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強くて優しい
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囚えられていた五人 の女性達を工場から出し、バンに乗せた。
彼女達にはどうしたら癒やすことが出来るのか、いや、癒やすことなどそもそも可能なのかもわからない傷が出来てしまった。
ほとんどの女性達が家に帰りたいと言った。だから、一人ずつ送り届けることにした。
工場にあったお金を渡し、出来れば街を出たほうが良いと伝えた。何か協力出来ることがあったらとフリーのメールアドレスと緊急電話先を教えた。
一人の女性は帰る場所がないと言った。
クルスはしばらく自分の家に泊めることにした。
おかしくなりすぎて、もはや歯止めがわからなかった。
だが、同時に一日何善したところで贖いようのない罪を負っているのだという、重苦しい気持ちがクルスの心には起こっていた。
彼女にさよならを言おうと思った。
マスクとサングラスを取り、彼女を見つめた。
言葉はなかなか出なかった。
彼女が微笑んだ。
「初対面じゃ、なかったですね」
もう何度目かもわからない衝撃をクルスは受けた。
なんで覚えているのか?
本当に、一瞬だけ顔を合わせたことがあるだけだった。
一年ほど前のことだ。
クルスがオフの日に街中を歩いていると、スーパーの前に人だかりが出来ていた。
五十メートル位先のことだから、よくはわからなかったけれど、倒れた老婆を助けている人がいた。おそらく老婆は貧血でも起こしたのだろう。
家の方向だからそっちに歩いていった。
近づくにつれて、嫌な予感がした。
人だかりになっているということは、多くの人が協力して助けることが出来る状態だった、ということだ。
それなのに、周りにいる人々は誰も助けようとはしていなかった。
それどころか、ニヤニヤと笑って眺めている者すらいた。
その瞬間、クルスの幼い日の思い出が甦った。
クルスは虐待を受け、学校にも行っていなかった。
栄養状態も悪く、ふらふらと逃げるようにたどり着いたのは何故か駅だった。
駅の構内に入り込み、端っこのほうにうずくまった。
たくさんの大人達がいた。
クルスのことを認識してもいた。
しかし、彼らは目の端にクルスを認めても、一切の価値 も認めずに歩き去っていった。
自分は社会にとって、そういう存在なのだとまざまざと刻みつけられた瞬間だった。
悲しくはなかった。なんとなく知ってはいたから。
しかし、胸の奥の深いところから急速に冷え込んでいくのを感じた。
そんな数瞬のフラッシュバックに悪酔いしていると、老婆と助けようとしている人の真横を通り過ぎるところだった。
ふと、助けようとしている人と瞳が合った。
彼女は瞳を見開き、全力で助けてほしいと訴えていた。
それは言葉より強くクルスに伝わってきた。
だが、クルスの足が止まることはなかった。
家に着いて、メシを食べて、寝た。
次の日も、そのまた次の日も殺し屋としての日常が過ぎていった。
名前も知らない人を物のように壊す日々が続いた。
だが、彼女の見開かれた瞳を思い出さない日は無かった。
初めは意味がわからなかった。なぜふと気づくと思い出しているのか。
だが、じわじわと硬い土塊に水が染み込むように、浸透していった。
そして、次第にクルスの頭に声が響くようになり、自身を苛むようになった。
『お前は名実共にゴミクズとなったのだ。
あの場でもし彼女に協力出来ていたとしたら、そうではなかったかもしれない。
だが、出来なかった。
お前は彼女の正しさに気圧されたのだ。
手を伸ばすことが出来なかった。
彼女はあの場で唯一正しい人だった。
無関心や嘲笑の波にさらされようとも、ただ己の心に従い、正しさを為せる人だった。
お前はせめて彼女の協力者になることも出来なかったのだ。
それは自分の心に何も正しさを、罪悪感を持たぬ者。
まさにゴミクズと呼ぶにふさわしいものではないか?
お前は自制のない魑魅魍魎共と同じだ。
お前もまた殺されて然るべきものの一つだ。
いつか見た大人達とそう変わらない。
無関心と同様、お前は悪そのものだ。
この社会にとって有害だ。
マイナスだ。
なぜなら、それは彼女のように社会に芽生えたせっかくの正義を萎縮させてしまうのだから。
彼女は正しいことをし続けられるだろうか?
彼女は社会に裏切られたと感じたことだろう。
彼女の見開かれた瞳は何を見ただろう?
それはきっと、弱くて醜悪な、見るに耐えないものだ』
社会はどんどんどんどん悪くなっていく。悪のバタフライエフェクトによって。
大げさだろうか?
