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部活が――
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「珍しいわね、士門が遅刻なんて」
視聴覚室の扉を開けるや否や、英語担当の朝霞さんがぼくの顔を見て言った。授業は既に始まっていて、朝霞さんはなにか英文を書いていたところだった。ぼくがホワイトボードを確認するのが遅れた旨を話すと、彼女は「まあいいわ」と言って、後ろにいた左岸を一瞥し、「案内係なんてらしくないわね」と笑った。「不本意ながら……」とぼくが言いかけると、
「左岸風香です。遅れてすみません」と左岸が慌ててお辞儀をした。
それから、ぼくらは教室の扉に一番近い位置に空いていた席に並んで腰を掛けた。ぼくは、しくじったと思った。愛しのリボンの女の子の姿はこの席からは見えない。視聴覚室はとにかくパソコンが邪魔だ。
「じゃあ、32ページを開いて」と朝霞さんはぼくらに言った。すると、左岸がぼくの左肩をちょいちょいとつついて、「ほら、一緒に見るよ」と言って、32ページを強引に見せてきた。何度も見たページだった。ペーターがマリと待ち合わせをして買い物に行くシーン。ペーターは、「日本にきて間もないから……」と口実をつけているが、マリを好きなことは明白だ。どう、この洋服似合う? これ君にプレゼントするよ。マリは、全てに対してイエスウーマンだ。いいね。素敵だよ。ありがとう! とんだ食わせ者だ。無難な返答しかしない。これでは、マリの心情の内実は分からない。ペーターのことを良いと思っているのか、それともウザイと思っているのか。ぼくは後者に期待する。ぼくはボーイミーツガールなど、あり得ないと思っている。だってそうだろ? 恋愛は理性でするものだ。綿密な計画を立てて、動機づけをうまく管理し、知的に他者を愛する。それが普通の恋愛というものだ。一目惚れなどというのは、エロースへの冒瀆だろう。マリは、ペーターに対していかなる誘惑もない。ペーターはマリから見れば猿も同然だ。美しさを理解できないペーターに、内容の伴った会話をする権利はない。
「ふふ、ありがとうね、士門くん」左岸が小声で言った。
「くんはいらない。気持ち悪い」
「今日初めて会った人を呼び捨てになんかできないよ」
「女子はホントそういうの気にするよね」ぼくは適当に返答した。
「男子も女子も関係ないと思うけど」
「ほら、そこ!」鋭い声が、朝霞さんから飛んできた。「ずいぶんと仲が良いわねえ、きみら? 士門はいいとして左岸さん――あなたは、授業ついていけるの?」
朝霞さんは左岸を睨む。ぼくはその間、目の前のパソコンで女の子の背中の画像を拾い集めようとマウスを摑んだ。ネットで探しても、そこまできれいな背中は見つからないが、少しでも、あのリボンの女の子の代わりにでもなればいいと思う。
「それが、ついていけそうにないんです」左岸ははっきりと言った。「私の学校、これより全然簡単なものを使っていました。それに、教科書がまだ届いていなくって、予習もできなくて――」
「おい、士門!」朝霞さんがぼくの名前を呼んだ。ぼくは静かに、女の子の背中を閉じた。「なんですか」ぼくは答えた。
「左岸さんに勉強を教えてあげろ」先生は言った。その声は、半ば義務感を押し付けるように響いた。ぼくは「なんでですか」と呟いたが、先生は無視した。
「いいな?」そう言って、朝霞先生はばさりとロングヘアーをかきあげ、後ろを向き、ホワイトボードにペンを走らせて授業を再開した。彼女は付け加えるように「来週の試験が楽しみだ」と呟いた。
朝霞先生は、ぼくの悪癖を知る女の一人だった。
ぼくは、自分のことをストーカーだとは思っていない。
