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第一話
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まるでそれは、星が落ちるような衝撃。
町を照らす街灯すら薄暗い深夜の時間帯。仕事で疲れた身体を引きずって、家で冷めたコンビニ弁当でも食べてまた明日に備えるはずだった。
毎日毎日、思考が停止するほど働いては死んだように家で寝る。かろうじて食べるという行為をしていることを誉めてほしいほど自分は疲れきっていた。
こんな毎日が死ぬまで続くのだろうと、諦めたように考えるぐらいだった。
────それは、突然起きたのだ。
おそらく疲れて思考力が落ちていたのだろう。
強烈な輝きが自分の視界を奪う。思わず立ち止まり星かと思ったその光は目映い車のヘッドライトであった。
それを知ったのは、数秒後。
立ち止まらなきゃ良かったと後悔したのは、それにぶつかった直後。
「……っ!」
身体が吹き飛ぶ衝撃によって、車に轢かれたのだと気がついた。しかし今の自分にはどうしようも出来ない。息が止まるほどの熱と叫ぶことすら難しいほどの衝撃に死を覚悟した。
明滅した視界に、身体が冷たくなる感覚。
死が身体を支配する。死神が自分の背中に這い寄る気配を感じ取ってしまった。
なんとも呆気ない最後だ。抵抗も何も出来なかった。
生きたいと思っても、もう無理だと諭す自分がいる。
だから目を閉じた。
痛覚や寒気なんて感覚はとっくにない。それは幸いだったけれど、そのせいで余計なことを考える。
もう自分は死ぬしかないのだ。死ぬしかないなら、早く終わらせたい。
走馬灯のように流れていく時間は恐ろしく長く感じた。
後悔はたくさんあった。泣いてしまう人がいるかもしれないなと思った。
ただ、死にたくないと思った。
確かに死んだように生活していたけれど、もしかしたらいつか報われる日がくるかもしれないと、願ってもいたから。
死にたくない。このまま生き延びたい。何で自分が死ななきゃならないのか。
様々な感情が溢れては消えていき、後悔に涙を流した────。
慌てるような声が遠くから聞こえる。身体が揺れ動く感覚はきっと誰かが僕を道路脇に動かしているのか。
「レディースアンドジェントルマン!!」
それが何故か────周囲がいきなり愉しそうな笑い声のする騒音へ切り替わった。
「さぁ此度の目玉商品はあの気難しくも捕らえようのない珍しき人物! まさか普通に路上で寝てるとは思わないだろ捕まえるの簡単だったわ!! ……というわけで皆さん一度はボコられた経験のあるとっても凶悪なあの男! 恨みのある奴らはリンチにするも良しボコボコに殺すも良しのカナメだぁぁ!」
僕の名前を叫ばれて思わず目を見開いた。そうして見えた景色に驚愕する。
今いる場所は路上ではない。薄暗いコンサートホールのような場所。客側と思わしき場所には血に飢えた獣かと思えるような、いやそれすらもまだマシでどこか世紀末を思わせる悪そうな顔をした奴らがいた。
その人数は数十、いやそれ以上。もしかしたら百はいるかもしれない。とにかくみっちりと詰め込まれた客側の熱に圧されて、汗が一筋流れ出た。
そいつらは僕を極上の餌か何かと見間違えているのか、背筋がゾッとするような目で睨んでくる。
僕は何故かその壇上にいて、しかもとても頑丈そうな鋼鉄の檻に入れられている。
まるで見世物のような扱いだと思えてしまった。
鳥籠のようなそれは、鍵のかかった扉によって脱出はできない。しかも両足を動かさないよう縄できつく縛られた上で足枷がつけられているため、立ち上がることすら困難になっていた。
両手にも奇妙な模様が刻まれた手錠がつけられている。星と月が描かれたそれ。手錠に刻むにはあまりにも惜しい綺麗なもの。手首から先は自由だし、腕も動かせるので一応手を使うことは出来る。
しかし何故だろう。手錠に刻まれた模様を見ているだけで気分が悪くなった。
まあでも見なければなんとかなるかと思考を必死に脱出することへシフトした。
少し不自由だけど、足枷をどうにか出来ないかと掴んでみる。
……なんとか頑張れば、縄は外せそうだ。しかし足枷はどうしようもなかった。鍵穴があってそこからじゃないと外せない構造。隙間もなくきちんと付けられたそれは鎖に繋がれていた。
鎖は檻の内部、その天井に取り付けられており、狭い内部であれば動くことは可能だが外へ出る長さではない。
(無理だ。頑丈過ぎる……)
怖い。このままここにいたらどうなるんだろう。
でも、なんで。
いやいやそもそも、なんでこうなった?
恐怖は困惑から疑念へ。そして、吐き気のするような様々な感情が込み上げてくる。周りに見られているせいか。それとも、お客側たる人々の目線が何だか含みがあるようで、怖く感じるからか。
このままでは僕はきっと、見世物で済まないことになるかもしれない。
そんな他人事のような感覚で、この状況を冷静に判断していた。
ここは何処なんだろう。なんで僕はここに居るのだろう。夢なら覚めてほしい。切実に。
「……あれ?」
身体を起き上がらせて周りを見渡しているうちに気づいた。
僕は車に轢かれたはずだ。身体は地面に叩きつけられ、流血していたはず。骨も折れた感覚だってあった。それなのに痛みがない。
死にかけた時の最後は痛みも無かったから、そのせいかと思ったけど違う。
身体中の何処を見ても怪我をしていないのだ。
なんで?
やっぱりここは夢なんだろうか。そう思って頬をつねったら痛みがあった。
つまりここは、現実かもしれないということ。
でもじゃあ、どうして檻に入れられているのか。なんで僕は皆に憎しみを込めた目で睨まれているのか。
困惑はやがて恐怖へと切り替わる。冷静でいられたのはきっと、今いる場所が現実離れしているせいかもしれない。もしかしてここが地獄か?
いや天国ならともかく地獄に行くような悪いこと何もしてないんだけど!?
「おいおい見ろよ! 寝坊助が目覚めたみたいだぞ!」
「アヒャヒャヒャヒャ! あのクソヤローまだ何が起きてんのか分かんねえ顔してやがるぜ!」
「おーいお前はもう終わりだってこと分かってんのかよ、カナメちゃんよぉ!」
「うぐっ!」
客側の誰かが投げた小石にぶつかって額に鈍痛が走る。それと同時に片目の視界が歪んだ。ぶつかった箇所に手を当てれば、血が流れ出ているのが見えてしまった。
それを見た瞬間ゾッとした。車でぶつかった時の衝撃よりはるかに酷いもの。悪意を実感する。
息が乱れ、視界が歪む。そんな僕の取り乱しっぷりにも客の奴等は愉しそうに眺めては笑う。
狂喜、殺意、悦楽。
様々な悪意に晒されて、僕はまた死ぬのではないかと恐怖で怯えた。
視界に見える全てが恐ろしいと感じたのだ。
「僕は死んだ。だからここはあの世……でも何で、こんなことに……」
この痛みは夢じゃない。現実だ。
「さてこちらの商品たるカナメを買うのは誰だ! 千から始めさせていただきます!」
「千五百!」
「二千だ!」
「カナメには酷い目に遭わされたからなぁ! 五千で買うぞ!!」
会場は酷い盛り上がりを見せてくる。オークションのように値段を釣り上げ僕を買おうともがく奴等に逃げる術が見つからない。立ち上がれない。扉の鍵も持っていない。そもそも逃げ出したところでどうすればいい?
ちゃんと逃げきれるのか。あいつらが追ってきたら、武器かなにかを使われたら。僕は逃げたとして、奴らが何をするのかは想像できない。
捕らわれるだけじゃないだろう。きっと。
投擲された石を見た。きっと、この投げられた石のように、僕は殺される。奴等の殺意が本物なのだと理解するのだ。
ここが何処だか分からないし、何でこうなってるのかすら分からない。だから今はきっと、どうしようもない。
身体を震えさせ、この先の最悪な未来を想像し涙を流す。
その刹那────。
「少し待て、照明を落とす。走る準備をしておけ」
「っ!」
近くには誰もいないはずなのに耳元から聞こえてきた声に思わず周りを見た。それは可愛らしい少女の声だった。
走る準備なんて言っていたけれど、それはつまりここから逃げ出せる、ということだろうか?
逃げ出せるのか、本当に?
僕が生み出した幻聴じゃないのか。
だって、誰もいないのだ。女性の姿すらなにもない。それにあの声は聞いたことのないものだった。知り合いじゃないのは確実だ。
居るとしたら客側しかありえないけれど、あちらは僕のことを憎んだ目で見るか奇妙な見世物に嘲笑う者ばかり。
僕を助けようとする人は何処にもいない。
「七千!」
「一万で買ってやるよ!」
聞こえてきた声にハッと我に返った。
「一万! それ以上の値付けはいますか!?」
どうやら盛り上がりは佳境を迎えたらしい。
最後に手を上げたのは、痩せてはいるが細長く身長の大きな中年くらいの男性だった。
その男が僕を見た。緑がかった黒の前髪が目を覆っているけれど、こちらをしっかりと捉える視線の強さがその殺意を浮き彫りにする。
(ころされる?)
