オメガのホストはベータとして生きる

柴楽 松

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20)惹かれ合い

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「帰ってきてたのか」

 和司は自分の住むマンションに帰るところだと伝え、コートをゆっくりと着始めた。寒い季節、外の空気が体に染み込んでくるのを感じながら、次の言葉を選ぶ。

「兄貴……俺、裁判が終わったら梓と結婚するんだ」

 清武のその言葉に、和司の手が止まった。コートの袖を引き上げる動作が、一瞬で静止する。

「……そうか」

 予想外の言葉に驚く暇もなく、和司は心の中で自分に何ができるだろうかと考えた。余裕のない気持ちを抱えながら、精一杯次の言葉を探し、ようやく口を開く。

「おめでとう」

 少しの間をおいて、無理に振り絞った言葉は、どこか力なく響いた。

「兄貴もね」

 清武の言葉は、和司の胸に重くのしかかる。和司は苦い笑みを浮かべながら、次の言葉を続ける。

「俺は結婚は考えていない」
「でも、決まったことだろ?」

 そう言って、清武の表情に一瞬の不安がよぎる。和司はそれを感じ取りながら、冷静に言葉を返した。

「どうにかして、この話は無い事にするさ」

 清司が口を開くその前に、和司は内心で自分の思いを整理していた。結婚をするというのは、理想を実現するものだと思っている。理想的なのは、好きだと思う相手と結婚すること。それは自分のためでもあり、何よりも相手のためだと、和司は心から感じていた。

 だが、清武が言葉を続けると、和司は再び立ち止まった。

「兄貴は、梓の気持ちに気づいてるんだろ?」

 その問いに和司は答える前に、一度深く息を吐いた。梓の気持ちに気づいていないといえば嘘になる。だが、それにどう向き合うべきかがわからなかった。

 和司は無言のまま、口を固く閉じた。

「梓は俺の事が好きだよ。兄貴が好きなんじゃない。今メンタルが弱ってて、混乱しているだけなんだ。救ってくれたのが兄貴だったからってだけで、好きだと思い込んでいる。梓は今、自分の気持ちを誤解しているだけだよ」

 清武の言葉には、どこか冷徹さを感じる。現実的すぎるその言葉が、和司には痛いほど突き刺さる。

 和司は、梓が自分に好意を持っていることに気づいていた。だがそれは、精神的な錯覚だと感じていた。心の中で、「吊り橋効果」を思い浮かべながら、自分を納得させていた。

 吊り橋効果。危機的状況を一緒に乗り越えた相手や、危険な状況から助け出してくれた人物に対して抱く錯覚的な好意。この感情は、和司が否定できないものであり、だからこそ梓の気持ちに応えたくても応えられない理由となっていた。

「……わかってる」

 和司の心は、複雑に絡み合った思いでいっぱいだった。梓の好意は、確かに嬉しい。しかしそれと同時に、苦しい。

 自分の気持ちを伝えられたら、どれほど楽だろうか。けれど、和司は知っていた。自分の心の中で、梓への恋心が芽生えていることを。それはもう、ただの友情ではない。明らかに恋愛感情だと、自覚していた。

 和司が梓を初めて見たときから、この感情は始まっていたのだ。しかし、彼がずっと見つめていたのは弟の清武であった。
それが、梓を諦める理由だった。

 数か月前から、梓との距離が少しずつ縮まり、自分の気持ちを抑え込むようにしていた。これは恋ではない、と自分に言い聞かせながら。それは、まだ清武に対して好意を抱いていたからだ。

 だが、今、梓が和司に向けてくるその好意に、自信を持つことができなかった。

 もし梓がこの気持ちを誤解したまま、自分から離れていくことになったら、その傷つくのは梓だ。和司はそれを避けたかった。

「兄貴も、梓の事が好きなようだけど」

 清武の言葉に、和司は言葉を詰まらせる。気づいているのか、清武は一度、静かに息を吐いてから、冷静に続けた。

「……」

「梓は俺のだから」

 その一言に、和司は心の中で深い苦悩を感じる。清武が、まるで自分の気持ちを見透かしているかのようだった。

「梓の為を思うなら、岼屋さんと話を進めてほしい」

 和司は、なぜ清武がこのような方向に持っていくのか、すぐに理解した。結婚という形を取れば、梓には諦めが生まれ、清武は安心できるからだ。

「お前に俺の人生を決める権利はないと思うが?」

 和司は冷たく言い放つ。梓と恋仲になるかどうかは別として、他人に自分の人生を決められるような筋合いはなかった。
ましてや、相手もあることだ。

「頼むから……兄貴……梓は俺の全てなんだよ」

 清武の声は震え、悔しさがにじみ出ていた。それまでの抑えていた感情が、爆発するように漏れ出したのだろう。涙を堪えた清武は、冷たい廊下の床に膝をつき、手をついて頭を深く下げた。

「頼むから!」

 和司は、初めて見る弟の姿に驚きを隠せなかった。長年共に過ごし、互いに分かり合ってきたはずの清武が、こんなにも必死で、そして傷ついた表情を浮かべていることに、和司は言葉を失った。

 清武は、和司とは違って明るく、どこか余裕を感じさせる人物だった。
誰からも好かれ、常に周囲を照らす太陽のような存在だったはずだ。
それが、今や必死に頭を下げ、和司に懇願する姿に変わっている。

その姿に、和司の胸は痛く締め付けられた。まるで、これまで見たことのない清武の弱さに触れたような、切なくて胸苦しい感覚が広がっていく。

「……考えておく」

 和司は、小さな声で呟きながら、頭を下げ続ける清武をそのままにして、静かに廊下を歩き始めた。
足音が冷たい空気に吸い込まれるように響く。
外に出ると、澄んだ夜空が広がっており、星々がひときわ輝いて見えた。
心地よい静けさと冷たさが、和司の周りを包み込む。

 自分一人が我慢すれば、周りが幸せに過ごせる──そのことを和司は痛いほど理解していた。
しかし、どうしても浮かぶ梓の笑顔が、彼の心を曇らせ、決断を鈍らせてしまう。

「このまま、向けられた好意を掴んではいけないのだろうか。」

 そう思う自分に、和司は一層の罪悪感を感じた。
もし好意を受け入れれば、誰かを傷つけることになる。けれど、もし拒んだら──今度は自分自身が後悔するだろう。
罪悪感と後悔がどちらに向かっても生まれるのなら、その好意を利用してしまいたいと感じる自分に、和司は深い嫌悪感を抱いていた。自分がこんなにも醜い生き物だと思いたくはなかった。

浮かぶのは、梓の笑顔。あの瞬間、あの笑顔が自分に向けられていたことが、どうしようもなく愛しく、そして苦しい。彼の気持ちが、もしも誤解であったなら、きっと彼を傷つけてしまう。そのことを考えると胸が締め付けられる。

一方で、清武の必死な姿も目に浮かぶ。普段は明るく余裕を持った弟が、初めて見せた必死な姿。あの涙を隠そうとする姿が、和司の心に深く刺さっていた。

 その二つの想いが交錯し、和司は歩みを進めるも、頭の中でそのどちらもを引き裂こうとする感情が渦を巻く。
どちらを選んでも、何かを失う。
迷いながらも、和司は帰路を辿り、胸の内で答えを探し続けていた。
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