オメガのホストはベータとして生きる

５２）朝食会場にて

「梓くん、すまなかった」

　武和が低く、けれども真摯な声で謝罪の言葉を口にした。深々と頭を下げるその姿に、梓は驚き、慌てて首を振った。

「そんな！ 謝らないでください！」

　梓がそう返すと、武和はすまなさそうに顔を上げ、再び言葉を紡いだ。

「……清武のことで辛い思いをしている君に、さらに妻があんな心ないことを言い放って、きっと心が痛んだだろう……本来なら、彼女だって君を応援しなければならない立場なのに……」

　武和の声には、彼自身が抱える痛みと後悔が色濃く滲んでいた。彼は一瞬ため息をつくと、続けた。

「実はな、妻には昔、愛するオメガの恋人がいたんだ。だが、時代の制約や家柄、そして諸々の事情で、望まぬ形で私と結婚することになった。そのせいで、純潔アルファの家を守るということに強いこだわりを持つようになったんだろう」

　普段は寡黙な武和が、過去を振り返りながら静かに語るその様子は、どこか哀愁に満ちていた。彼が語るのは、自らの妻である希清のことだった。

「あなた、何を言っているの！」

　突然、希清が武和に向かって声を荒らげた。彼女の表情には、驚きと戸惑い、そして抑えきれない感情が入り混じっていた。

「愛のない結婚だったことは事実だ。だからこそ、かつて愛した恋人を捨て、私と結婚した自分の選択を否定しないためにも、無理にでもその選択を正当化しようとしたんだろう……。すべて私の責任だ」

　武和は再び、深く頭を下げた。その姿に、希清は怒りとも悲しみともつかぬ複雑な感情を抱き、震える声で言葉を絞り出した。

「そんな、過去のことを持ち出さないで！ 私は……私はちゃんとあなたを愛しているのよ！」

　けれども、希清の声にはどこか痛々しいものがあった。かつての恋を諦めた心の奥底には、誰にも触れられたくない傷が今も残っているようだった。

希清の震える声が、部屋に張り詰めた空気の中で消えゆくと、沈黙が訪れた。

　武和は再び口を開き、静かに言った。

「希清、私は君に感謝している。互いに想いが一致していないままでも、君はずっと私を支えてくれた。だが、今は清武のことを見つめる時だ。この子が彼自身の道を見つけ、梓くんの幸せを願えるように、私たちが導かなくてはならない」

　希清は一瞬言葉を失った。けれど、ゆっくりと武和の言葉を噛みしめるように視線を落とし、やがて小さくうなずいた。その表情には、長年秘めていた感情が解放されたような、微かな安堵が垣間見えた。

　しかし、その穏やかな空気を断ち切るように、清武が鋭く声を上げた。

「俺には関係ない！ どれだけ反対されても、俺は梓が好きなんだ。……たとえ、番を持ったとしても！」

　清武の目は、執着とも狂気とも言える感情に燃え、梓を鋭く見据えていた。すぐさま岼屋が彼を押しとどめようと近寄るも、清武は荒い息をつきながら、彼女を突き放すように後ずさりした。

「清武！」

　武和の声が響いた。

　その瞬間、彼は清武の頬を叩き、続けて深い声で叱責した。

「いい加減にしろ！ 梓くんの心を考えたことがあるのか。彼がどれだけ悩み、どれだけ苦しんで選んだ道なのか……。それでもなお、君が自分の気持ちだけを押しつけるなら、彼にとってはただの負担でしかない」

　清武は叩かれた頬を押さえ、目を見開いて父親を見返した。これまで自分を支えてくれていた父が、今この瞬間、はっきりと自分を制止しようとしている。そこには父としての厳しい眼差しと、清武を案じる親の愛情が入り混じっていた。

「……父さん……」

　清武の声はかすれていた。その唇は震え、何かを言い返したい気持ちが溢れているものの、言葉が出てこない。彼の心は迷い、葛藤していた。

　その時、和司が一歩、静かに前に出た。

「清武、梓は今、俺と共にいる。彼が選んだのは、俺だ。それを尊重してほしい。俺も彼も、清武のことを大切に思っている……。だが、今はそれぞれの道を歩むべき時だと信じている」

