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第十章

もう一人の執事(二)

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「ヴァルターさんが旦那様がいらっしゃらないときに邸に来るのは珍しいですね」

 書類に目を落としながらエーリクが声を掛けると、ヴァルターは空いている手で白いエーリクの頭を撫でた。

「おいおい、半年いなかっただけで、公爵邸に俺の部屋があるの忘れちまったのか?」
「ああ、すみません。ギュンターさんのお部屋かと」
「おい!」

 ヴァルターは少々乱暴にエーリクの髪を乱すと、ルシアナの元にやって来る。

「まったく……酷いと思いませんか? たった二人の執事なのに」

 ルシアナの前に静かにソーサーを置くヴァルターと、乱れた髪を直しているエーリクを交互に見る。口では不満を漏らしつつも、ヴァルターの表情は楽しげで、エーリクの横顔にも穏やかな笑みが浮かんでいる。
 これがこの二人の、この邸の日常なのだと思うと微笑ましくて、ルシアナは口元を綻ばせた。

「仲が良いのね」
「それはもう」
「いいえ」

 肯定したヴァルターと、否定したエーリクの声が重なる。顔を見合わせる二人に、ルシアナはふふっと笑みを漏らした。

「二人といたら、レオンハルト様もきっと楽しいでしょうね」
「そうですかね? だったらいいのですが」

 ルシアナに視線を戻したヴァルターの目が温かく、レオンハルトに対する情が感じられた。
 ヴァルターが持って来てくれたラベンダーティーに口を付けながら、ルシアナは小首を傾げる。

「ギュンターがお義父様……ヴァルヘルター公爵家に仕えていたと聞いたけれど、ヴァルターもレオンハルト様とは幼少のころから面識があったのかしら?」
「乳兄弟です。私の母が旦那様の乳母で」
「まあ……! そうだったのね!」

 ルシアナがぱっと顔を輝かせると、ヴァルターは優しげに目尻を下げた。

「奥様と旦那様も、とても仲がよろしいようですね」
「え、そ、そうかしら? ……そうだと嬉しいわ」

 突然の発言に一瞬戸惑ったものの、ルシアナはすぐに頬を淡く染め、目を伏せた。
 ルシアナも、自分とレオンハルトの仲が良好だという自覚はあった。しかし、こうして昔からレオンハルトを知る人物に面と向かって言われると、自惚れではなく客観的に見てもそうなのだと実感し、少々照れくさくなった。

(……そうよね。わたくしとレオンハルト様はお互い想い合っているのだから、少し寂しいくらい、わたくしが我慢すればいいわ。お会いしたときに「寂しかった」と甘えれば……いいのだから……)

 レオンハルトが帰って来たときのことを考えて、さらに頬が熱くなる。
 離れていた間寂しかった、と甘えれば、彼はとことんまで甘やかしてくれるだろう。
 際限なく愛を囁き、甘い口付けを与え、愛撫でこの身を溶かし、体の奥深くまで彼で満たしてくれるだろう。
 具体的な場面まで想像してしまい、ルシアナは小さく首を横に振る。

(も、もう、わたくしったら……はしたないわ、こんなこと)

 気持ちを落ち着けるようにもう一口ラベンダーティーを飲んだルシアナは、話題を変えようと息を吸う。しかし、ルシアナが何か言うよりも早く、感慨深そうに頷いていたヴァルターが口を開いた。

「これまで旦那様から邸への伝言など頼まれたことがないので驚きましたが、きっと奥様のことを考えてのことでしょうね」
「! ヴァルターさん、ちょっと……」
「おお? どうした、エーリク」

 少々慌てたようなエーリクに連れられ、部屋の隅へと向かった二人を見つめながら、ルシアナは首を傾げる。

(……レオンハルト様からの伝言……?)

 先ほどまで昂っていた気持ちが嘘のように冷めていくのを感じながら、ルシアナはお手本のような笑みを浮かべ、カップに口を付ける。

(レオンハルト様は、ヴァルターとは連絡を取っているの……?)

 自分には何もないのに? という疑問はぐっと飲み込み、言い訳を脳内に羅列してく。
 ヴァルターは対外的な対応を中心に行っているとギュンターが言っていた。エーリクからも教わったことがあるが、外部の人間が関わることはすべてヴァルターの管轄だそうだ。レオンハルトからの書状を届けたり、交渉をしたり、情報収集などもヴァルターが行っているらしい。

(だから……仕方ないのよ。ヴァルターはレオンハルト様の指示でいろいろな場所へ足を運んでいるし、外部との連絡はヴァルターを通して行っているのだもの。密に連絡をしなければいけない相手だわ。連絡を取ったところで、近況や他愛ない話しかできないわたくしとは違うもの。だから、これは、的外れな感情なの)

 澄まし顔のまま、空になったカップに口を付け続けていると、部屋の隅にいた二人が戻って来る。
 ヴァルターの表情には気まずさのようなものが見て取れたものの、彼は明るい笑みをルシアナに向ける。

「たまたまです! たまたま用があって、ついでに頼まれたんです!」
「ヴァルターさん!」
「ついでではありません! 私への用がついででした! 申し訳ありません、戻ったばかりで少々混乱してしまったようです!」

 深く腰を折ったヴァルターに、エーリクもにこりと笑みを浮かべて、ルシアナを見る。

「ヴァルターさんは優秀な方なのですが、そのせいで各地を飛び回っていて少々疲労が溜まっているのかもしれません。私からも謝罪いたします」
「本当に申し訳ありません! とんでもない言い間違いをしてしまいました! 旦那様が奥様を大切に想っていらっしゃることは、半年領地にいた私にもきちんと伝わっていますので!」
「大丈夫よ。気にしていないわ。だから頭を上げて、ヴァルター」
「はい! ありがとうございます!」

 頭を上げたヴァルターは、にかっと口を開けて笑う。エーリクも変わらず笑みを浮かべており、そんな二人にルシアナもにっこりと笑みを返した。

「ところで、レオンハルト様からの伝言というのは何かしら?」
「は! 明日の夜には帰宅すると、そう奥様に伝えてほしいと頼まれました!」
「……レオンハルト様がお帰りになられるの?」

 先ほどのささくれ立った気持ちが、ふわりと喜びに包まれる。
 ルシアナの瞳が煌めいたのを察したのか、ヴァルターの表情から強張りが消え、人懐こい自然な笑みがこぼれた。

「はい。西部だけでなく各地を回っていたので予定より帰るのが遅くなってしまったことを申し訳なさそうにしてしました」
「まあ……ヴァルターもレオンハルト様に同行していたの?」

 まるで直接伝えられたかのように話すヴァルターに、先ほど抱いた嫉妬にも似た感情は本当に的外れだったかもしれないと反省したルシアナだったが、続くヴァルターの言葉に、笑みを張り付けたまま固まる。

「いえ。私は旦那様とすぐに連絡が取れるよう、携行型の通信装置を持っていますので――」
「ヴァルターさん……!」

 エーリクの制止の声に、ヴァルターは、はっと口を閉じると、ルシアナを見つめる。
 ルシアナは笑みを湛えたまま「そうなの」と小さく返す。

「言伝ありがとう、ヴァルター。お帰りがいつになるのか気になっていたから助かるわ」
「……はは! お役に立てたなら、何よりです! ――あ! 新しいお飲みものをお持ちしますね!」

 空になったカップを取り、ヴァルターはそそくさと部屋を後にする。

「……何かつまめるものも、頼んでまいりますね」

 そう言って、柔和な笑みを浮かべたエーリクも退出する。
 人気のなくなった室内で、ルシアナは拗ねたように唇を尖らせた。
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