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第四章

結婚前夜、のそのあと(一)

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「それでは、遅くまで失礼いたしました。おやすみなさい」
「……はい、おやすみなさいませ、レオンハルト様」

 ルシアナはわずかに赤らんだ頬に穏やかな笑みを浮かべた。そんな彼女に小さな微笑を返し軽く頭を下げると、扉を閉めて自室へと向かう。
 静かな廊下を進んで行きながら、レオンハルトは強く拳を握った。

(……初日のあれは、やはりこちらの失態だ)

 彼女がシュネーヴェ王国へとやって来た最初の日。彼女の姿を見て呟いた男の言葉が、鮮明に脳裏に蘇る。

『これでは出来損ないを押し付けられたようなものではないか』

 嘲るような声に侮る視線。ルシアナのことを何も知らないのに、ただ一目見ただけで価値がないと判断したような態度。

(思い出しただけで腹が立つ。あの男にも、あれを聞かせてしまった自分自身にも)

 絶対に聞こえていたはずなのに、何故何も聞こえなかったとやり過ごせるのか。
 あのような謗言を受け、何故何事もなかったかのように笑っていられるのか。
 本当に聞こえなかったのか。
 本当に気にしていないのか。
 彼女にとっては、あのようなことは歯牙にもかけないことだったのか。
 彼女が一体何を考えているのか、あの瞬間は何もわからなかった。

(王女という生まれ、精霊剣の使い手という立場から、あのような言葉には心を乱されないほどの自信をお持ちなのか、と後になって思ったが……)

 弱々しく背中を丸めた、小さな姿が思い出される。
 握る拳にさらに力が入り、手袋がギチギチと音を立てた。

(…………自信は……あるのだろう。十五年を、精霊の加護を受けることと剣の鍛錬に費やしたんだ。だが、自信があるからといって、自分にないものが気にならないわけではない。近くに望むものがあるのならなおさらだ)

 自身の中に湧く怒りを抑え込むように深く呼吸をしていると、ふと、先ほど見た彼女の部屋が頭をよぎった。
 トゥルエノ王国の王女を迎えるにあたり用意した部屋。細かなところはエーリクやメイドたちに任せたが、調度品の色味や大きさはレオンハルト自身が指示を出していた。

(……彼女の言う通り、あのとき俺が想定したのは、デイフィリア王女殿下のような人物だ)

 そもそもこの縁談が成立するとも思っていなかったが、仮に成立したとしても、その相手は未婚で婚約者もおらず歳が近い、第二王女のデイフィリアだろうと考えていた。しかし、実際にトゥルエノ王国から来た縁談承諾の親書にはルシアナの名前が記されており、当時困惑したことを今でも覚えている。

(だが、第二王女でも第五王女でも、たいした違いはないと……あのときはそう思った)

 アレクサンドラやデイフィリアはもちろん、公の場に姿を出している他の王女や女王もそれほど体格に差はないと聞いていた。あの高身長が遺伝であるならば、きっと第五王女もそうだろう、と一般的な婦女子が使うものよりは、少し大きな家具を注文した。
 自分で調べた範囲内では名前と年齢以外何もわからなかったが、建国式典で漏れ聞こえたアレクサンドラたちの会話を思い出し、アレクサンドラよりはデイフィリアに似ていると推測して、色味は白と瑠璃色と銀で整えた。

「……くそ……」

 自分自身に対する怒りが、思わず口から漏れる。

(俺が用意したものは、彼女が使うには大きい。色も、サロンの淡く鮮やかなものとまるで違う。……何故、今までそれに気付けなかった)

 明るく笑いかけ、楽しそうに話し、至らない自分を受け入れてくれた彼女は、これまでどのような思いであの部屋を使っていたのだろうか。

『フィリアお姉様が来ると、そう思われていたことはわかっています。フィリアお姉様でなくても、お姉様のように、背が高く、凛としていて、トゥルエノの王族らしいそのような者が来ると』

 ぴたり、と足が止まった。

(……あのようなことを言わせてしまうとは……俺も同類だ。あの男と)

 俯き、しばらく立ち止まったままだったレオンハルトは、来た道を戻りサロンへと向かう。
 辿り着いたサロンはすでに綺麗に片付けられており、先ほどまでのやりとりが夢だったのではないかという気持ちになった。

(現実逃避だ。夢にするわけにはいかない。俺が彼女の優しさに甘え、彼女を傷付けていたということを)

 間接照明を一つだけ点けると、自分が座っていたほうのソファに腰掛ける。背もたれに体重をかけ目を閉じれば、鮮明に彼女の姿が思い出された。
 緩く波打つホワイトブロンドの髪に大きなロイヤルパープルの瞳。白い肌に淡く色づいた唇。細く華奢でありながら、存外――。

(……何を考えているんだ、俺は)

 目を開き小さく息を吐くと、先ほどまで彼女がいた場所へ視線を向ける。

(まさか……あの花をしおりにして持ってくれていたとは)

 縁談が決まったあとに送った義務的で事務的な手紙。封をしようとしたところで、ふと、庭に唯一残った小さな青紫色の花を思い出し、それを摘んで気まぐれに同封した。北部でしか咲かない花なため、望めば大抵のものが手に入る一国の王女にも、珍しいものなのではないかと思ったのだ。

(……この認識も変えなければ。彼女にとっては、この世の多くのことが珍しく、未知だろうから)

 テオバルドたちとのお茶会からの帰り、彼女が言っていた言葉が思い出される。

『これまで経験できなかったこと、知り得なかったことを、ここで、この国で、一つ一つ積み上げていきたいと思っております。……叶うことなら、レオンハルト様と一緒に』
『一緒に、様々な経験をして、いろいろなことを知っていきたいです』

 そう言って、ルシアナは真っ直ぐ自分を見つめていた。

「……」

 今なら、その言葉の真の意味を理解できた。
 あのときは、成人したばかりの少女らしい発言だと深くその意味を考えなかったが、彼女がこれまで過ごしてきた十八年を考えれば、あの言葉にどれほどの想いが込められていたのか、心の機微に疎いレオンハルトでも察せられた。

(彼女に、多くのことを経験してほしい。多くのものを見て、聞いて、触れて、感じて、この広い世界を知ってほしい。今なら、心からそう思う)

 多くのものを彼女に与えたい。
 望むことは叶えてあげたい。
 そんな想いが、ふつふつと湧き上がって来る。

(……そうだな。俺は情が湧いているんだ。彼女に)

 あのときは自分を宥めるためにそう言ったのだと思ったが、ルシアナが言ったように“一緒に”様々な経験がしたい、とレオンハルト自身思い始めていた。
 気も遣えず、無神経な自分に、それでも愛想をつかすことなく、受け入れ寄り添ってくれた心優しい少女。ほんの小さな、些細なことを、ずっと大切にし、喜んでくれていた健気な少女。

(……いや、俺にとって彼女はもう―― )

「――ルシアナ」

 はあ、と熱い吐息が漏れる。
 天を見上げ、速く鳴る心臓の音に耳を傾ける。

(……彼女に触れたい。本当はさっき、抱き締めてしまいたかった)

 あのまま名前を呼ばれていたら、あの細い腰を抱き寄せ、その小さな唇に口付けていただろう。彼女がしたように自分も彼女の髪を梳き、耳に触れ、そのあとはただ自分が思うままに、彼女のすべてを感じようとしただろう。

「……くそ」

 自身の体が熱を持っていくのを感じながら、レオンハルトは苦しそうに眉を寄せた。
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