測量士と人外護衛

胃頭

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最終話

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 ウッドデッキから眺める海はどこまでも青く透き通っていた。フジのよく知る海は濁りヘドロに塗れ死体や死骸が浮遊する腐臭水だった。この海は一体どの海域なのだろうか、そもそもこの大陸は地球のどこに位置するのか。分からないことばかりの未知の新大陸は確かに人類の希望ではあるがやはり移住は不可能だろうと改めて思う。
 ここは港から少し外れた丘の上にあるエル専用のコテージだそうだ。あの港を利用する他の探索者や政府関係者とエルが鉢合わないよう作られたらしい。
 簡易的なシャワー室もあったのでフジは久しぶりにお湯を浴びた。体の汚れを手で落とす時どうしても先ほどまでの情事が思い出されむくりと反応する自身には笑うしか無かったが、意地悪と期待、両方の意味を込めて「処理を手伝ってくれませんか?」とエルに聞いてみたところ飛び上がって逃げてしまったが可愛かったので良しとしよう。
「フジ体が冷える」
「ありがとうございます」
 背後からブランケットをかけてくれたエルはもうすっかりいつものフルフェイスだ。今更隠すこともないだろうと思うが曰く刺激が強いので感覚を鈍らせたいとのことだったがフジにはよく分からなかった。
「帰りの船は四日後には到着するだろう」
「そうですか」
「…一緒には来てくれないのだな」
「置いて行こうとしたのに?」
 笑って返せば何も言えずしょんぼりとするエルに「ごめんなさい」と頭を撫でてやる。
 フジはエルと共に帰らない。
 それは別にこの大陸に住もうとかそんな話ではなく、別便を呼んだのだ。

「フジ、それは?」
「携帯型の衛星通信です。会話は出来ませんが信号が送れます」
「…誰に連絡を?」
 隠すことなく嫉妬に濡れた雰囲気を醸し出すエルに「幼馴染みです」と親しい仲で家族みたいなものだと説明した。
「出港前に渡されていたんです。政府関係者に回収されないよう測量器の取手の中に忍ばせておきました。万が一の時はこれで連絡をくれれば迎えに行くと」
 フジの意図が読めなかった。エスポワ大陸に政府管理の船以外が上陸したことなどなかったしそもそも経路は極秘情報だ。その幼馴染は何者だ?しかしそれよりも…
「私は貴方と帰りません」
 ざわりと空気が揺れ木々から鳥たちが勢いよく飛び去って行く。コテージ中が軋みガラス窓がカタカタと揺れ黒い波のように蜘蛛が集まりエルとフジを囲った。
「どうします?また監禁して私をここに閉じ込めますか?私ももう抵抗はしませんよ」
 煽るように言ってのければ床下から集まり周辺を黒く染めていた蜘蛛たちがフッと四散した。
「いや…貴方のことだ何か考えがあるのだろう」
「あれ、良いんですか?私は本当に貴方に囚われてもいいと思ってますよ」
「だが望んではいないだろう。私はもう貴方には敵わないと十分理解したし貴方の意思を優先したい」
 呆気なく引いたエルにフジは肩をすくめた。
 あの時この大陸に残ると叫んだのは別に嘘じゃない。本当に残ってもいいと思ったのだ。父を捨て、友を捨て、人類と世界を捨てエルと共にここで生きる。
 それでもフジはいいと思っていた。
「エルも言ってた通りこの大陸への人類移住は不可能です。槇尾さんのようにクレスがいれば生きてはいけるでしょうが…」
 政府が考えているように少数が安全な土地で生きたとしても次第に人口は増え人間はこれまで通り木を切り倒し土地を広げて行くだろう。内陸部へ行けば行くほど危険と隣り合わせになっていずれ想像も付かないような生き物と接触し、結局人類は滅びるのだ。ならば今生きるあの大地を少しづつでも元に戻していくのが人類存続の一番の近道なのではないか。
「やりたいことがあります」
 ずっと考えていたことだ。実現可能かどうかはわからないがどうせ死ぬならやらずに後悔よりやって後悔だ。それに今のフジには生きる目的がある。
「エル」
 今この人は何を考えているのだろうか。
 またマイナスな思考にならなければいいが。
 握った手に唇を落とすとピクリとエルの肩が揺れる。
「私はこれからも貴方と生きたい。貴方に人類が生きてきた歴史を、文化を、芸術を色んなことを見てもらいたい。たくさんの人を知って、考え方を知って、その上で私を選んで欲しい」
 エルの愛を疑っているわけではないが何しろ彼の世界は余りにも狭い。自我が芽生えて一年半は幸運なことに好意的な研究者の元で過ごせたらしいがそこから今までこの大陸と狭い自室、エルを冷遇する側の人間と心の歪んだ探索者しか知らない。
 フジは幼い頃の話だが様々な土地を見てたくさんの人と触れた。仕事中に差し入れをしてくれる人、応援してくれる人、測量に興味を持つ子どもたち、暇だろうと小さなフジの相手をしてくれる人、宿を提供してくれる人、たくさんの小さな愛が満ちていた。今でこそこんな世界のせいで人々の心に余裕がなく殺伐とした時代だが、本来エルに注がれる愛はもっと多いはず。
「私は傲慢ですね。世界中の美しいものを見てそれでも私を選べだなんて」
「そんなことはない。約束しようそれでも貴方が一番だと私は言う」
「ええ。待ってます」
 フジは微笑んだ。
 
 船が来るまでの間ふたりはコテージで過ごした。
 そこから見える海岸沿いの木々は絵の具で塗ったように鮮やかに色付いている。紅葉など久し振りに見たが季節の移ろいは心を豊かにするものだとフジは感嘆の息を漏らした。世界はもう一年のほとんどが茹だるように暑く、なのにいつも曇り空で湿っぽい。季節なんてものはあってないようなものだった。
 そう思えばこの大陸の景色が世界でいちばん美しいかも知れない。自分と景色を比べろなどと言うつもりはないが、それでもこの秋の色合いよりもそれを眺めるフジの横顔の方が興味あるとばかりに見つめてくる男はやはり心から自分を愛しているのだろうなと自惚れる他なかった。
「やっほォ~」
「クレス…?」
 その後、昨日帰ったと聞いていたクレスがやって来て驚いた。彼はなにやらフジの体を上から下まで眺めると頷き「じゃ、帰るねぇ」と背中を向けて飛び立とうとするのでフジは慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと待って下さい何か用があったのでは?」
「ウン、もう終わったから帰るよ~マキオも待ってるしね」
 何が終わったと言うのかフジは首を傾げたがクレスは笑うだけで何も言わなかった。
 次の日、父の話をした。
 気になっていたのだろうエルがフジの父を好きだとはどう言うことなのかと恐る恐る尋ねてきた。
 フジはエルが父を追って6番の森から港まで、そして海を渡ったのではないかと己の推測を話した。エルは人型になる前のことはやっぱり思い出せないようで黙って聞いていたが何か思うことがあるのだろうか、肯定はしないが否定もしなかった。
 その日は何をするわけでもなくたわいもない会話をしながら過ごしたがエルはどこかぼんやりといつかの記憶を思い出そうとしていることが多かった気がする。
 夜になりエルが体調を崩した。
 頭が痛いとフラついてこれまでそんなこと一度もなかったエルにフジは慌てたがそれ以上にエルが困惑していた。薬をと思ったが果たしてエルに人間用の頭痛薬は効果があるのだろうか。横になればマシだと言うので重そうな服を脱がしてアンダーウェアにしてやる。少し抵抗されたがメットも外し濡れたタオルで頭を冷やし続けることしかフジには出来ない。
 看病はもういいから一緒に寝ようと誘われフジは心配ながらもエルの隣で横になると抱き寄せられた。あの日、影に陵辱された日からどこかフジに触るのを遠慮していたエルだったのでフジは嬉しかったがそれと同時に自制出来ないほど苦しい思いをしているのだと胸が張り裂けそうになる。何もしてやれない自分がもどかしい。
「そばにいてくれ」
 それだけで気が楽だと溢すエルを抱き締めた。フジを抱き寄せる手がいつもより弱々しいならフジが代わりに抱き締めればいい。苦しそうに呻くエルを慰めるように背をトントンと叩きながら窓の外に浮かぶ秋月を眺めた。
 目が覚めると陽はすっかり真上に登り午後になっていた。むくりとベッドから起き上がり辺りを見渡すと丁度エルが部屋に入って来た。いつもの姿で食事を準備してくれている様子の彼に体調は戻ったのだと一安心した。
「記憶が?」
「ああ。朧気ではあるが」
 なんのキッカケか分からないが記憶が戻ってきているそうだ。まだ断片的で森を駆ける風景、糸を張り獲物を仕留める感触、空と山と、羽の音。人型になる前の記憶であろうものをふとしたタイミングで思い出すらしい。
 (もしこのまま…)
 父と出会った時のことを思い出せばエルはどうなるのだろうか。住処から遠く離れ海まで渡った程の情熱が吹き返せば彼は父のことを恋い慕うようになってしまうのか。今フジを愛してくれているように今度は父を愛するのだろうか。
「…嫌だな」
 どろりと溶けた嫉妬が胸を渦巻いた。
 四日目のまだ夜も明けていない時間フジの目にはわからないが水平線に船が見えたそうだ。
 あと一時間もすれば到着するだろう。
「貴方の迎えが来るまでは彼等が生活をサポートする」
 カサカサと集まる蜘蛛たちを見てフジは頷いた。
 彼等とエルは元々一つの集合体だったらしい。それが海を渡るときに小さな個体に分裂しエルだけが船に乗り込んだようだ。
「私はまた軍に戻り監禁状態だろう」
「はい」
「フジ貴方に会えないのは寂しい」
「そうですね…私もです」
 名残惜しそうにするエルの手をフジはそっと離した。フジだって離れたくなかったがこれ以上は別れるに別れられなくなる。船はもうフジが目視出来るほど近くに来ていた。
 薄暗かった東の空が白み始めた。
 朝日が昇る。
「また」
「ええ、また」
 寂しさを押し殺し笑うフジに別れを告げコテージの階段を降りて行くエルを後押しするように風が吹いた。
 山から吹き下ろす風は秋の冷たさと草木を運びその中にふわりとフジの匂いが混じった。
 ――パチンと風船が割れたみたいな感覚がした。
 濁流のようにとめどなく頭に入ってくる記憶はかつての自分。
 