立ち上がった男が壇上へ。こちらへと近づいていくのが見えた。
「一万もの価値を付けられた商品! こちらはお持ち帰りしますか? それともこのまま壊しますか?」
「どっちでも構わねえよ、とりあえずは俺のもんだろうが。鍵持ってこい!」
「少々お待ちを!」
恐怖で身体が震えるというのに、何も出来ない。
違う、逃げたいけれど檻と手錠のせいで不可能になっていた。だから余計に恐ろしい。
「ひっ」
檻の前に立った男は舌なめずりをし、僕を見下ろす。
それはまるで強者と弱者。捕食者と餌のような関係性。
「ゆめ、だよね。だって。こんな……急に……」
車に轢かれてオークション会場に、なんて急展開過ぎて困惑どころか自分がちゃんと現実と向き合っているのかすら疑問に思えてくるぐらいだ。
理解できない状況に思わず顔を上げて──その男と視線が合った。見なければ良かったと、後悔した。
気持ち悪いほどの悪意が僕を見据える。それに寒気がした。玩具をどう扱うのかニヤニヤと待つ狂人だ。
逃げないと本当に手遅れになると分かった。
分かっているけれど、もう無理だとも理解している。
苛立ち混じりにガンッと檻を蹴りつけてきた男。それにビクリと身をすくませるが、男は僕のことなんて気にせず「早く鍵持ってこい!」とスタッフに向かって怒鳴っているのが見えた。
待つことすら出来ないのか、男は派手な舌打ちを鳴らす。
「あーあ、面倒くせえな」
男が檻の目前でしゃがみこみその隙間からこちらへ向かって腕を伸ばす。反射的にその手から逃れようと身を退くが、奴の方が早かった。
「いだっ!」
大きな手が僕の顎を掴み、無理やり奴の近くへ引きずり寄せてくる。
間近に見えた男の目が翡翠のように煌めいていた。しかしその輝きは凶悪なもの。ニヤリと笑ったことで見えたギザギザの歯は、まるで人の形をした猛獣のようだ。
いや、猛獣の方がマシだろうか。獣は命を食らうだけ。でもこの男は僕を弄ぶ気満々だ。
どんな目に遭わされるのか想像しては吐きそうになった。
「ハハッ、あのクソ反抗期のカナメが檻のなかで震えてらぁ」
男はとても楽しそうに僕をじっくり観察してきた、僕の恐怖を理解し、それを味わうかのように。
「ひ、ぅ……」
「いいねぇその顔。恐怖に溺れ震える弱者のそれだ。久しぶりにその面拝めたぜ、なぁカナメちゃんよぉ?」
久しぶりってなんだよ。
なんで僕のこと知ってるんだよこいつは!
「し、知らない。君のことなんて僕は知らない!」
何も知らない。夢なら覚めてくれ!
そう、震えるままに涙目で男に向かって叫ぶ。それがいけなかった。
僕の言葉を聞いた男が真顔になり、「あぁ?」と首を傾け睨んできたのだ。
「冗談は一度だけにしとけやクソガキ。殺してやろうか」
「──ぐぁっ!」
「変な鳴き声だなぁ! お前の喉にカエルかなにかいんのかなぁ!」
顎から首を掴まれてしまい、咳き込む。しかし男はそれを嘲笑った。
死が鮮明に僕の心を支配する。
怖い。こわい。しにたくない。死にたくない。なんで僕がこんな目に!
恐怖で涙が溢れて止まらない。足枷ごと足を必死に動かすせいで鎖がジャラジャラと音を立てるが、耳障りなそれを心地よい音楽みたいに楽しんでいる男。首を掴む手に爪を立ててもなお、奴は笑う。嗤い続ける。
「はぁ、はなし……て……ぐるじい!」
「知るかクソヨワカナメ。お前は俺に何て言ったか思い出してみろ」
「なに……」
「この俺様に向かって、知らないと言いやがったな?」
「っ────!」
そうか、と。
僕は、目の前にいる不機嫌な男の地雷を踏んだのだと。ここでようやく理解した。
それでももう遅い。
何度も逃げようともがいて、抵抗しても奴の力は強く、振りほどくことが出来ないでいた。
あの時聞いた少女のような声。あの幻聴が本物ならば早く。だれか、助けてと懇願するように周りを必死に見渡す僕に対し、男の目は楽しげだった。豹変する前は面白半分で観察していたような視線だったはずだ。
近づいてきた男に悪意はあったけれど、その中に殺意はなかった。
今は何故か、目を細めた男が舌打ちを鳴らし、殺意を込めて手に力を入れてくる。下手をすれば首を折ると、僕を脅し見てくる。
「忘れてねえよなぁ。ただの反抗期で馬鹿なことを言っちまったんだろ? なぁそうだよなぁそうだって言えよ!!」
「ひぇっ」
「ハッ、仕方ねえから一度は許してやるよ。俺様は寛大だからなぁ!」
じりじりと真綿で首を絞めるようなもの。ここは死後の世界で、地獄に来たのかと錯覚する。
「なぁクソガキ──俺様の名を、言ってみろ」
沈黙。それしか僕に与えられた選択肢はなかった。
知らない名前に答える術はない。
何も言わない僕に対し、殺意が向けられる────と、思った刹那。
感じたのは熱狂。奴を止めるほどの勢いのある怒声だった。
「なーに仲良くしてんだよ! さっさと潰しちまえ!」
客側から響く狂ったような声に空気がビリビリと揺れる。
「グダグダすんじゃねえカナメのクソ野郎を殺せ!」
「首ぐらい折っとけ! いや呆気なく殺すのは惜しい。もっと手酷くやれ!」
「切り刻めよ悪党! お前なら殺れんだろうが!」
聞こえてきた声に救いはない。見世物だとずっと思ってきたその予想は大当たりで、彼らは僕が傷つけられる姿を望んでいる様子。
しかし、目の前にいる男は違った。
何故か首を掴む手が離れ、立ち上がった男が深いため息を吐いたのだ。
殺意が僕から周りへ、そうして客全員へと向けられる。
男は客の顔を一人一人覚えるようにじっくりと眺めていた。
そうして、僕を見た。
タイミング悪くスタッフから渡された鍵を受け取り、男は檻を開けて中へ入ってくる。
立ち上がれず逃げ場もない僕を見下ろす奴は、無表情だった。不機嫌で恐ろしい。殺人鬼。
「……殺すか」
殺すと言った先にいるのは僕だけしかいない。
周りの客を殺したいような目で見ていたくせに、なんで。
もしかして、ほんとうに?
ぼくをころすの?
「待っ────」
悲鳴を上げる刹那。
男の顔を見上げるしか出来なかった視界が真っ黒に染まる。いや違う。これは暗闇だ。
照明が消えたのだと気づいた。
なにも見えない状況に客が怒声を上げる。どこかで何かが壊れる音もする。
「ひっ」
不意に、誰かの手が僕の腕を掴む。
おそらくあの男が僕を捕らえてきたのだろう。しかし先程より──いやはるかに小さいような?
「間に合ったか。逃げるぞカナメ」
その声はあの男のものではなかった。少女のような声色は男が来る前に聞いたものと同じ。
薄暗いのに手錠を器用に外していく誰かの手。気配でそれが僕より小さい身体をしていることに気づく。
「カナメぇ! てめえどこにいやがる!!」
「……急いだ方が良さそうだな。カナメ、一歩前へ出られるか?」
「え、あの……でも、前へ出たら気づかれるんじゃ……」
檻の出入り口にて聞こえてくる怒声は近い。だからすぐ男に僕たちの位置がばれてしまうだろう。そう思っていたのに少女は僕を無理やり立ち上がらせ、引っ張って動かした。
「えっ」
男の声が遠ざかったように感じた。何故なのか分からない。だって、たった一歩前に踏み出しただけだ。なのに気がつけば十メートルかそこらの距離にて男の怒声が聞こえてくる。
「クソ、逃げやがったな!!」
明かりは未だについていないが、男は気づいたようだ。男の「どぉこだカナメぇぇぇ!!」と何かを壊しながら響く声が恐ろしい。それ以外にも「カナメの野郎脱獄しやがったのか!」「捕まえてボコボコにしてやろうぜ!」と楽しそうな声も聞こえてくる。おそらく客たちも男のように僕を探しているのか。
傍に居る彼女が何をしたのか分からない。姿すら見えない少女を信じてもいいのかと心が問いかける。
でも────ここにいたら確実に殺される。それだけは分かった。
「あ、あの。……僕は、このままじゃ」
「わかっている。死にたくないなら私を拒まないで、ついてきて」
また小さな手が僕の腕を引っ張っていく。それに抵抗することなく従い、必死に歩いた。
薄暗いせいで足元がおぼつき、時折転びかけてしまうが──それでもなんとか、少女のあとをついていく。
一歩一歩と歩き出すうちに、喧騒がいつのまにか止んでいた。ざわめく気配もない。
薄暗い世界が急に明るさを取り戻す。何かが揺らいだ感覚に眩暈がした。
「もう大丈夫だ」
聞こえてきた声に、思わず目を見開いた。
「───あっ」
風が頬を撫でていく。温度は肌寒く、鳥肌が立った。どうやら時間帯は夜らしい。まだ視界が霞むが空が暗いことに気づいた。
────いつの間にか僕たちは外にいた。いや外、というよりは建物の屋上。誰も来ない場所へ逃げ延びたらしい。
だから僕は少しだけ困惑したのだ。
階段を上った感覚、扉を開けた動作も何もなかったはずだったのに、何で屋上に来ているのかと。
(本当に、どうやってここまで来たんだろう……)
走ったのはわずか十数歩ほどだったはず。それだけは覚えている。そこまでの距離を動いた訳じゃない。いや、目覚めた場所があの檻の中だったし建物の内部を全て知っているわけじゃないから距離を測れるわけじゃないけれど、それでもおかしいと思った。
なんせあの檻の中。出入り口が一つしかない場所なのに、急に男から遠のいたように感じたのだから。
「ゆめ、じゃないよね……うん……」
「どうした?」
「い、いや何でもない、です。……あの、ありがとうございます!」
「っ────ああいや。カナメが礼を言うほどの事はしていない」
「そんなことないです! だって、僕の命を救ってくれましたから」
「そっ……う。そうか。そうだな……」
困惑したような少女が、僕を見た。
そうしてようやく気付いた。明かりに慣れた目がはっきりとその光景を映し出す。僕の手を掴んでいる少女の姿に、息を呑んだ。
(……ああ、すごい。綺麗な人だ)
彼女はとてもスタイルが良く、整った顔立ちをしていた。
ルビーのように輝く赤い瞳。蜜柑色の綺麗な髪の毛を結びポニーテールにしている。ズボンを着てボーイッシュな格好をしてはいるが、その姿が凛とした花を思い浮かばせるほど似合ってもいた。
少女というよりは、小柄な女性といった方がいいかもしれない。身長はおおよそ150cmぐらいに見える。年齢は不明だが、僕よりは年下だろう。おそらく。
僕を見つめる彼女は何故か、妙に疑り深い目つきをしてはいたが……。
「カナメ、今度は何を企んでいる?」
「はい?」
「とぼけるな。私はカナメに命じられてあの場へやって来たんだぞ。そうしたら捕らえられたお前自身がいて、ヴルに殺されかけていた」
「命令した?」
「そうだ。あれより一時間ほど前に、『俺はやりたいことがある。抵抗せず捕まるから助けに来い』といっていたじゃないか。私はその通りに動いただけだぞ」
困惑している彼女に、僕も首を傾けた。
「あの、僕とは初対面……ですよね?」
「はっ────?」
驚愕に目を見開く女性。眉をひそめ、戸惑い混じりに僕をじっと観察してきた。
「嘘か?」
「い、いえ。僕はあなたを知りません」
はっきりと断言すると、それが偽りのものではないと分かったのか女性は一歩後ろへ引き下がった。
困惑。疑念。そして警戒。
言葉を間違えば、敵になるような緊張感が走る。
まるであの時────彼女が言うには、ヴルという名前らしいあの男が豹変したきっかけでもある言葉。
ただ一言、『知らない』と言っただけだ。なのに何故態度が急変するのだろうか。
意味が分からない。僕はそんなに変なことを言ったのか?
