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第六章
初めての交渉(三)
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「ルシーのおかげでシュネーヴェといい取引ができそうだ。昨日の騒動について、どう抗議し、どのような償いを求めるか、カルロスとも話し合ったが塩梅が難しく、まだ結論が出ていなくてな。小娘の首一つでは到底足りないが、可愛い妹が嫁いだ国を攻め滅ぼすわけにもいかないだろう?」
「! お姉様、その発言は……」
あまりにも危険ではないか、と思ったが、彼女は気にかける様子もなく鼻を鳴らした。
「そう言われても仕方のない騒ぎを起こしたのはこの国の人間だ。こちらが気遣う理由はない」
アレクサンドラは書類と冊子をまとめると、メイドに紙とペンを持ってくるよう命じる。すぐに言われたものを準備したメイドは、サイドテーブルとともにそれらをアレクサンドラの隣に置いた。
「知的探究心が強いゼヴィアなら、コリダリスが自生する土地に喜んで滞在するだろうし、その点を見てもいい交渉だった。代償に何を差し出せるのか尋ねたとき、自信がなさそうだったが、十分胸を張っていい手札だったじゃないか」
誇らしそうにペンを走らせるアレクサンドラとは対照的に、ルシアナは眉尻を下げて微笑んだ。
「わたくし一人の権限では土地を差し出すことはできませんから。望む通りに事を進めるにはシュネーヴェ側との交渉が不可欠ですし、それはお義兄様にお任せするしかありません。それに、交渉したとして、わたくしの目論見通りに事が運ぶとも限りませんもの」
「確かにそうだな。だが、人にはそれぞれ領分というものがある。今回、ルシーは自分ができる範囲で十分な働きを見せたと思う」
ペンを置いたアレクサンドラは、何かを記した紙と、ルシアナが渡したものを一緒に封筒に入れ、蝋でしっかり封をする。
「あと、シュネーヴェ側との交渉に関してだが、それはお前の義兄を――いや、私の愛する男を信じろ。この程度、簡単に言いくるめてくるさ。――さて、これをカルロスに渡して来てくれ。直接本人に手渡しできなければ、そのまま持って帰って来ていい」
「かしこまりました」
差し出された封筒を受け取ったメイドと護衛が揃って部屋を退出する。
それを見届けて、ルシアナは安堵の息を漏らした。
(すべてはエーリクのため、ゼヴィアに来てもらうために計画したことだけれど、トゥルエノ側にも利のある内容になってよかったわ。妹の我儘で国の要人を送り出すほど、お姉様もお母様も甘くないもの)
ほっと息を吐きながらカップに口を付けるルシアナを、アレクサンドラは感慨深そうに見つめた。
「……本当に、良い縁だったな」
「? ええ、そうですね……?」
アレクサンドラの言葉の真意がわからず、小首を傾げれば、彼女は「いや」と小さく漏らした。
「私たちの知るルシーは、朗らかで愛らしく、少々ぼんやりとした子だった。まぁ、塔の中でできることは限られているし、情操教育に遅れが出るのは習わし上仕方のないことだが……それでも、ルシーは他の姉妹に比べ、対外的なものへの興味や感情が、少々薄いと感じていてな」
「そう、なのですか?」
(塔を出てやりたいことはたくさんあったし、外への興味は津々だったけれど……周りから見たらそうでもなかったのかしら)
首を捻るルシアナに、アレクサンドラは、ふっと笑う。
「何と言えばいいか、ルシーは現状に対し不満がないように思ったんだ。慣習とは言え、十五年塔にいるというのは、別段楽しいものではないだろう?」
予想もしていなかった言葉に、ルシアナは目を丸くする。
「まあ。お姉様は早く塔を出たかったのですか?」
「それはそうさ。必要なことだと理解しているから受け入れてはいるが、塔から出られる日が待ち遠しかった。他の妹たちも私と変わらないように思えたが、ルシーだけは……塔から出る日を待ち望んでいるようには思えなかった」
(それは……そうだわ)
塔で過ごす日々に不満はなかった。自分より早く、姉たちが次々に塔を出てしまうことには多少の寂しさを感じたが、傍にはベルがいたし、折を見て姉たちも会いに来てくれた。
練武場の高い塀の外側の世界に興味はあったが、早く外へ出たいと思ったことは、一度としてなかった。
「もしかしたら、ルシーはあそこから一生出られないとしても、それを受け入れるのではないか、と。トゥルエノにいる間は、そんな印象だった。――違うか?」
アレクサンドラに言われた状況を想像して、ルシアナは自分の中から何かが抜け落ちるような、塔にいた時代に逆戻りしたような感覚に陥る。あの頃も今も自分は何も変わっていないのに、何かを失くしたような、何かが閉ざされたような、そんな、何とも言えない感覚だ。
(……違わないわ)
「……いいえ。お姉様のおっしゃる通りです」
(そういうものだ、と言われていたら、間違いなく受け入れていたわ)
外への興味は、物語や絵で補っていたかもしれない。いや、そもそも、自分の住んでいる場所と塀の外は別の世界なのだと、興味すら抱かなかった可能性もある。
(わたくしは好奇心が強いと自負していたけれど、そんなことはなかったのかしら。……そうね、もし、塔から出られなくても、不満には――)
ルシアナは、視線を窓の外へと向ける。
外には、雲一つない澄んだ青空が広がっていた。
屋内外問わず空を見るのは、塔にいる間にできた癖だった。
(あ……)
つ、と頬に伝うものを感じ、それに触れる。