「――――……フジ!」
 降りていた階段を急いで戻りエルは驚いた様子のフジの手を掬い上げた。
「貴方だ」
「え…?」
 何故自分がこちらの世界に渡ったのか考えたこともなかった。記憶がないのもあるが大陸の生き物は過去を振り返ったりはしない。
 今をどう生きるかそれが大事なのだ。
 フジに言われて初めて思い出してみようと意識し始めた。6番の森は初めてだったが何故か懐かしい気がした。フジの父のことが好きなのではないかと聞かれて否定できない自分がいた。なんとなくそんな気もしたのだ。誰かを、フジに似た誰かをかつての自分は追いかけていた気がする。
 だがフジの父を追いかけて船に乗り込んだとしてもキッカケに過ぎない。今エルが愛しているのは紛れもなくフジなのだから。それがフジのわだかまりになっているのだとしても過去は変えられない。ならば証明するしかない、この世の全てを目にしても彼が好きだと。
 
「私は貴方を探していたんだ!」

――――
 
 その頃は毎日蜂に追いかけられ森中を逃げ回っていた。殺してやっても良かったが食べる身もなさそうでキーキーと五月蝿かったし何よりアレのお陰で花が咲き果実が実ることは分かっていた。
 諦めたのか数日ほど蜂の姿を見なくなり平和に暮らしていたある日、嗅いだことのない匂いがした。この大陸の匂いじゃない。その蜘蛛は大陸中を歩いたことがあるがこんな匂いのする生き物はいなかった。興味本位でそちらを覗いて見れば二足歩行の小さな生き物がいた。蜂の新しいターゲットになっていたらしいその生き物のひとりが刺されそうになりもうひとりがそれを庇った。蜘蛛はただそれを見ていただけだ。特に何も感じず、あんな生き物もいるのだなとそれだけだった。
「藤測量士…!」
 藤と呼ばれたその生き物を気付けば守っていた。ぐたりと倒れたそいつをもうひとりが背負って逃げて行くのを横目に蜂と対峙すれば驚いている様子だったが好機とばかりに針を刺してくる。それを凌ぎながら蜘蛛はその生き物たちを追いかけた。
 それは私の獲物だ、私が守ったのだから私の物だ、何故逃げるのだと伝えたかったが彼等の言語を知らない。殺して奪おうかとも思ったがぐたりと倒れたそいつは瀕死で、助けられるのであれば同族に任せてみようと見守った。だが彼等は弱かった。蜘蛛の足元にも及ばない獣に手足をちぎられそれでも踏ん張りながら進む。仕方なく追い払うように側にいてやればそいつは目を丸めながらもペコリと頭を下げた。その行為が何を意味するか蜘蛛にはわからなかったが悪い気はしなかった。
 随分と長く歩いた。
 海まで辿り着くと砂浜で倒れたそいつらに近付き蜘蛛は頭を傾げた。ここでこいつを治すのか?私はこいつが気になる。この匂いが気になる。ツンツンと触っても動かない。ならばと蜘蛛は藤と呼ばれた男を引っ張り持って帰ろうとして立ち止まる。
 違う、こいつじゃない。
 胸元を見れば首から垂れ下がった薄紫色の小さな布。これだ。これからとても気になる匂いがする。持ち上げてみればくらりと目が回る。薄くなっているがこれから蜘蛛の体を震わせ心が湧き立つような匂いがする。本能が求めている。この匂いが欲しいと。
 だがこの男ではない。
 この匂いの持ち主は他にいるのか?
「!」
 待機していた船から人が降りてくる気配に気付き蜘蛛は考えた。こいつらに付いて行けばこの匂いの持ち主の元に辿り着くだろうか。ならばこの体は目立ち過ぎる。細胞一つ一つをバラけさせるように体を分解していく。小さな小さな蜘蛛の塊はファっと弾け散り散りに去っていった。そしてただ一匹、エルはその場に残るとカサカサと紫色の布の中に姿を潜めた。
 ふわり、ふわりと心地良い。
 この匂いが好きだ。
 どんな生き物だろうか。
 体を分けたせいで思考がままならない。
 記憶が溶けて消えて行く。
 匂いだけだ。
 これだけ覚えていよう。
 いつかこの匂いに気付けるように。
 