思ってはいないが、ストーカーと間違われる可能性のあることをしているという自覚は充分にある。昼休み、ぼくは、学食にある券売機から、彼女が購入したと思われるものと同じ券を購入した。もちろん、今日は水曜日だから、天丼定食だ。しかし、ぼくは彼女をストークしているつもりはない。見ているだけだ。辺りを見回し、彼女がいつも座っているテラス側の席に、彼女がしっかり座っていることを確認し――どんぶりからはみ出たエビフライのしっぽもしっかりと捉えた――、ぼくはその二つ後方の座席に腰を下ろした。彼女のツンとつっぱったまつ毛が、オペラグラス越しに見えた。
「士門くん」突然、横から声が聞こえてきた。この声は、左岸か? やれやれ、ならば答えなければ面倒くさい。ぼくはオペラグラスを外し、しかし、リボンの彼女の食事で膨らんだ頬の動きを見つめながら言った。
「くんをつけるのはやめろってば」
思えば、今日はこの女に散々振り回された。結局、全ての授業で教科書をシェアさせられている。残りの授業も、同じようにさせられるのだろう。憂鬱だ。ぼくはため息をついた。
「だから、初対面の人を呼び捨てになんてできないもの」
「散々、教科書を見せてあげたじゃないか」
「じゃあ、明日から。ね、明日から呼び捨てにする」
「嫌だ、次くん付けしたら、もう反応しない」
「士門」
左岸のはっきりとした声に、ぼくは思わず彼女の顔を見た。彼女はまっすぐ、ぼくに視線を向けていた。彼女の前には、茹でたてのかけうどんがもくもくと湯気を吐き出していた。
「やっぱりちょっと座りが悪いよ、呼び捨ては」
「しかし仕方ないよ。くん付けは気持ち悪い」
「そういえば」と左岸は何かを思い出したかのような顔をした。「今日、家行っていい? 試験まで時間がないんだよね。勉強教えて欲しいんだけど」
「は?」ぼくは信じられないという思いで彼女を見つめた。呼び捨てにできないなどと言っておきながら、家に来るだと? 距離の詰め方がよく分からない。キリストの足よ! 爪を焼却炉につっこめ。
「てか、ぼくの家、知ってんの?」
「さっき朝霞先生が、私と最寄駅が一緒だって言ってたよ」
「あのゲロカスバカクソ死に損ないめ」
「朝霞先生も一緒なんだね」
「知るか、あのボゲブスハムエッグフェイス」
「てことで、行っていいよね?」
「嫌だ」ぼくは即答した。再び、顔をリボンの女の子に戻す。彼女はどうやら、エビフライのしっぽを残す派らしかった。
「行かないと、朝霞先生が士門く――、士門の秘密バラすって。秘密って何?」
「聞いたら、家に来させないぞ。教えてやろうか?」
「聞きたくない。士門の秘密より、私の学力のほうが優先度高い」
「部活が――」ぼくは苦し紛れに言い訳を捻り出した。「部活が、遅くまであるんだ。君に待っていてもらうのは申し訳ない。だから――」
「連れてってよ!」
左岸は立ち上がって言った。ぼくはもう一度彼女を見た。彼女は目を大きくして、ぼくの顔を覗き込んでいた。
「私、仮入部期間なのよ。何部にするか決めてないんだ。ね、ちょうどいいかも。部活紹介して」
「入ってない」ぼくは観念した。
「え?」
「入ってないんだ、部活には――嘘をついた。分かったよ。放課後、一緒に帰ろう」ぼくはまたリボンの女の子の方に視線を戻した――が、彼女はすでに学食からいなくなっていた。心臓がドクンと音を立てる。
「良かった。士門に勉強を教えてもらえるなら、安心だね」左岸は、煩わしいほどに安心したような声で言った。ぼくは、辺りを見回し、彼女のリボンを探した。彼女は、出口からまさに出ようとしているところだった。ぼくは急いでお盆を持ち上げ、返却口に向かった。
「え、もう行っちゃうの?」後ろから、うどんを頬張っていた左岸の声が聞こえた。「一人じゃ心細いんだけど」
