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42)束縛

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 朝の光がまだ柔らかく、梓は目を覚まし、静かな時間を楽しんでいた。キッチンに立ち、冷蔵庫を開けると、卵が一個だけ残っているのを見つける。その少ない卵を手に取りながら、梓は少し考えた。

「たまご……一個だけだったっけ……」

 必要ないわけではないが、卵は色々な料理に使える便利な食材。今使えばちょうどいいが、この後に続く食事を考えると少し不安だ。

 梓は時計を見つめながら、近くのスーパーが開店するまでの時間を計算した。早く開くスーパーまで行くつもりだったが、その間に下ごしらえを進めることにした。

 包丁がまな板をリズムよく打つ音が響く中、背後から突然声をかけられる。

「梓」

 低く、寝ぼけた声が耳に届く。梓は思わず驚き、振り返ると清武がまだ眠そうな顔をして立っていた。

「ごめん、起こしちゃったね」
「大丈夫。もう起きないと仕事が溜まる」

 清武が梓を後ろから抱き寄せると、梓は反射的に体を硬直させた。包丁を手にしているため、少しでも危険な動作は避けなければならない。

「清武、危ないよ」
「んー……」

 寝ぼけているせいか、清武の反応は鈍い。息が抜けたように力の抜けたその声に、梓はさらに危機感を覚える。だが、清武はそんな梓の懸念を無視するかのように、首筋に唇を押し当て、何度も優しく吸い始めた。

「ちょっと、清武。本当に危ないってば」

 梓の声が少し震えた。首筋に触れる熱い唇と、時折響く「ちゅっ」という音が、まるで幻のように梓の意識を揺さぶる。清武の手が、わずかに力を込めて、梓の体をさらに引き寄せる。

「包丁置けばいいよ」

 その言葉に、梓はようやく包丁をまな板の上に置いた。まだ心臓が早鐘のように打ち、少しだけ手が震える。

「清武……ダメ」

 だが清武の手は止まらず、梓の首筋にさらに甘く、執拗に吸い付く。その唇がもたらす快感とくすぐったさは、梓の意識を攪拌し、胸の奥に変な熱をもたらす。けれども、彼の舌が触れるたびに、梓はどこか不快な気持ちを抱く。

 それは、純粋な快楽ではなく、どこか痛みを伴うもの。梓の心の中で、過去の不安や迷いが一瞬で顔を出す。

 清武は無意識のうちに、梓の皮膚を歯で軽く噛む。その行動に、梓は驚きとともにゾクっとした冷たい感覚を背筋に感じた。

「……っ」

 オメガとして敏感な場所に触れられ、快感と痛みが交錯する。思わず体が震える。もう慣れたはずのこの行為に、どうしても心の中で抵抗感が消えなかった。

「早く、ヒートが起きればいいのに」

 清武は梓の耳元でささやくように呟いた。その言葉が、梓の胸の中で何かを引き起こす。

「そのうち来るから……ね?」

 梓は小さな声で返す。彼の手が再び優しく触れてくるたびに、何とも言えない感情が交錯する。清武の愛情も、時に梓を縛る鎖のように感じられる。

 その瞬間、梓の心は揺れ動く。彼を愛している自分と、彼の行動に違和感を感じる自分の間で、何度も葛藤を繰り返す。

 それでも、梓は彼を受け入れるしかなかった。

 清武が満足するまで梓の首筋を舐め、時折歯を立てていた。
あまりにも熱心に、そして執拗にその行為を続ける彼に、梓はただ耐えるしかなかった。
やがて、清武は顔を洗うと言ってキッチンを離れる。
扉がバタンと閉まる音が静かな部屋に響き、その音を合図に梓はやっと包丁を持つ手を緩めた。