何故そんな目で僕を見つめるのだろう。ヴルに襲われかけた時のように彼女にも殺意を向けられるのか。若干恐怖で身体を震えさせつつも、僕は必死に言葉を紡ぐ。
「あの……こ、ここは何処ですか? 気がついたらあの場所で檻に閉じ込められていて、それで知らない人ばかりで……」
「なに?」
「め、目が覚めたら知らないことばかり起きてるんです!」
勇気を込めてはっきりとそう言う。
知らないと発言したら、また殺されかけるかもしれない。そんな予感に現実から目を逸らしたい。逃げたいけれど、必死にその衝動を抑えた。
若干の沈黙。冷めた空気が背筋をゾクッと震えさせる。
しかし僕の気持ちとは裏腹に、彼女は小さく微笑んだ。
「……つまり、記憶喪失だから知らないということだな?」
なるほどと、納得したように。
警戒が解かれ、女性はまた僕に近づいてきたのだ。
「お前のことだ。これもなにか裏があるかもしれないが、最後まで付き合おう」
「あ、の……?」
ささやかな胸に手を当てた女性は、優しい目をしていた。
「私はアティ。本名はアティアだが、今の私のことはアティと呼んでほしい」
「アティさん。あの、知ってるみたいですが一応カナメっていいますよろしくお願いします。それでええと、『今の私は』ってどういう意味ですか?」
別のアティさんがいるみたいな言い方が気になり問いかけるが、彼女は首を横に降った。
「大丈夫。すぐに分かることだ。……それより敬語は使わないでくれ。カナメが私に丁寧な言葉を使われていると思うと少し気分が悪い」
「は、はい……じゃなくて、わかった」
記憶を失う前の僕は何をしていたのか。敬語を使用しただけで気持ち悪いと言われるだなんて、相当の横暴だったのか。なんだか思い出したくないな。
「あっ」
────待て。思い出すってなんだ?
(僕は車に轢かれた。それより前の記憶もはっきりと覚えている。記憶喪失なんかじゃない。でも、僕の知らない過去がある?)
それはどういう恐怖か。自分がもしかしたら知らないナニカになっているというのは。
僕のことを知るヴルとアティさん。過去に何かをやらかしたのか、皆から敵意を向けられていた会場。それらの意味が全く理解できない。
僕は過去に、誰かに憎まれるような酷いことをした覚えはないというのに。
「アティさん。あ、あの……僕の名前はカナメで合ってる?」
「ああそうだが。なんだ、どうしたんだ急に?」
またも困惑する様子のアティさんに気遣いすることができず、現状をきちんと理解しようと必死に冷静になるよう努めた。
別人になってしまったのかと思ったけれど、屋上にあるガラス窓で自分の姿を確認すればその姿は同じだった。車に轢かれる前のやつれた自分よりは元気そうに見えるけど……。
────いや、待って。なんか顔つきが若い。眉間の皺がない。それに十代後半ぐらいの身体をしているような気がする。
僕はあの時死んだはずだ。車に轢かれた。死んだのだと、はっきり分かった。
(まさか、カナメっていう僕に似た誰かの身体に取り憑いてここにいる……?)
意味不明な出来事に心がついていかない。
何故、僕の身体は車に轢かれる前の『僕』に似ているのだろうか。一時間前にアティさんに命令したという僕は、何処に消えたのか。
まさか、取り憑き殺したとかはないよね?
だって本来の身体の『僕』はなにかやることがあるといっていたらしい。それが僕を取り憑かせること?
いやでも、本当に?
(ちゃんと記憶喪失だったら良かったのに……)
気持ち悪くて吐きそうだ。泣いて叫んで、ここから飛び降りたら全部夢にならないかな。
「大丈夫かカナメ。顔が青いぞ?」
「だ、大丈夫。だいじょうぶ。あの、本当に。だいじょうぶ、だから────」
「……カナメ?」
無意識に言葉が詰まり、心配げに見つめているアティさんから一歩後ろへ退くことで気がついた。
僕は命を救ってくれた彼女のことすら、怖がっている。どうしようもないほど、恐怖が込み上げてくる。
なんとなくだけど分かる。アティさんは記憶喪失だと誤解しているけれど、僕に記憶が戻ることはない。
僕と『僕』は別人だと思うから。
僕はもう死んでいて、何故か別人の身体に取り憑いているのだから。
建物から飛び降りるとかしなくても、このまま気絶したら全部なんとかならないかな。目が覚めたら天国とかに着いてないかな。
そう現実逃避した時、だった。
「っ────カナメ!」
僕の後方へ注意を向けたアティさんの声で、ハッと我に返る。
後ろへ振り返ってみて、その真下。何かの異音が響いていることに気づいた。
「────!」
ザクザク、ゴリ。
何かを突き刺す音。破壊していく振動。そして、誰かの怒声がこちらへ近づいてくる。
ここは屋上で、八階ほどの高さのある場所。コンクリートで出来た頑丈なビルのはず、なのに。
「みぃつけたぁ。なに逃げてんだよカナメぇ!」
「ひぇ」
真下に見えたのは複数の棒らしきものを壁に突き刺しそれによじ登る男、ヴルの姿だった。
よく見ればあの男、何処にでもある木の枝を使ってよじ登っているのだ。しかも気味悪いほど素早い。身体能力も高いのか、窓枠に足をひっかけては壁に枝を突き刺し、またよじ登りとクライミングの要領で勢いよく上がってくる。
言っては悪いが、緑がかった黒髪とこの素早い動きは何処かの虫を思い浮かばせた。
「いけない、カナメ!」
「はっ──!」
呆然と考えたのは数秒ほど。思考停止し、ようやくこの事態に対処しなくてはと動くには時間がかかりすぎていた。
真剣な表情で僕に腕を伸ばすアティさんに促されるがまま、その小さな手を掴もうとした。
「カナメ、早くにげ──」
「逃がすかよ!」
後方にて月明かりに人影がひとつ。ビルの壁を駆け上がり、飛び出すような形で僕らに向かって襲いかかってきたのだ。
男の手には一本の木の枝。葉っぱが一枚ついている、何処にでもありそうなもの。先ほどまでの異常な光景を見ていなかったら恐怖は半減していたことだろう。
でも僕は理解した。あれはナイフのように鋭く僕の肌をいとも容易く貫くと。
目を見開き、死の気配を身体中で感じとる。思わず両腕で顔を庇いしゃがみこむけれど、これでよかったのか分からない。
ただヴルの嘲笑う声が聞こえた。そのおかげで僕はまた失敗したのだと理解する。
だがよく見れば、僕の前へと飛び出す影が一つ。
「殺させないぞヴルっ! 退け!」
「うるせえアティ! カナメのペットはお呼びじゃねえんだよ、そこをどきやがれ!」
まずい。アティさんが怪我をする。
そう焦ったのは一瞬。しかし彼女は無傷だった。
先ほどまではつけていなかったはずのアティさんの手に黒い手袋が身に付いていた。
その手袋はコンクリートよりも固いものか、それともなにか理由があるのか。あの武器にも通じる木の枝を掴み、ヴルと応戦していたのだ。
彼女が掴んだ枝を、グッと押し付けようとする動作をした。それに眉をしかめたアティさんが手を離して身を引いていく。しかしヴルの猛攻は止まらず枝を剣のように構え、アティさんの喉元を狙い穿つ。
それに気付いていたのか、アティさんは目を細め軽く首を斜めに動かし攻撃から身を逸らした。
「っ────!」
「ははっ、遅えよ!」
男が突き穿つ姿勢のまま枝を離し、拳を握りしめアティさんの顔面へ殴りかかってくる。
しかしそれも予測していたのか、彼女は顔に当たる寸前でヴルの腕を両手で受け止めたのだ。
身長差は30cmほどありそうな彼ら。体重も大きく違うだろう。殴りかかったまま受け止めて、そのまま吹き飛ばされそうな体格差なのにアティさんは一歩も退かなかった。
彼らのピリピリと放つ緊張感。戦いにより起きる風圧で僕の方が倒れそうなぐらいだ。
懐からまた男が木の枝を取り出す。それをいくつ収納しているのか。
アティさんは冷静に低い姿勢で構えている。手の平をまっすぐにして。ヴルが攻撃したら、すぐに反応できるように。
(……なんか、映画みたいだ)
何度も何度も疑念に思ったことだが、何故ここは夢じゃないのだろうかと首を傾けた。
僕よりも数歩手前で起きた事態に目を瞬く。本当に、なんでこんな状況になってるんだろう。でもこの騒動の中心にいるのは僕だ。
────彼らを止める術は、僕にはない。
攻めのヴルに守りのアティさんの戦闘に終わりが見えない。それに苛立ったのか男が舌打ちをした。
「さっさとそこを退けや! 俺の用はカナメだけだ!」
「いつものように他の奴らを攻撃すればいいだろう。何故カナメを狙う?」
「カナメが俺様を知らねえとほざくからに決まってんだろ! 悪い冗談を言いやがったクソガキにはちゃんと教育しないとなぁ!」