そうは思わない。
小さな悪でも多くの人が為せば社会は大きく悪い方向に行ってしまうだろう。
無関心のような一見透明なものにこそ猛毒が含まれている。
それは蓄積し、いつか深い傷を社会に負わせる。
その傷が致命傷になったことは、今の世の中を見れば明らかだ。
クルスは、はたと気づいた。
だから、少しでも善いことをしようと、一日一善なんてことを沸いた頭で思いついたのだろうか。
少しでも社会のためにという贖罪の気持ちで。
許されるわけもないのに。
彼女の正しさを宿した瞳が、何よりも鮮烈にクルスの冷え切って固まった心に亀裂を与えていたのだった。
それはクルスにとって善のバタフライエフェクトだった。
「私、人の顔は一度見たら忘れないんです」
人が結局好きなんですかね、彼女が少しはにかむように言う。
その微笑みには自嘲が含まれていた。
こんな社会で他人に手を差し伸べることは、利害を無視した危険な行為だと理解っているのだ。
きっと、それは心無い人々にとっては馬鹿に見えることだろう。
クルスは自然と微笑みを返していた。
なんて、強くて優しい人だろう。
きっと伸ばした手は、弱くて醜悪な者達に何度も傷つけられている。
それでも彼女は手を伸ばすことを止めなかった。
それは今日のことからも明らかだった。
「私の名前は風間花です。名前、教えてくれますか?」
なんて、美しく心に響いてくる名前だろう。
クルスは突き放さなければいけないという、頭に響いてくる声とは裏腹に、瞬時に応えていた。
「クルス、来栖楓です」
もうぐちゃぐちゃだ。
狂っている。
おかしくなっている。
だけど、まっすぐに見つめてくる彼女の名前を知り、そして知られることがこんなに嬉しいことだなんて思いもよ
らなかった。
「来栖楓さん」
花は目をつむり、まるで大切なものを胸に収めるようにつぶやいた。
そして、目を開けて微笑んだ。
「憶えました。もう忘れません」
来栖は我知らず、涙を流していた。
ゴミクズじゃないって、対等な人間なんだって、産まれて初めて言ってもらえた気がした。
花は驚きつつも、何も言わずに来栖の手に触れて、初めはためらいがちに、だがその小さな手で優しく包んだ。
傷だらけの手で、冷えて固まった心を温めた。
彼女達にはどうしたら癒やすことが出来るのか、いや、癒やすことなどそもそも可能なのかもわからない傷が出来てしまった。
ほとんどの女性達が家に帰りたいと言った。だから、一人ずつ送り届けることにした。
工場にあったお金を渡し、出来れば街を出たほうが良いと伝えた。何か協力出来ることがあったらとフリーのメールアドレスと緊急電話先を教えた。
一人の女性は帰る場所がないと言った。
クルスはしばらく自分の家に泊めることにした。
おかしくなりすぎて、もはや歯止めがわからなかった。
だが、同時に一日何善したところで贖いようのない罪を負っているのだという、重苦しい気持ちがクルスの心には起こっていた。
彼女にさよならを言おうと思った。
マスクとサングラスを取り、彼女を見つめた。
言葉はなかなか出なかった。
彼女が微笑んだ。
「初対面じゃ、なかったですね」
もう何度目かもわからない衝撃をクルスは受けた。
なんで覚えているのか?
