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心の基板
第34話 伊緒、懸命に説得を試みる。
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伊緒は一斉試験を受けている時を遥かに超える真剣さで考えを巡らせ、なんとかシリルを納得させようと思った。
「あ、ああ、ええと…… 無駄の反対語ってなんだっけ」
「有用、有益」
「ああ、そう、そうか、ありがと…… で、ええと、それで愛は無駄とか有益とか、そういった物やお金みたいな測り方なんて出来ないでしょ。丸損な愛とかお買い得な愛やお値打ち愛とか。それにお金や長さや重さみたいに単位とかがあるわけじゃないしさ。愛は何センチ以下で無駄な愛になるのかな」
「……」
「それと、さっきから言ってたけど、シリルは自分の心をまがい物だと思ってるの?」
膝に顔を埋めたまま小さく頷くシリル。
シリルがどこまでちゃんと聞いてくれているか分からないが、それでも伊緒は必死になってシリルを説得しようとする。
「じゃぁ、シリルの心ががまがい物だとして、そのまがい物が好きなあたしは無駄な事をしてるのかなやっぱり。ねえ、あたしのこの気持ちも無駄なまがい物?」
伊緒のその問いにぐっと目を閉じて声を絞り出すシリル。声帯部にある高精度スピーカーから発せられるその声はまるで人間のように微かに震えていた。そしてその言葉の内容は本心から出たものではない事は伊緒にも容易にわかった。
「……そうよ。だから私とはもうお付き合いしない方がいいの」
「無駄だってシリルは言うけれど、例えそうだとしてもあたしは全然構わないんだけどね。だからあたしはシリルから離れない。離れたくない」
「もうやめて…… どうして? 何も得るものがないの。何の意味もないのよ」
自分の気持ちを汲んでくれず、一方的な価値観でもって付きまとおうとする伊緒がシリルには理解できず苛立つ。独善的でさえあると感じた。自然と眉間にしわが寄る。
一方で伊緒は、知能や感情や心が人工物由来であることに起因する自己肯定感の低さにより、自分の殻に閉じこもろうとするシリルを何とか止めたかった。
「例え得るものがあるかどうかを測れたとしても、そんなの本当にどうでもいい。得るものがあるかなんてあたし自身が決めることだよ。それに意味なんてのも要らない。そんなの全然要らない。シリルを好きだって気持ちだけが一番要る。あたしにとってはそれだけあればいい。シリルにだってそれをとやかく言う権利なんてないからね。これはあたしの気持ちの問題」
「でも私には無駄なことに時間を費やす伊緒を見過ごすことなんかできない。私の心では伊緒に何もしてあげられないのよ」
午後の光を反射してゆらゆら揺らめく水面を眺めるシリル。その表情を人の心の専門家が見たら、自己評価の低さやアイデンティティの欠如に苦しむ少女のそれを想起するかもしれない。
伊緒はシリルの方を向いて少し真剣な表情になる。人を好きになるという大切な気持ちをもっとシリルに分かって欲しい。
「だから何もいらないって。シリルが好きなあたしがいて、そして今ここにシリルがいてくれる。それだけでいいんだ。何かを得るとか、利益や有益な何かが欲しくて人を好きになるんじゃないんだから」
ここでシリルに片想いをしていた頃の自分を思い出し、思わず苦笑いがこぼれる伊緒。
「あ、でもまあその人に好きになってもらわないとめちゃくちゃ辛いんだけどね、片想いはほんと辛いや、へへへっ」
シリルはそれに何の反応を見せずプールを眺めながら力なくまた否定的な言葉を口にする。
「でも私、きっと不完全なまがい物の心できっと伊緒を苦しめるわ」
「今までそんなことはなかったよね。それがまがい物じゃないって証明にならない?」
「……これからの話よ」
「それにね、もしシリルがあたしを苦しめるんだとしても、全然構わないんだ。それこそあたしの望むところ」
「えっ」
少し驚いて膝に顎を乗せたまま伊緒の方を向くシリル。
「望むところって言ったら大げさかな? でもそれが人を愛することだと思うから。愛することって甘い事ばかりじゃないと思うし」
「……」
シリルは黙って考え込む。私は伊緒のせいで苦しんだとしたら、それを甘んじて受け止める事が出来るだろうか。伊緒からつらく当たられるとか、伊緒のせいで躯体に傷がつくとか。要はそういうことなのだろう。私はそれを受け入れる事が出来るのだろうか、と。それが人間の愛なのか。人の心なのか。シリルには解らない。
「それに、そんな風に思い悩むシリルはすごく心が豊かなんだと思う」
「あ」
伊緒の言葉に、人間で言えばはっとするシリル。
「あたしなんてバカだからさあ、全然考えたことないよそんなすごいこと。あたしより全然豊かで完全な心かも知れないよ、シリルの心って。あはは」
「……」
また黙り込んだシリル。しかし、よくよく観察していなければわからないくらいの一瞬、ほんの少しだけシリルの表情に光が差したように見える。
「それにさ、結局、『完全な心』なんてものを持ってる人間もアンドロイドもきっといないよ。シリルは自分の心について高望みし過ぎなんじゃないかと思うな。あと、考えが硬いんじゃない? ふふっ」