「なるほど、だからか……しかしその躾は容認できない」
「あぁ?」
「カナメが記憶喪失に陥っているからだ」
「────はっ?」
ポカンと口を開けたヴルが僕を見た。本当は違うだろうけど、この状況を止めるには記憶喪失という嘘をつかないといけない。
生き延びるために必死に頷く。それに呆れたのか、ヴルから感じていた殺意が消え失せた。
「ひゃははは! カナメの野郎、嫌だ嫌だとクソ反抗期だったが、記憶無くすほど反抗するかぁ普通!?」
「嘘はついていないぞ」
「そうかよ!」
アティさんは身構えたままだったが、ヴルは腹を抱え笑い続ける。
なんとなく、最悪の事態を止められたのではないかと理解した。まだヴルのことは怖いし近づきたくはないけれど。
そう思っていた瞬間。
「な、なに?」
────不意に聞こえてきたのは、鐘の音色だった。
オルゴールのようにも聞こえる奇妙なもの。それが町中に響き渡っているのだろう。
それを聞いたヴルが、笑うことを止めてこちらを見てきた。その瞳に狂気を感じない。それに少しだけ安堵する。
「そろそろ時間か。んじゃあまた次の夜に遊ぼうぜ。記憶喪失なんて馬鹿なことする前の、最初に出会った時みてえになぁ?」
「ひぇ」
安堵しなきゃよかった。ニヤリと笑うその凶悪な顔は悪意に満ちており、時間があればこちらへ攻撃するよう伝えていたようなものだから。
そんな僕を気にせず、アティさんの警戒心すら無視をして手を軽く振り、屋上の扉を使って階下へと降りていったのだった。
姿が見えなくなってようやく息がつける。それはアティさんも同じらしく、黒い手袋を外しつつ僕の横に並び立つ。
月が沈んで、太陽が上がりそうな綺麗な空模様をしていた。徹夜したようなものなのに、眠くない。何故だろうか。理解できない状況に疲れきった身体は普通睡眠を欲するというのに。
いやそれよりも、殺されなくて良かったと思う気持ちの方が強いせいだろうか。
「あ、嵐が去った……」
「そうだな。しかしもう時間だ。そろそろ戻らなきゃいけない」
「あの、戻るって何処に?」
僕の言葉にアティさんはまた目を見開いた。
「あ、ああそうか。それすらも忘れてしまったのか……」
仕方がないとアティさんが僕の手を掴む。そうして手を繋いだまま歩き出して数歩。
瞬いただけなのに、急に景色が一変した。
「えっ?」
屋上だが、野外にいたようなもの。でもいつの間にか僕らは室内にいた。
狭い部屋は六畳程度のもの。殺風景で、家具が一つだけ。白い壁紙と床はまるで囚人室を思わせる。
一応窓はあるけれど、換気用にだろうか。人が通れない小さいサイズで、外の様子も見れないように曇りガラスに作られている。
窓からは夜空が透けて明るい光が出ているように見えた。
そして部屋のなかにあるそれ。家具というか────それは棺だった。
「待ってここどこ? 僕の死に場所!?」
「何を言っているんだ。ここはお前の部屋だぞ」
「えっ?」
戸惑い気味に棺を見るが、アティさんはどうして僕が困惑しているのか分からず首を傾けているだけ。
それと窓から入ってくる光を見て、なんだか焦っているようにも見えた。
僕から背を向けて出入り口らしい扉へと歩き出す。
「私から説明する時間はもうない。また次の夜に会おう」
「えっ、あの。どういうこと──」
「詳しい話はまた今度。今はその寝床で寝てほしい」
「この棺って寝床!?」
「それ以外になにか意味でもあるのか?」
疑念を含んだ視線に僕は言葉を詰まらせた。
そうか。彼女にとってこの棺はベットのようなものだと思っている。これはきっと認識の違いによるもの。この身体に本来いるはずの『僕』は、棺で寝ていたということ。それが当然という判断で僕に言ったのだ、アティさんは。
(駄目だ。棺が変なんて言えない。変なことは言えない)
記憶喪失だと偽らなくてはならない状況。嘘がばれたらどうなるのか。
僕を守ってくれたアティさんがいなくなったら、僕に味方はいるのだろうか。もしも一人になって、また襲われたら。
また、あの時のような恐怖と戦わないといけないのか。
(……いや、無理だ。できない)
様々な恐怖と不安に襲われ、僕はなにも言えなくなった。
疑心に満ちる目をしたアティさんに、頑張って笑いかけた。
込み上げてくる言葉を呑み込み、言わなければならないものを口にする。
「あの、また次の夜に」
「……ああ。お休みカナメ」
微笑みつつ扉から部屋を出たアティさんに心の底で謝罪する。いつかきっと、本来の『僕』が戻るまではこのままでいさせてほしい。その時に話せる時間があれば、ちゃんと謝ろう。
そう決意をしてから、棺を見下ろした。
「こ、これで眠れってことだよな。これで?」
一応部屋のなかを探るが本当に何もない。囚人室より無いんじゃないだろうか。たぶん。
重たい蓋を開けて、棺の中を見た。
「えっ────?」
鏡、だろうか。
固い床。蓋の内部にも張り巡らされた鏡は僕の顔を写し出す。棺の内部は鏡で出来ている。しかもよく見ればその鏡の四方の隅っこに何かの刻まれた紋様が描かれている。月と太陽のそれ。おそらくお洒落なのかな。でも、なんで?
「なんで鏡が?」
これが寝床なのか。
ふかふかでもない。固い床で寝ていた方がまだマシなのに?
「っ──いやでも、ここで寝ろって言ってたんだし、何か変なことをして怪しまれたら不味いか」
本当は嫌だけれど、仕方なく棺の中へ入り込んだ。寝心地は最悪だった。
蓋を閉じればなにも見えなくなるけれど、闇に慣れた瞳がぼんやりと蓋の裏側に映る自分がいたから。
(いや、寝なきゃ……これでもしかしたら本来の『僕』が戻るかもしれないし……)
必死に目を閉じて、意識を睡眠へ落とそうとする。
もしもまた目覚めるようならアティさんにきちんと話を聞こう。異世界に来たって思った方がいいぐらい訳が分からないことが続いているから。
(……ここって別の世界なのかな)
いや。ああそうか────異世界だ。
ストンと心に残る言葉。それが正しいのではと納得する。じゃないと変だろう。棺で寝る習慣も、アティさん達のおかしな力も。
この町をきちんと見たわけじゃないから、本当にまた目が覚めて同じなら──ちゃんと。
「ひっ────あぐ!」
大きな鈴の音が聞こえて思わず飛び起きる。しかし蓋に邪魔をされ頭を強く打ち付けた。反動でまた倒れるが、固い鏡により後頭部も強打し、涙が溢れ悶え苦しむ。
鏡は壊れなかったが、僕の頭は傷ついたはずだ。
「ぐぅ~~~っ!」
絶対にたんこぶが出来たはず。しかも石を投げられた時に出来た傷を直撃したから余計に痛い。
激痛に悶絶しなかなか起き上がれないでいたが、その感覚は長く続かないでいた。
「おはようございます。まだ寝ていますか、先輩?」
コンコン、と。
誰かが扉を開けて、棺の蓋をノックする音が響く。それに一瞬警戒するが、よく聞けばアティさんの声色と同じだ。口調はなんだか違うけれど。
痛みを我慢しつつなんとか蓋を開けてみれば、目映い光が視界を襲う。
目を瞬き、明るさに慣れた景色にはあの殺風景な室内。
一人の女性が棺の傍でしゃがみこみ、僕を心配げに見つめている様子が理解できた。
その女性は、アティさんにそっくりだった。ただ雰囲気と色が違う。肌は同じ白色だったけれど。
「……アティさん?」
「アティ? それは夜のわたくしの名前ですよ。先輩ってば、まだ寝ぼけているみたいですね」
ふふふ、と。可笑しそうに笑う女性はアティさんより可愛らしい。
アティさんが冷たい宝石を示すなら、彼女はきっと柔らかな花のように綺麗だと思った。
「いつものように、イアとお呼びくださいな」
「……イアさん?」
「はい。アティアの、『イア』ですよ。カナメ先輩」
太陽の光で橙色混じりの金髪が綺麗に輝く。結んでいたはずの髪は解かれていて、その長さは腰まで届くほどだった。そして瞳の色はアティさんのルビーの輝きとは違い、海のように深く青い色彩をしている。アティさんとはまた別の、綺麗な色だ。
スタイルや顔立ちは同じだけれど、髪色などは異なっている。ちょっと変な言い方になるけれど、最初に見た時は色違いのアティさんだと思ってしまった。
でも、アティアだと彼女は話す。アティさんはイアさんにとっての『夜のわたくし』と言うのだ。
その意味はまだ理解しきれていない。
(また謎が増えた……)
困惑に顔をひきつらせた僕に対し、イアさんは頬を軽く赤らめ笑いかけてきたのだった。
町を照らす街灯すら薄暗い深夜の時間帯。仕事で疲れた身体を引きずって、家で冷めたコンビニ弁当でも食べてまた明日に備えるはずだった。
