19 / 29
第1章 土佐の以蔵
1-19
しおりを挟む
その後、里江は夕食の準備に戻り、義平と半平太は二人きりで話すといってどこかへ出かけてしまった。
今日の夕餉には味噌汁があるのか、土間から味噌の香ばしい匂いが漂ってくる。
「なぁ、兄やん、」
畳の上に足を投げ出しぼんやり天井を見ていると、啓吉に服の裾を引っ張られた。
「兄やん、おらんくなってしまうん? あの、たけちって人のところにいってしまうん?」
啓吉は大きな瞳を潤ませて以蔵を見上げている。まだ六つの啓吉は、道場に通うというものが具体的にどういうものなのかわかっていないのだろう。
物心ついたときからずっと以蔵の後をついて歩いていた啓吉にとって、兄がいなくなるかもしれないことに恐怖を感じているのかもしれない。
以蔵は啓吉の方を向き、その柔らかな頬を両手で包んだ。じっと見つめた啓吉の眼もとは、ほんのり赤く腫れている。
「兄やんはおらんくならんよ。ただ、昼間ちょっと家を留守にするだけじゃ。朝や夕方は家におるし、寝るのだって啓と一緒じゃ」
「ほん、と? 嘘じゃ、なか……?」
啓吉はしゃくりあげながら以蔵に聞く。その姿がなんとも愛おしくて、以蔵は啓吉を抱きしめた。
「…おん。嘘じゃなかよ。やき、なくな、なくな」
以蔵はぽんぽんと優しく啓吉の背中を叩く。啓吉も以蔵の背中に手を回して、しがみつくように抱き着いた。
「なんか、兄やんが遠くに行ってしまうようなきがするんじゃ。わしが思い切り手を伸ばしても、届かんような、そんな場所に」
まるでこの場につなぎとめるかのように、啓吉は以蔵を抱く腕に力を込めた。
以蔵には感じ取れない恐怖を、この弟は感じているのかもしれない。妖力もないに等しい弟だが、齢六、七の子供だ。妖力とは関係ない、子供の直感というやつが働いているのだろう。
肩をふるふる震わせる啓吉を以蔵はやさしくなだめ続けた。声こそ堪えているものの、以蔵の肩は次第にじんわりと温かい涙で濡れていく。
剣の道に入ること。それまでの貧しい農民や郷士の生活を続けるとはちがった人生を歩むことになる。その可能性も、以蔵はしっかりと分かっていた。
今日手合わせをして分かった。自分はきっと、普通の道には進めない。木刀が、手になじみすぎた。
あの吸い付くような感覚。一度握れば、離れがたい、もっと振るいたいというような欲望に駆られてくる。
以蔵の体内に流れる鬼の血がそうさせるのか。祖先の母は鬼の中でもずいぶん上の立場の上の者だったらしい。この心に眠る闘争心と戦いへの渇望は彼女の血が尾の身体に流れるせいか。
世の中も、平和とは言い切れない。
幕府に反対する勢力が、各地で活動を始めている。剣を使える者が駆り出されないわけがない。
いずれにせよ、いつかこの温もりを手放さなけれなならないときが来るかもしれない。
そんな日が訪れないようにと、以蔵は祈るように地位さあ温もりをより強く、抱きしめた。
今日の夕餉には味噌汁があるのか、土間から味噌の香ばしい匂いが漂ってくる。
「なぁ、兄やん、」
畳の上に足を投げ出しぼんやり天井を見ていると、啓吉に服の裾を引っ張られた。
「兄やん、おらんくなってしまうん? あの、たけちって人のところにいってしまうん?」
啓吉は大きな瞳を潤ませて以蔵を見上げている。まだ六つの啓吉は、道場に通うというものが具体的にどういうものなのかわかっていないのだろう。
物心ついたときからずっと以蔵の後をついて歩いていた啓吉にとって、兄がいなくなるかもしれないことに恐怖を感じているのかもしれない。
以蔵は啓吉の方を向き、その柔らかな頬を両手で包んだ。じっと見つめた啓吉の眼もとは、ほんのり赤く腫れている。
「兄やんはおらんくならんよ。ただ、昼間ちょっと家を留守にするだけじゃ。朝や夕方は家におるし、寝るのだって啓と一緒じゃ」
「ほん、と? 嘘じゃ、なか……?」
啓吉はしゃくりあげながら以蔵に聞く。その姿がなんとも愛おしくて、以蔵は啓吉を抱きしめた。
「…おん。嘘じゃなかよ。やき、なくな、なくな」
以蔵はぽんぽんと優しく啓吉の背中を叩く。啓吉も以蔵の背中に手を回して、しがみつくように抱き着いた。
