83 / 235
第五章
静かな夜、のそのあと
しおりを挟む
「……おやすみなさいませ」
瞳を潤ませ、頬を上気させながらそう呟き書庫を出て行く彼女の姿を、レオンハルトはただ呆然と見つめた。
扉が閉まったあともしばらく動くことができず、先ほどまで腕の中にあった温もりがもう手元にないことに、何とも言えない気持ちになる。
(……トゥルエノに初夜という概念はないのか?)
そんな有り得ないことを考えながら、レオンハルトは髪をかき上げた。
(閨教育はどうなって……いや、そんなことはどうでもいい)
昨夜の二の舞にはなるまいと、煩悩に支配されそうな頭を切り替えるように息を吐く。
どうにか別のことを考えようと頭を働かせるものの、先ほどの彼女の姿ばかりが浮かび、まったく脳が機能しない。何か気を紛らわせるものはないかと視線を彷徨わせると、ソファに手紙の束が置かれていることに気付く。
封蝋にある紋章は、トゥルエノ王家のものだった。
(……本当に、仲が良いんだな。トゥルエノの王家は)
姉たちと嬉しそうに談笑するルシアナの姿が思い出される。
年齢よりは少々大人びて見える穏やかな笑みではなく、どこか幼さが垣間見える無邪気な笑み。気を許し、安心していることがわかるような、そんな視線。彼女を愛し、愛されることが当然とでもいうような距離感。
(たった半年……共に暮らしたからと、彼女にとっての王女殿下方のような存在になれるとは思っていないが)
いや、とレオンハルトは首を振る。
(兄弟姉妹と夫婦は違う。俺は彼女の兄ではない)
『レオンハルトさま』
身を溶かすような、甘い声。片腕でも余ってしまう華奢な体に、ふわりと柔らかな髪。透き通った滑らかな肌は淡く色づき、好奇心か無垢に先を求める姿は理性を失わせるようだった。
「……はあ」
自身の中に籠る熱を逃がすように、レオンハルトは息を吐く。
じっと手紙の束を見下ろしながら、これを届ける口実に部屋を訪ねようか、という考えも浮かんだが、すぐにそれを消し去る。
(彼女も朝早くから疲れただろう。別に、必ず夜を共にしなければいけないわけでもない)
手紙はあとでエステルにでも届けるか、と思いながら、レオンハルトは一度立ち上がるとソファに座り直す。
背もたれに全体重を預けながら、熱が引いていくのを静かに待つ。
『い、まのも、キス、ですか……?』
「――ふ」
ふと、ぼんやりとした様子でそう訊ねた彼女の姿が思い浮かび、思わず笑みが漏れる。口元が愉快そうに緩んでいるのを感じ、誰もいないのに手で覆った。
(そうだ。彼女にとっては多くのことが初めてなんだ)
これから、どれほど多くの初めてを彼女と共有できるのだろうか。どれほど多くの初めてを自分が教えられるのだろうか。考えるだけで、心には愉悦が広がるようだった。
(できるだけ、一つでも多く共にしたい)
自分しか知らない彼女を。
自分だけが許されることを。
一つ一つ、ルシアナと一緒に積み重ねていきたい。
独占欲なのか、支配欲なのか、優越感なのか。もはやそのどれもが入り混じったような感情が、レオンハルトの中で燻っていた。
昨日は確かに、純粋な気持ちだった。純粋に、彼女と一緒に様々なことを経験したいと思っていた。しかし、彼女に触れることを許され、その温かさを知ってしまった今、心の奥底にあるのは、ただの欲望だ。
(醜く愚かだ)
そう自覚するものの、言うほどの嫌悪は覚えなかった。
きっと、あの生殺しのような状況の中、ルシアナを逃がすことができたことが大きかったのだろう。
ルシアナを大切にしたい。
そう思うことは何度もあったが、タガが外れ己の欲求を優先してしまうかもしれない、という思いも常に頭の隅にあった。これまで感じたことも、持ったこともない感情を持て余し、自分がどのような行動に出るのか、レオンハルト自身わからなかった。
(よかった、あそこで止められて)
ルシアナがソファから落ちたときはやってしまったと思ったが、あれで逆に冷静になれたような気がする。あのままもう一度キスをねだられていたら、と思うと若干の不安が残るが、きっと彼女の許可なく先へ進むことはないだろう。
それに限らず、今後どのような場面であっても、彼女を優先させるに違いない。
それだけは自信を持って言えるような気がした。
レオンハルトは左手を掲げ、その薬指に輝くものを見る。
月光を受け、斜めに並んだダイヤモンドも、細いプラチナのアームも煌めいている。
「……おやすみ、ルシアナ」
(大切にすると誓おう。何よりも)
指輪にそっと口付けたレオンハルトは、手紙の束を持って立ち上がり、柔らかな微笑を浮かべながら書庫を後にした。
瞳を潤ませ、頬を上気させながらそう呟き書庫を出て行く彼女の姿を、レオンハルトはただ呆然と見つめた。
扉が閉まったあともしばらく動くことができず、先ほどまで腕の中にあった温もりがもう手元にないことに、何とも言えない気持ちになる。
(……トゥルエノに初夜という概念はないのか?)
