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第九章
初めての夜(九)
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お湯が冷めないよう、時折お湯を足しながら、レオンハルトはルシアナが落ち着くまで口付けを繰り返した。
どれくらいそうしていたのか、ルシアナは流れて減った泡を見ながら、すんと鼻を啜る。
「泡を減らしてしまってごめんなさい……」
「謝るようなことじゃない。貴女は律儀だな」
レオンハルトはおかしそうに小さく笑うと、ルシアナを足の上から退かした。
「水差しとグラスを持ってくる。貴女はそのまま浸かっていてくれ」
そう言って頭を撫でるとレオンハルトはバスタブから出る。体についた泡を手早く流し、ワゴンに掛けていたナイトガウンを適当に腰に巻くと寝室へと向かった。
ルシアナはレオンハルトが出て行ったのを確認すると涙で濡れた顔を洗う。
(レオンハルト様に甘やかされることに慣れてしまっているわ……)
ぽたぽたと水滴が落ちる水面を見ながら、ルシアナは結婚式のあとレオンハルトに言われた言葉を思い出していた。
『貴女に許されないことなどない。思ったことや願いは躊躇わず言ってくれていい。……意地悪でも、わがままでも構わない』
あのときは、「図々しい人間になるからあまり甘やかさないでくれ」と彼に伝えた。それに対しレオンハルトは「構わない」と返したが、その言葉をそのまま受け入れて甘えようとは思わなかったはずだ。
だというのに、今はレオンハルトの優しさが当たり前だとでもいうように甘え、与えられるものを甘受している。それどころか、もっともっとと欲張りになっているような気さえする。
(……いいえ。事実、欲張りになっているのだわ。だって――)
扉の開く音に顔を上げれば、水差しとグラスを持ったレオンハルトがいた。彼は扉を閉め、バスタブの横のワゴンにそれらを載せると、ガウンを衝立に掛けてバスタブに戻る。そしてもう一度ルシアナを足の上に座らせ、片腕でしっかりとその腰を抱くと、水差しを取ってグラスに水を注いだ。
されるがまま、ルシアナはレオンハルトの肩に手を置き、精悍な彼の横顔を眺める。
「俺の顔に何かついているか?」
「……いえ」
緩く首を横に振るルシアナに、レオンハルトは横目でルシアナを見るとわずかに口角を上げた。中ほどまで水の入ったグラスを持ち、その中身を口に含むと、そのままルシアナに口付ける。
彼から分け与えられた水はするすると喉を通っていき、水分が全身に広がっていくのを感じた。
レオンハルトに与えられるものが唯一自分を生かすのだと、そんな錯覚を覚えそうなほど体が潤っていく。
「……もう、大丈夫ですわ」
何度か口移しされたあとそう伝えれば、彼はグラスの中身を飲み干し、空になったグラスをワゴンに置いてルシアナの頬を撫でた。
「喉が渇いたらいつでも言ってくれ」
顔に張り付いた髪の毛を払いながら優しく微笑むレオンハルトに、ルシアナの胸は締め付けられた。
心の中に渦巻く疑問を無視できなくて、唇を震わせながら、真っ直ぐシアンの瞳を見つめる。
「レオンハルト様は……わたくしが“妻”だから、優しくしてくださるのですか……?」
「――は……?」
「わたくしが……例えば、わたくしが婚約者でなければ……縁談などなくて、お互い何もない状態で会っていたら、わたくしのことを妻にと望んでくださいましたか? わたくしが、あなた様の唯一の伴侶と決まっていなくても……それでも、わたくしのことを愛してくださいましたか……?」
呆気に取られたように目を見開くレオンハルトを、ルシアナはじっと見つめる。目から涙がこぼれていることはわかっていたが、レオンハルトから視線を逸らしたくなくて、ただ彼の言葉を待った。
しかし、彼は言われたことが理解できないのか、何を言おうか迷っているのか、口を半開きにしたまま動かない。
ルシアナ自身、とても面倒くさいことを言っている自覚はあった。
彼は今、自分を愛してくれている。だったらそれでいいではないか、とわずかに残った理性が訴えるが、貪欲な本能がそれでは足りないと叫ぶ。
“いずれ妻になる”という前提がなくても愛したと。
そんなものなくてもルシアナ自身に惹かれているのだと。
そう言ってほしかった。
「わたくしは……わたくしは、きっと……縁談などなくても、レオンハルト様を好きになりました……例え……冷たくされても……」
彼を慕った多くの令嬢のように、テオバルドの隣で立派に責務を果たす彼を遠くから眺めたことだろう。
少しでも彼の目に留まりたくて、王女という立場を利用して頻繁にシュネーヴェ王国に来たかもしれない。それで彼にあしらわれても、彼は人を見て態度を変えない人なのだと好意的に受け取っただろう。
「わたくしは、レオンハルト様の、真面目で、誠実なお人柄を……好きになりました。なので、縁談がなければ……っ……」
胸がずきずきと痛んで、耐えきれず顔を俯かせる。次々と涙が溢れ、呼吸が荒くなっていくなか、それでもルシアナは続けた。
「縁談が……なければ……愛さなかったと思われたならっ……っどうか、正直にっ……」
漏れそうになる嗚咽を必死に堪えながらレオンハルトの言葉を待っていると、少しして、彼の手が頬に添えられた。その手はルシアナに上を向かせようと力を込めるが、ルシアナは怖くて顔を上げられなかった。
優しい彼は、もしかしたら優しい嘘をつくかもしれない。けれど、彼の表情を見ればそれが嘘かどうか自分にはわかってしまう。だから、顔を上げてレオンハルトの顔を見るのが怖かった。
「……ルシアナ。どうか、顔を上げてはくれないか」
羽根でくすぐるような柔らかく優しい声に、ふっと体の力が抜け、レオンハルトに導かれるまま顔を上げる。
滲む視界の先で、レオンハルトが至極嬉しそうに微笑んでいるのを見て、今度はルシアナが大きく目を見開いた。
「ルシアナ。貴女はどれだけ俺に幸福を与えれば気が済むんだ?」
「え……」
しゃくりあげるルシアナの首を撫でると、レオンハルトはきつくルシアナを抱き締めた。
「貴女が泣いているのに……俺がきちんと言葉にしなかったせいで、不安にさせて泣かせてしまったのに……嬉しいと喜びを感じている俺を、どうか許してくれ、ルシアナ」
レオンハルトはルシアナの頭を撫でながら、耳元に顔をすり寄せる。
「愛してる、ルシアナ。貴女を、誰よりも愛してる。貴女が“妻”だからではない。貴女だけなんだ。俺には、貴女だけが……」
感極まったように深く息を吐き出したレオンハルトは、そっと体を離すと、陶然と微笑みながらルシアナを見つめた。
「聞いてくれ、ルシアナ。初めからすべて伝えるから。俺にとって、どれほど貴女が特別か。全部、言葉にして伝えるから」
どれくらいそうしていたのか、ルシアナは流れて減った泡を見ながら、すんと鼻を啜る。
「泡を減らしてしまってごめんなさい……」
「謝るようなことじゃない。貴女は律儀だな」
レオンハルトはおかしそうに小さく笑うと、ルシアナを足の上から退かした。
「水差しとグラスを持ってくる。貴女はそのまま浸かっていてくれ」
そう言って頭を撫でるとレオンハルトはバスタブから出る。体についた泡を手早く流し、ワゴンに掛けていたナイトガウンを適当に腰に巻くと寝室へと向かった。
ルシアナはレオンハルトが出て行ったのを確認すると涙で濡れた顔を洗う。
(レオンハルト様に甘やかされることに慣れてしまっているわ……)
ぽたぽたと水滴が落ちる水面を見ながら、ルシアナは結婚式のあとレオンハルトに言われた言葉を思い出していた。
『貴女に許されないことなどない。思ったことや願いは躊躇わず言ってくれていい。……意地悪でも、わがままでも構わない』
あのときは、「図々しい人間になるからあまり甘やかさないでくれ」と彼に伝えた。それに対しレオンハルトは「構わない」と返したが、その言葉をそのまま受け入れて甘えようとは思わなかったはずだ。
だというのに、今はレオンハルトの優しさが当たり前だとでもいうように甘え、与えられるものを甘受している。それどころか、もっともっとと欲張りになっているような気さえする。
(……いいえ。事実、欲張りになっているのだわ。だって――)
扉の開く音に顔を上げれば、水差しとグラスを持ったレオンハルトがいた。彼は扉を閉め、バスタブの横のワゴンにそれらを載せると、ガウンを衝立に掛けてバスタブに戻る。そしてもう一度ルシアナを足の上に座らせ、片腕でしっかりとその腰を抱くと、水差しを取ってグラスに水を注いだ。
されるがまま、ルシアナはレオンハルトの肩に手を置き、精悍な彼の横顔を眺める。
「俺の顔に何かついているか?」
「……いえ」