ぼくは彼女の方を見ないで言った。
「大丈夫だ。君は、君自身が思っている以上に心が強い」
そして、ぼくは急いで赤いリボンを追いかけた。
視聴覚室の扉を開けるや否や、英語担当の朝霞さんがぼくの顔を見て言った。授業は既に始まっていて、朝霞さんはなにか英文を書いていたところだった。ぼくがホワイトボードを確認するのが遅れた旨を話すと、彼女は「まあいいわ」と言って、後ろにいた左岸を一瞥し、「案内係なんてらしくないわね」と笑った。「不本意ながら……」とぼくが言いかけると、
「左岸風香です。遅れてすみません」と左岸が慌ててお辞儀をした。
それから、ぼくらは教室の扉に一番近い位置に空いていた席に並んで腰を掛けた。ぼくは、しくじったと思った。愛しのリボンの女の子の姿はこの席からは見えない。視聴覚室はとにかくパソコンが邪魔だ。
「じゃあ、32ページを開いて」と朝霞さんはぼくらに言った。すると、左岸がぼくの左肩をちょいちょいとつついて、「ほら、一緒に見るよ」と言って、32ページを強引に見せてきた。何度も見たページだった。ペーターがマリと待ち合わせをして買い物に行くシーン。ペーターは、「日本にきて間もないから……」と口実をつけているが、マリを好きなことは明白だ。どう、この洋服似合う? これ君にプレゼントするよ。マリは、全てに対してイエスウーマンだ。いいね。素敵だよ。ありがとう! とんだ食わせ者だ。無難な返答しかしない。これでは、マリの心情の内実は分からない。ペーターのことを良いと思っているのか、それともウザイと思っているのか。ぼくは後者に期待する。ぼくはボーイミーツガールなど、あり得ないと思っている。だってそうだろ? 恋愛は理性でするものだ。綿密な計画を立てて、動機づけをうまく管理し、知的に他者を愛する。それが普通の恋愛というものだ。一目惚れなどというのは、エロースへの冒瀆だろう。マリは、ペーターに対していかなる誘惑もない。ペーターはマリから見れば猿も同然だ。美しさを理解できないペーターに、内容の伴った会話をする権利はない。
「ふふ、ありがとうね、士門くん」左岸が小声で言った。
「くんはいらない。気持ち悪い」
「今日初めて会った人を呼び捨てになんかできないよ」
「女子はホントそういうの気にするよね」ぼくは適当に返答した。
「男子も女子も関係ないと思うけど」
「ほら、そこ!」鋭い声が、朝霞さんから飛んできた。「ずいぶんと仲が良いわねえ、きみら? 士門はいいとして左岸さん――あなたは、授業ついていけるの?」
朝霞さんは左岸を睨む。ぼくはその間、目の前のパソコンで女の子の背中の画像を拾い集めようとマウスを摑んだ。ネットで探しても、そこまできれいな背中は見つからないが、少しでも、あのリボンの女の子の代わりにでもなればいいと思う。
「それが、ついていけそうにないんです」左岸ははっきりと言った。「私の学校、これより全然簡単なものを使っていました。それに、教科書がまだ届いていなくって、予習もできなくて――」
「おい、士門!」朝霞さんがぼくの名前を呼んだ。ぼくは静かに、女の子の背中を閉じた。「なんですか」ぼくは答えた。
「左岸さんに勉強を教えてあげろ」先生は言った。その声は、半ば義務感を押し付けるように響いた。ぼくは「なんでですか」と呟いたが、先生は無視した。
「いいな?」そう言って、朝霞先生はばさりとロングヘアーをかきあげ、後ろを向き、ホワイトボードにペンを走らせて授業を再開した。彼女は付け加えるように「来週の試験が楽しみだ」と呟いた。
朝霞先生は、ぼくの悪癖を知る女の一人だった。
ぼくは、自分のことをストーカーだとは思っていない。
思ってはいないが、ストーカーと間違われる可能性のあることをしているという自覚は充分にある。昼休み、ぼくは、学食にある券売機から、彼女が購入したと思われるものと同じ券を購入した。もちろん、今日は水曜日だから、天丼定食だ。しかし、ぼくは彼女をストークしているつもりはない。見ているだけだ。辺りを見回し、彼女がいつも座っているテラス側の席に、彼女がしっかり座っていることを確認し――どんぶりからはみ出たエビフライのしっぽもしっかりと捉えた――、ぼくはその二つ後方の座席に腰を下ろした。彼女のツンとつっぱったまつ毛が、オペラグラス越しに見えた。
「士門くん」突然、横から声が聞こえてきた。この声は、左岸か? やれやれ、ならば答えなければ面倒くさい。ぼくはオペラグラスを外し、しかし、リボンの彼女の食事で膨らんだ頬の動きを見つめながら言った。
「くんをつけるのはやめろってば」
思えば、今日はこの女に散々振り回された。結局、全ての授業で教科書をシェアさせられている。残りの授業も、同じようにさせられるのだろう。憂鬱だ。ぼくはため息をついた。
「だから、初対面の人を呼び捨てになんてできないもの」
「散々、教科書を見せてあげたじゃないか」
「じゃあ、明日から。ね、明日から呼び捨てにする」
「嫌だ、次くん付けしたら、もう反応しない」
「士門」
左岸のはっきりとした声に、ぼくは思わず彼女の顔を見た。彼女はまっすぐ、ぼくに視線を向けていた。彼女の前には、茹でたてのかけうどんがもくもくと湯気を吐き出していた。
「やっぱりちょっと座りが悪いよ、呼び捨ては」
「しかし仕方ないよ。くん付けは気持ち悪い」
「そういえば」と左岸は何かを思い出したかのような顔をした。「今日、家行っていい? 試験まで時間がないんだよね。勉強教えて欲しいんだけど」
「は?」ぼくは信じられないという思いで彼女を見つめた。呼び捨てにできないなどと言っておきながら、家に来るだと? 距離の詰め方がよく分からない。キリストの足よ! 爪を焼却炉につっこめ。
「てか、ぼくの家、知ってんの?」
「さっき朝霞先生が、私と最寄駅が一緒だって言ってたよ」
「あのゲロカスバカクソ死に損ないめ」
「朝霞先生も一緒なんだね」
「知るか、あのボゲブスハムエッグフェイス」
「てことで、行っていいよね?」
「嫌だ」ぼくは即答した。再び、顔をリボンの女の子に戻す。彼女はどうやら、エビフライのしっぽを残す派らしかった。
「行かないと、朝霞先生が士門く――、士門の秘密バラすって。秘密って何?」
「聞いたら、家に来させないぞ。教えてやろうか?」
「聞きたくない。士門の秘密より、私の学力のほうが優先度高い」
「部活が――」ぼくは苦し紛れに言い訳を捻り出した。「部活が、遅くまであるんだ。君に待っていてもらうのは申し訳ない。だから――」
「連れてってよ!」
左岸は立ち上がって言った。ぼくはもう一度彼女を見た。彼女は目を大きくして、ぼくの顔を覗き込んでいた。
「私、仮入部期間なのよ。何部にするか決めてないんだ。ね、ちょうどいいかも。部活紹介して」
「入ってない」ぼくは観念した。
「え?」
「入ってないんだ、部活には――嘘をついた。分かったよ。放課後、一緒に帰ろう」ぼくはまたリボンの女の子の方に視線を戻した――が、彼女はすでに学食からいなくなっていた。心臓がドクンと音を立てる。
「良かった。士門に勉強を教えてもらえるなら、安心だね」左岸は、煩わしいほどに安心したような声で言った。ぼくは、辺りを見回し、彼女のリボンを探した。彼女は、出口からまさに出ようとしているところだった。ぼくは急いでお盆を持ち上げ、返却口に向かった。
「え、もう行っちゃうの?」後ろから、うどんを頬張っていた左岸の声が聞こえた。「一人じゃ心細いんだけど」
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