「……涙だわ」
ぽたぽたと、目からは止めどなく涙が溢れ出していた。
ぼうっと落ちる水滴を眺めていると、前から伸びた手に涙を拭われる。
視線をアレクサンドラへと戻せば、彼女は嬉しそうに目を細めていた。
「! お姉様、その発言は……」
あまりにも危険ではないか、と思ったが、彼女は気にかける様子もなく鼻を鳴らした。
「そう言われても仕方のない騒ぎを起こしたのはこの国の人間だ。こちらが気遣う理由はない」
アレクサンドラは書類と冊子をまとめると、メイドに紙とペンを持ってくるよう命じる。すぐに言われたものを準備したメイドは、サイドテーブルとともにそれらをアレクサンドラの隣に置いた。
「知的探究心が強いゼヴィアなら、コリダリスが自生する土地に喜んで滞在するだろうし、その点を見てもいい交渉だった。代償に何を差し出せるのか尋ねたとき、自信がなさそうだったが、十分胸を張っていい手札だったじゃないか」
誇らしそうにペンを走らせるアレクサンドラとは対照的に、ルシアナは眉尻を下げて微笑んだ。
「わたくし一人の権限では土地を差し出すことはできませんから。望む通りに事を進めるにはシュネーヴェ側との交渉が不可欠ですし、それはお義兄様にお任せするしかありません。それに、交渉したとして、わたくしの目論見通りに事が運ぶとも限りませんもの」
「確かにそうだな。だが、人にはそれぞれ領分というものがある。今回、ルシーは自分ができる範囲で十分な働きを見せたと思う」
ペンを置いたアレクサンドラは、何かを記した紙と、ルシアナが渡したものを一緒に封筒に入れ、蝋でしっかり封をする。
「あと、シュネーヴェ側との交渉に関してだが、それはお前の義兄を――いや、私の愛する男を信じろ。この程度、簡単に言いくるめてくるさ。――さて、これをカルロスに渡して来てくれ。直接本人に手渡しできなければ、そのまま持って帰って来ていい」
「かしこまりました」
差し出された封筒を受け取ったメイドと護衛が揃って部屋を退出する。
それを見届けて、ルシアナは安堵の息を漏らした。
(すべてはエーリクのため、ゼヴィアに来てもらうために計画したことだけれど、トゥルエノ側にも利のある内容になってよかったわ。妹の我儘で国の要人を送り出すほど、お姉様もお母様も甘くないもの)
ほっと息を吐きながらカップに口を付けるルシアナを、アレクサンドラは感慨深そうに見つめた。
「……本当に、良い縁だったな」
「? ええ、そうですね……?」
アレクサンドラの言葉の真意がわからず、小首を傾げれば、彼女は「いや」と小さく漏らした。
「私たちの知るルシーは、朗らかで愛らしく、少々ぼんやりとした子だった。まぁ、塔の中でできることは限られているし、情操教育に遅れが出るのは習わし上仕方のないことだが……それでも、ルシーは他の姉妹に比べ、対外的なものへの興味や感情が、少々薄いと感じていてな」
「そう、なのですか?」
(塔を出てやりたいことはたくさんあったし、外への興味は津々だったけれど……周りから見たらそうでもなかったのかしら)
首を捻るルシアナに、アレクサンドラは、ふっと笑う。
「何と言えばいいか、ルシーは現状に対し不満がないように思ったんだ。慣習とは言え、十五年塔にいるというのは、別段楽しいものではないだろう?」
予想もしていなかった言葉に、ルシアナは目を丸くする。
「まあ。お姉様は早く塔を出たかったのですか?」
「それはそうさ。必要なことだと理解しているから受け入れてはいるが、塔から出られる日が待ち遠しかった。他の妹たちも私と変わらないように思えたが、ルシーだけは……塔から出る日を待ち望んでいるようには思えなかった」
(それは……そうだわ)
塔で過ごす日々に不満はなかった。自分より早く、姉たちが次々に塔を出てしまうことには多少の寂しさを感じたが、傍にはベルがいたし、折を見て姉たちも会いに来てくれた。
練武場の高い塀の外側の世界に興味はあったが、早く外へ出たいと思ったことは、一度としてなかった。
「もしかしたら、ルシーはあそこから一生出られないとしても、それを受け入れるのではないか、と。トゥルエノにいる間は、そんな印象だった。――違うか?」
アレクサンドラに言われた状況を想像して、ルシアナは自分の中から何かが抜け落ちるような、塔にいた時代に逆戻りしたような感覚に陥る。あの頃も今も自分は何も変わっていないのに、何かを失くしたような、何かが閉ざされたような、そんな、何とも言えない感覚だ。
(……違わないわ)
「……いいえ。お姉様のおっしゃる通りです」
(そういうものだ、と言われていたら、間違いなく受け入れていたわ)
外への興味は、物語や絵で補っていたかもしれない。いや、そもそも、自分の住んでいる場所と塀の外は別の世界なのだと、興味すら抱かなかった可能性もある。
(わたくしは好奇心が強いと自負していたけれど、そんなことはなかったのかしら。……そうね、もし、塔から出られなくても、不満には――)
ルシアナは、視線を窓の外へと向ける。
外には、雲一つない澄んだ青空が広がっていた。
屋内外問わず空を見るのは、塔にいる間にできた癖だった。
(あ……)
つ、と頬に伝うものを感じ、それに触れる。
「……涙だわ」
ぽたぽたと、目からは止めどなく涙が溢れ出していた。
ぼうっと落ちる水滴を眺めていると、前から伸びた手に涙を拭われる。
視線をアレクサンドラへと戻せば、彼女は嬉しそうに目を細めていた。
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