なんだろう、私の悩みは思ったほど深刻なものではないのかもしれない、とシリルはほんの少しそう感じた。
「あ、ああ、ええと…… 無駄の反対語ってなんだっけ」
「有用、有益」
「ああ、そう、そうか、ありがと…… で、ええと、それで愛は無駄とか有益とか、そういった物やお金みたいな測り方なんて出来ないでしょ。丸損な愛とかお買い得な愛やお値打ち愛とか。それにお金や長さや重さみたいに単位とかがあるわけじゃないしさ。愛は何センチ以下で無駄な愛になるのかな」
「……」
「それと、さっきから言ってたけど、シリルは自分の心をまがい物だと思ってるの?」
膝に顔を埋めたまま小さく頷くシリル。
シリルがどこまでちゃんと聞いてくれているか分からないが、それでも伊緒は必死になってシリルを説得しようとする。
「じゃぁ、シリルの心ががまがい物だとして、そのまがい物が好きなあたしは無駄な事をしてるのかなやっぱり。ねえ、あたしのこの気持ちも無駄なまがい物?」
伊緒のその問いにぐっと目を閉じて声を絞り出すシリル。声帯部にある高精度スピーカーから発せられるその声はまるで人間のように微かに震えていた。そしてその言葉の内容は本心から出たものではない事は伊緒にも容易にわかった。
「……そうよ。だから私とはもうお付き合いしない方がいいの」
「無駄だってシリルは言うけれど、例えそうだとしてもあたしは全然構わないんだけどね。だからあたしはシリルから離れない。離れたくない」
「もうやめて…… どうして? 何も得るものがないの。何の意味もないのよ」
自分の気持ちを汲んでくれず、一方的な価値観でもって付きまとおうとする伊緒がシリルには理解できず苛立つ。独善的でさえあると感じた。自然と眉間にしわが寄る。
一方で伊緒は、知能や感情や心が人工物由来であることに起因する自己肯定感の低さにより、自分の殻に閉じこもろうとするシリルを何とか止めたかった。
「例え得るものがあるかどうかを測れたとしても、そんなの本当にどうでもいい。得るものがあるかなんてあたし自身が決めることだよ。それに意味なんてのも要らない。そんなの全然要らない。シリルを好きだって気持ちだけが一番要る。あたしにとってはそれだけあればいい。シリルにだってそれをとやかく言う権利なんてないからね。これはあたしの気持ちの問題」
「でも私には無駄なことに時間を費やす伊緒を見過ごすことなんかできない。私の心では伊緒に何もしてあげられないのよ」
午後の光を反射してゆらゆら揺らめく水面を眺めるシリル。その表情を人の心の専門家が見たら、自己評価の低さやアイデンティティの欠如に苦しむ少女のそれを想起するかもしれない。
伊緒はシリルの方を向いて少し真剣な表情になる。人を好きになるという大切な気持ちをもっとシリルに分かって欲しい。
「だから何もいらないって。シリルが好きなあたしがいて、そして今ここにシリルがいてくれる。それだけでいいんだ。何かを得るとか、利益や有益な何かが欲しくて人を好きになるんじゃないんだから」
ここでシリルに片想いをしていた頃の自分を思い出し、思わず苦笑いがこぼれる伊緒。
「あ、でもまあその人に好きになってもらわないとめちゃくちゃ辛いんだけどね、片想いはほんと辛いや、へへへっ」
シリルはそれに何の反応を見せずプールを眺めながら力なくまた否定的な言葉を口にする。
「でも私、きっと不完全なまがい物の心できっと伊緒を苦しめるわ」
「今までそんなことはなかったよね。それがまがい物じゃないって証明にならない?」
「……これからの話よ」
「それにね、もしシリルがあたしを苦しめるんだとしても、全然構わないんだ。それこそあたしの望むところ」
「えっ」
少し驚いて膝に顎を乗せたまま伊緒の方を向くシリル。
「望むところって言ったら大げさかな? でもそれが人を愛することだと思うから。愛することって甘い事ばかりじゃないと思うし」
「……」
シリルは黙って考え込む。私は伊緒のせいで苦しんだとしたら、それを甘んじて受け止める事が出来るだろうか。伊緒からつらく当たられるとか、伊緒のせいで躯体に傷がつくとか。要はそういうことなのだろう。私はそれを受け入れる事が出来るのだろうか、と。それが人間の愛なのか。人の心なのか。シリルには解らない。
「それに、そんな風に思い悩むシリルはすごく心が豊かなんだと思う」
「あ」
伊緒の言葉に、人間で言えばはっとするシリル。
「あたしなんてバカだからさあ、全然考えたことないよそんなすごいこと。あたしより全然豊かで完全な心かも知れないよ、シリルの心って。あはは」
「……」
また黙り込んだシリル。しかし、よくよく観察していなければわからないくらいの一瞬、ほんの少しだけシリルの表情に光が差したように見える。
「それにさ、結局、『完全な心』なんてものを持ってる人間もアンドロイドもきっといないよ。シリルは自分の心について高望みし過ぎなんじゃないかと思うな。あと、考えが硬いんじゃない? ふふっ」
なんだろう、私の悩みは思ったほど深刻なものではないのかもしれない、とシリルはほんの少しそう感じた。
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