毎日毎日、思考が停止するほど働いては死んだように家で寝る。かろうじて食べるという行為をしていることを誉めてほしいほど自分は疲れきっていた。
こんな毎日が死ぬまで続くのだろうと、諦めたように考えるぐらいだった。
────それは、突然起きたのだ。
おそらく疲れて思考力が落ちていたのだろう。
強烈な輝きが自分の視界を奪う。思わず立ち止まり星かと思ったその光は目映い車のヘッドライトであった。
それを知ったのは、数秒後。
立ち止まらなきゃ良かったと後悔したのは、それにぶつかった直後。
「……っ!」
身体が吹き飛ぶ衝撃によって、車に轢かれたのだと気がついた。しかし今の自分にはどうしようも出来ない。息が止まるほどの熱と叫ぶことすら難しいほどの衝撃に死を覚悟した。
明滅した視界に、身体が冷たくなる感覚。
死が身体を支配する。死神が自分の背中に這い寄る気配を感じ取ってしまった。
なんとも呆気ない最後だ。抵抗も何も出来なかった。
生きたいと思っても、もう無理だと諭す自分がいる。
だから目を閉じた。
痛覚や寒気なんて感覚はとっくにない。それは幸いだったけれど、そのせいで余計なことを考える。
もう自分は死ぬしかないのだ。死ぬしかないなら、早く終わらせたい。
走馬灯のように流れていく時間は恐ろしく長く感じた。
後悔はたくさんあった。泣いてしまう人がいるかもしれないなと思った。
ただ、死にたくないと思った。
確かに死んだように生活していたけれど、もしかしたらいつか報われる日がくるかもしれないと、願ってもいたから。
死にたくない。このまま生き延びたい。何で自分が死ななきゃならないのか。
様々な感情が溢れては消えていき、後悔に涙を流した────。
慌てるような声が遠くから聞こえる。身体が揺れ動く感覚はきっと誰かが僕を道路脇に動かしているのか。
「レディースアンドジェントルマン!!」
それが何故か────周囲がいきなり愉しそうな笑い声のする騒音へ切り替わった。
「さぁ此度の目玉商品はあの気難しくも捕らえようのない珍しき人物! まさか普通に路上で寝てるとは思わないだろ捕まえるの簡単だったわ!! ……というわけで皆さん一度はボコられた経験のあるとっても凶悪なあの男! 恨みのある奴らはリンチにするも良しボコボコに殺すも良しのカナメだぁぁ!」
僕の名前を叫ばれて思わず目を見開いた。そうして見えた景色に驚愕する。
今いる場所は路上ではない。薄暗いコンサートホールのような場所。客側と思わしき場所には血に飢えた獣かと思えるような、いやそれすらもまだマシでどこか世紀末を思わせる悪そうな顔をした奴らがいた。
その人数は数十、いやそれ以上。もしかしたら百はいるかもしれない。とにかくみっちりと詰め込まれた客側の熱に圧されて、汗が一筋流れ出た。
そいつらは僕を極上の餌か何かと見間違えているのか、背筋がゾッとするような目で睨んでくる。
僕は何故かその壇上にいて、しかもとても頑丈そうな鋼鉄の檻に入れられている。
まるで見世物のような扱いだと思えてしまった。
鳥籠のようなそれは、鍵のかかった扉によって脱出はできない。しかも両足を動かさないよう縄できつく縛られた上で足枷がつけられているため、立ち上がることすら困難になっていた。
両手にも奇妙な模様が刻まれた手錠がつけられている。星と月が描かれたそれ。手錠に刻むにはあまりにも惜しい綺麗なもの。手首から先は自由だし、腕も動かせるので一応手を使うことは出来る。
しかし何故だろう。手錠に刻まれた模様を見ているだけで気分が悪くなった。
まあでも見なければなんとかなるかと思考を必死に脱出することへシフトした。
少し不自由だけど、足枷をどうにか出来ないかと掴んでみる。
……なんとか頑張れば、縄は外せそうだ。しかし足枷はどうしようもなかった。鍵穴があってそこからじゃないと外せない構造。隙間もなくきちんと付けられたそれは鎖に繋がれていた。
鎖は檻の内部、その天井に取り付けられており、狭い内部であれば動くことは可能だが外へ出る長さではない。
(無理だ。頑丈過ぎる……)
怖い。このままここにいたらどうなるんだろう。
でも、なんで。
いやいやそもそも、なんでこうなった?
恐怖は困惑から疑念へ。そして、吐き気のするような様々な感情が込み上げてくる。周りに見られているせいか。それとも、お客側たる人々の目線が何だか含みがあるようで、怖く感じるからか。
このままでは僕はきっと、見世物で済まないことになるかもしれない。
そんな他人事のような感覚で、この状況を冷静に判断していた。
ここは何処なんだろう。なんで僕はここに居るのだろう。夢なら覚めてほしい。切実に。
「……あれ?」
身体を起き上がらせて周りを見渡しているうちに気づいた。
僕は車に轢かれたはずだ。身体は地面に叩きつけられ、流血していたはず。骨も折れた感覚だってあった。それなのに痛みがない。
死にかけた時の最後は痛みも無かったから、そのせいかと思ったけど違う。
身体中の何処を見ても怪我をしていないのだ。
なんで?
やっぱりここは夢なんだろうか。そう思って頬をつねったら痛みがあった。
つまりここは、現実かもしれないということ。
でもじゃあ、どうして檻に入れられているのか。なんで僕は皆に憎しみを込めた目で睨まれているのか。
困惑はやがて恐怖へと切り替わる。冷静でいられたのはきっと、今いる場所が現実離れしているせいかもしれない。もしかしてここが地獄か?
いや天国ならともかく地獄に行くような悪いこと何もしてないんだけど!?
「おいおい見ろよ! 寝坊助が目覚めたみたいだぞ!」
「アヒャヒャヒャヒャ! あのクソヤローまだ何が起きてんのか分かんねえ顔してやがるぜ!」
「おーいお前はもう終わりだってこと分かってんのかよ、カナメちゃんよぉ!」
「うぐっ!」
客側の誰かが投げた小石にぶつかって額に鈍痛が走る。それと同時に片目の視界が歪んだ。ぶつかった箇所に手を当てれば、血が流れ出ているのが見えてしまった。
それを見た瞬間ゾッとした。車でぶつかった時の衝撃よりはるかに酷いもの。悪意を実感する。
息が乱れ、視界が歪む。そんな僕の取り乱しっぷりにも客の奴等は愉しそうに眺めては笑う。
狂喜、殺意、悦楽。
様々な悪意に晒されて、僕はまた死ぬのではないかと恐怖で怯えた。
視界に見える全てが恐ろしいと感じたのだ。
「僕は死んだ。だからここはあの世……でも何で、こんなことに……」
この痛みは夢じゃない。現実だ。
「さてこちらの商品たるカナメを買うのは誰だ! 千から始めさせていただきます!」
「千五百!」
「二千だ!」
「カナメには酷い目に遭わされたからなぁ! 五千で買うぞ!!」
会場は酷い盛り上がりを見せてくる。オークションのように値段を釣り上げ僕を買おうともがく奴等に逃げる術が見つからない。立ち上がれない。扉の鍵も持っていない。そもそも逃げ出したところでどうすればいい?
ちゃんと逃げきれるのか。あいつらが追ってきたら、武器かなにかを使われたら。僕は逃げたとして、奴らが何をするのかは想像できない。
捕らわれるだけじゃないだろう。きっと。
投擲された石を見た。きっと、この投げられた石のように、僕は殺される。奴等の殺意が本物なのだと理解するのだ。
ここが何処だか分からないし、何でこうなってるのかすら分からない。だから今はきっと、どうしようもない。
身体を震えさせ、この先の最悪な未来を想像し涙を流す。
その刹那────。
「少し待て、照明を落とす。走る準備をしておけ」
「っ!」
近くには誰もいないはずなのに耳元から聞こえてきた声に思わず周りを見た。それは可愛らしい少女の声だった。
走る準備なんて言っていたけれど、それはつまりここから逃げ出せる、ということだろうか?
逃げ出せるのか、本当に?
僕が生み出した幻聴じゃないのか。
だって、誰もいないのだ。女性の姿すらなにもない。それにあの声は聞いたことのないものだった。知り合いじゃないのは確実だ。
居るとしたら客側しかありえないけれど、あちらは僕のことを憎んだ目で見るか奇妙な見世物に嘲笑う者ばかり。
僕を助けようとする人は何処にもいない。
「七千!」
「一万で買ってやるよ!」
聞こえてきた声にハッと我に返った。
「一万! それ以上の値付けはいますか!?」
どうやら盛り上がりは佳境を迎えたらしい。
最後に手を上げたのは、痩せてはいるが細長く身長の大きな中年くらいの男性だった。
その男が僕を見た。緑がかった黒の前髪が目を覆っているけれど、こちらをしっかりと捉える視線の強さがその殺意を浮き彫りにする。
(ころされる?)