「私は貴方の父に惚れて付いて行ったんじゃない。貴方が貴方の父に渡したお守りの匂いにつられてここを出て行ったんだ」
「おれを…?」
「そうだ!ああ、なんてことだ。思い出した。私はずっと十年前から貴方を探してたんだ。フジ、フジ。良かった。貴方と出会えて、この記憶を思い出せて」
「エルが俺を…」
 ポロリと瞳から零れるのがわかった。
 言葉に出来ない感情がとめどなく溢れて涙になる。
「フジ!」
 体が痛いほど抱き締められフジはとうとう大粒の涙を流した。ずっと不安だったのだ。もし全てを思い出した時に父に目移りするエルを見るのが。父と今更縁など切れない。ならばずっと父のそばにいるエルを見続けなければならなかっただろう。耐えられる自信がなかった。
 それがどうだ。
 エルはずっとフジを探し求めていたらしい。
 なんだそれ、お伽話かよ。
 そんなの運命だと馬鹿みたいに喜んでしまう。
 時間もないのに二人で抱き合ってフジはえんえんと泣いた。
 良かったエルが自分を愛してくれて。
 この恋を諦めなくていいんだと安堵した。
「エル…!エル!」
「フジ愛してる。きっとこの世界の何よりもだ」
「はい」
「…だから私は貴方を信じる。待てばいいんだな」
 エルの言葉にフジはぐずぐずになった顔で頷いた。
「わかった。ならば待とう。数日でも数ヶ月でも、何年経っても貴方を待とう」
「はい…必ず、迎えに行きます」
 これで本当の別れだ。また出会うために次は離れないために今は別れる。
「エル!」
 階段を降り坂を下る途中でコテージからフジが叫んだ。振り返ると手を振ってフジは笑う。
「次会うと時はちゃんとエッチしましょうねー!」
 フェイスの中でエルは思わず吹き出した。
「ああ」
 フジのああいったところが大好きだった。

――――――
―――――
―――







 ペラリとページを捲れば女神を描いた作品が現れた。春の訪れ、受胎を聖母に知らせる大天使、神が最初の人類に生命を吹き込む場面、天まで届く塔、幼い王女、耳飾りの少女、後宮の愛妾、戯曲のワンシーン、日の出、ダンスホール、月夜、接吻、最後に世界で一番有名な絵画を見た。
「…なるほど」
 パタリと本を閉じ小さな蜘蛛たちがエッサホイサと運んで行く。
 あれから二年経った。
 相変わらずエルは軍施設内の自室に監禁されている。

