閉鎖病棟より、愛をこめて。

雨季日向

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「最後に言いたいことは?」
 総務部長に聞かれ、私は号泣しながらこう答えていた。
「このままだと業界そのものを嫌いになってしまうので……、辞めさせてください」
 24歳の夏。
 夢を叶えて手に入れた、憧れの仕事を手放した。



 当時、東京は表参道に本社を構える某有名企業で私は働いていた。
 幼い頃から憧れていた業界で、将来は漠然と「この仕事に就けたら楽しそうだなあ」と思っていたが、雪国の田舎町で育った少女には遥か遠い世界としか感じられない夢だった。
 
 大学進学を機に首都圏に出てくると、その夢は案外、現実的に目指せる距離にあると知った。
 分かるや否や、サークルやアルバイトでとにかくその業界に関わり続け、「どんな手を使ってでも実現してみせる!」と息巻いて毎日のように東京を駆け回った。

 就職活動でも、その業界で働けなければ意味がないから、と頑なに周囲の心配を無視し続けて就活浪人を覚悟で挑んだ12月(もちろん大学4年生)、新卒採用で奇跡的に内定を獲得。当初はその職種に対して難色を示していた両親も、娘が『夢を叶えた』ことを大層喜んでくれた。
 引越しと重なって前のアパートに採用通知書が届いてしまい、冷たい雨の降る夜のバス停で封筒を開き内容を理解するまでの空白、震える手で家族に連絡した時の興奮は忘れられない。



 憧れの会社に新卒で入社して1年を過ごし、2年目社員としてさらに成長を……、と上手くはいかないもので、後輩の配属先が決まった初夏の頃、私はストレスが限界に迫ってきていた。

 主な原因は “上司” だった。

 冷静に振り返ると陰湿なパワハラにすぎないのだが、周りから何度そう言われても私は
「私が上手くできないのも悪いから!」
と笑って受け流し、環境に文句を言うくらいなら自分が学べ! という脳筋社畜スタイルを貫いていた。

 最初の異変は喉に現れた。
 うがいをしても、咳払いをしても、ずっと消えない詰まる感じ。
 これが『ヒステリー球』と呼ばれる典型的なストレスの症状であると知るのは半年以上先のことで、この違和感からじわじわと食欲が減っていった。

 時季も相まって夏バテか何かだと思っていたが、熱を出して会社を休むことが多くなり、大好きなはずの仕事を辞めたいと思い始め、頻繁に死ぬ方法を調べるようになってやっと精神科の受診を決意した。
 受診すれば『うつ病』という怖い2文字を突きつけられるのはどこかで分かっており、今後一生、精神障害のレッテルを背負うのが嫌だった。

 7月頭に都内のメンタルクリニックを受診して、あっさりと『病』の診断を受けた。
 『鬱』という字が平仮名でちょっとだけホッとした。

 それでも会社や上司に隠れて通院しながら働いていたが、7月中旬に控えていた私主導のある企画が近づくにつれ容態は急速に悪化。
 毎週のように高熱に襲われ、通勤電車では低血糖で倒れかけるため何度も降りては休んでを繰り返し、這いつくばってでも職場に向かっていた。

 いちばん怖かったのは、食欲がになったことだ。
 食べるどうこうではなく、もはや咀嚼と嚥下をする気になれない。本当にゼロ。
 しかし、私が止まると企画に関わる多くの人に迷惑をかける。だからとにかく動き続ける。
 何も食べていないのに私はどうして動けているのか、不謹慎にも人間の底力を知った。
 もともと細身の体型だったが、企画当日までの3日で4キロ落ちた。



 8月になれば仕事もひと段落して回復に向かうだろう、とどこか楽観視していたが、体調も食欲もやる気も、何もかも行方知れずのままで、上司にもとっくに不調を見抜かれていた。
 半ば戦力外通告のような形で休職することになり、1ヶ月と経たないうちに冒頭の捨て台詞とともに退職。

 呆気ない最後だった。

 仕事から離れて親元に戻り、引越しや転院の手続きが済むまで新幹線で都内のクリニックに通い続けていたが、精神面の状態はさらに悪化していた。

 自傷行為をするようになり、果てには自殺未遂で救急搬送。
 15時間強の昏睡から目を覚ますとまさしく『知らない天井』を見上げていた。

 その時のことは何一つ記憶に残っていない。
 ただ、行動に移したのがすっきりと晴れた昼下がりで、自室の窓から見える青空が憎たらしいくらいに綺麗だったのは鮮明に覚えている。

 数日後に実家から通いやすいクリニックに転院した(自殺未遂に及ぶ前から決まっていた)が、「直ちに入院してほしいレベル」と言われてしまい、自ら入院を希望。
 その日のうちに紹介された病院へ向かい、医療保護として夕方には入院。

 2023年10月16日。
 通されたのは、精神科の急性期患者を受け入れる閉鎖病棟。

 私はめでたく『精神科閉鎖病棟の入院患者』となったのである。
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