立ち上がった男が壇上へ。こちらへと近づいていくのが見えた。
「一万もの価値を付けられた商品! こちらはお持ち帰りしますか? それともこのまま壊しますか?」
「どっちでも構わねえよ、とりあえずは俺のもんだろうが。鍵持ってこい!」
「少々お待ちを!」
恐怖で身体が震えるというのに、何も出来ない。
違う、逃げたいけれど檻と手錠のせいで不可能になっていた。だから余計に恐ろしい。
「ひっ」
檻の前に立った男は舌なめずりをし、僕を見下ろす。
それはまるで強者と弱者。捕食者と餌のような関係性。
「ゆめ、だよね。だって。こんな……急に……」
車に轢かれてオークション会場に、なんて急展開過ぎて困惑どころか自分がちゃんと現実と向き合っているのかすら疑問に思えてくるぐらいだ。
理解できない状況に思わず顔を上げて──その男と視線が合った。見なければ良かったと、後悔した。
気持ち悪いほどの悪意が僕を見据える。それに寒気がした。玩具をどう扱うのかニヤニヤと待つ狂人だ。
逃げないと本当に手遅れになると分かった。
分かっているけれど、もう無理だとも理解している。
苛立ち混じりにガンッと檻を蹴りつけてきた男。それにビクリと身をすくませるが、男は僕のことなんて気にせず「早く鍵持ってこい!」とスタッフに向かって怒鳴っているのが見えた。
待つことすら出来ないのか、男は派手な舌打ちを鳴らす。
「あーあ、面倒くせえな」
男が檻の目前でしゃがみこみその隙間からこちらへ向かって腕を伸ばす。反射的にその手から逃れようと身を退くが、奴の方が早かった。
「いだっ!」
大きな手が僕の顎を掴み、無理やり奴の近くへ引きずり寄せてくる。
間近に見えた男の目が翡翠のように煌めいていた。しかしその輝きは凶悪なもの。ニヤリと笑ったことで見えたギザギザの歯は、まるで人の形をした猛獣のようだ。
いや、猛獣の方がマシだろうか。獣は命を食らうだけ。でもこの男は僕を弄ぶ気満々だ。
どんな目に遭わされるのか想像しては吐きそうになった。
「ハハッ、あのクソ反抗期のカナメが檻のなかで震えてらぁ」
男はとても楽しそうに僕をじっくり観察してきた、僕の恐怖を理解し、それを味わうかのように。
「ひ、ぅ……」
「いいねぇその顔。恐怖に溺れ震える弱者のそれだ。久しぶりにその面拝めたぜ、なぁカナメちゃんよぉ?」
久しぶりってなんだよ。
なんで僕のこと知ってるんだよこいつは!
「し、知らない。君のことなんて僕は知らない!」
何も知らない。夢なら覚めてくれ!
そう、震えるままに涙目で男に向かって叫ぶ。それがいけなかった。
僕の言葉を聞いた男が真顔になり、「あぁ?」と首を傾け睨んできたのだ。
「冗談は一度だけにしとけやクソガキ。殺してやろうか」
「──ぐぁっ!」
「変な鳴き声だなぁ! お前の喉にカエルかなにかいんのかなぁ!」
顎から首を掴まれてしまい、咳き込む。しかし男はそれを嘲笑った。
死が鮮明に僕の心を支配する。
怖い。こわい。しにたくない。死にたくない。なんで僕がこんな目に!
恐怖で涙が溢れて止まらない。足枷ごと足を必死に動かすせいで鎖がジャラジャラと音を立てるが、耳障りなそれを心地よい音楽みたいに楽しんでいる男。首を掴む手に爪を立ててもなお、奴は笑う。嗤い続ける。
「はぁ、はなし……て……ぐるじい!」
「知るかクソヨワカナメ。お前は俺に何て言ったか思い出してみろ」
「なに……」
「この俺様に向かって、知らないと言いやがったな?」
「っ────!」
そうか、と。
僕は、目の前にいる不機嫌な男の地雷を踏んだのだと。ここでようやく理解した。
それでももう遅い。
何度も逃げようともがいて、抵抗しても奴の力は強く、振りほどくことが出来ないでいた。
あの時聞いた少女のような声。あの幻聴が本物ならば早く。だれか、助けてと懇願するように周りを必死に見渡す僕に対し、男の目は楽しげだった。豹変する前は面白半分で観察していたような視線だったはずだ。
近づいてきた男に悪意はあったけれど、その中に殺意はなかった。
今は何故か、目を細めた男が舌打ちを鳴らし、殺意を込めて手に力を入れてくる。下手をすれば首を折ると、僕を脅し見てくる。
「忘れてねえよなぁ。ただの反抗期で馬鹿なことを言っちまったんだろ? なぁそうだよなぁそうだって言えよ!!」
「ひぇっ」
「ハッ、仕方ねえから一度は許してやるよ。俺様は寛大だからなぁ!」
じりじりと真綿で首を絞めるようなもの。ここは死後の世界で、地獄に来たのかと錯覚する。
「なぁクソガキ──俺様の名を、言ってみろ」
沈黙。それしか僕に与えられた選択肢はなかった。
知らない名前に答える術はない。
何も言わない僕に対し、殺意が向けられる────と、思った刹那。
感じたのは熱狂。奴を止めるほどの勢いのある怒声だった。
「なーに仲良くしてんだよ! さっさと潰しちまえ!」
客側から響く狂ったような声に空気がビリビリと揺れる。
「グダグダすんじゃねえカナメのクソ野郎を殺せ!」
「首ぐらい折っとけ! いや呆気なく殺すのは惜しい。もっと手酷くやれ!」
「切り刻めよ悪党! お前なら殺れんだろうが!」
聞こえてきた声に救いはない。見世物だとずっと思ってきたその予想は大当たりで、彼らは僕が傷つけられる姿を望んでいる様子。
しかし、目の前にいる男は違った。
何故か首を掴む手が離れ、立ち上がった男が深いため息を吐いたのだ。
殺意が僕から周りへ、そうして客全員へと向けられる。
男は客の顔を一人一人覚えるようにじっくりと眺めていた。
そうして、僕を見た。
タイミング悪くスタッフから渡された鍵を受け取り、男は檻を開けて中へ入ってくる。
立ち上がれず逃げ場もない僕を見下ろす奴は、無表情だった。不機嫌で恐ろしい。殺人鬼。
「……殺すか」
殺すと言った先にいるのは僕だけしかいない。
周りの客を殺したいような目で見ていたくせに、なんで。
もしかして、ほんとうに?
ぼくをころすの?
「待っ────」
悲鳴を上げる刹那。
男の顔を見上げるしか出来なかった視界が真っ黒に染まる。いや違う。これは暗闇だ。
照明が消えたのだと気づいた。
なにも見えない状況に客が怒声を上げる。どこかで何かが壊れる音もする。
「ひっ」
不意に、誰かの手が僕の腕を掴む。
おそらくあの男が僕を捕らえてきたのだろう。しかし先程より──いやはるかに小さいような?
「間に合ったか。逃げるぞカナメ」
その声はあの男のものではなかった。少女のような声色は男が来る前に聞いたものと同じ。
薄暗いのに手錠を器用に外していく誰かの手。気配でそれが僕より小さい身体をしていることに気づく。
「カナメぇ! てめえどこにいやがる!!」
「……急いだ方が良さそうだな。カナメ、一歩前へ出られるか?」
「え、あの……でも、前へ出たら気づかれるんじゃ……」
檻の出入り口にて聞こえてくる怒声は近い。だからすぐ男に僕たちの位置がばれてしまうだろう。そう思っていたのに少女は僕を無理やり立ち上がらせ、引っ張って動かした。
「えっ」
男の声が遠ざかったように感じた。何故なのか分からない。だって、たった一歩前に踏み出しただけだ。なのに気がつけば十メートルかそこらの距離にて男の怒声が聞こえてくる。
「クソ、逃げやがったな!!」
明かりは未だについていないが、男は気づいたようだ。男の「どぉこだカナメぇぇぇ!!」と何かを壊しながら響く声が恐ろしい。それ以外にも「カナメの野郎脱獄しやがったのか!」「捕まえてボコボコにしてやろうぜ!」と楽しそうな声も聞こえてくる。おそらく客たちも男のように僕を探しているのか。
傍に居る彼女が何をしたのか分からない。姿すら見えない少女を信じてもいいのかと心が問いかける。
でも────ここにいたら確実に殺される。それだけは分かった。
「あ、あの。……僕は、このままじゃ」
「わかっている。死にたくないなら私を拒まないで、ついてきて」
また小さな手が僕の腕を引っ張っていく。それに抵抗することなく従い、必死に歩いた。
薄暗いせいで足元がおぼつき、時折転びかけてしまうが──それでもなんとか、少女のあとをついていく。
一歩一歩と歩き出すうちに、喧騒がいつのまにか止んでいた。ざわめく気配もない。
薄暗い世界が急に明るさを取り戻す。何かが揺らいだ感覚に眩暈がした。
「もう大丈夫だ」
聞こえてきた声に、思わず目を見開いた。
「───あっ」
風が頬を撫でていく。温度は肌寒く、鳥肌が立った。どうやら時間帯は夜らしい。まだ視界が霞むが空が暗いことに気づいた。
────いつの間にか僕たちは外にいた。いや外、というよりは建物の屋上。誰も来ない場所へ逃げ延びたらしい。
だから僕は少しだけ困惑したのだ。
階段を上った感覚、扉を開けた動作も何もなかったはずだったのに、何で屋上に来ているのかと。
(本当に、どうやってここまで来たんだろう……)
走ったのはわずか十数歩ほどだったはず。それだけは覚えている。そこまでの距離を動いた訳じゃない。いや、目覚めた場所があの檻の中だったし建物の内部を全て知っているわけじゃないから距離を測れるわけじゃないけれど、それでもおかしいと思った。
なんせあの檻の中。出入り口が一つしかない場所なのに、急に男から遠のいたように感じたのだから。
「ゆめ、じゃないよね……うん……」
「どうした?」
「い、いや何でもない、です。……あの、ありがとうございます!」
「っ────ああいや。カナメが礼を言うほどの事はしていない」
「そんなことないです! だって、僕の命を救ってくれましたから」
「そっ……う。そうか。そうだな……」
困惑したような少女が、僕を見た。
そうしてようやく気付いた。明かりに慣れた目がはっきりとその光景を映し出す。僕の手を掴んでいる少女の姿に、息を呑んだ。
(……ああ、すごい。綺麗な人だ)
彼女はとてもスタイルが良く、整った顔立ちをしていた。
ルビーのように輝く赤い瞳。蜜柑色の綺麗な髪の毛を結びポニーテールにしている。ズボンを着てボーイッシュな格好をしてはいるが、その姿が凛とした花を思い浮かばせるほど似合ってもいた。
少女というよりは、小柄な女性といった方がいいかもしれない。身長はおおよそ150cmぐらいに見える。年齢は不明だが、僕よりは年下だろう。おそらく。
僕を見つめる彼女は何故か、妙に疑り深い目つきをしてはいたが……。
「カナメ、今度は何を企んでいる?」
「はい?」
「とぼけるな。私はカナメに命じられてあの場へやって来たんだぞ。そうしたら捕らえられたお前自身がいて、ヴルに殺されかけていた」
「命令した?」
「そうだ。あれより一時間ほど前に、『俺はやりたいことがある。抵抗せず捕まるから助けに来い』といっていたじゃないか。私はその通りに動いただけだぞ」
困惑している彼女に、僕も首を傾けた。
「あの、僕とは初対面……ですよね?」
「はっ────?」
驚愕に目を見開く女性。眉をひそめ、戸惑い混じりに僕をじっと観察してきた。
「嘘か?」
「い、いえ。僕はあなたを知りません」
はっきりと断言すると、それが偽りのものではないと分かったのか女性は一歩後ろへ引き下がった。
困惑。疑念。そして警戒。
言葉を間違えば、敵になるような緊張感が走る。
まるであの時────彼女が言うには、ヴルという名前らしいあの男が豹変したきっかけでもある言葉。
ただ一言、『知らない』と言っただけだ。なのに何故態度が急変するのだろうか。
意味が分からない。僕はそんなに変なことを言ったのか?