そんな有り得ないことを考えながら、レオンハルトは髪をかき上げた。
(閨教育はどうなって……いや、そんなことはどうでもいい)
昨夜の二の舞にはなるまいと、煩悩に支配されそうな頭を切り替えるように息を吐く。
どうにか別のことを考えようと頭を働かせるものの、先ほどの彼女の姿ばかりが浮かび、まったく脳が機能しない。何か気を紛らわせるものはないかと視線を彷徨わせると、ソファに手紙の束が置かれていることに気付く。
封蝋にある紋章は、トゥルエノ王家のものだった。
(……本当に、仲が良いんだな。トゥルエノの王家は)
姉たちと嬉しそうに談笑するルシアナの姿が思い出される。
年齢よりは少々大人びて見える穏やかな笑みではなく、どこか幼さが垣間見える無邪気な笑み。気を許し、安心していることがわかるような、そんな視線。彼女を愛し、愛されることが当然とでもいうような距離感。
(たった半年……共に暮らしたからと、彼女にとっての王女殿下方のような存在になれるとは思っていないが)
いや、とレオンハルトは首を振る。
(兄弟姉妹と夫婦は違う。俺は彼女の兄ではない)
『レオンハルトさま』
身を溶かすような、甘い声。片腕でも余ってしまう華奢な体に、ふわりと柔らかな髪。透き通った滑らかな肌は淡く色づき、好奇心か無垢に先を求める姿は理性を失わせるようだった。
「……はあ」
自身の中に籠る熱を逃がすように、レオンハルトは息を吐く。
じっと手紙の束を見下ろしながら、これを届ける口実に部屋を訪ねようか、という考えも浮かんだが、すぐにそれを消し去る。
(彼女も朝早くから疲れただろう。別に、必ず夜を共にしなければいけないわけでもない)
手紙はあとでエステルにでも届けるか、と思いながら、レオンハルトは一度立ち上がるとソファに座り直す。
背もたれに全体重を預けながら、熱が引いていくのを静かに待つ。
『い、まのも、キス、ですか……?』
「――ふ」
ふと、ぼんやりとした様子でそう訊ねた彼女の姿が思い浮かび、思わず笑みが漏れる。口元が愉快そうに緩んでいるのを感じ、誰もいないのに手で覆った。
(そうだ。彼女にとっては多くのことが初めてなんだ)
これから、どれほど多くの初めてを彼女と共有できるのだろうか。どれほど多くの初めてを自分が教えられるのだろうか。考えるだけで、心には愉悦が広がるようだった。
(できるだけ、一つでも多く共にしたい)
自分しか知らない彼女を。
自分だけが許されることを。
一つ一つ、ルシアナと一緒に積み重ねていきたい。
独占欲なのか、支配欲なのか、優越感なのか。もはやそのどれもが入り混じったような感情が、レオンハルトの中で燻っていた。
昨日は確かに、純粋な気持ちだった。純粋に、彼女と一緒に様々なことを経験したいと思っていた。しかし、彼女に触れることを許され、その温かさを知ってしまった今、心の奥底にあるのは、ただの欲望だ。
(醜く愚かだ)
そう自覚するものの、言うほどの嫌悪は覚えなかった。
きっと、あの生殺しのような状況の中、ルシアナを逃がすことができたことが大きかったのだろう。
ルシアナを大切にしたい。
そう思うことは何度もあったが、タガが外れ己の欲求を優先してしまうかもしれない、という思いも常に頭の隅にあった。これまで感じたことも、持ったこともない感情を持て余し、自分がどのような行動に出るのか、レオンハルト自身わからなかった。
(よかった、あそこで止められて)
ルシアナがソファから落ちたときはやってしまったと思ったが、あれで逆に冷静になれたような気がする。あのままもう一度キスをねだられていたら、と思うと若干の不安が残るが、きっと彼女の許可なく先へ進むことはないだろう。
それに限らず、今後どのような場面であっても、彼女を優先させるに違いない。
それだけは自信を持って言えるような気がした。
レオンハルトは左手を掲げ、その薬指に輝くものを見る。
月光を受け、斜めに並んだダイヤモンドも、細いプラチナのアームも煌めいている。
「……おやすみ、ルシアナ」