 大陸から帰国し半年ほどはこれまでと同じ生活だった。調査報告書の提出と三食運ばれてくる食事。部屋の外から聞こえる人の声、窓からは歩く人影もちらほら見えていた。冬が来て、春が訪れても風景はさほど変わらない。濁った空気に澱んだ空。
 ただある日突然食事が届かなくなった。だが特に困りはしない。大陸から数匹連れて来ていた蜘蛛たちが外で食事を摂ればエルはそれで賄える。ここから動くこともなく体力の消費もなかったのでそれほど苦ではなかった。
 夏が来て秋を過ぎまた冬になる。
 部屋の外から聞こえていた声がどんどんと数を減らし、もう窓の外から人影を見ることもなくなった。これ幸いとエルは蜘蛛たちを軍の中にある書庫に潜入させた。待機する軍人も多いため娯楽として本が置いてあるのは知っていた。その中でも歴史、文化、建築、芸能、美術様々な分野の本を覗き見た。
 偉大な人間、様々な考え方、優れた建造物、艶やかな芸、美しい芸術品、どれも人類の素晴らしさを表している。だがそれだけだ。
 この世界に現物が残っているものはほぼない。
 壊されなくなったか、必要ないと判断され燃やされたか、何にせよ自分たちが築き上げてきたものを自分たちで壊していく人間の愚かさも再確認した。
 世界中の美しいと呼ばれる存在は一通り目にした。
 それでもエルの脳裏に浮かぶこの世で最も美しい存在はただひとり。
 恋しいと思わない日はない。
 それでも信じて待つのだ。
「…誰か来るな」
 騒がしい足音と息の荒い呼吸が聞こえる。ドタドタと走りエルの部屋の前まで来るとガチャガチャと喧しい音を鳴らしながら勢いよく扉が開かれた。
「オイ!!バケモノ!!私の味方をしろ!!さもないと貴様の首の毒を今すぐにでも――……ガッ!」
 涎を撒き散らしながら喚く男は背後から殴られ白目を剥いてその場に倒れた。この男はエルをあの大陸に送るために研究所の職員を人質に取った政府の男だ。靴も脱げそれでも何処かから逃げて来たのか靴下には穴が空いてボロボロだった。
「悪い。邪魔したな」
 政府の男を気絶させた軍人はペコリと頭を下げその男を引き摺って行く。見たことある顔だった。ズリズリと運びながらふと立ち止まりエルを振り返る。
「…あんたには二度ほど助けられた。まあ何のことか分からないかも知れないが…またいつか礼をさせてくれ」
 じゃあ、と去って行くのを見届けて開かれた扉を見たがエルは出て行こうとはしなかった。
 エルは約束した。
 必ず迎えに行くとあの言葉を信じて待っている。
 ひらりと蝶が扉から部屋へと入って来た。
「蝶…?」
 蝶などエスポワ大陸以外で見たことなどなかった。
 虫はこの世界では死滅した。動物も家畜以外は存在しない。花も草木も枯れ空はいつだって曇りだ。
 だが窓から降り注ぐのは確かに日光だ。
 柔らかな日差しと穏やかな風。
 春の匂いがした。
 トタトタと軽快な足音が聞こえる。
 廊下を進み角を曲がりあと少しでここに辿り着く。
 ふわりと心を震わす匂いがした。
 体を細分化し故郷を遠く離れ記憶を無くしそれでも探し求めた唯一の匂いだ。
「――……エル!」
 エルのこの世で最も美しい人がそこにいた。
 
 ◇
 
 エルが出発して数日迎えはやって来た。
 フジは帰りの船の中で日高に自分の考えを全て話すと彼は目を丸くして「考えることは大体同じなんだな」と笑った。
 声明を上げた。
 大陸渡航した測量士として。
 エル以外の新大陸生還者に政府は慌てたがいち測量士の話など誰もマトモに聞かないと鷹を括ったのだろう邪魔されることなく表立って政治活動を続けた。これまで募りに募った政府への不信感、不満、過去の大陸探索者遺族の協力、第一探索隊として広く顔を知られていた天馬とフジの父の証言で民衆を味方に付けるのは簡単だった。
 ようやく世論の異変に気付いた政府だったが、フジの活動の水面下で警察が軍の掌握を既に終わらせていた為抵抗する手段も鎮圧できる武力もない。元々第一探索隊は軍内でも精鋭を集めた部隊だったようで慕っていた部下も多い。政府の卑劣な方針と癒着していた軍上層部への暴露、半ば脅されるように大陸調査と上層階級の移住を手伝わされていた軍の人間も多かったようで寝返らすのは楽勝だったと日高は笑う。
 そこからクーデターを起こし政権は一時的に発起人である警察が握ることになり、初代大統領は日高亮治となった。フジはまさかこの国が大統領制になり幼馴染がトップに立つとは思わなかった。
 国として世界にエスポワ大陸の実情を届けるとやはりどこも大陸調査と移住計画に苦戦していたらしい。どこの国も同じような現状で第一探索隊は全滅が数名が瀕死状態での帰還、それ以降の部隊で生還した者はいないそうだ。
 新大陸への移住は断念し世界は共に人類の住むこの大陸を復元していくことを宣言した。
 またそれに伴い、新大陸の生態系に影響しない程度の資源活用に収めること。管理局以外の人間が新大陸に上陸しないこと。新大陸への環境破壊の禁止。それらを明記した世界保全戦略を国際エスポワ大陸保護連合局が各国の同意の元作成し、その機関が主に大陸渡航調査及び資源回収と国への分配を担うことに決定した。
 局長の名は藤総一郎。

