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第六章
姉妹の時間(一)
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アレクサンドラは椅子ごとルシアナの隣に移動すると、優しくルシアナを抱き締め、その柔らかな髪を撫でた。ルシアナは素直にその温もりに体を預け、こぼれる涙をそのままに、再び美しい空へ目を向ける。
(いつもの癖で、ただ空を見上げただけ。それだけだったのに……。わたくしはいつから、晴れた空を見てレオンハルト様を思い出すようになったのかしら)
一生を塔で過ごすことになっていたら、レオンハルトには出会えていなかっただろう。
そんな在りもしない可能性を考えただけで、涙が止まらなかった。
(わたくしは、自分で思っている以上にレオンハルト様のことを――)
鼻の奥が詰まり、薄く口を開けて酸素を吸い込む。酸素が体内に広がっていくのと同時に、抜け落ちたものが戻ってくるようだった。
息苦しさと、わずかな胸の痛み。それらが、今この時間が現実であると知らしめてくれる。
(そうよ。わたくしは、ルシアナ・ヴァステンブルク。塔を出て、国を出て、レオンハルト様の元にやって来たの。あの方の隣が、わたくしの在るべき――いいえ、在りたい場所だわ)
レオンハルトと共に過ごした半年が鮮やかに頭をよぎり、ほっと息を吐き出す。ゆっくりと呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着かせていると、アレクサンドラが、そっと体を離した。
「今はもう、一生塔でもいいとは思わないだろう?」
答えを確信しているような、穏やかなその声に、ルシアナも柔らかな笑みを返す。
「……はい。塔から出られないのは――レオンハルト様と一緒にいられないのは嫌です。レオンハルト様と一緒ではない未来を考えるのも」
涙を拭ってそう伝えれば、アレクサンドラは湿った頬に両手を添え、どこか安堵したように目尻を下げた。
「ああ。……ふふ、姉としては少し妬けてしまうな。シルバキエ公爵は、私たちが知らないルシーの姿を、たくさん見られるのだろうから」
目尻に残った涙を指先で払ったアレクサンドラは、強くルシアナを抱き締めた。
「ルシー、今のお前になら伝わると思って言うが、人の顔色ばかり窺う必要はないんだ。お前はお前の感じた通り、悲しければ泣けばいいし、腹が立ったら怒ればいい。自分の感情を素直に出していいんだ」
アレクサンドラは体を離すと、ルシアナの頭を撫でる。
「お前が泣いて、怒って、それで私たちの心が乱されようと、それを煩わしいとは思わない。お前に笑っていてほしいと願ってはいるが、それはお前の感情を無視してただ笑みを浮かべていてほしいというわけじゃない。負の感情に蓋をする必要も、それを誤魔化す必要もないんだ。お前が泣いても怒っても笑っても、お前を愛おしいと思う気持ちに変わりはないから」
(わたくしは、本当に、たくさんの心配をかけてしまっていたのね)
真剣なアレクサンドラの視線に、昨日他の姉たちが言いたかったのも、きっとこういうことなのだと理解する。
(気を揉ませないようにとした行動で、逆に気を遣わせてしまっていたのね)
よく倒れ、よく熱を出し、ただでさえ、手を、心を、煩わせてしまっていた。だからこそ、常に穏やかに笑っていることを心がけた。それを繰り返すうちに、いつしかそれが当たり前になり、自分に関することは笑って流すことが、ルシアナにとっての“普通”になっていた。
(お母様も、お父様も、お姉様方も、いつも笑みを返してくれていたから、それが正しいのだと思ってしまったのね。笑ってくれているのだから大丈夫だと、深く考えず……今考えると浅はかだわ)
「申――」
「謝るな」
間髪入れずに告げられた言葉に、ルシアナは反射的に口を閉じる。ぎゅっと口元に力を入れるルシアナを見て、アレクサンドラは小さく笑った。
「このことに関して、ルシーが謝ることは何もない。こうして自発的に行動を起こすルシーを見て、ただ嬉しかったと。この国での生活が、出会いが、お前にいい影響を与えているならよかったと、ただそれを伝えたかっただけなんだ」