 だが、すぐに冷蔵庫を開け、食材を取り出そうとした梓は、またしてもあるべき材料が足りていないことに気づく。

「これもない…」

 必要だと思っていた調味料がないことに気付き、梓は再びため息をついた。やはり買い物に出なければならない。そう感じた梓は、エプロンを外し、テーブルの上に置かれた財布を手に取った。

 最近では、どこにでもある便利なコンビニでさえほとんどのことが足りてしまう。だからこそ、遠くまで行かず、近くのコンビニに行くことを決めた。

「どこ行くの?」

 その問いかけが背後から聞こえ、梓は立ち止まった。清武が顔に水滴を流しながら、まるで番犬のように鋭い眼差しを向けていた。まるで何かを察知したかのように。

「…あ、お味噌がなくてね。買いに行こうと思ってるんだ」

 梓は少し言い訳めいた言葉を口にしたが、その目を見ていると、自然と萎縮してしまう。清武の鋭い眼差しが、まるで自分の行動すべてを見透かしているかのようだった。

「一人で外には行っちゃ駄目だ。一緒に行くから待ってて」

 清武が言い残して、また姿を消すと、梓は緊張の糸がようやく解けるのを感じた。しかし、その解放感の中に、なぜか重いものを感じる自分がいた。清武から向けられる目が怖いと感じる瞬間が、時々ある。

 『また命を粗末にするのではないか』そう思うと、梓は彼の思い通りに動くしかないと思い知らされる。彼の命を、何もかも自分の行動次第で左右されてしまう。
だからこそ、梓は無意識に彼の顔色を伺ってしまう。

 清武が突然止める時もある。梓が外出しようとすると、すぐに止められてしまう。
それは、過去に梓が事件の被害者となったこと、そしてその後の清武の不安から来ている。離れたくない、そう感じる清武の気持ちが時折過剰に表れ、梓を締めつける。

 清武の強い束縛の中で、梓は自由がなくなったように感じる。何をしていても、清武の目線が気になって仕方ない。デスクワークをしている彼の隣で、ただ黙々と読書をするだけの日々。

携帯電話も持っていない。
インターネットも解約させられ、世間からの情報が遮断された生活。

 それでも、外に出てもいいのだろうか。
婚約も決まり、何も不安に感じることはないはずなのに、それでも清武が少しでも不安そうな顔を見せると、梓は心が乱れる。

 彼の不安を消すためには、必死に自分を納得させ、「好きだ」と呪文のように繰り返す日々。

 外出すらも許されないような圧迫感が、梓の心に重くのしかかる。

「いいよ。買い物に行こうか」

 清武の言葉が、静かに響いた。彼は外出の準備を終え、笑顔で手を差し伸べた。梓はその手を取り、久しぶりに部屋の外に出ることにした。

「そうだ!せっかくだし、外食でもしよう。だから梓も着替えておいで」

 清武はそう言って、楽しそうな声で梓に微笑みかけた。
朝早くから開いている食事処を選んだのは、朝食の手間を省き、買い物ついでに外食も楽しめるようにと考えた清武の心遣いだった。

「清武、仕事は?」
「大丈夫。よく考えたら一日や二日サボっても間に合う程度だよ」
「わかった」

 梓はためらうことなく返事をし、着替えに向かった。久しぶりに外に出るため、少しラフな白いワイシャツを選んだ。そのシンプルな服装も、清武にとっては似合うと言ってくれる。
彼の優しさに、梓はほんの少しだけ救われた気がした。

「うん、綺麗だね。梓は何を着ても綺麗だ。白がすごく似合う。結婚式、早くできたらいいのにな」

 着替えを終えた梓に、後ろから清武が優しく包み込むように抱き寄せた。その時、清武の無意識のうちに施したマーキング行動が、梓に強く感じられた。

「行こうか」

 清武の手を取った梓は、少し緊張しながらも部屋の外へと踏み出した。
久しぶりの外出、それは梓にとって一種の解放感でもあり、同時に清武の強い束縛を再認識する瞬間でもあった。
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