顔じゃなかったぞ。あんなに真っ青になって怯えた顔をして…… なあ、樋口さんとそういう約束になっているのか?」

「別に約束なんか……」

「やっぱり好きあって結婚したんじゃないんだよな。どんな理由があるんだ」

「言わない。言わないよ」

「このっ。言わなきゃ会場で僕がぜんぶぶちまけるぞ。そして樋口さんとキスでも何でもするんだな」

「やめてっ」

 姉は毛布から顔を出して叫ぶ。

「冗談じゃない。僕は本気だ。そもそも最初っから何もかもがおかしかったんだ。いきなり不自然に僕を突き放したりして」

 姉は観念したのかベッドに横たわったまま唇を戦慄かせて震え声で訴える。

「全部あなたのためなの」

 姉は毛布の下で小さな溜息をついた。

「僕のため?」

 じゃあ僕のために姉は望まぬ結婚をしたとでも言いたいのか? なんで? どうして? 意味がわからない。

「この結婚がどうして僕のためになるんだ。訳が分からないっ」

「そうしないとっ、そうしないとあたしたちが一緒に暮らさなくちゃいけなくなるでしょっ」

「それがどうしたって言うんだ」

 むしろ僕たちにとっては良い事のように思えた。

「そしたらあなたあーちゃんと結婚できなくなっちゃう……」

 姉は両手で顔を覆って霧雨が降るように泣き始めた。そうか、姉さんは姉さんなりに僕のことを考えていてくれたってわけだ。だが今回ばかりは裏目に出たな。

「姉さん」

「……」

「彩寧は何十年だって待ち続けると言ってくれた」

「えっ……?」

 思わず顔から手を放し僕の方を見る姉。

「だからこんな茶番劇必要なかったんだ…… 姉さん、少し先走りすぎちゃったんだよ」

「そんな……」

「姉さんさ、樋山さんとどんな『契約』を結んだの?」

「……」

「肉体関係やキスはもちろん、介護上必要な接触以外は触れる事すら許さない、とかそんなとこかな」

 姉はギクッとした表情になる。図星か。

「僕の代わりに姉さんの介護をできそうな人を見つけてきて篭絡したのか」

「違う! 違うの! 最初に言い寄ってきたのはあの人なの! だから、だからあたし……」

「その気持ちを利用した、と」

「そう……」

 僕は少しだけ樋山さんが可哀想になってきた。どれだけ想っても触れる事すらかなわない。実直な純情を利用される樋山さん。その辛さは僕の想像をはるかに超えているだろう。

「それにしてもお触りさえ禁止だなんてひどすぎるな。さすがに樋山さんが可哀想に思えてきた」

 すると姉がうわ言のように呟いた。

「だって…… だって…… あたしは…… あたしの全部は……」

 僕を見つめる姉の眼の端から止めどなく涙が溢れ出す。唇を噛み震わせて声にならない嗚咽が漏れる。その儚げな姿すらも胸が潰されるほどに美しい。僕はさめざめと泣く姉に深く魅了された。

「せめてファーストキスだけはっ、ファーストキスだけでもっ……」

 僕は涙で潤んだ姉の黒い瞳に吸い込まれていく。

「それさえもっ、それさえも叶わないってゆうんならっ、あたし死ぬまで純潔を守るしかないじゃないっ!」

 吸い寄せられるように姉の枕元に跪く。姉が白い長手袋をはめた手を伸ばしてくると僕はそれを無意識のうちに掴んだ。長い事見つめ合う僕たち。

「姉さん……」

「愛未って言って」

「愛未……」

 つないだ手を振りほどいた姉が突如飛びかかって体当たりでもするようにして抱きついてきた。僕が思わずよろめくほどの勢いだった。
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