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第七章

狩猟大会・三日目(四)

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「シルバキエ公爵夫人」

 念のため、剣はしまわず鞘を纏わせて手に持つと、レオンハルトより少しばかり年上だろうか、という臙脂服を着た人物に声を掛けられた。

「ごきげんよう。近衛兵の方ですね」
「は。近衛隊第三部隊隊長、フォルクマー・ハグマイヤーと申します」

(第三部隊は、確か王太子殿下の警護などを担当している部隊よね)

 真っ先に声を掛けてきたということは、この場にいる騎士の中で最も地位が高いのが彼なのだろう。
 ルシアナは、避難せずその場に留まったヘレナへ一度視線を向けると、目の前の人物へ視線を戻し、にこやかに笑いかける。

「フォルクマー卿。一度、王太子妃殿下の元へ報告に向かいたいのですが、よろしいですか?」
「もちろんにございます。シルバキエ公爵閣下がご到着されるまで、夫人も安全な場所でお待ちください。……とお伝えするのは、適切ではありませんね」

 倒れた人工魔獣を一瞬見遣り、眉を下げて笑ったフォルクマーに、ルシアナもくすりと笑い返す。

「いえ。夫にあまり心配をかけたくないので大人しくしていますわ」

 言ってから、頬がわずかに熱くなる。

(レオンハルト様のことを、お、夫と言ってしまったわ……)

 誰かに対し、レオンハルトを“夫”だと表現したのは初めてだった。彼が“夫になる”という覚悟は、縁談が決まった時点でしていたはずなのに、いざそれを第三者に伝えるとどうにも気恥ずかしかった。
 レオンハルトとの甘やかな時間も思い出しそうになり、ルシアナは急いで思考を切り替える。

「では、わたくしは――」
「ヘレナッ!!」

 自分の声に重なるようにして聞こえた大きな声に、ルシアナは思わず口を噤み、声のほうへ顔を向ける。
 ヘレナの後方、北のほうから駆けてくる人々の先頭に、血相を変えたテオバルドがいた。ルシアナのほうを見ていたヘレナは、その呼びかけに振り向くと、慌てた様子で駆け寄って来たテオバルドの胸に飛び込む。
 きつく抱擁する二人の姿に、ルシアナは、ふっと表情を緩めた。

(わたくしが行くより王太子殿下がいらっしゃるほうが早かったわね。それに――)

「ご夫君のご到着のほうが早かったようですね」

 立ち止まったテオバルドの後ろで待機しつつ、視線はルシアナへと向け続けるレオンハルトを見ながら、ルシアナは安堵したように「そのようですね」と頷いた。

「閣下がいらっしゃったようなので、私は近衛隊の指揮に向かいます。夫人は……閣下がこちらにいらっしゃるまで、あまり動き回られないほうがよいでしょう」

 何故、と問おうとして、目を向けた彼の視線が足へ向いていることに気付き、怪我をしていたことを思い出す。

(怪我とは言っても、ちょっとしたかすり傷だけれど)

 しかし彼の言うことももっともだと思い、了承の意を示すため頷こうとしたところで「ルシアナ」と名前を呼ばれる。

(あ……)

 フォルクマーが声の主に深く一礼し、素早くその場を後にしたのを視界の端に捉えながら、ルシアナはふわりとした笑みをレオンハルトへ向ける。

「レオンハルト様」
「……ルシアナ」

 レオンハルトはもう一度、今度は苦しそうにルシアナの名を呼ぶと、マントを外し、破れたスカートから覗く足を隠すように下半身を包む。そのまま横抱きに抱え上げると、早足でその場を離れた。

「救護用の幕舎は他の負傷者が使用しているから、俺が使っている幕舎に連れて行く」
「……よろしいのですか?」
「王太子殿下からの命だ」

 驚いたように問いかけたルシアナに、レオンハルトは淡々とそう返す。
 この場を離れてもいいのか、という意味で問いかけたため、レオンハルトの返答は的を射ていたが、あまりにも感情のない声色に、ルシアナの視線は自然と下がる。

(……あ、剣をしまわなくては)

 胸に抱いていた白銀の剣から手を離せば、剣はその場から姿を消す。手持ち無沙汰になったルシアナは、恐るおそるレオンハルトのジャケットを掴み、その胸元に顔を寄せる。
 レオンハルトが心配してくれていることも、自分に対して怒っているわけではないことも、ルシアナは理解していた。しかし、昨夜までのレオンハルトは自分が生み出した願望なのではないか、と思うほど、今の彼は感情が抜け落ちており、言葉にできない寂しさが胸の奥に燻った。



 お互い無言の状態が続く中、ついにレオンハルトの幕舎へと到着し、見張りを担当していたラズルド騎士団の一人が驚きながら、入り口の幕を捲ってくれる。

「ここはもういいから、お前も王太子殿下の元へ行き指示を仰げ」
「はっ」

 レオンハルトが幕舎内に入ると幕が下り、遠ざかる足音が聞こえた。
 彼は指示通りテオバルドの元へ向かったのだな、と現実逃避するように考えていると、ベッドの上に座るように下ろされる。
 レオンハルトの顔を見れないまま、ジャケットからそっと手を離すと、レオンハルトはルシアナから離れ、戸棚のあるほうへと向かう。その後姿をちらりと窺ったルシアナは、足の上に置いた両手を見る。
 普段お茶会に手袋をしていくことはないが、今日は真っ白な絹の手袋を着用していた。理由は単純で、昨夜の睦み合いでできた手の甲の跡が消えていなかったからだ。

(……何故からしら。さっきまではとても恥ずかしかったのに……)

 今はレオンハルトとの距離が寂しくて仕方なかった。
 ルシアナが静かに下半身を覆うマントを撫でていると、ふと影が落ちる。顔を上げ見上げれば、彼はわずかに目を見開き、持っていた籠を床に置いて片膝をついた。

「傷が痛むのか?」

 心配そうに頬を撫でられ、ルシアナは首を横に振る。
 話そうとした瞬間、幼稚なことが口をついて出てしまいそうで、ルシアナは固く口を閉じる。

「……傷を治療してもいいか?」

 こくりと頷けば、レオンハルトはルシアナの下半身を覆っていたマントを開き、赤い一本線と、そこから垂れる血の跡が付いたルシアナの左足に触れる。
 レオンハルトが持って来た籠には治療道具が入っているようで、瓶やタオルなどがそこには収められていた。
 レオンハルトは靴を脱がすと自身の足の上にルシアナの足を乗せ、下にこぼれないよう、タオルを当てながら瓶の中の水を傷に掛ける。瓶を置き、濡れたタオルに石鹸を軽くこすると、石鹸を付けた部分を傷口と血で汚れた部分に当てる。石鹸の成分を流すように、瓶に残った水をすべてかけると、レオンハルトは別の乾いたタオルで優しく濡れた足を拭いた。
 傷口が開かないようにという気遣いもあるのだろう。丁寧で優しい手つきは、自分を大切にしてくれていることを実感させてくれる。それを嬉しいと思うのに、一度芽生えた寂しさはなかなか消えてくれなかった。
 足を拭き終わったレオンハルトは、籠の中にあった白いケースを取り出し、蓋を開ける。

「切り傷用の魔法薬だ。半日ほどで傷が癒える」

 半透明な緑色のクリームを指先で掬うと、それを傷口に沿うように塗り、ガーゼを当てる。ガーゼを固定する紐をレオンハルトが切ったのを確認して、ルシアナはすっと息を吸い込んだ。
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