「なんか、兄やんが遠くに行ってしまうようなきがするんじゃ。わしが思い切り手を伸ばしても、届かんような、そんな場所に」
まるでこの場につなぎとめるかのように、啓吉は以蔵を抱く腕に力を込めた。
以蔵には感じ取れない恐怖を、この弟は感じているのかもしれない。妖力もないに等しい弟だが、齢六、七の子供だ。妖力とは関係ない、子供の直感というやつが働いているのだろう。
肩をふるふる震わせる啓吉を以蔵はやさしくなだめ続けた。声こそ堪えているものの、以蔵の肩は次第にじんわりと温かい涙で濡れていく。
剣の道に入ること。それまでの貧しい農民や郷士の生活を続けるとはちがった人生を歩むことになる。その可能性も、以蔵はしっかりと分かっていた。
今日手合わせをして分かった。自分はきっと、普通の道には進めない。木刀が、手になじみすぎた。
あの吸い付くような感覚。一度握れば、離れがたい、もっと振るいたいというような欲望に駆られてくる。
以蔵の体内に流れる鬼の血がそうさせるのか。祖先の母は鬼の中でもずいぶん上の立場の上の者だったらしい。この心に眠る闘争心と戦いへの渇望は彼女の血が尾の身体に流れるせいか。
世の中も、平和とは言い切れない。
幕府に反対する勢力が、各地で活動を始めている。剣を使える者が駆り出されないわけがない。
いずれにせよ、いつかこの温もりを手放さなけれなならないときが来るかもしれない。
そんな日が訪れないようにと、以蔵は祈るように地位さあ温もりをより強く、抱きしめた。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
北宮純 ~祖国無き戦士~
水城洋臣
歴史・時代
三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。
そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。
そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。
その名は北宮純。
漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。
伊藤とサトウ
海野 次朗
歴史・時代
幕末に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウと、後に初代総理大臣となる伊藤博文こと伊藤俊輔の活動を描いた物語です。終盤には坂本龍馬も登場します。概ね史実をもとに描いておりますが、小説ですからもちろんフィクションも含まれます。モットーは「目指せ、司馬遼太郎」です(笑)。
基本参考文献は萩原延壽先生の『遠い崖』(朝日新聞社)です。
もちろんサトウが書いた『A Diplomat in Japan』を坂田精一氏が日本語訳した『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)も参考にしてますが、こちらは戦前に翻訳された『維新日本外交秘録』も同時に参考にしてます。さらに『図説アーネスト・サトウ』(有隣堂、横浜開港資料館編)も参考にしています。
他にもいくつかの史料をもとにしておりますが、明記するのは難しいので必要に応じて明記するようにします。そのまま引用する場合はもちろん本文の中に出典を書いておきます。最終回の巻末にまとめて百冊ほど参考資料を載せておきました。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
散華の庭
ももちよろづ
歴史・時代
慶応四年、戊辰戦争の最中。
新選組 一番組長・沖田総司は、
患った肺病の療養の為、千駄ヶ谷の植木屋に身を寄せる。
戦線 復帰を望む沖田だが、
刻一刻と迫る死期が、彼の心に、暗い影を落とす。
その頃、副長・土方歳三は、
宇都宮で、新政府軍と戦っていた――。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる