ルシアナのマイペースな結婚生活

ゆき真白

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第十二章

発熱・一、のそのあと

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 薄暗い部屋で、レオンハルトは手元の書類に視線を落とす。しかし、それも長くは続かず、気が付けば、静かに眠る愛しい人へ目は向いていた。
 もうずいぶんと長い時間、そんなことを繰り返している。
 レオンハルトは深く息を吐き出すと立ち上がり、持っていた書類を椅子の座面に置いた。ベッドの縁に腰掛け、濡れたタオルをルシアナの額や頬に当てる。

(……貴女の望みなら、何でも叶えられると思っていた)

 あのあと。ルシアナの部屋を辞したあと、すぐにベルがレオンハルトの元へとやって来た。
 泣いたのは決してレオンハルトのせいではないと。ルシアナがとても気にしており、誤解だと伝えてほしいと言っていたと、ベルは伝えてくれた。

『だが、お前の前で吐いたこと自体は気にしていたぞ。心配する気持ちはわかるが、傍にいたいならあの子の許可を取ってからにしろ』

 そう言って去って行ったベルを見送り、ルシアナを心配しつつ、レオンハルトを励ますヴァルの言葉を聞きながら、レオンハルトは葛藤した。
 自分のせいで泣いたわけではないことに対する安堵より、苦しい状態のなか自分を気遣わせてしまったことが申し訳なかった。そう思いつつ、それでもルシアナの傍にいたくて仕方がなくて、それも申し訳なかった。

 ルシアナの意思を尊重するなら、彼女が快復するまで接触は控えるべきだ。
 わかっているのに、彼女の意思を無視してでも、苦しむ彼女の傍にいたかった。
 ルシアナの意思を無視するなど有り得ないことだ。望みは薄くても、ベルの言っていた通り、ルシアナの許可を取るべきなのは理解している。

 それでも、どうしても我慢できなくて、結局レオンハルトはルシアナの傍にいることを選んだ。もしまたルシアナが目の前で嘔吐したとしても、今度は絶対に傍を離れない覚悟を持って、ルシアナの傍に居続けた。
 幸か不幸か、あれからルシアナは眠り続けており、彼女に咎められることも、彼女が嘔吐する場面に立ち会うこともなかった。

(俺の行動は……貴女を傷付けるだろうか)

 タオルをボウルに戻し、レオンハルトはルシアナの頬に触れる。
 体の内から燃えているのではないかと思うほどルシアナの頬は熱く、自然と顔が険しくなる。

(何故、俺は気付かなかったんだ。貴女に触れたのに……貴女のすぐ傍にいたのに……)

 ルシアナの不調に気付けなかったことが、心底腹立たしい。
 これまで体調を崩した経験がないため、ルシアナの苦しみに寄り添うことができないことも悔しかった。

「……俺が、変わってやれたら……」
「……ん」

(……!)

 小さな呟きに応えるように、ルシアナの睫毛が震えた。ゆっくり、本当にゆっくりと瞼が上がっていき、美しいロイヤルパープルの瞳が姿を現す。熱のせいか、潤んだ瞳には覇気がなく、ぼんやりと空を見つめていた。

「ルシアナ……?」

 汗ばんだ肌を撫でながら声を掛ければ、ルシアナの視線が腕を辿りレオンハルトを捉えた。

「れ、お……」
「! 待ってくれ。今、水を」

 掠れた声で重苦しく息を吐いたルシアナに、レオンハルトは急いで吸い飲みを手に取る。
 エステルが説明してくれるまで、病人に水などを飲ませるための容器があることをレオンハルトは知らなかった。
 慣れないことに、緊張で鼓動が速まる。十年前の初陣のときでさえ、こんなに緊張はしなかった。
 手が震えそうになるのを堪えながら、慎重に水を流していく。少しして、ルシアナが吸い口から口を離した。吸い飲みをサイドテーブルに戻し、清潔な布で口元を拭えば、ルシアナは力なく微笑んだ。

「れおんはるとさま」

 寝起きのせいか、熱のせいか、舌足らずにレオンハルトの名を呼んだルシアナは、横臥位に姿勢を変えると、ベッドについたレオンハルトの手に手を重ねた。

「れおんはると、さま」
「……ああ。どうした? 何か必要なものはあるか?」

 ベッドから降り、視線を合わせるように屈めば、ルシアナがわずかに眉尻を下げた。

「ごめん、なさい」

 弱々しい謝罪に、心臓が酷く痛んだ。鋭い刃で切り裂かれたようにずきずきと痛み、思わず涙が出そうになった。

「何故……謝るんだ? 貴女が謝るようなことは何もないだろう?」
「泣い、ちゃって……追い出すみたいに、なって……」

 潤む彼女の瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちていく。「ごめんなさい」と繰り返すルシアナに、気が付けば彼女を抱き締めていた。

「いいんだ。貴女は何も悪くない。出て行ったのは俺の意思だし、泣いたのは不可抗力だったんだろう? ベル様からきちんと聞いている。だから、何も気にすることはないんだ。俺は気にしていないし……むしろ、謝るなら俺のほうだろう」

 顔を上げたルシアナが、不思議そうに小首を傾げる。その愛らしい姿に小さく笑みながら、濡れたルシアナの頬を拭った。

「今度、貴女が嘔吐するようなことがあっても……俺はきっと、貴女の傍を離れないから」

 大きく目を見開いたルシアナが、力なくレオンハルトのシャツを掴む。片腕でルシアナを抱き締めたまま、もう一方の手で、その縋るようなルシアナの手を包んだ。

「すまない。こればかりは譲れない。貴女のためなら……貴女が望むことなら、余程のことでない限り叶えるつもりだった。叶えられると思っていた。それだけの力があると自負していたから。だが、力があろうと、すべてを叶えられるわけではないと……今回初めて痛感した」

 落ち着かせるように背を撫でながら、レオンハルトは優しく言葉を続ける。

「貴女が苦しんでいるとき、俺は貴女の傍にいたい。貴女が辛いとき、傍で支えていたい。貴女が見せたくない姿だとしても、貴女が望まないとしても、これが俺のわがままだったとしても、俺は自分の意志を曲げない。だから……すまない、ルシアナ」

 そっと手を放し、彼女の目尻を拭えば、ルシアナは少しだけ悲しそうに眉を下げた。

「……わたくしは、綺麗な姿だけ、見てほしいです。あのように、汚い――」
「どんな姿で、どんな状況だろうと、貴女は綺麗だ。貴女が綺麗でないことなんてない。貴女から吐き出されるものなら、例え嘔吐物だって愛おしい」

(……ん?)

 勢いで言い切ってから、レオンハルトは内心首を傾げる。そんなレオンハルトの心境を表すかのように、ルシアナは困ったように微笑んだ。

「それは……あまり嬉しくないかもしれません」
「……そうだな。俺も変なことを言った自覚がある」

(だが、実際、心配こそすれ、汚いなど思うわけがない。これをどう伝えれば……)

「……ふふ」

 何と言葉を尽くせばルシアナに想いが通じるのか思案していたレオンハルトだが、聞こえた小さな笑い声に意識をルシアナに戻す。彼女を見れば、ルシアナはおかしそうに口元を抑えていた。

「……俺の気持ちが、少しは伝わったか?」

 野暮だと思いつつ、疑問を投げかける。すると、口から手を放したルシアナが、こくりと頷いた。

「レオンハルト様のお言葉には、驚きましたが……それだけ、愛して、くださっているのだと……。それに、わたくしも……もしも、立場が逆だったら、レオンハルトのお傍にいたいと……思ったので」

 先ほどより生気が宿った目で、ルシアナが笑む。いまだ涙が滲む瞳には照明の光がきらきらと映り込み、出会ったころの、あどけなく無垢だった彼女を思い起こさせた。

(いや。あのころにはなかった確かな思慕が、今の彼女の眼差しからは感じられる)

 ルシアナと出会ってから、まだ一年も経っていない。想いを通じ合わせてからは、たったの数ヵ月だ。
 それでも確かに、二人の間には深い愛情が在るのだと、そう強く感じられた。

(ルシアナ。俺は貴女をどうしようもなく愛している。欲深いことだが、貴女もそうなのだと……少しは、そう思ってもいいか?)

 愛おしそうにこちらを見つめるルシアナの赤い頬を撫でながら、額に軽い口付けを贈る。

「ほしいものや必要なものがあったら遠慮せずに言ってくれ。俺は、貴女にたくさん甘えられて、頼られたいんだ。先ほどから我を通してばかりだが、どうか俺の願いを聞いてくれないか? ルシアナ」

 顔を覗き込みながら甘く尋ねれば、ルシアナがかすかに瞳を揺らした。
 自分のわがままという体を取ってはいるが、真面目で気遣い屋のルシアナのことだ。甘えることに対して、そう簡単には頷かないかもしれない。そう思ったものの、予想はいい方向に外れ、ルシアナはレオンハルトの胸元に顔をすり寄せながら、小さく頷いた。
 それに得も言われぬ喜びを感じながら、ルシアナが離れようとするまでずっと抱き締め続けた。
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