本当に、一瞬だけ顔を合わせたことがあるだけだった。
一年ほど前のことだ。
クルスがオフの日に街中を歩いていると、スーパーの前に人だかりが出来ていた。
五十メートル位先のことだから、よくはわからなかったけれど、倒れた老婆を助けている人がいた。おそらく老婆は貧血でも起こしたのだろう。
家の方向だからそっちに歩いていった。
近づくにつれて、嫌な予感がした。
人だかりになっているということは、多くの人が協力して助けることが出来る状態だった、ということだ。
それなのに、周りにいる人々は誰も助けようとはしていなかった。
それどころか、ニヤニヤと笑って眺めている者すらいた。
その瞬間、クルスの幼い日の思い出が甦った。
クルスは虐待を受け、学校にも行っていなかった。
栄養状態も悪く、ふらふらと逃げるようにたどり着いたのは何故か駅だった。
駅の構内に入り込み、端っこのほうにうずくまった。
たくさんの大人達がいた。
クルスのことを認識してもいた。
しかし、彼らは目の端にクルスを認めても、一切の価値 も認めずに歩き去っていった。
自分は社会にとって、そういう存在なのだとまざまざと刻みつけられた瞬間だった。
悲しくはなかった。なんとなく知ってはいたから。
しかし、胸の奥の深いところから急速に冷え込んでいくのを感じた。
そんな数瞬のフラッシュバックに悪酔いしていると、老婆と助けようとしている人の真横を通り過ぎるところだった。
ふと、助けようとしている人と瞳が合った。
彼女は瞳を見開き、全力で助けてほしいと訴えていた。
それは言葉より強くクルスに伝わってきた。
だが、クルスの足が止まることはなかった。
家に着いて、メシを食べて、寝た。
次の日も、そのまた次の日も殺し屋としての日常が過ぎていった。
名前も知らない人を物のように壊す日々が続いた。
だが、彼女の見開かれた瞳を思い出さない日は無かった。
初めは意味がわからなかった。なぜふと気づくと思い出しているのか。
だが、じわじわと硬い土塊に水が染み込むように、浸透していった。
そして、次第にクルスの頭に声が響くようになり、自身を苛むようになった。
『お前は名実共にゴミクズとなったのだ。
あの場でもし彼女に協力出来ていたとしたら、そうではなかったかもしれない。
だが、出来なかった。
お前は彼女の正しさに気圧されたのだ。
手を伸ばすことが出来なかった。
彼女はあの場で唯一正しい人だった。
無関心や嘲笑の波にさらされようとも、ただ己の心に従い、正しさを為せる人だった。
お前はせめて彼女の協力者になることも出来なかったのだ。
それは自分の心に何も正しさを、罪悪感を持たぬ者。
まさにゴミクズと呼ぶにふさわしいものではないか?
お前は自制のない魑魅魍魎共と同じだ。
お前もまた殺されて然るべきものの一つだ。
いつか見た大人達とそう変わらない。
無関心と同様、お前は悪そのものだ。
この社会にとって有害だ。
マイナスだ。
なぜなら、それは彼女のように社会に芽生えたせっかくの正義を萎縮させてしまうのだから。
彼女は正しいことをし続けられるだろうか?
彼女は社会に裏切られたと感じたことだろう。
彼女の見開かれた瞳は何を見ただろう?
それはきっと、弱くて醜悪な、見るに耐えないものだ』
社会はどんどんどんどん悪くなっていく。悪のバタフライエフェクトによって。
大げさだろうか?
そうは思わない。
小さな悪でも多くの人が為せば社会は大きく悪い方向に行ってしまうだろう。
無関心のような一見透明なものにこそ猛毒が含まれている。
それは蓄積し、いつか深い傷を社会に負わせる。
その傷が致命傷になったことは、今の世の中を見れば明らかだ。
クルスは、はたと気づいた。
だから、少しでも善いことをしようと、一日一善なんてことを沸いた頭で思いついたのだろうか。
少しでも社会のためにという贖罪の気持ちで。
許されるわけもないのに。
彼女の正しさを宿した瞳が、何よりも鮮烈にクルスの冷え切って固まった心に亀裂を与えていたのだった。
それはクルスにとって善のバタフライエフェクトだった。
「私、人の顔は一度見たら忘れないんです」
人が結局好きなんですかね、彼女が少しはにかむように言う。
その微笑みには自嘲が含まれていた。
こんな社会で他人に手を差し伸べることは、利害を無視した危険な行為だと理解っているのだ。
きっと、それは心無い人々にとっては馬鹿に見えることだろう。
クルスは自然と微笑みを返していた。
なんて、強くて優しい人だろう。
きっと伸ばした手は、弱くて醜悪な者達に何度も傷つけられている。
それでも彼女は手を伸ばすことを止めなかった。
それは今日のことからも明らかだった。
「私の名前は風間花です。名前、教えてくれますか?」
なんて、美しく心に響いてくる名前だろう。
クルスは突き放さなければいけないという、頭に響いてくる声とは裏腹に、瞬時に応えていた。
「クルス、来栖楓です」
もうぐちゃぐちゃだ。
狂っている。
おかしくなっている。
だけど、まっすぐに見つめてくる彼女の名前を知り、そして知られることがこんなに嬉しいことだなんて思いもよ
らなかった。
「来栖楓さん」
花は目をつむり、まるで大切なものを胸に収めるようにつぶやいた。
そして、目を開けて微笑んだ。
「憶えました。もう忘れません」
来栖は我知らず、涙を流していた。
ゴミクズじゃないって、対等な人間なんだって、産まれて初めて言ってもらえた気がした。
花は驚きつつも、何も言わずに来栖の手に触れて、初めはためらいがちに、だがその小さな手で優しく包んだ。
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