　清武はしばらくその場で動かず、和司の言葉を噛みしめるように目を伏せた。そして、わずかに唇を引き結び、静かに一歩後退した。

「……わかったよ。でも、俺は……」

　清武は何かを言おうとしたが、その言葉は小さく途切れ、表情に陰りを残して背を向けた。

　その背中を見つめる武和、希清、岼屋、そして和司と梓。彼らの心に複雑な想いが交錯しながらも、一つの決断が静かにその場に刻まれていた。

　武和の言葉に、和司はふっと視線を上げた。周囲の視線が一斉に彼に集まるが、和司は落ち着いたままだった。梓も、そんな彼を不安そうに見つめる。

「和司は何か言いたいことはないのか？周りの状況でなかなか思いを話せなかっただろう」

「確かに、言いたいことはある」

　和司は一息つき、ゆっくりと続けた。

「清武、君が梓を大切に思っていることは知っている。それは、俺がどんなに否定したくても、どうしようもない事実だし、俺も君の気持ちを無視するつもりはない。でも、梓が俺を選んでくれた以上、俺はその選択に応えたいと思っている」

　和司の言葉は、誠実で真剣だった。それは、自分に対する信頼を込めてくれた梓への想いと、彼らの関係に誠実であろうとする決意が込められていた。

「……俺は、梓と一緒に生きていくつもりだ。どんなに厳しい道であっても、俺たちの関係を貫く覚悟はある。そして清武、君の気持ちも大切にしたいから、どうか理解してほしい。梓が番を持った以上、俺も彼を守り、共に歩んでいくんだ」

　その言葉に、清武は視線を逸らし、苦しげに拳を握りしめた。彼の胸中で繰り広げられる葛藤は明白だったが、和司の真剣な想いが、彼の中の何かを揺るがしていたのかもしれない。

　そして、和司は今度は武和と希清にも向き直り、丁寧に頭を下げた。

「ご心配をかけてしまったこと、心からお詫びします。しかし、俺と梓は共に生きる覚悟です。どんなことがあっても、彼を幸せにしたいと思っています。どうか、俺たちを見守っていてください」

　その言葉に、武和は深くうなずき、希清も沈んだ表情ながらも目を閉じ、受け入れるように小さく息を吐いた。和司の覚悟と誠実さが、家族全員に静かな波紋をもたらし、少しずつ、彼らの間に新たな理解が芽生え始めているのを感じさせた。

武和はその場に立つ岼屋の両親にも視線を向け、丁寧に言葉を選びながら話し始めた。

「ご両親には、驚かせてしまって申し訳ありません。おそらく突然のことで、彼のことについて詳しいご説明がまだできていないと思います」

岼屋の母が小さくうなずきながら、「ええ、私たちも少し混乱しております……」と答えた。

「梓くんは和司が真剣に愛する相手であり、彼にとってかけがえのない存在です。このような事態になり、誠に申し訳ないのですが、二人の将来を応援したく思っています」

　岼屋の両親は互いに顔を見合わせ、小さくため息をつきながらも理解しようとする表情を浮かべていた。

岼屋の父が口を開いた。

「もちろん、和司さんとお話をする中で誠実さを感じましたし、梓さんがどれほど大切な存在なのかもわかります。ただ、何事も急には…」

その時、岼屋が一歩前に出て口を挟んだ。

「お父さんもお母さん……実は私、二人の関係に気づいていたの。でも邪魔してたのは私。結婚の期待を抱かせてごめんなさいね。でも、今は罪悪感から解放されて気分がいいの。だから、彼の気持ちを理解して応援してあげてください」

　その言葉に、岼屋の両親も少し肩の力を抜き、小さくうなずき返した。


ちょうどその時、ホテルのスタッフが申し訳なさそうにこちらに近づいてきた。気まずげに視線を落としつつ、小声で話しかけてくる。

「…失礼いたします。朝食会場でお食事のご準備が整っておりますが、少々お騒がせしてしまい…他のお客様もいらっしゃるため、もしご移動が可能であればと存じますが……」

　スタッフの控えめな言葉に、場の全員が一瞬沈黙し、顔を見合わせる。これまでの険悪なやり取りが他の客にも響いていたのだろう。その気まずい空気に、清武は一瞬表情を硬くしたが、すぐにまた梓を見つめ、何か言いかけるように口を開きかける。

「…すみません、すぐ移動します」と、武和がスタッフに一礼し、皆に促すように軽くうなずいた。

「皆さん、朝食をいただきながら、これからのことをゆっくり話しましょう」

　和司は梓の肩にそっと手を添え、「少し落ち着こう」と静かに声をかける。梓も一瞬戸惑いながら、和司の手に気持ちを落ち着け、ゆっくりと歩みを進めた。

　ホテルの朝食会場に向かいながら、それぞれの表情には複雑な思いが浮かんでいたが、和司は梓を守るように傍らに寄り添い、清武も離れた位置から二人を見つめるその眼差しに、なおも未練を残していた。