そう言って微笑むアレクサンドラは、母であるベアトリスにとてもよく似ていた。容姿だけではない。醸し出す雰囲気が、“母親”そのもののように感じられたのだ。
(……お姉様は、もうすぐ“母”になるのだわ)
子が産まれれば、彼女の心を占めるのは子どもになるだろう。変わらず妹として愛してはくれるだろうが、彼女が自分を思い出す回数も時間も、一気に減るに違いない。
アレクサンドラの懐妊は喜ばしい。けれど、妹としては少し寂しい。
『姉としては少し妬けてしまうな』
先ほどのアレクサンドラの言葉が思い出されると同時に、そう伝えた彼女の気持ちが少しだけわかったような気がした。
「……わたくし、もしかしたら、とっても鈍いのかもしれません」
「ああ。自分の気持ちには昔からどうも疎く鈍いな。だから、どのようなときでも笑みを向け続けられたんだろう」
確かにその通りかもしれない、と自省するような笑みが漏れそうになる。しかしすぐにはっとして、む、と唇を尖らせた。
「……突然可愛い顔をしてどうしたんだ?」
「いえ、その……今のは、気付いていたならおっしゃってください、と、むっとしてもいい場面かと思いまして」
「――っふ」
一瞬目を見開いたアレクサンドラは、漏れそうになるものを堪えるように口元に手を当てる。
「っそ――ふっ……そう、っか……それは、っふ、すまない、ことを……っ」
「……そんなに笑わないでくださいませ」
堪えきれない様子で肩を震わせるアレクサンドラに、ルシアナはわずかに頬を染め、カップを手に取る。
(今のはちょっと……子どもっぽかったかもしれないわ)
それに、今より以前に同じことを言われていたとして、心には響かなかった可能性もある。そもそも、「今のルシアナになら」とアレクサンドラは話しを始めたのだ。もしかしなくても、むっとするような場面でもなかったかもしれない、ということに気付き、ルシアナは自身の行動を誤魔化すようにクッキーに手を伸ばした。
アレクサンドラは呼吸を整えながら、大人しくクッキーを咀嚼するルシアナの髪を耳にかける。
「いや、すまない。あまりに可愛らしくてな」
「いえ……今のはどうかお忘れください」
恥ずかしげに視線を下げるルシアナを見つめながら、アレクサンドラは「そうだ」と口角を上げた。
(いつもの癖で、ただ空を見上げただけ。それだけだったのに……。わたくしはいつから、晴れた空を見てレオンハルト様を思い出すようになったのかしら)
一生を塔で過ごすことになっていたら、レオンハルトには出会えていなかっただろう。
そんな在りもしない可能性を考えただけで、涙が止まらなかった。
(わたくしは、自分で思っている以上にレオンハルト様のことを――)
鼻の奥が詰まり、薄く口を開けて酸素を吸い込む。酸素が体内に広がっていくのと同時に、抜け落ちたものが戻ってくるようだった。
息苦しさと、わずかな胸の痛み。それらが、今この時間が現実であると知らしめてくれる。
(そうよ。わたくしは、ルシアナ・ヴァステンブルク。塔を出て、国を出て、レオンハルト様の元にやって来たの。あの方の隣が、わたくしの在るべき――いいえ、在りたい場所だわ)
レオンハルトと共に過ごした半年が鮮やかに頭をよぎり、ほっと息を吐き出す。ゆっくりと呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着かせていると、アレクサンドラが、そっと体を離した。
「今はもう、一生塔でもいいとは思わないだろう?」
答えを確信しているような、穏やかなその声に、ルシアナも柔らかな笑みを返す。
「……はい。塔から出られないのは――レオンハルト様と一緒にいられないのは嫌です。レオンハルト様と一緒ではない未来を考えるのも」
涙を拭ってそう伝えれば、アレクサンドラは湿った頬に両手を添え、どこか安堵したように目尻を下げた。
「ああ。……ふふ、姉としては少し妬けてしまうな。シルバキエ公爵は、私たちが知らないルシーの姿を、たくさん見られるのだろうから」
目尻に残った涙を指先で払ったアレクサンドラは、強くルシアナを抱き締めた。