緩く首を横に振るルシアナに、レオンハルトは横目でルシアナを見るとわずかに口角を上げた。中ほどまで水の入ったグラスを持ち、その中身を口に含むと、そのままルシアナに口付ける。
彼から分け与えられた水はするすると喉を通っていき、水分が全身に広がっていくのを感じた。
レオンハルトに与えられるものが唯一自分を生かすのだと、そんな錯覚を覚えそうなほど体が潤っていく。
「……もう、大丈夫ですわ」
何度か口移しされたあとそう伝えれば、彼はグラスの中身を飲み干し、空になったグラスをワゴンに置いてルシアナの頬を撫でた。
「喉が渇いたらいつでも言ってくれ」
顔に張り付いた髪の毛を払いながら優しく微笑むレオンハルトに、ルシアナの胸は締め付けられた。
心の中に渦巻く疑問を無視できなくて、唇を震わせながら、真っ直ぐシアンの瞳を見つめる。
「レオンハルト様は……わたくしが“妻”だから、優しくしてくださるのですか……?」
「――は……?」
「わたくしが……例えば、わたくしが婚約者でなければ……縁談などなくて、お互い何もない状態で会っていたら、わたくしのことを妻にと望んでくださいましたか? わたくしが、あなた様の唯一の伴侶と決まっていなくても……それでも、わたくしのことを愛してくださいましたか……?」
呆気に取られたように目を見開くレオンハルトを、ルシアナはじっと見つめる。目から涙がこぼれていることはわかっていたが、レオンハルトから視線を逸らしたくなくて、ただ彼の言葉を待った。
しかし、彼は言われたことが理解できないのか、何を言おうか迷っているのか、口を半開きにしたまま動かない。
ルシアナ自身、とても面倒くさいことを言っている自覚はあった。
彼は今、自分を愛してくれている。だったらそれでいいではないか、とわずかに残った理性が訴えるが、貪欲な本能がそれでは足りないと叫ぶ。
“いずれ妻になる”という前提がなくても愛したと。
そんなものなくてもルシアナ自身に惹かれているのだと。
そう言ってほしかった。
「わたくしは……わたくしは、きっと……縁談などなくても、レオンハルト様を好きになりました……例え……冷たくされても……」
彼を慕った多くの令嬢のように、テオバルドの隣で立派に責務を果たす彼を遠くから眺めたことだろう。
少しでも彼の目に留まりたくて、王女という立場を利用して頻繁にシュネーヴェ王国に来たかもしれない。それで彼にあしらわれても、彼は人を見て態度を変えない人なのだと好意的に受け取っただろう。
「わたくしは、レオンハルト様の、真面目で、誠実なお人柄を……好きになりました。なので、縁談がなければ……っ……」
胸がずきずきと痛んで、耐えきれず顔を俯かせる。次々と涙が溢れ、呼吸が荒くなっていくなか、それでもルシアナは続けた。
「縁談が……なければ……愛さなかったと思われたならっ……っどうか、正直にっ……」
漏れそうになる嗚咽を必死に堪えながらレオンハルトの言葉を待っていると、少しして、彼の手が頬に添えられた。その手はルシアナに上を向かせようと力を込めるが、ルシアナは怖くて顔を上げられなかった。
優しい彼は、もしかしたら優しい嘘をつくかもしれない。けれど、彼の表情を見ればそれが嘘かどうか自分にはわかってしまう。だから、顔を上げてレオンハルトの顔を見るのが怖かった。
「……ルシアナ。どうか、顔を上げてはくれないか」
羽根でくすぐるような柔らかく優しい声に、ふっと体の力が抜け、レオンハルトに導かれるまま顔を上げる。
滲む視界の先で、レオンハルトが至極嬉しそうに微笑んでいるのを見て、今度はルシアナが大きく目を見開いた。
「ルシアナ。貴女はどれだけ俺に幸福を与えれば気が済むんだ?」
「え……」
しゃくりあげるルシアナの首を撫でると、レオンハルトはきつくルシアナを抱き締めた。
「貴女が泣いているのに……俺がきちんと言葉にしなかったせいで、不安にさせて泣かせてしまったのに……嬉しいと喜びを感じている俺を、どうか許してくれ、ルシアナ」
レオンハルトはルシアナの頭を撫でながら、耳元に顔をすり寄せる。
「愛してる、ルシアナ。貴女を、誰よりも愛してる。貴女が“妻”だからではない。貴女だけなんだ。俺には、貴女だけが……」
感極まったように深く息を吐き出したレオンハルトは、そっと体を離すと、陶然と微笑みながらルシアナを見つめた。
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