何故そんな目で僕を見つめるのだろう。ヴルに襲われかけた時のように彼女にも殺意を向けられるのか。若干恐怖で身体を震えさせつつも、僕は必死に言葉を紡ぐ。
「あの……こ、ここは何処ですか? 気がついたらあの場所で檻に閉じ込められていて、それで知らない人ばかりで……」
「なに?」
「め、目が覚めたら知らないことばかり起きてるんです!」
勇気を込めてはっきりとそう言う。
知らないと発言したら、また殺されかけるかもしれない。そんな予感に現実から目を逸らしたい。逃げたいけれど、必死にその衝動を抑えた。
若干の沈黙。冷めた空気が背筋をゾクッと震えさせる。
しかし僕の気持ちとは裏腹に、彼女は小さく微笑んだ。
「……つまり、記憶喪失だから知らないということだな?」
なるほどと、納得したように。
警戒が解かれ、女性はまた僕に近づいてきたのだ。
「お前のことだ。これもなにか裏があるかもしれないが、最後まで付き合おう」
「あ、の……?」
ささやかな胸に手を当てた女性は、優しい目をしていた。
「私はアティ。本名はアティアだが、今の私のことはアティと呼んでほしい」
「アティさん。あの、知ってるみたいですが一応カナメっていいますよろしくお願いします。それでええと、『今の私は』ってどういう意味ですか?」
別のアティさんがいるみたいな言い方が気になり問いかけるが、彼女は首を横に降った。
「大丈夫。すぐに分かることだ。……それより敬語は使わないでくれ。カナメが私に丁寧な言葉を使われていると思うと少し気分が悪い」
「は、はい……じゃなくて、わかった」
記憶を失う前の僕は何をしていたのか。敬語を使用しただけで気持ち悪いと言われるだなんて、相当の横暴だったのか。なんだか思い出したくないな。
「あっ」
────待て。思い出すってなんだ?
(僕は車に轢かれた。それより前の記憶もはっきりと覚えている。記憶喪失なんかじゃない。でも、僕の知らない過去がある?)
それはどういう恐怖か。自分がもしかしたら知らないナニカになっているというのは。
僕のことを知るヴルとアティさん。過去に何かをやらかしたのか、皆から敵意を向けられていた会場。それらの意味が全く理解できない。
僕は過去に、誰かに憎まれるような酷いことをした覚えはないというのに。
「アティさん。あ、あの……僕の名前はカナメで合ってる?」
「ああそうだが。なんだ、どうしたんだ急に?」
またも困惑する様子のアティさんに気遣いすることができず、現状をきちんと理解しようと必死に冷静になるよう努めた。
別人になってしまったのかと思ったけれど、屋上にあるガラス窓で自分の姿を確認すればその姿は同じだった。車に轢かれる前のやつれた自分よりは元気そうに見えるけど……。
────いや、待って。なんか顔つきが若い。眉間の皺がない。それに十代後半ぐらいの身体をしているような気がする。
僕はあの時死んだはずだ。車に轢かれた。死んだのだと、はっきり分かった。
(まさか、カナメっていう僕に似た誰かの身体に取り憑いてここにいる……?)
意味不明な出来事に心がついていかない。
何故、僕の身体は車に轢かれる前の『僕』に似ているのだろうか。一時間前にアティさんに命令したという僕は、何処に消えたのか。
まさか、取り憑き殺したとかはないよね?
だって本来の身体の『僕』はなにかやることがあるといっていたらしい。それが僕を取り憑かせること?
いやでも、本当に?
(ちゃんと記憶喪失だったら良かったのに……)
気持ち悪くて吐きそうだ。泣いて叫んで、ここから飛び降りたら全部夢にならないかな。
「大丈夫かカナメ。顔が青いぞ?」
「だ、大丈夫。だいじょうぶ。あの、本当に。だいじょうぶ、だから────」
「……カナメ?」
無意識に言葉が詰まり、心配げに見つめているアティさんから一歩後ろへ退くことで気がついた。
僕は命を救ってくれた彼女のことすら、怖がっている。どうしようもないほど、恐怖が込み上げてくる。
なんとなくだけど分かる。アティさんは記憶喪失だと誤解しているけれど、僕に記憶が戻ることはない。
僕と『僕』は別人だと思うから。
僕はもう死んでいて、何故か別人の身体に取り憑いているのだから。
建物から飛び降りるとかしなくても、このまま気絶したら全部なんとかならないかな。目が覚めたら天国とかに着いてないかな。
そう現実逃避した時、だった。
「っ────カナメ!」
僕の後方へ注意を向けたアティさんの声で、ハッと我に返る。
後ろへ振り返ってみて、その真下。何かの異音が響いていることに気づいた。
「────!」
ザクザク、ゴリ。
何かを突き刺す音。破壊していく振動。そして、誰かの怒声がこちらへ近づいてくる。
ここは屋上で、八階ほどの高さのある場所。コンクリートで出来た頑丈なビルのはず、なのに。
「みぃつけたぁ。なに逃げてんだよカナメぇ!」
「ひぇ」
真下に見えたのは複数の棒らしきものを壁に突き刺しそれによじ登る男、ヴルの姿だった。
よく見ればあの男、何処にでもある木の枝を使ってよじ登っているのだ。しかも気味悪いほど素早い。身体能力も高いのか、窓枠に足をひっかけては壁に枝を突き刺し、またよじ登りとクライミングの要領で勢いよく上がってくる。
言っては悪いが、緑がかった黒髪とこの素早い動きは何処かの虫を思い浮かばせた。
「いけない、カナメ!」
「はっ──!」
呆然と考えたのは数秒ほど。思考停止し、ようやくこの事態に対処しなくてはと動くには時間がかかりすぎていた。
真剣な表情で僕に腕を伸ばすアティさんに促されるがまま、その小さな手を掴もうとした。
「カナメ、早くにげ──」
「逃がすかよ!」
後方にて月明かりに人影がひとつ。ビルの壁を駆け上がり、飛び出すような形で僕らに向かって襲いかかってきたのだ。
男の手には一本の木の枝。葉っぱが一枚ついている、何処にでもありそうなもの。先ほどまでの異常な光景を見ていなかったら恐怖は半減していたことだろう。
でも僕は理解した。あれはナイフのように鋭く僕の肌をいとも容易く貫くと。
目を見開き、死の気配を身体中で感じとる。思わず両腕で顔を庇いしゃがみこむけれど、これでよかったのか分からない。
ただヴルの嘲笑う声が聞こえた。そのおかげで僕はまた失敗したのだと理解する。
だがよく見れば、僕の前へと飛び出す影が一つ。
「殺させないぞヴルっ! 退け!」
「うるせえアティ! カナメのペットはお呼びじゃねえんだよ、そこをどきやがれ!」
まずい。アティさんが怪我をする。
そう焦ったのは一瞬。しかし彼女は無傷だった。
先ほどまではつけていなかったはずのアティさんの手に黒い手袋が身に付いていた。
その手袋はコンクリートよりも固いものか、それともなにか理由があるのか。あの武器にも通じる木の枝を掴み、ヴルと応戦していたのだ。
彼女が掴んだ枝を、グッと押し付けようとする動作をした。それに眉をしかめたアティさんが手を離して身を引いていく。しかしヴルの猛攻は止まらず枝を剣のように構え、アティさんの喉元を狙い穿つ。
それに気付いていたのか、アティさんは目を細め軽く首を斜めに動かし攻撃から身を逸らした。
「っ────!」
「ははっ、遅えよ!」
男が突き穿つ姿勢のまま枝を離し、拳を握りしめアティさんの顔面へ殴りかかってくる。
しかしそれも予測していたのか、彼女は顔に当たる寸前でヴルの腕を両手で受け止めたのだ。
身長差は30cmほどありそうな彼ら。体重も大きく違うだろう。殴りかかったまま受け止めて、そのまま吹き飛ばされそうな体格差なのにアティさんは一歩も退かなかった。
彼らのピリピリと放つ緊張感。戦いにより起きる風圧で僕の方が倒れそうなぐらいだ。
懐からまた男が木の枝を取り出す。それをいくつ収納しているのか。
アティさんは冷静に低い姿勢で構えている。手の平をまっすぐにして。ヴルが攻撃したら、すぐに反応できるように。
(……なんか、映画みたいだ)
何度も何度も疑念に思ったことだが、何故ここは夢じゃないのだろうかと首を傾けた。
僕よりも数歩手前で起きた事態に目を瞬く。本当に、なんでこんな状況になってるんだろう。でもこの騒動の中心にいるのは僕だ。
────彼らを止める術は、僕にはない。
攻めのヴルに守りのアティさんの戦闘に終わりが見えない。それに苛立ったのか男が舌打ちをした。
「さっさとそこを退けや! 俺の用はカナメだけだ!」
「いつものように他の奴らを攻撃すればいいだろう。何故カナメを狙う?」
「カナメが俺様を知らねえとほざくからに決まってんだろ! 悪い冗談を言いやがったクソガキにはちゃんと教育しないとなぁ!」