「ルシー、今のお前になら伝わると思って言うが、人の顔色ばかり窺う必要はないんだ。お前はお前の感じた通り、悲しければ泣けばいいし、腹が立ったら怒ればいい。自分の感情を素直に出していいんだ」
アレクサンドラは体を離すと、ルシアナの頭を撫でる。
「お前が泣いて、怒って、それで私たちの心が乱されようと、それを煩わしいとは思わない。お前に笑っていてほしいと願ってはいるが、それはお前の感情を無視してただ笑みを浮かべていてほしいというわけじゃない。負の感情に蓋をする必要も、それを誤魔化す必要もないんだ。お前が泣いても怒っても笑っても、お前を愛おしいと思う気持ちに変わりはないから」
(わたくしは、本当に、たくさんの心配をかけてしまっていたのね)
真剣なアレクサンドラの視線に、昨日他の姉たちが言いたかったのも、きっとこういうことなのだと理解する。
(気を揉ませないようにとした行動で、逆に気を遣わせてしまっていたのね)
よく倒れ、よく熱を出し、ただでさえ、手を、心を、煩わせてしまっていた。だからこそ、常に穏やかに笑っていることを心がけた。それを繰り返すうちに、いつしかそれが当たり前になり、自分に関することは笑って流すことが、ルシアナにとっての“普通”になっていた。
(お母様も、お父様も、お姉様方も、いつも笑みを返してくれていたから、それが正しいのだと思ってしまったのね。笑ってくれているのだから大丈夫だと、深く考えず……今考えると浅はかだわ)
「申――」
「謝るな」
間髪入れずに告げられた言葉に、ルシアナは反射的に口を閉じる。ぎゅっと口元に力を入れるルシアナを見て、アレクサンドラは小さく笑った。
「このことに関して、ルシーが謝ることは何もない。こうして自発的に行動を起こすルシーを見て、ただ嬉しかったと。この国での生活が、出会いが、お前にいい影響を与えているならよかったと、ただそれを伝えたかっただけなんだ」
そう言って微笑むアレクサンドラは、母であるベアトリスにとてもよく似ていた。容姿だけではない。醸し出す雰囲気が、“母親”そのもののように感じられたのだ。
(……お姉様は、もうすぐ“母”になるのだわ)
子が産まれれば、彼女の心を占めるのは子どもになるだろう。変わらず妹として愛してはくれるだろうが、彼女が自分を思い出す回数も時間も、一気に減るに違いない。
アレクサンドラの懐妊は喜ばしい。けれど、妹としては少し寂しい。
『姉としては少し妬けてしまうな』
先ほどのアレクサンドラの言葉が思い出されると同時に、そう伝えた彼女の気持ちが少しだけわかったような気がした。
「……わたくし、もしかしたら、とっても鈍いのかもしれません」
「ああ。自分の気持ちには昔からどうも疎く鈍いな。だから、どのようなときでも笑みを向け続けられたんだろう」
確かにその通りかもしれない、と自省するような笑みが漏れそうになる。しかしすぐにはっとして、む、と唇を尖らせた。
「……突然可愛い顔をしてどうしたんだ?」
「いえ、その……今のは、気付いていたならおっしゃってください、と、むっとしてもいい場面かと思いまして」
「――っふ」
一瞬目を見開いたアレクサンドラは、漏れそうになるものを堪えるように口元に手を当てる。
「っそ――ふっ……そう、っか……それは、っふ、すまない、ことを……っ」
「……そんなに笑わないでくださいませ」
堪えきれない様子で肩を震わせるアレクサンドラに、ルシアナはわずかに頬を染め、カップを手に取る。
(今のはちょっと……子どもっぽかったかもしれないわ)
それに、今より以前に同じことを言われていたとして、心には響かなかった可能性もある。そもそも、「今のルシアナになら」とアレクサンドラは話しを始めたのだ。もしかしなくても、むっとするような場面でもなかったかもしれない、ということに気付き、ルシアナは自身の行動を誤魔化すようにクッキーに手を伸ばした。
アレクサンドラは呼吸を整えながら、大人しくクッキーを咀嚼するルシアナの髪を耳にかける。
「いや、すまない。あまりに可愛らしくてな」
「いえ……今のはどうかお忘れください」
恥ずかしげに視線を下げるルシアナを見つめながら、アレクサンドラは「そうだ」と口角を上げた。
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