「副局長に貴方を」
「私…?」
「我々は定期的に新大陸に渡り人類救済の為にせっせと働かなくてはなりません…まさかこんなことになるとは」
 ゲンナリとした顔のフジだったがどこか楽し気でエルも思わず笑ってしまう。
「また私と旅をしてくれますか?」
 差し伸べられた手を握り頷いた。
「勿論だ」
 これからはずっと一緒だ。



 










 春風に綿毛のような体毛が一気に空へと舞い上がる。羊たちの生え替わりの季節らしい。真上に飛んでいく真っ白な綿毛は大雪のように視界を塞いだが穏やかな風がふわりと吹くと目の前が開けた。
「フジ~~~~!」
 霞のような春の雲が流れる大空から赤い鷹が地上に降りた。それを追うようにドシン…ドシン…と大柄な豚がやって来てフジは度肝を抜かれた。
「ままま、まさか…ファイ!?」
 クレスよりも遥かに大きい豚はドスンと足を折りたたみ地に伏せた。その大きさにフジが驚いていると豚の足元から「ぷぎ!」懐かしいサイズの子豚が姿を出した。
「ぷぎぃ~~~!!」
 トタトタと走り飛び込んで来る子豚は数年前よりは確かに少し大きくなった子豚。ぷごぷごと泣きながら鼻を擦り付け甘えてくる仕草は今も変わらないらしい。
「ファイ!元気だったか?」
「ぷぎ!」
「良かった。それならこれは…?」
 見上げれば「ぷぎ!」と大きく鳴きふすんと鼻息で羊たちの体毛を散らした。
「これはファイマムだよ」
「…お母さん?」
「ぷぎ!」
 ファイの母は生きていた。
 ファイと離れ離れになったあの日、崖から落ちて動けなくなっていたのだ。何とか命を救われ動けるようになってからファイを迎えに行ったがそこには誰も居らず探し回り七年の月日が経っていた。
 奇跡的に再開できたのは二年前。
 フジとエルがいなくなりクレスと槇尾と暮らしていた時にたまたま遭遇したのだ。
「ぷ!」
「ぷ!」
 ファイ母の足元からフジがファイと出会った時よりももっと小さい子豚たちが現れた。ちょこちょこと走り回りフジが気になるのか恐る恐る近付いてくる。
「これはねぇファイの弟たち!ファイJr.」
「ぷ!」
「ぷ!」
 ジュニアで良いのか分からないが小さな小さな子豚たちはフジの周りをトコトコと駆けながら構ってほしいとばかりに足元に鼻を擦り付ける。
「ぷぎゃ~…」
 ヨタヨタとファイ母の背中からまた一匹豚が現れた。クレスは「あれはファイの義父だねェ」とフジに説明してくれる。随分と大家族になったらしい。
「賑やかだな」
「ぷぎ!」
 これまでひとりぼっちだったファイの嬉しそうな鳴き声にフジは頭を撫でてやる。柔らかく温かい命の感触だ。
「さ!早く行こォ~!マキオがねぇフジたちが来るからってすっごい準備してるンだから!肉!魚!酒!酒!酒!って感じ~」
「ぷぎ!」
「ぷ!」
「ぷ!」
 肉に反応したファイとファイJr.がタッタカ走って行くのをクレスは慌てて追いかけた。
「お前らだけじゃまだ危ないでしょ~!フジ~!先に行ってンねぇ~!」
「わかりましたー!」
 ドシン…ドシン…とファイ母と義父もそれを追って広大な森へと歩いて行く。淡く霞んだ空気を吸い込んだ。命が芽吹く春の息吹が漂っている。生きている、この大陸もこの地球で私達と同じように。
 フジは振り向いて手を差し伸べた。
「エル!行きましょう」
 ふわりと風が吹く。
 白い綿毛が空を舞いエルにとってこの世で最も美しい人の髪を揺らした。
「ああ」
 行こう、フジとどこまでも。


 終わり
 
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