(大切にすると誓おう。何よりも)
指輪にそっと口付けたレオンハルトは、手紙の束を持って立ち上がり、柔らかな微笑を浮かべながら書庫を後にした。
11
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

私は5歳で4人の許嫁になりました【完結】
Lynx🐈⬛
恋愛
ナターシャは公爵家の令嬢として産まれ、5歳の誕生日に、顔も名前も知らない、爵位も不明な男の許嫁にさせられた。
それからというものの、公爵令嬢として恥ずかしくないように育てられる。
14歳になった頃、お行儀見習いと称し、王宮に上がる事になったナターシャは、そこで4人の皇子と出会う。
皇太子リュカリオン【リュカ】、第二皇子トーマス、第三皇子タイタス、第四皇子コリン。
この4人の誰かと結婚をする事になったナターシャは誰と結婚するのか………。
※Hシーンは終盤しかありません。
※この話は4部作で予定しています。
【私が欲しいのはこの皇子】
【誰が叔父様の側室になんてなるもんか!】
【放浪の花嫁】
本編は99話迄です。
番外編1話アリ。
※全ての話を公開後、【私を奪いに来るんじゃない!】を一気公開する予定です。

義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話
よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。
「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。

【R18】愛され総受け女王は、20歳の誕生日に夫である美麗な年下国王に甘く淫らにお祝いされる
奏音 美都
恋愛
シャルール公国のプリンセス、アンジェリーナの公務の際に出会い、恋に落ちたソノワール公爵であったルノー。
両親を船の沈没事故で失い、突如女王として戴冠することになった間も、彼女を支え続けた。
それから幾つもの困難を乗り越え、ルノーはアンジェリーナと婚姻を結び、単なる女王の夫、王配ではなく、自らも執政に取り組む国王として戴冠した。
夫婦となって初めて迎えるアンジェリーナの誕生日。ルノーは彼女を喜ばせようと、画策する。

王宮に薬を届けに行ったなら
佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。
カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。
この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。
慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。
弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。
「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」
驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。
「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
嫌われ女騎士は塩対応だった堅物騎士様と蜜愛中! 愚者の花道
Canaan
恋愛
旧題:愚者の花道
周囲からの風当たりは強いが、逞しく生きている平民あがりの女騎士ヘザー。ある時、とんでもない痴態を高慢エリート男ヒューイに目撃されてしまう。しかも、新しい配属先には自分の上官としてそのヒューイがいた……。
女子力低い残念ヒロインが、超感じ悪い堅物男の調子をだんだん狂わせていくお話。
※シリーズ「愚者たちの物語 その2」※
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる