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43)偶然

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 清武と一緒にいると、ほんの少しだけど気分転換になる。梓はその感覚を大切にし、心の中で小さく踊るような気持ちを感じた。

 久しぶりに外の空気を吸い込むと、その新鮮さが心に広がる。
商店街の匂いは、何とも美味しそうな香りを風に乗せて運んできて、目の前の景色をさらに魅力的に見せていた。

 二十四時間営業の飲食店で軽い朝食を取った後、梓たちは商店街の中を歩きながら、今日の目的を果たすための買い物をしようとしていた。
今は、街が目を覚ます時間。
店のシャッターが次々と上がり、周囲の喧騒が徐々に増してきていた。

 普段はネットや宅配で済ませる消耗品や食材を、今日は自分の目で見て、手で触れて選ぶことができる。それだけで、梓はなんだか嬉しさが溢れそうになった。
彼の顔を見ていると、その幸せが自然と伝わっていくのだろう、清武も嬉しそうに微笑んでいる。

 傍から見れば、何も問題のない、ただ仲の良い二人に見えるだろう。

「幸せそうね」

 その声は、突然、雑踏の中から響いてきた。
聞き慣れた、少し冷たさを感じるほどハッキリとした女性の声が、目の前から飛び込んでくる。

 梓の胸が一瞬で凍りつく。
少しだけでも、心を軽くしていたはずの気分が、一気に引き戻されたように感じた。
まるで何か冷たいものを胸に突き刺されたような感覚が、彼を襲う。

「……っ」

「楓さん…兄貴…」

 言葉を失ったまま立ち尽くす梓に代わり、清武が震える声で名前を呼んだ。
目の前には、腕を絡め合い、仲良く歩きながら買い物を楽しんでいる和司と岼屋の姿があった。

 二人の穏やかなやり取りを目の当たりにし、梓の胸の奥が痛む。
未練なんてない、そう言い聞かせてきたはずなのに、それは単なる自分の心への嘘に過ぎなかったと痛感させられる。

 あまりにもぴったりと合った二人の姿。
岼屋の左手には、幸せそうに輝く婚約指輪がきらりと光っていた。
その指輪が輝く度に、梓の胸の中で、まるで何かが裂けるような音が響いた。目の前の光景が、突如として彼の心を深く傷つけ、無意識に息を呑んだ。痛みがじわじわと広がり、胸の奥に冷たいものが沁み込んでいくような感覚に、言葉を失う。

 彼女が発する、どこか余裕を感じさせる優しさ。和司のそばにいることで彼女の世界が満たされているのだろう、その姿が梓にはどこか遠くに感じられた。

 思わず唇を噛みしめ、梓はその痛みに必死に耐えた。胸の中に溢れる悲しみを、何とか平常心で抑え込もうとした。

「梓くんも清武くんも、元気そうでよかったわ」

 岼屋の声が、梓には不快に感じられた。彼女は本当にいい人だし、過去の事件でお世話にもなった。人間的には信頼できる相手だということは、梓も十分理解している。けれど、今は彼女に一切触れたくない。

 彼女が悪いわけではないことは分かっている。しかし、今、この瞬間に彼女と会話を交わすことが、梓には耐え難いほど辛かった。

 必死に表情を作り、梓は岼屋に笑顔を向けた。
心の中で、どうしてここにいるのかを問いたくても、その言葉を口にすることはできなかった。

 商店街から和司の住むマンションまでは、そんなに近いわけでもない。だが、必要なものを一度に揃えるために、この商店街に足を運ぶのは多くの人々にとって日常的なことだ。

 だから、絶対に会わない保証などは、最初からどこにもなかった。
ただ、タイミングが合ってしまった、それだけのこと。

 そして梓は、心の中で、ただ運命のいたずらだと思うしかなかった。

「招待状届いてる?もう残り二日しかないのに、正式な返事がまだだったから心配してたのよ」

 岼屋がそう言ったとき、梓の笑顔は固まった。彼女の言葉が胸に突き刺さり、何もかもがその瞬間に止まったかのように感じた。

「ああ、身内だから絶対参加らしいので…親には出るとは伝えていたから大丈夫かなって思って…すみません」

 清武が岼屋にそう返答したその時、梓は一瞬、清武の言葉に助けられたような気がした。けれど、岼屋の存在はどうしても避けられない現実であり、梓の心にはその重みが残り続けていた。


 招待状。


 それは、斎藤和司と岼屋楓の結婚の知らせを告げるものであった。斎藤家の厳格な儀式に従い、二人の入籍は結婚式の前日に両家の会食を行い、その場で婚姻届に判を押すという形式がとられる。しかし、今回はお互いの仕事の都合もあり、結婚式の時期は延期された。それに代わり、二日後には親戚を呼んでの盛大な会食が開かれることとなっていた。

 招待状が届いてからかなりの時間が経ち、今やその封筒は部屋の隅で埃をかぶっていることだろう。まだ番にも夫婦にもなっていない梓がその会食に呼ばれるはずもないが、清武が梓をパートナーとして連れて行くことにしたと、招待状が届いたその日、梓に告げられていた。

 行きたくない、見たくない。心の中で何度も繰り返した言葉だったが、どうしても拒絶できない自分がいる。

 清武は、頻繁に親と連絡を取っているようだったが、その話を梓にしてくることはなかった。招待状が届いたその日以外、和司のことを口にすることはなかった。まるで、和司の存在を無かったことにしたかのように。

 それが梓にとっては、少しだけ楽だった。和司の名前を聞くたびに、胸が引き裂かれそうになる自分を、清武には見せたくない。そんな不安を感じていた。

「梓は一人にできないから一緒に行くけど、会食が終わったらすぐ帰りますから」

 清武の口調は冷めていて、梓はその言葉に少しだけ胸を締め付けられるような気がした。

「忙しいのね」
「ええ、まあ」

 会話を切り上げるような雰囲気を清武が醸し出していた。岼屋のことは嫌いではない。むしろ、清武にとっては実兄と生涯を共に過ごすことになる大切な人物だ。しかし今、清武がここにいる理由はただ一つ、和司が近くにいるからだ。和司がいることで、梓がまた自分の手から離れてしまうのではないかという不安に駆られている。

 その不安を感じ取った清武は、無意識に梓の手を握りしめた。

「清武……?」

 その握られた手の温もりを感じ、梓は少しだけ胸が痛んだ。

「もう明後日のことだから、ちょっとお話しない?」

 岼屋の提案に、清武の表情がわずかに硬直した。梓はその違和感に気づき、即座に反応した。

「すみません、岼屋さん。俺たち、もう行かないと。明後日でしたよね?楽しみにしてます」

 梓は昔から培ってきた、営業スマイルを必死に浮かべながら答える。岼屋がそれを受け入れると、ようやく会話が終わった。

「そうなの?残念ね。じゃあ後日」

 岼屋の言葉を最後に、清武と梓はその場を後にしようとした。しかし、和司と岼屋が肩を寄せ合い、親密な雰囲気を漂わせるその姿は、梓にとっては耐え難いものだった。

 手を握られた感触がまだ残る。梓はその手を強く握り返す。自分を支えてくれているのは清武だけだと、必死に自分を奮い立たせるように。

「……」

 どれだけ笑顔を作っただろうか。梓は自分の表情がどうなっているのか、全く分からなかった。視線を向けると、和司と目が合った。その瞬間、和司がほんの少し微笑んだように見えた。その笑みはどこか暗く、切なげだった。
 梓の胸の中で、何かがぐっと締めつけられるような感覚が広がる。和司もまだ、自分を思っているのではないかという期待が胸を焦がした。

「和司さ……」

 その名前を呼ぼうとしたとき、和司が先に口を開いた。

「君が幸せそうで良かったよ」

 その言葉に、梓の心が震えた。和司は、ただ自分の幸せを願ってくれているだけなのか。それとも、未練があるのか。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。それは、和司が自分のことをまだ気にかけているということだ。

 清武は、再び梓の手をぐっと握りしめると、強く引っ張りながらその場を離れた。

「……行こう、梓」

 その言葉に、梓は何も言えなかった。ただ、清武の手の温もりを感じながら、無言で歩き出した。


 ――――――

「清武っ、痛い!」

 強引に引っ張られ、梓は清武と共に商店街を足早に歩いていた。
清武の手は冷たく、無理に握られたその腕が痛い。無理に振りほどこうとするも、清武の力強さには抗えない。

「……」

 清武の背中を見つめながら、梓は心の中で、先ほどまでの会話を反芻していた。和司が結婚する日が、もうすぐに迫っている。

二日後、それはどんなに心で覚悟していても、梓の胸を締め付けるような現実だった。

 あの日々を振り返る。
清武と過ごしてきた時間、彼を支え、彼を中心に回してきた自分の世界。
そのすべてが、和司という存在によって、脆くも崩れていく。
和司の結婚が、こんなにも近づいていることに、心のどこかで拒絶感を覚える自分がいる。

 清武と一緒になると心を決めたのに、未練が胸を締め付けて離れない。

自宅に到着した瞬間、ドンッ!と玄関の扉が激しく閉まる。
その音に、梓は思わず身をすくめたが、次の瞬間、清武が彼を力強く抱きしめた。

「梓……あずさっ」

 清武の声には、切実な不安と恐れが混じっていた。
不安に押しつぶされそうだという清武のその胸の中に、梓は顔を埋める。
清武は無言で、ただぎゅっと彼を抱きしめ続ける。
その強さに、梓は息ができないほどだった。

「梓……兄貴を見ないで……」

 清武の目の奥に、まるで崩れそうなほどの恐怖が宿っている。それを理解するのは、梓には難しくなかった。清武が抱える不安は、すべて自分に向けられている。梓がまた和司の元へ戻るのではないか――その恐れが清武を縛り付けている。

「大丈夫だよ」

 清武の腕の中で、梓はぎゅっと抱きしめられた。
身動きが取れないその状態で、どうにか腕を回し、清武の背中に触れる。手のひらを、彼の背に押し当てることでしか、今の自分を表現できない。

「兄貴のこと、見てたよね?」

 急に清武の声が変わった。
さっきまで震えていた声が、今度は深い闇のような、重苦しい声に変わる。
梓はその声に胸を打たれ、体が硬直する。

「大丈夫って言っても、不安だよ、梓」

 その声の奥にある、暗い感情に梓は身震いした。
清武の寂しげな表情が、いつもの清武ではないことを物語っている。そ
れでも、梓はその瞳を見つめ返すことができない。

彼の気持ちが、ただただ重く、圧し掛かってくる。

「ねえ、番になろ。今すぐ」

 突然、清武がそう言いながら、梓のシャツの中に手を忍ばせた。
耳元で囁くその言葉には、欲望と切実な求めが絡み合っている。
しかしその行動には一抹の狂気さえ感じさせた。
発情期が来ていないという常識を、彼は完全に無視している。

「待って、清武……?」

 清武の手が梓の肌に触れるたびに、彼の体が反応してしまいそうになる。しかしその心の中では、拒絶の気持ちが強く湧き上がっていた。ゆっくりと首筋に舌を這わせる清武の様子が、どこか異常で、梓は冷や汗をかく。

「ごめん、梓。俺はもう待てそうにない」

 清武がそう言いながら、自分の鞄から何かを取り出した。
小さな錠剤、PTP包装されたそれは、梓がすぐに思い出す薬だった。

それは、オメガの不妊治療として有名な薬――発情期を引き起こす薬だ。

「ダメ……清武……それだけはダメ……」

 梓の心臓が激しく鼓動する。
清武がその薬を持っている理由が、彼の深い不安から来ていることは理解できる。
しかし、梓はそれがどれほど危険なものかを知っている。
自分の体にとって、それは大きな負担となる。医師から止められていた薬だ。

「知り合いの番が使ってた薬を、少し譲ってもらったんだ」

 清武は必死に説明するが、その表情には恐れと焦燥が滲んでいる。
待っても訪れない自分の発情期。
清武の気持ちが、どれほど焦りと不安で渦巻いているのか、梓は痛いほど理解した。

「梓……頼む、これを飲んで。本当に俺と番になってくれるなら」

 その目には涙が浮かんでいる。
清武はその不安から逃れるために、もう何もかもを投げ出しているようだった。
梓はその顔を見つめ、深い恐怖に襲われた。
自分の体にかかる負担よりも、清武がまた壊れてしまうのではないかという恐れが、梓を突き動かし薬に手を伸ばした。

「いい子」

 清武が優しく梓の頭を撫で、薬を受け取った梓は震える手で包装を外した。
手のひらが冷たく、指先が震える。

 小さな白い錠剤を口に含む。
水もなく、薬が口の中で転がる感覚が、梓の胸をさらに締め付ける。

何もかもが狂っているように感じられた。

「ああ、そうか。飲みにくいよね」

 清武がその言葉を優しくかけ、梓の口を塞ぐようにしてキスをする。
唾液が流れ込む感覚が、梓を圧倒する。
薬が喉を通り、苦さが口の中に残る。清武が微笑みながら、「上手に飲めたね」と言うその表情に、梓は深い絶望を感じた。
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