希うは夜明けの道~幕末妖怪奇譚~

ぬく

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第1章 土佐の以蔵

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「ごちそうさまです」


以蔵は粥のなくなった茶碗を目の前に置き、丁寧に手を合わせる。茶碗一杯の粥では夕餉まで持つはずがなかかったが、それもいつものこと。貧しい暮らしに贅沢は言えない。

農民や漁民はおそらく最も貧しく最も身分が低い職業の一つである。彼らは収穫物をそのまま売ったり加工して売って生活しているが、取引先に大手の飲食店や商人がいない限り、その売り上げは一日の家計もままならないほどであった。

以蔵の家も同様である。郷士と言えど、義平が金を出して買った身分であり、農民は農民。田畑を耕し、魚を取り、なけなしの金で生活している一家である。一日二食食べることができるだけでも十分と思わねばならない。不作の場合は数日食事がないことだってあるのだから。

以蔵は食器と箸を流しへ持っていき、水の張ってある桶へと入れた。それから草履を履き、まだ朝食を食べている皆の視線を浴びながら、玄関へ向かう。


「ちくっと散歩行ってくる」
「こら以蔵! 毎度まだ皆が食べゆうときに……」


怒る里江の声も気にせず以蔵は玄関の外へと飛び出した。

時刻は明け六ツ半、といったところだろうか。町にはちらほら人が出てき始めており、畑に行く者、朝市へ行く者など、各々が仕事に取り掛かり始めていた。以蔵は人々の間をぱたぱたと走ってゆく。

寝坊したせいか、家を出る時間がいつもより遅い気がする。
早く、早くいかないと間に合わない。
走ればじんわりと汗がにじむ。風も吹いているが、思った以上に日差しが強かった。それでも以蔵は額の汗をぬぐいつつ、いつもの場所へと急いでゆく。


「七以ー。そがーに急いでどうしたがかー? いつもんとこ行くがかー?」


 後ろの方で自分を呼ぶ声と共にくすくすとあざけるような笑い声が聞こえた気がしたが、以蔵は無視して進んでいく。おそらく商人の子だろう。「七軒町の以蔵くん」などと、貧しい自分をふざけたあだ名を呼び続けるのは彼らしかいない。いつもならちょっと力を解放して追い払ってやるのだが、今は彼らにかまっている暇などなかった。
 耳障りな笑い声を払うように頭を横に振って、以蔵は最後の角を曲がった。

そこにあったのは生垣に囲まれた一軒家。以蔵の住む長屋とは比べ物にならないほどの大きさだった。庭に池があるのか時折水音が聞こえる。「武市瑞山道場」。家の門には立派な字でそう書かれていた。

はあはあと息を整えながら、以蔵はその家に近づいてゆく。細い、薄緑色の髪は乱れたままで、家の正面から人目につかない家の脇に回った。

庭の方から何やら力強い声と空を切る音が聞こえてくる。
よかった、間に合った。
以蔵は生垣の隙間からそっと中をのぞいた。庭で木刀を振るう一人の男の姿が、以蔵の瞳の中に飛び込んでくる。

碧く、凛々しい。

切り揃えられた短髪が、一振りする度さらさら流れる。端正な顔立ちにすらりと伸びた背。少年のような声に反して、閃く太刀筋は疾風の如く鋭かった。以蔵よりも少し濃い、若葉のような髪色は、その男が妖怪混じりであることを物語っている。

武市瑞山。通称、武市半平太。

下士の中でも身分の高い白札格であり、小野派一刀流の使い手。教養が深く、志が高く、人望も厚い。邸宅の敷地内に小野派一刀流の道場を開き、多くの門下生を抱えている。ゆえに以蔵の周りで、彼の名を知らぬものはいなかった。
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