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第十一章

レオンハルトの精霊(三)

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 あのあと呼ばれたフーゴから下された診断は、「完治」だった。
 その診断には、ルシアナ以上にユーディットやエステルなどの周りの人々が喜んだ。
 余程心配をかけていたのだろう、と少し前の出来事を思い出しながら、ルシアナは鏡に映る自分を見つめる。
 目元は相変わらず腫れぼったいが、血色の悪かった頬は淡く色づいており、ここ数日で一番顔色がよかった。怪我の心配がなくなったため、久しぶりにゆっくりと湯浴みすることができたことが理由だろう、とルシアナは考える。

(あとは食事かしら。まだ制限はあるけれど、久しぶりに一皿食べられたわ。具も入っていたのに)

 診察が終わると、フーゴはすぐに食事について言及した。

『突然多くのものを召し上がられては体が驚いてしまいますので、徐々に固形物を増やしていきましょう。まずは野菜から始め、次に脂身の少ない赤身の肉を。それを召し上がって体調が悪くならなければ、脂身のある肉や油物をお召し上がりになっても問題ございません』

 そうにこやかに告げたフーゴに、「すぐに厨房に伝えて来ます」とヴァルターが飛び出していき、夕食には煮崩れした野菜が溶け込んだスープが出された。
 目が覚めてからは冷めかけのぬるい流動食ばかりを食べていたため、久しぶりの温かい食事に体と心が喜んでいたような気がする。

「奥様。よろしければ、お休み前にハーブティーなどをご用意いたしましょうか」

 髪を乾かし終わったのか、タオルを櫛に持ち替えたエステルが、鏡越しに微笑んだ。

(そうだわ、温かい物も冷たい物を口にできるようになったから……)

 もう好きだったお茶を飲んでもいいのか、と心が浮き立ったルシアナだが、少し逡巡したのち、緩く首を横に振った。

「いいえ、大丈夫よ。ありがとう、エステル」
「かしこまりました。何かございましたらいつでもご用命ください」

 ルシアナは頷きながら笑みを返すと、手元に視線を落とした。左手の薬指に煌めく指輪に触れながら、小さく息を吐き出す。
 正直に言えば、エステルの淹れてくれるお茶を飲みたかった。
 これほどゆったりとした心地で夜を過ごすのは久しぶりで、ここにエステルの淹れてくれるハーブティーがあれば、より心安らかになるのは間違いない。きっと悪夢も見ないだろう。

(……悪夢……)

 目覚めてから、レオンハルトを失うという悪夢を毎夜見続けていた。
 目の前で倒れたレオンハルトが、時には指先から崩れ落ち、時には粉々に砕け、時には皮膚が腐れ落ちた。夢だとわかっていても、思い出すだけで指先が震えた。

(大丈夫、大丈夫よ。レオンハルト様は生きていらっしゃる……今が現実だもの)

 エステルのお茶は飲みたい。しかし、それ以上に、早くレオンハルトに会いたかった。
 診察を終え、一緒に食事を取ったあと、レオンハルトとは一時別れた。レオンハルトは、彼の寝室に併設されている浴室を使っていいと言ってくれたが、彼自身もゆっくり湯に浸かりたいだろうと遠慮したのだ。

(清浄の魔法がかけられていても、お湯でさっぱりしたいものね。……けれど、さすがにもう上がられたわよね……? わたくしも逸る気持ちを抑えてゆっくり湯浴みしたもの……もう伺っても大丈夫よね……?)

「すぐに旦那様の元へと向かわれますか?」

 まるで心を見透かされたかのようなエステルの言葉に、ルシアナは肩を跳ねさせる。驚いて視線を上げれば、鏡越しにエステルが小首を傾げた。

「余計なことを申しましたでしょうか」
「いいえ、そんなことないわ。ちょうどレオンハルト様の元へ伺うことを考えていたから、驚いてしまって。……そうね、もう向かおうかしら」
「かしこまりました」

 柔和な笑みを浮かべたエステルに頷き返すと、椅子から立ち上がり用意されていたナイトガウンを着用する。
 エステルが腰紐を結んでくれたのを確認すると、もう一度鏡で自分の姿を見た。
 倒れる前に比べると、まだ少々顔色は悪く見える。しかし、目には生気が戻ってきており、ここしばらく漂っていた悲壮感は感じさせなかった。

(先ほどに比べたら、見られる顔になったかしら)

 終始心配そうな、何とも言えない表情で自分を見つめていたレオンハルトを思い返しながら、ルシアナはぐっと口角を上げる。と、同時に扉のほうからガタリという物音が聞こえ、ルシアナは素早くそちらを振り返った。

「エステル? どうかしたの?」

 半端に扉を開けた状態で廊下を凝視していたエステルは、ルシアナの声に我に返ったのか、はっとしたようにこちらに視線を向けると、扉を大きく開いた。

(まあ……!)

「レオンハルト様……!」

 扉の先に佇んでいた人物に、ルシアナは目を瞬かせると駆け寄った。

「どうかされたのですか?」
「いや……ただ貴女ことが気にかかってな。……驚かせた、マトス夫人」
「いいえ、問題ございません。大変失礼いたしました」

 深く頭を下げたエステルに、先ほどの彼女の様子を思い出したルシアナは、じっとレオンハルトを見上げた。

「まさか、外で待たれていたのですか?」
「……少しだけな。貴女を急かすようなことはしたくなくて」
「まあ、そのようなこと……お声掛けいただきたかったですわ」

 そっと彼の手に触れれば、その指先は湯上りだとは思えないほど冷たかった。

(お体が冷えてしまっているわ。早く温まっていただきたいけれど……)

 ここまで来てもらったのだから、この部屋に通すべきだろう。
 そう理解しているものの、彼を招き入れるための一言がどうしても出て来なかった。
 レオンハルトが用意してくれた、白と瑠璃色と銀の三色でまとめられた部屋。
 ルシアには少々大きい家具が置かれた、大人びた部屋。
 レオンハルト本人から「合っていない」と言われてしまった、ついぞ馴染めなかった部屋。
 そんなくだらないことを気にしている場合ではないと思いつつ、なかなか言葉を紡げずにいると、レオンハルトが先に口を開いた。

「皆はもう下がってくれ。今夜はここで休む」

 レオンハルトの言葉に、エステルも、部屋にいたメイドたちも素早く部屋を出て行った。

(あ……)

 ゆっくりと閉まる扉をぼうっと眺めていると、「ルシアナ」と優しく名前を呼ばれる。視線を上げれば、レオンハルトが眉尻を下げて微笑んだ。

「勝手なことをしてすまない」
「……いいえ、勝手だなんて。そんなことありませんわ、レオンハルト様」

 ルシアナは小さな笑みを返すと、レオンハルトの手を引き、彼を暖炉の前のソファまで案内した。白い革張りのソファに座るよう促せば、彼は当然のようにルシアナを膝の上に座らせた。

「温かいな、ルシアナ」
「レオンハルト様が冷えていらっしゃるのですわ。次からはお声掛けいただくか……レオンハルト様のお部屋でお待ちくださいませ」
「そうだな。だが、貴女の部屋を訪れたのには理由があるんだ。貴女の様子が気にかかっていたというのもあるんだが……」
「おれがルシアナの部屋がいいって言ったんだ。ルシアナの部屋には、ベルの魔精石ましょうせきがあるから」

(この声は……)

 声がしたほうへ目を向ければ、暖炉の火でその輪郭を橙に染めた青い精霊が立っていた。

「怪我、大丈夫みたいで安心した。……よかった、本当に」

 どこか遠慮がちに、それでも心底嬉しそうに微笑む精霊に、ルシアナの視線は思わず釘付けになった。
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