「なるほど、だからか……しかしその躾は容認できない」
「あぁ?」
「カナメが記憶喪失に陥っているからだ」
「────はっ?」
ポカンと口を開けたヴルが僕を見た。本当は違うだろうけど、この状況を止めるには記憶喪失という嘘をつかないといけない。
生き延びるために必死に頷く。それに呆れたのか、ヴルから感じていた殺意が消え失せた。
「ひゃははは! カナメの野郎、嫌だ嫌だとクソ反抗期だったが、記憶無くすほど反抗するかぁ普通!?」
「嘘はついていないぞ」
「そうかよ!」
アティさんは身構えたままだったが、ヴルは腹を抱え笑い続ける。
なんとなく、最悪の事態を止められたのではないかと理解した。まだヴルのことは怖いし近づきたくはないけれど。
そう思っていた瞬間。
「な、なに?」
────不意に聞こえてきたのは、鐘の音色だった。
オルゴールのようにも聞こえる奇妙なもの。それが町中に響き渡っているのだろう。
それを聞いたヴルが、笑うことを止めてこちらを見てきた。その瞳に狂気を感じない。それに少しだけ安堵する。
「そろそろ時間か。んじゃあまた次の夜に遊ぼうぜ。記憶喪失なんて馬鹿なことする前の、最初に出会った時みてえになぁ?」
「ひぇ」
安堵しなきゃよかった。ニヤリと笑うその凶悪な顔は悪意に満ちており、時間があればこちらへ攻撃するよう伝えていたようなものだから。
そんな僕を気にせず、アティさんの警戒心すら無視をして手を軽く振り、屋上の扉を使って階下へと降りていったのだった。
姿が見えなくなってようやく息がつける。それはアティさんも同じらしく、黒い手袋を外しつつ僕の横に並び立つ。
月が沈んで、太陽が上がりそうな綺麗な空模様をしていた。徹夜したようなものなのに、眠くない。何故だろうか。理解できない状況に疲れきった身体は普通睡眠を欲するというのに。
いやそれよりも、殺されなくて良かったと思う気持ちの方が強いせいだろうか。
「あ、嵐が去った……」
「そうだな。しかしもう時間だ。そろそろ戻らなきゃいけない」
「あの、戻るって何処に?」
僕の言葉にアティさんはまた目を見開いた。
「あ、ああそうか。それすらも忘れてしまったのか……」
仕方がないとアティさんが僕の手を掴む。そうして手を繋いだまま歩き出して数歩。
瞬いただけなのに、急に景色が一変した。
「えっ?」
屋上だが、野外にいたようなもの。でもいつの間にか僕らは室内にいた。
狭い部屋は六畳程度のもの。殺風景で、家具が一つだけ。白い壁紙と床はまるで囚人室を思わせる。
一応窓はあるけれど、換気用にだろうか。人が通れない小さいサイズで、外の様子も見れないように曇りガラスに作られている。
窓からは夜空が透けて明るい光が出ているように見えた。
そして部屋のなかにあるそれ。家具というか────それは棺だった。
「待ってここどこ? 僕の死に場所!?」
「何を言っているんだ。ここはお前の部屋だぞ」
「えっ?」
戸惑い気味に棺を見るが、アティさんはどうして僕が困惑しているのか分からず首を傾けているだけ。
それと窓から入ってくる光を見て、なんだか焦っているようにも見えた。
僕から背を向けて出入り口らしい扉へと歩き出す。
「私から説明する時間はもうない。また次の夜に会おう」
「えっ、あの。どういうこと──」
「詳しい話はまた今度。今はその寝床で寝てほしい」
「この棺って寝床!?」
「それ以外になにか意味でもあるのか?」
疑念を含んだ視線に僕は言葉を詰まらせた。
そうか。彼女にとってこの棺はベットのようなものだと思っている。これはきっと認識の違いによるもの。この身体に本来いるはずの『僕』は、棺で寝ていたということ。それが当然という判断で僕に言ったのだ、アティさんは。
(駄目だ。棺が変なんて言えない。変なことは言えない)
記憶喪失だと偽らなくてはならない状況。嘘がばれたらどうなるのか。
僕を守ってくれたアティさんがいなくなったら、僕に味方はいるのだろうか。もしも一人になって、また襲われたら。
また、あの時のような恐怖と戦わないといけないのか。
(……いや、無理だ。できない)
様々な恐怖と不安に襲われ、僕はなにも言えなくなった。
疑心に満ちる目をしたアティさんに、頑張って笑いかけた。
込み上げてくる言葉を呑み込み、言わなければならないものを口にする。
「あの、また次の夜に」
「……ああ。お休みカナメ」
微笑みつつ扉から部屋を出たアティさんに心の底で謝罪する。いつかきっと、本来の『僕』が戻るまではこのままでいさせてほしい。その時に話せる時間があれば、ちゃんと謝ろう。
そう決意をしてから、棺を見下ろした。
「こ、これで眠れってことだよな。これで?」
一応部屋のなかを探るが本当に何もない。囚人室より無いんじゃないだろうか。たぶん。
重たい蓋を開けて、棺の中を見た。
「えっ────?」
鏡、だろうか。
固い床。蓋の内部にも張り巡らされた鏡は僕の顔を写し出す。棺の内部は鏡で出来ている。しかもよく見ればその鏡の四方の隅っこに何かの刻まれた紋様が描かれている。月と太陽のそれ。おそらくお洒落なのかな。でも、なんで?
「なんで鏡が?」
これが寝床なのか。
ふかふかでもない。固い床で寝ていた方がまだマシなのに?
「っ──いやでも、ここで寝ろって言ってたんだし、何か変なことをして怪しまれたら不味いか」
本当は嫌だけれど、仕方なく棺の中へ入り込んだ。寝心地は最悪だった。
蓋を閉じればなにも見えなくなるけれど、闇に慣れた瞳がぼんやりと蓋の裏側に映る自分がいたから。
(いや、寝なきゃ……これでもしかしたら本来の『僕』が戻るかもしれないし……)
必死に目を閉じて、意識を睡眠へ落とそうとする。
もしもまた目覚めるようならアティさんにきちんと話を聞こう。異世界に来たって思った方がいいぐらい訳が分からないことが続いているから。
(……ここって別の世界なのかな)
いや。ああそうか────異世界だ。
ストンと心に残る言葉。それが正しいのではと納得する。じゃないと変だろう。棺で寝る習慣も、アティさん達のおかしな力も。
この町をきちんと見たわけじゃないから、本当にまた目が覚めて同じなら──ちゃんと。
「ひっ────あぐ!」
大きな鈴の音が聞こえて思わず飛び起きる。しかし蓋に邪魔をされ頭を強く打ち付けた。反動でまた倒れるが、固い鏡により後頭部も強打し、涙が溢れ悶え苦しむ。
鏡は壊れなかったが、僕の頭は傷ついたはずだ。
「ぐぅ~~~っ!」
絶対にたんこぶが出来たはず。しかも石を投げられた時に出来た傷を直撃したから余計に痛い。
激痛に悶絶しなかなか起き上がれないでいたが、その感覚は長く続かないでいた。
「おはようございます。まだ寝ていますか、先輩?」
コンコン、と。
誰かが扉を開けて、棺の蓋をノックする音が響く。それに一瞬警戒するが、よく聞けばアティさんの声色と同じだ。口調はなんだか違うけれど。
痛みを我慢しつつなんとか蓋を開けてみれば、目映い光が視界を襲う。
目を瞬き、明るさに慣れた景色にはあの殺風景な室内。
一人の女性が棺の傍でしゃがみこみ、僕を心配げに見つめている様子が理解できた。
その女性は、アティさんにそっくりだった。ただ雰囲気と色が違う。肌は同じ白色だったけれど。
「……アティさん?」
「アティ? それは夜のわたくしの名前ですよ。先輩ってば、まだ寝ぼけているみたいですね」
ふふふ、と。可笑しそうに笑う女性はアティさんより可愛らしい。
アティさんが冷たい宝石を示すなら、彼女はきっと柔らかな花のように綺麗だと思った。
「いつものように、イアとお呼びくださいな」
「……イアさん?」
「はい。アティアの、『イア』ですよ。カナメ先輩」
太陽の光で橙色混じりの金髪が綺麗に輝く。結んでいたはずの髪は解かれていて、その長さは腰まで届くほどだった。そして瞳の色はアティさんのルビーの輝きとは違い、海のように深く青い色彩をしている。アティさんとはまた別の、綺麗な色だ。
スタイルや顔立ちは同じだけれど、髪色などは異なっている。ちょっと変な言い方になるけれど、最初に見た時は色違いのアティさんだと思ってしまった。
でも、アティアだと彼女は話す。アティさんはイアさんにとっての『夜のわたくし』と言うのだ。
その意味はまだ理解しきれていない。
(また謎が増えた……)
困惑に顔をひきつらせた僕に対し、イアさんは頬を軽く赤らめ笑いかけてきたのだった。
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